#15

 一刻も早く誰かに会いたいような、誰にも会いたくないような、ざわついた気持ちを抱えて主人公はギャラリストの後ろで歩いた。街灯が連なる大通りへ、たどり着くのを黙って待った。歩き続けるギャラリストの右足は、何度もきしみ、穏やかではない音をあげている。そしてその音は心なしか大きくなってきている。でもそれを、主人公は気のせいだと思っていた。もっと他のことを考えていれば、この足音も、そのうち聞こえなくなる。そんなものだろう、と……。

 主人公もギャラリストも、ずっと黙っていた。話す言葉が何も思い浮かばないまま歩き続けた。そして、ケンタウロス女と別れたあたりの街路が見えてきた、ちょうど度その時だった。主人公にとってはとても嫌な、一段と響く、激しい音が、隣のマネキンから聞こえてきた。太い枝を折ったような音だった。

「……」

 分厚い胴体がゆっくり前に倒れていく。その様子を主人公はじっと見ていた。がくりと、握っていた服のすそが落ち、主人公の体も真下に引っ張られる。いっしょに転ぶことはなかった。あまりに冷静に、倒れるギャラリストの動きをよく見ていたため、それに合わせて肩の力を抜き、膝を曲げることができたからだった。

 重い木材の体が転ぶ音よりも先に、金属の部品が地面にぶつかる音が、静かな路面へと鳴り響いた。ギャラリストの右足から離れた大きなバネが、道を転がり、ふたりから離れていく。

 右足が折れて、うつぶせに崩れたギャラリストの、まっ白な広い背中を眺めていた時間は長かった、ギャラリストが歩けなくなったことを理解するのは早かった。その胴体が地面につく直前に、小さな頭がギャラリストの腕から滑り落ち、硬い地面に落ちたのも見えていた。あまり長くない柔らかな髪が、コンクリートの上にだらりと広がっていた。

「あれを……取ってくる」

 やっと口にできた言葉はそれだった。路面を転がって行ってしまった、彼の右足がわりのバネを取りに行こうと思った。

「だめだ、私から離れるなんて。また飛ばされてしまうぞ」

 しかしギャラリストはすぐに止める。

「でも、どうするの」

 主人公の言葉には答えなかった。ギャラリストは上半身を起こす。足先のなくなった右膝を立てて、コンクリートの地面に座る。それから、額に擦り傷ができた主人公の頭を、再び腕の中へ抱え込む。

「ねえ……取れたバネをくっつけないと」

「無駄だ。接合部分から折れてしまった。……こんなに歩くことは滅多にないからな」

「じゃあ、……そうだ、わたし、誰かを探してくる」

「私から離れるなと言っただろう!」

「そんなこといったって……」

「片足が取れたからといって、動けないわけじゃない。あれを拾ったら復員兵のところに戻る。修理するものくらいあるだろう。君は私の上着をつかんで、離さないでいてくれ」

「できるの……?」

「大丈夫。だいたい、壊れることはよくあるんだ。でもそれを恐れたらいけない。形あるものはいつか壊れると、人間はいつも受け入れていなければならないんだ」

 ギャラリストは左足だけで立ちあがる。杖をつき、体の右側を支えながら歩こうとする。けれども、そうやって動き続けるのは無茶だと主人公にも見え透いていた。

 わきの街路からはいつの間にか、馬の足音が聞こえていた。もちろんそれはケンタウロス女を思い出させた。主人公は気づかないふりをした。だが、蹄の音は間違いなくこちらに近づいて来ていた。

「落ちつきなよぉ? ……ギャラリスト」

 けれども聞こえた声は、……司会者のものだった。声の方を見る。

 すると、さっきのケンタウロス女が、鐙のない簡素な鞍に司会者を乗せているという、……妙な状況がそこにあった。高い馬体の上から司会者はふたりを見おろしている。主人公はとまどっていた。

「……彼女に連れて帰ってもらえばいいよぉ」

 ケンタウロス女が体高を下げる。笑顔の、でも少し活気を欠いた様子の司会者は、滑るように鞍から降りてくる。靴を鳴らしてコンクリートに立つと、ガラスのボトルもまた、小さくかちあう。そして、転がっていったギャラリストのバネを拾いに行ってくれた……。

 主人公はケンタウロス女を見あげていた。頭から被ったマントの奥にうかがえるその顔には表情がなかった。機嫌をさとられないためにポーカーフェイスを作っているようにも思われた。主人公は、一体何をしていたのか司会者に聞きたくて仕方がなくなっていた。

「……司会者さん?」

 だが拾ったバネをケンタウロス女に手渡した司会者は、こちらを改めて一瞥することもなく、街路の先へとひとりで引き返し始めていた。主人公はあわてて話しかける。

「司会者さん、どうしたの? 帰っちゃうの? 歩いて?」

「うん。あいにく僕は忙しいんだよね。今のところは、そこの……馬の彼女に行きたいところへと連れて行ってもらったらいい。それが嫌なら……覚悟しろ。僕とドライブするはめになるからねぇ!」

「待って、このひとはね、」

「グッバイ! 無事に帰れたらまたアナウンスしてあげよう!」

「待って!」

 司会者は走って行ってしまう。ギャラリストから離れられないまま、遠ざかるガラスの足音をもどかしく聞きとどける。

「……こうなってしまったか。不本意だが、今はこいつに頼るべきなのだろう。この子のためだ」

 ギャラリストはケンタウロス女の方を見る。主人公は彼女が来てくれたことを素直に喜べる気分ではなかった。道中でギャラリストがあんな真似をしたにも関わらず、彼女が再びふたりを助けてくれるなんて、主人公からしてみれば考えられない。それに、もしまた小競り合いが起きて、鞍の上のギャラリストが暴力をふるってしまったら、彼女は先ほどのようにはそれを避けられないだろう。そういえば司会者も一度殴られていた。

 ケンタウロス女の目元はマントの影であまりよく見えない。口元は表情をこわばらせている。コンクリートに座ったまま、無表情でギャラリストを観察するように見つめている。

「仕方ないね、ギャラリスト。今回は諦めてほしい。私もそのためだけに引き返して来たのだから」

「ああ、そうか。それは親切に、どうも」

「お嬢さんの頭は大切だから、乗っている時は私が持っていようね」

「なんだ、それはなぜだ? 何か目論んでいるのか?」

「え。目論みなんか本当にないよ。この安物の鞍に両手がふさがったまま乗るのかい? それは落ちるからおすすめできないね」

 ……ギャラリストは黙り、黒髪の揺れる小さな頭を、エボニーの杖とともに彼女へ手渡した。それから体を起こし、折れた脚を上げ、鞍の上へとまたがった。そして、やおらモーニングのすそをつかみ続けていた紙の腕を引き寄せ、抱きかかえ、主人公をギャラリストの前方に乗せてくれた。

 紙の人形は軽いが、大柄なマネキンはとても重い。でも馬の大きな体はびくともしなさそうだった。

「おや、ふたりとも鞍に座れたの? うん、ぎりぎり大丈夫だね」

 ケンタウロス女は振り向いてこちらの様子を見る。

「お嬢さんは軽いし柔らかいから、鞍よりも前の、この、たてがみの近くに直接乗っても平気だと思うよ。鞍があんまり窮屈だったら、つかむ部分がなくて危ないからね。スペースはちゃんとあるかい?」

「大丈夫そう。ありがとう」

「そうか。じゃあ、立ち上がるよ」

 馬の背中が大きく傾いたが、我慢はわずかな間だけだった。すぐに鞍は地面と水平になる。

「はい、立った。結構気を使ったつもりだけど。お嬢さん、揺れは平気だった?」

「うん」

「じゃあ、ゆっくり安全に行こうか。……目的地はお宅でいいか、ギャラリスト」

「……いや、一度人狼マスターの店に寄る」

「へぇ、意外だね。じゃあ、私はもう言われたとおりに行くだけだ」

 意外。ケンタウロス女がどんなつもりで言ったのかは知らないが、主人公にとっては本当にその通りだった。そして、みんなに会えるあの店に戻してくれはするのだと知り、ちょっぴり安心した。あとはケンタウロス女が黙っていてくれれば問題ない。

 コンクリートを打つ蹄鉄の音が鳴り、大きな体が歩き出す。馬に乗ったことのない主人公にとっては珍しい感覚だった。しかしそんな揺れなどに怖さはなかった。主人公の背後には紙の体をがっちり支えているギャラリストがいた。

 そして、早くも人狼マスターの店がある大通りがもう見えてくる。馬の脚は、想像以上に素早く街を往来できるようだった。

「もう着きそうなの? 早いのね!」

 あまり彼女に喋ってほしくはなかったのだが、つい主人公はそう声をかけてしまう。

「これでもゆっくりなんだよ。さあ、もうすぐ店の前だからね」

 閉塞感のある街並みに響く、のびやかな蹄の音を聞こうとしていたから、時があっという間に感じられたのかもしれない。ケンタウロス女は店の前まで来た。表の電球はまた点いていない。

「閉まっているね。ガムボールハウスにでもいったん寄ろうか?」

 閉店時には勝手口から入れるとマスターは教えてくれた。それに冷蔵庫のレイコがいるはずなので、もぬけのからではないだろう。そのことを主人公は伝えようとする。

「なんだ、レイコがいるだろう。裏口へ行け」

 しかしギャラリストが先にそう言った。ケンタウロス女は大通りを少し歩き、馬が通るには窮屈な路地裏へと入っていく。……風がほとんどさえぎられる。灯火が少ないこの街の路地裏は暗かった。

「ギャラリストさん、わたし、また店にいればいいの?」

「言っただろう。あそこへは、しばらく君をかくまっていられない。……危なっかしいとは思っているよ。足が直ればすぐに私も来る」

「あ、ギャラリストさんは帰るのね」

「……ひとりになるのは不安か。本当にすまない」

「ううん、大丈夫」

 ふたりが少し話しているうちに、蹄鉄がマンホールを踏む鈍い音をあげて、ケンタウロス女は歩みを止める。路地裏の少し先には、簡素な真鍮のノッカーがついた、ひとつの扉が見えていた。

「あれが店の裏口だ。じゃあ、座るよ。しっかりつかまっていてね」

 馬の背中がまた傾く。主人公はすぐに鞍から降り、扉まで走っていった。ノッカーを鳴らす。返事はなかったが、ドアノブを回してみると鍵はかけられていなかった。

「……待て。入る前に、約束してほしい」

 ギャラリストがそう言ったので、主人公は彼の方を見る。すでにケンタウロス女は立ち上がっていた。暗い路地裏に、ギャラリストのシャツの白さだけが異様に浮かび上がっている。

「今度こそだ。住民の言うことは真面目に聞いちゃいけない。この街は、これからの世を生きる人間にとって、……あってはいけないものなんだ。君が望むなら理由は教える。私の修理が終わったら、すぐに来るから待っていてくれ」

 主人公は小さくうなずいた。はっきりと返事することはしなかった。……ケンタウロス女が体の向きを変えられるほどのゆとりは、この路地裏の幅にはないらしい。街明かりが見える大通りの方へ、彼女はゆっくり、後ろ向きで戻っていく。風の吹かないその場所で、主人公はふたりの姿が消えていくのを待っていた。

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