#19

 宣教師は、部屋からドロシーをつれてくるようにと主人公に言った。よく考えることもできないまま、その時はうなずいた。今思うと、とぼける演技でもした方がよかったのだろうか。ドロシーが店に来ていることを、宣教師がなぜ把握しているのかは知らないが、ギャラリストには秘密にしていたはずだ。そこに気がまわらなかったのは、自分が無力なために、ギャラリストの決断を止められなかったことを悔やむ気持ちでいっぱいだったからだろう。

 部屋の扉を開ける。スタンドライトは点いたままだ。壁ぎわにはレイコがいた。

「ドロシーちゃん、ごめんね。出てきてくれる?」

 ベッドの上の閉じた絵本は、主人公が部屋を出た時と同じ位置にあった。女の子の姿はない。ベッドの下を覗きこんだが、そこにもいない。レイコの方を見る。黙っている。

 ふいに、肩を叩かれた。視界の端に映ったのは、細く白いヒトの指だった。背後を見る。

「誰かがドロシーのことを呼んでいるのかしら?」

 そこにいたのはドロシーとよく似た、黒と灰色がまばらに混ざった巻き毛を垂らす、ハスキーボイスの大人の女だった。セーターとスカートも、ドロシーが来ていたもののサイズ違いである。

「……もしかして、ドロシーちゃんのママ?」

「はい、はじめまして。ドロシーから店の様子が少しおかしいと言われて来たんです。……今、店には宣教師さまがおられるんですね」

「うん。それで、ドロシーちゃんのことを呼んでたの」

「ええ、聞いていました。すぐに私が行きますね……」

 主人公に視線を合わせて話していたドロシーのママは背中を伸ばし、カーテンを越え、宣教師たちの座るテーブル席へと歩いていく。主人公もついていく。しかし、宣教師がなぜ唐突にドロシー(出向いたのはそのママだが)を呼びつけたのか、見当もつかない主人公に理解できる話はしてくれないだろうと思ったので、共に席へつくことはせず、カウンターの後ろからその会合を見ていることにした。

 ドロシーのママは席の横に立ち止まる。

「あら、ドロシーのママですか。突然呼びつけてごめんなさい。今からギャラリストさんをあなたの家へ案内してくれませんか?」

「なぜそんなことをさせる? ……ドロシーの家に何かあるのか?」

 ドロシーのママが返事するより先に、ギャラリストが問いかける。なぜか少しだけ主人公の方を見てから、ドロシーのママはうなずく。

「分かりました。ギャラリストさんだけで構わないのですね?」

「はい。それとも、今からどなたかに連絡して、部屋からあの子の体を持って来させましょうか?」

 動揺した主人公からもれた声が聞こえると、ドロシーのママだけはまたこちらを向いた。その表情は、確かにばつの悪そうなものであったが、それだけではない、生き別れてしまう我が子を見送る眼差しに似た憐憫のようなものも、わずかに含んでいるように思えた。

「そうか、……お前が盗んでいったのか」

 一方ギャラリストは、判明したもうひとりの犯人の正体を、さほど意外に思っていないようだった。彼女への思いあたる節や疑念が、もともと少しはあったのかもしれない。

 ドロシーのママは、何か言いたげな視線を主人公からそらして、店の出口へと歩いていく。

「……その通りです、主人公ちゃんの体の残りは、全て私の家にあります。ご迷惑をおかけして申しわけありませんでした」

「全くだ。この取引がなければ、私はいまだに無駄な尋問を続けていただろうな。……早く案内しろ。引き取りに行く」

 ギャラリストは杖をついて、席から立つ。それからカウンターの陰にいる主人公の方を向き、手を差しのべた。

「さあ、そんなところにいないで、君も来るんだ」

 そう言った途端、ドロシーのママがギャラリストの方を睨んだ。振り向いた勢いに乗って長い巻き毛が波打つ。けれども何も言わず、ゆっくりと瞬きしてから、すぐに目を伏せた。

「大丈夫だ、私がいる。それに、ここで待っていたとしても同じだ」

「……わかった」

 主人公はギャラリストの側に行き、その手を握る。ふたりを横目に、ドロシーのママは店の扉を開ける。風はやんでいるようだった。扉のすぐ先に白いウサギの脚がちらりと見えて、消えた。

「それでは、私はこの近くで待っていますので」

 宣教師が店の中から言った。主人公はてっきり、彼女もついてくるものだと思っていた。

「ご一緒したいのはやまやまですが、別の方もお話があるのです」

 誰も彼女には返事も相づちもしなかった。ドロシーのママが支える扉をくぐり、主人公とギャラリストは外へ出る。店の先に吊るされた、緑のセロハンを被った電球の光が白いモーニングを染める。……主人公はもう一度、大通りをよく見わたしてみた。

「どうしたんだい。ドロシーの家はこの近くだ、心配ない」

「うん……」

 扉が閉められる。姿が見えなくなってみると、宣教師の存在に対する印象が、水へ落とした塗料の一滴のように、ふわりと溶けて殊更にぼやけてしまった感じがしてくる。

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