#18

 その女は、他の住民とどこか異なっていた。しかし、具体的に、特別おかしな点が見あたらない。というか今さら姿かたちが奇抜な住民と出会ったって、もはやどう思うということはない。

 女の異様さは本当に抽象的だった。その違和感を例えるとするなら、作品をずらりと並べた誰かの個展に、一枚だけまぎれこませた異なる作者の絵が目に留まったときに覚えそうな、正体をつかまない限りは例えがたい、曖昧なものでしかなかった。


「しばらく、店を私に貸してください。すぐに戻ります」


 ベールの女はそれだけ言い、店の前から立ち去った。扉は閉まる。

 マスターは手袋をまた身に着け、カウンターの奥へと戻っていく。

「どうしたの……マスターさん。外が気にならないの」

「……ごめん」

 キッチンでの仕事を再開すると思いきや、そのままさらに歩き、マスターはカーテンの奥へと姿を隠していってしまう。

 ただごとではない雰囲気を主人公も感じていた。そのきっかけがベールの女であることも分かっていた。……主人公もマスターを追い、店の奥へと引っこんで行くべきか、それとも……

 扉に手をかけ、少しだけ外を見る。

 大通りのどこかに、せめて白いモーニングか、ライムグリーンのジャンパーが見えないかと、主人公は路面に少しだけ身を乗り出す。

「あら、ひとりで外へ出るつもりですか?」

 すると店のすぐ近くにいた、ベールの女が優しくそう言ってくる。彼女のすぐ横にはギャラリストも立っていた。

「安心してください。凍死体さんとのお話なら終わりましたので」

 大通りに凍死体の姿はない。ベールの女は店の中へと入ってきた。ギャリストは……その隣を黙って歩いている。

「ギャラリストさん、その人は……」

 しぼり出した自分の声は小さかった。ベールの女は主人公がいてもいなくても同じかのように、つかつかと店内を歩いていき、ローテーブルの席にギャラリストと向かいあって着く。

「お嬢さん、あなたもこちらに座りませんか」

 話しかけられるが、どうにも彼女へ近づくのがためらわれるので、主人公は首を横に振り手近なカウンター席に座る。ベールに透ける赤い唇が笑っている気がした。

「あなたについてお話するのです。よく聞いた方がいいですよ?」

 なんとなくそんな予感はしていたので、主人公は努めて落ちついたつもりでうなずく。でもカウンター席からは動かない。その姿を見た女の、黒く薄いベールがため息で揺れた。

「仕方ありませんね。ではギャラリスト。あなたにおうかがい致します。その答えによっては、私はあなたのためを思い、素晴らしいひとつの提案をするでしょう」

 ギャラリストは無言で指を組む。女は一拍の間を置き、続ける。

「あの子を帰すことに、あなたがこだわる理由とは何ですか?」

 ギャラリストはすぐに答える。

「この街の存在は間違っている。そして、あの子にはまだ生きるために選べる選択肢がいくらでも残されている。それが理由だ」

 いつもと同じような声色だった。

「それはあなたにとって、あなた自身の目的よりも、優先するべきことなのですか?」

「私の目的? 絵を見つけることか? あれなら気長に探せばいい。今はあの子だ」

「では、提案を聞いてください。私は、あの子に必要な残りの体を隠し持っている住民を知っています」

 あまりに簡単に告げたので、主人公はその言葉に現実味を持てなかった。虚言であるように聞こえたわけではない。今はただ、女の持つ異様さに不思議な心地だけを覚えていたのだ。

「司会者に聞いた時は……教えられないと言われた。ジェミリラもいまだに見つけられていない。宣教師よ、お前の根回しだったのか」

 宣教師、という人物の名は以前にも聞いた。司会者が言っていたはずだ。詳しくは覚えてなんていないが、……とても偉いひととして扱われていた気がする。

「ええ。でも、これでやっとあなたと対等に話ができます」

 ギャラリストは責めるような口調だが、宣教師はよく分からない。

「私は、あの子の体のありかを教えます。そのかわり、あなたには私のそばにいてほしい」

「なんだ? まだ私を司会者の後釜にするのを諦めていないのか?」

「ええ、その通りです! 諦めるわけありません。あなたこそ私にとっては正しい、たったひとりのギャラリストですから!」

 ベールに透ける宣教師の唇が笑った。屈託ない素振りで喜び始めたのが、演技なのか、皮肉なのか、はたから見ている主人公には、まるでつかめない。

「住民に……司会者のように、この街のものになってしまったら、私はもう外には出られない」

「そうですね。でも、未来永劫出る手段が見つからないとも決まったわけではありませんよ」

「記録に残る限り、奴らはまだ誰ひとり街を出ていないじゃないか」

「それは出る必要がないからですよ。そして今のあなたも街から離れるわけにはいかない。急ぎではないのでしょう。住民になっても、探し物が見つかってから、ゆっくり出る方法を考えればいい」

「だが……私は……」

「その気持ちだけは理解しかねます。けれどもギャラリストのことですから、何か考えがあるのでしょうね。では、あの子の体はいましばらく、私たちのもとに置きましょうか?」

「……」

 ローテーブルに肘をつき、その手で表情のない顔を覆うギャラリストが……物音に気づいてこちらを向いた。カウンター席から下り立った主人公は、ふたりの方へ歩いていき、思ったことを告げる。

「あのね、お話の途中でごめんなさい、ギャラリストさん。わたし、確かに早く帰りたいって思ってる。……けれどもそれは、ギャラリストさんに無理をさせてまで叶えたいお願いじゃないの」

「なんだって?」

 主人公の言葉を聞き、ギャラリストの声は明らかにいらだったものになる。後ずさりしそうになる脚をまっすぐ立たせて、主人公は黙り、彼が言うことを全て聞こうと構える。

「私がここまで苦労してきたのに、君にとってその目的は大事ではなかったと言うつもりか!」

「そんなつもりで言ったんじゃない。……わたしにとって、街に出ることはとても大切な目標よ。でもギャラリストさんが面倒をみる必要なんてないの。もし、わたしのせいでギャラリストさんが何かを失うなら、もうわたしのことなんかには構わないで……」

 次々でてくる言葉には、自分のセリフだというのに、理解できない部分があった。帰るための協力を失ってもいいなどとは、少しも思ったことがない。……心が揺れる、という言葉があるが、主人公はその有様を今まさに味わっていた。揺るぎようがない天秤の皿の反対に、正体のつかめない何かが降り積もっているのを感じていた。

「……君は私の助けを借りずに、どうするつもりだ」

「わたしは……わたしで、探してみるから。わたしの体だもの」

「もし他の住民をあてにしているなら、それは愚かだと先に言っておこう。街の一部になった連中は、宣教師に魂を売り、まやかしの中で遊び続けることを選んだ負け犬だ。まともな動機で君を助けようとしている者などいない」

「……じゃあギャラリストさんがわたしを助ける理由って何なの?」

「未来ある子どもの可能性を信じて、その身心を守り、健全に社会へ送り出す。これは人として当たり前のことなんだよ」

「本当に、本当にそれだけなの?」

「ああ。人は、何の報いもない、やさしいだけの幻想におぼれたりしてはいけない。現実を精一杯生きる姿こそがあるべき姿なんだ。……これは、人生を絵に投じた私が、やっと見つけた真実だ」

 それを聞いた時に、主人公はなぜか、宣教師の顔色がいたく気がかりになった。すぐに彼女を見る。ベールの奥は見えないし、そのすましたような姿勢には何の変わりもなかった。

「だから君も、早く街から出て、……誰かのために働ける、きちんとした大人になるんだ。私はもしかすると、それを何よりも望んでいるのかもしれない。君を助けることは、私がこの場所でできる、唯一の罪滅ぼしなのだからね。……分かってくれただろうか」

 主人公がよそ見しているにもかかわらず、ギャラリストはつらつら喋り続け、主人公に顔色をうかがわれている宣教師は、こちらを一瞥することもなく、置物のように座っている。

「それでは、ギャラリストさん。どうしますか? 私と約束してくれるのですか?」

 どう言い返せばいいのかと主人公が迷っているうちに、宣教師は再びきり出す。

「……考えさせてほしい」

「時間は過ぎていきます。やがてあの子の悪夢はすべて、絵画の下書きのように塗りつぶされ、見えないものとなっていきます。幻想の街の自身と、本物の自身の齟齬は、あの子の心に深い傷をつけるでしょう。時が経つほどに……」

「分かっているんだ! お前がそれにつけこんでいることも。……私はあの子に、街で不便がない程度の姿を与えただけだ。それが間違いだったかどうかはまだ分からないじゃないか。そうだ、今は体を取り戻すことだけが大切だ。疑わしい住民を探さなければ」

「そう。それで、今は凍死体さんにお話を聞いていたのですね」

「ああ、だから奴を追わせてくれ。凍死体がきっと、この子の体を、……」

 宣教師は少し首をかしげた。黒服の隙間から白い首筋がちょっとだけ見えた。ただ座っているだけなのに、この場所から誰も一歩も逃がすまいと、見張っているかのようだった。ギャラリストは……背中を丸め、頭をかかえた。たくさんの思惑を持て余しているのがよく分かる。葛藤が彼の頭から染みだして、ここまで伝わっているのではという気さえした。主人公はこの場にいるのが苦しかった。胸の中の空気が握りつぶされているかのような心地だった。

 ギャラリストが顔を上げる音がした。それから彼は確かに言った。

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