#17

 それからはずっと店のソファーで、てきとうに手にしたティーンエイジャー向けの雑誌の、車の紹介とドライブの記事なんかを眺めながら過ごした。ギャラリストも主人公の向かいのソファーに座り、ラックの底の方にあったペーパーブックの古い小説をいつのまにか読み始めていた。たいした会話はしなかった。ケンタウロス女に乗ったギャラリストが、アジトに戻る直前に言っていた話を聞きだす気分にもなれなかった。

「やあ、僕だよ!」

 そのうちに、倉庫の奥から人狼マスターの声が聞こえてきた。

「主人公ちゃん、来てるんだろう? ドロシーもいるのかな」

 勝手口が閉まる音。雑誌の、色とりどりの高級車が載ったページをローテーブルに広げたまま、主人公はマスターの顔を見に行く。ギャラリストは、席を立った主人公を少し気にしたが、黙ってまた読書に戻った。

「あっ、主人公ちゃん! 頭を取り戻したんだってね。よかった!」

 倉庫にて、マスターは清潔そうなエプロンを着けようとしていた。主人公はマスターのそばまで小走りで寄っていく。

「マスターさん、こんにちは。ギャラリストさんも来ているわ。ドロシーちゃんは今、わたしに貸してくれたお部屋にいるはずよ」

 店内にいるギャラリストには聞こえないよう、小さな声で伝える。

「そうか。教えてくれてありがとう」

 マスターは主人公に視線を合わせ、同じくらいの声でそう言って、うなずいた。……耳を伏せて、しばらく主人公を見つめてから、背筋を伸ばしてバンダナを巻く。新しいエプロンの洗剤の香りがたつ。

「さ、僕は店の準備をするよ。君は特に危ないから、あんまり僕の周りをうろちょろしないでおくれ。しばらく店内にいるのかい?」

「うん、そうする。……ただね、ドロシーちゃんが気になるの」

「そう? 確かに面倒な子だけどね。普段はあそこまでのいたずらはしない子だよ」

「ううん、わたし、何もせずにここに居るのも悪いと思って。……今は本当にドロシーちゃんの話し相手くらいしかできないし」

「ああ、そんなことを気にしてたのか。大丈夫、大丈夫! 体がもどった時に、うちでいっぱい食べていってくれたらそれでいいよ!」

「……ありがとう、マスターさん」

 白く薄い手袋をはめた手が、紙の黒髪を優しくなでた。借りている部屋の様子も気になったが、主人公はまっすぐ店内に戻り、またギャラリストの向かいで古い雑誌を眺めることにした。


 店内に灯った照明や、コンロの小さな火と鍋なんて、熱源としては微々たるものだ。だが店内は先ほどよりも、ずっと暖かくなっている気が主人公にはした。スープが煮え、刺激的なスパイスの香りを広がっている。マスターは店を開け、表の明かりを点けた。

「お店が開いたの。わたしたち、またここに座ってていいのかしら」

「ああ、別にいいよ。今日は予約もないからね」

 すでに二冊の本を読み終え、手にした三冊目の表紙をめくろうとしたギャラリストが外を見る。

「おい、人狼マスター。ジェミリラとはあれから会ったのか」

「あれからって、いつからかな」

「そうだな、私がデータ塔でジェミリラと話していたころ、この子はピトフーイに店から連れ出されたのから……それ以降だ」

「ああ、じゃあ会っていないよ。連絡も僕の方には来てない」

「そうか。……あれから何も言ってこないのだな」

 ギャラリストはずっと同じソファーに座っているが、主人公はとっくに雑誌を眺めるのをやめ、マスターがキッチンで作業している様子をカウンター席から見続けていた。ドライハーブのブーケからむしられたローリエが、マスターの混ぜる鍋の中で、トマトの赤色に見え隠れしながら、ぐるぐる回っているのを目で追っていた。

 また少しの時間が経ち、店の扉から誰かが入ってくる。

「おや? 今日はやけに来るのが早いね、凍死体」

 そう言ってすぐにマスターは戸棚から武骨な陶器のカップを出し、お湯を注いでそれを温め始める。主人公はカウンター席から下りて、ソファーに戻ろうとする。

「あ、マスター……ちょっと落ちつかない気分でね。レイコさんはどうしている?」

「ん? いつもと変わりないよ。手紙で何か言われてもしたかい?」

 主人公は、狭い店の真ん中あたりに立ち止まり、背後に凍死体の放つ冷気を感じながら、ふたりの話を聞いていた。ギャラリストが本を閉じる音がした。白く、そびえるマネキンが、鉄のきしむ音を鳴らし、主人公を横切って冷気の方へと歩いていく。

「お前宛の手紙を読んだ」

「……えっ」

 先に声を出したのは人狼マスターだった。

「なに、たまたま拾っただけだ。こんなことを書いているなんて、私は今まで知らなかったからな。まあ簡単な質問だ。お前にとってあの冷蔵庫が、少しは大切な話し相手なのだとして……それの頼みを聞いてやりたい、と思ったことはあるのか?」

「なに? どういうことだい? なんでそんなことを、君は今さら凍死体に問い詰めるんだ?」

「お前は関係ない、口を挟むな」

「関係あるだろ! ここは僕の店、僕の管轄だ!」

 マスターが、これまでの調子からは想像もつかないほど声を荒げたので、主人公は怖くなって店の隅へと逃げてしまう。

「宣教師様の寵愛を盾に、ずっと横暴な真似を続けやがって、飯も食わない人形のくせに!」

「お前の話はどうでもいい! 分からないのか? 凍死体があの子の体を盗んでいるかもしれないんだ! 問い詰めて何が悪い!」

 ギャラリストの、マスターへの怒声が終わらないうちに、凍死体は扉の方へと歩き出していた。

「……外で話そう。マスターに悪い」

 扉が開く。外からの風が主人公のフリルを揺らす。道に出た凍死体の、ライムグリーンの防寒着が店先の電灯に照らされる。ギャラリストも続いて外へ行く。凍死体が扉を閉める……。

 静かだ。流し台の蛇口から、水の落ちる音だけが聞こえる。

「……ジェミリラは本当に優秀な情報管理人でね」

 カウンターの奥で、マスターが突然独りごとのように話し始める。

「宣教師様が許す限り、この街で起こった出来事を取材し、偽りなく記録しているはずなんだ。それに彼女の推察は間違うことがない。彼女は真実だけが好きだったから……」

 蛇口が閉められ、水の音が止まる。

「……何かあったに違いない。まだ君の体を見つけられないはずがない。街の地上から、一切見つからずに概念の海へと戻る手段なんて、凍死体にあるわけがない。僕にだって……」

 蛇口を握りしめたままマスターはじっと立っている。

「ねえ、君は、司会者に……体のありかを聞いたことがあるかい?」

「あ、……でも、教えることは、できないって……」

「司会者がそう言ったのか。そうか、……」

「ねえ、マスターさん。お願いがあるの。外を今すぐ見に行きたい」

「ああ、僕もだ。いっしょに行こう。他人事にはできないからね」

 マスターはコンロの火を消し、鍋に蓋をする。ローテーブルの上に手袋を投げ、扉へ歩いていく。マスターの手は、類人猿のそれのように、甲までが短い銀の体毛で覆われていた。毛がなく、むき出しになっている指先の地肌は黒っぽかった。

 主人公は、マスターのすぐ後ろにぴったりついて行くつもりで、彼が扉を開けるのを待っていた。

「……どうしたの」

 だがマスターはわずかに扉を押したきり、動きを止めてしまった。

 錆びた蝶つがいのきしむ音が長く、響き始める。ちょうど外にいる誰かが、店の扉を開けようとしたところだったのだ。マスターの手の、柔らかそうな銀の毛皮を、店先の電光が照らしあげていく。

 扉を引いていたのは、ベールで顔を覆った黒装束の女だった。

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