#16

 勝手口を開けてすぐの場所に、工具の入った木箱が置いてある。主人公は勝手に借りていたネイルハンマーをそこに戻した。帰りぎわに下水道が、汚くはなさそうな布きれで拭きとってくれたので、それは多分にあまり不潔ではない。ただ、二回もヒルで編んだ足場へと乗ったブーツには、ところどころ乾いた粘液が貼りついていた。

 店の裏から入れるこの部屋は倉庫だ。備えつけの大きな冷蔵庫(レイコではない)と、たくさんの箱に仕分けられた野菜や穀物がいっぱいにある。新しい野菜の青々としたにおい、古い野菜の土っぽいにおいが混ぜこぜでこもっている。

 主人公は廊下へ出る。店の方を見るが、カーテンのむこうに明かりは見えない。ひとまず今は、レイコが待っているはずの、自分にあてがわれた部屋をノックする。

「はい、どなた? 主人公のお嬢さんかしら」

「そうだよ」

「あら、おかえりなさい! ずいぶん久しぶりな気がしますわ!」

 ドアを開けると、主人公を出迎えるかのように、レイコは部屋の中央で待っていた。

『いぇい! おかえりなさいいっ、新入りちゃん!』

 そしてドアを閉めると同時に、司会者の声がまた聞こえだす。

『復員兵から頭を取り戻し、人狼マスターの店に戻って来た主人公の少女! 最後の体は見つかるのか? 全ては君次第! みんな、君を応援しているんだからねぇえ!』

「まあ! 頭を返してもらったのですね! 良かったですわ!」

 アナウンスの残響が溶けきらない部屋で、レイコは明るく声をあげる。フレンチドア越しの詰まったような声だが、司会者に負けないくらい朗々としていた。主人公はふかふかのベッドに座る。絵本の入った紙袋は、机の上にそのまま残っていた。レイコは重い体を半回転させ、こちらを向く。

「それで、残りのお体の在り処は分かりましたか?」

「ううん、分からない。ジェミリラさんにも聞いていないし……」

「そう……。せめてお腹のあたりが取り戻せたのならば、私の体をお貸しできたのですが」

「お腹? よく分からないけど、気持ちだけ受け取っておくよ」

「ええ、私には胸から下の、お尻のあたりまでの胴体が欠けているのですよ。骨盤と言っても分かるかしら。体を支えるにはなくてはならない部分ですわ。それがないので私はバラバラのままでいるのです。でも今となってはこの体の方が過ごしやすいですわね!」

「そうなんだ。見つけたら、持ってきた方がいい?」

「いえ。もうこの街にはないはずです。そう、復員兵さんの様子は見てこられたのですか?」

「えっ、……うん、復員兵さんとは会ったよ」

「あなたの頭を一度は盗んだ彼らですよね。……その頭に執着する様子はありましたか?」

「ううん。すぐ返してくれた。下水道さんもだけど」

「あらあら、やっぱりそうでしょう。だって彼らの気持ち、分かるんです。私もたまには、自分の体を支える腰があれば、踊ったり、素敵な服を着られたりするのに、なんて思うことだってあります。でも、それは私にとって必要はない。もし手に入れてしまったら、……いえ。この先は話すことないでしょう。復員兵さんも同じ」

「それはどうして? レイコさんについてはあまり知らないけれど……あの復員兵さんは、きっといつも大変な思いをしているはずよ。だから頭が欲しかったんでしょ?」

「実はそうでもないのです。彼らはひとつの頭を交代で付け替えて暮らしているんですよ」

「あ……そういうこともできるのね。でもそれでも不便よ」

「ふふ、私は彼らがあのスタイルに落ち着くまでの経緯を知っていますが……あれでいいのです。心配する必要などありませんわ! 頭を盗んだ理由は……私の憶測ですが、たまには直接対話するべきだと思ったから、なんてとこでしょうか」

「なんだか難しいけど……心配はしなくても大丈夫なのね?」

「ええ。それよりも、もうすぐドロシーが来てしまうということを気にした方がいいですわ」

「そうなの?」

「ええ。いつも店が開く少し前くらいに、勝手に入って来ますから。でもあの子の相手は疲れますわ! だからせめて、あの子が来るまではゆっくり休んでいてくださいませ。お茶の一杯でもご馳走してあげたいところですが、あなたにおいてはそうもいかないのですよね……。お構いできなくて心苦しいですわ」

「いいよ、そんなの。でも、体が戻ったらお願いするね」

 そう言って、主人公は洗剤の香る清潔なベッドに上半身を倒れ込ませた。この体は眠れない。だからせめて気分転換をしたいと思っているのだが、自身の気持ちを安らがせる方法を主人公はよく分かっていない。しいて言えばお菓子を食べること、同じ年の仲間と遊ぶことが楽しみだったけれども、今はそのどちらもできない。

 脚の修理にはどれほどかかるのか分からないが、ギャラリストはそのうちまた店に来るだろう。……自分の、ギャラリストに対しての態度は、これから少しは変わってしまうかもしれない。それを見透かされるのが怖かった。独断で出かけたことをギャラリストに知られたくなかったので、わりと急いで帰ってきたのだけれども、下水道とピトフーイにはもっと落ちついて色々聞くべきだっただろう。

 やがて、勝手口の開く音が聞こえてくる。……ベッドから下りる。

「来たかしら? 私はあの子の相手、遠慮させていただきますわ!」

 主人公の背後でレイコは言っていた。廊下を渡り、倉庫に入る。

「あ、主人公のお姉ちゃん!」

 小麦粉の袋が詰められた箱の後ろから、黒と灰色がまばらに混ざった巻き毛を揺らす、小さなドロシーが飛び出してきた。水色のワンピースは洗濯中だろうか、今は緑のセーターに、赤いベルベッドのスカートを身に着けていた。薄暗いせいか、おそらく紅色をしているはずのふっくらとした頬が、タバコを吸いすぎた老人の肌の色なんかをしているように見えてしまう。

「お姉ちゃんがここにいるって聞いて、遊びに来たの! お姉ちゃんの育った環境は大方理想に近いものとはいえないように推察されるけど、幼年期のあたしにとって年齢の近い子どもとコミュニケーションを取る機会の増加は望ましいことだから」

「えっ」

「わーい! ねえ、何して遊ぶの? とっても楽しみ!」

 くるくると踊るように、ドロシーは狭い倉庫を駆けまわる。さっき何か長いセリフを言っていたが、それは唐突すぎたので、主人公にはよく聞き取れていなかった。

「あのね、マスターさんがね、ドロシーちゃんにって絵本を持ってきてくれたの。部屋でいっしょに読みましょう」

「絵本? いいよ!」

 主人公はまた部屋に引き返す。トマトソースの大きな缶詰を飛びこえて、嬉しそうにドロシーがついてくる。戻ってくると、レイコは部屋のすみに寄り、さも普通の冷蔵庫かのように黙ってたたずんでいた。主人公は机の上の紙袋を持って、ベッドに腰かける。

「そういえばドロシーちゃん、店にはひとりで来るのね。ママが心配していない?」

「んーっとね、ママとはいっしょに来るから平気!」

 紙袋を逆さにする。硬い表紙の絵本が布団に落ちる。カラーサンドが塗りこまれた、美しい発色の表紙をふたりは覗きこむ。鮮やかな赤い頭巾の色をした、固められた砂の粒がきらきらと目をひく。

「きれい! すごくいい絵本を選んでくれたのね、マスターさん」

「タイトルの選択は彼の偏執と関わりがあるように見受けられる。それはともかく、この完成度は情操教育にうってつけね!」

 早口で何か言ったドロシーは丈夫そうな表紙を開く。古い紙とインクの、そしてポプリのような甘い香りがのぼってくる。まずは花柄の遊び紙が現れたので、ドロシーはそれもめくる。続いて、花束と葡萄酒を入れたバスケットが描かれた中表紙もめくろうとする。

 その時、また勝手口が開く。さらに誰かが入って来たようだった。

「マスターさんかな。わたし、出迎えた方がいいかしら」

「……あのひとならすぐに言うわ。ドロシー、来てるのか! って」

 主人公は倉庫の様子を見に行こうと立ち上がる。すると、訪問者の独特な足音が小さく聞こえてくる。

「あら、ギャラリストさんね。脚が直ったんだ」

「ふぅん。そう……なの」

 太いバネを伸縮させ、体中の錆びた関節を鳴らしながら、その足音はこちらへと近づいてきている。

「……ドロシーちゃん、何してるの」

「お姉ちゃん。あたし、ここにいないわ。聞かれても、ドロシーは来てないって言って」

 そしてなぜかドロシーは絵本を閉じ、ベッドの下へと潜り込んでいった。……どうして、と聞いている暇はなかった。部屋のドアが開く。やはりそこには見慣れた大柄なマネキンが立っていた。

「遅くなってすまない。何も変わったことはなかったか?」

 コールズボンからのぞくバネの足は、今こうして見る限りでは、元通りになったように見受けられる。バネではない、新品の足に取り替えることはできないのだろうか。

「うん。わたしは何もしてないけど……」

「今、店には君とレイコだけか?」

「そうみたい」

 少し前なら、理由も告げず隠れたドロシーの存在なんて、迷わずギャラリストにばらしていただろう。

「そうか。……おい、レイコ。これはいつ書いたものだ」

 主人公からそう聞いたギャラリストはすぐ、部屋の壁際にたたずむレイコの方に、ポケットから出した一枚の紙を差し出して見せる。

 それは細かな文字の書かれた、くしゃくしゃの白い便箋だった。レイコは床を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ移動してくる。

「それは……」

「読めないのならば読み上げようか。差出人はお前だったはずだが」

「……あなたがなぜその手紙を?」

「これを読んで察するに、こういった内容でずっと文通している、ということで間違いないか?」

「ええ、ええ、その通りですとも。ねえ、教えてください。それをどこで手に入れたのです?」

「なに、さっきピトフーイが落としていっただけだ。凍死体にはこちらから渡しておいてやろう」

 ……先ほどのアナウンスで、主人公が地下に行ったことについて触れられていたら、ギャラリストはどう接してきていたのだろうか。手紙を拾ったのは多分アジトのあの部屋だ。主人公を再び店に預けたのも、アジトでいざこざがあった痕跡を見られないようにするためだったのかもしれない。

 レイコの書いた便箋を、またギャラリストはポケットに入れた。レイコは後ずさり(?)し、壁ぎわの定位置に戻る。……ドロシーはベッドの下から出てこない。ギャラリストがどこかへ行くまで、本当にずっと隠れているつもりなのだろうか。ギャラリストは追い詰めるように、またレイコの方へと歩いていく。

「どうかされましたか?」

 ギャラリストは何も答えず、銀色のフレンチドアを開けた。古い死体の肌が晒される。さらにギャラリストはその下の引き出しも開けた。下段の中身は主人公も気にはなってはいたが、その好奇心は浅ましく、くだらないもののような感じがしたので、わざわざのぞきには行けなかった。

 ギャラリストはバラバラの肉体をかきわけ、冷蔵庫の奥を見ようとしている。レイコの首が端に押しやられ、落ちそうになっている。

「やめてください、お願いします」

「いや、念のため見ているだけだ。お前の中に、もうあの子の体が隠されていないとは限らないだろう。うってつけの場所だからな」

 ギャラリストの肘がぶつかり、レイコの頭が床へ転がり落ちる。彼はすぐに、彼女の長い髪をつかんで拾い、その頭を冷蔵庫の奥へときっちり押しこみ、フレンチドアを閉める。そうして、こちらへと向かって歩いてくる。主人公はベッドからそっと下りた。

「どうしたんだ。そうだ、君の頭なら保管した。安心していてくれ」

「ありがとう、なんてことないの。その……お店の中って、勝手に入っていいのかしら」

「何をするんだ?」

「あっちにはたくさん、見たことない雑誌が置いていたの。それを読んで過ごしていいかしら。ギャラリストさんも、忙しくないならいっしょにいてほしいな。難しい本もありそうだし」

 部屋の扉を開けて、主人公はギャラリストの方を見る。

「君がそうしたいなら、そうするか。私もしばらく店に残らなければならないし、その方が気はまぎれそうだ」

「よかった、ありがとう」

 主人公は楽しげに見えるよう、跳ねるような足取りで廊下へ出た。

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