#14

 ゆっくりと、走るのをやめたギャラリストの背中は、深呼吸するように揺れていた。周りを見ると建物の数が、さっきまでの街並みよりずっと少なくなっているのに気づく。この一角には有刺鉄線で囲まれた空き地がたくさんあった。ふたりは歩き出す。空き地にいた幻のウサギが、ふたりをからかうように逃げていく。

 道の先には赤いペンキで塗りつぶされた、大型車用のガレージのような建物だけがあった。正面のシャッターは半分ほど開いている。ちょうど主人公の身長くらいの隙間だ。ギャラリストは身をかがめ、くぐっていく。主人公ももちろんついていく。

 暗く、中の様子はよく分からない。明かりは奥の方にひとつあるだけだ。それも一枚のパーティションか何かで隔てた先に置いてあるため、何があるのかは本当に見えにくい。ギャラリストは臆面もなく光源の方へ歩いていった。少しだけガソリンらしき臭いがする。

「随分遅いと思ったら、お前が歩いて来たのかギャラリスト」

 主人公はギャラリストより早く振り返った。半開きのシャッターの前に、大型の懐中電灯をこちらに向ける、軍服の男が立っていた。

「はじめまして、会えてよかったわ!」

 主人公はどうにかご機嫌な声でそう言ったが、皮肉とか挑発に受け止められたのではと思い、すぐに後悔する。

「お前がわざわざご足労してくれるなんてな。もう少しで僕たちから出かけるところだったよ、入れ違いにならなくてよかったな」

 彼が復員兵なのだろう。懐中電灯の逆光で、はっきりとした顔は見えないが、思っていたより朗らかで若々しい声をしていた。ギャラリストは主人公の手を離し、現れた復員兵の方へと歩いていく。

 しかし同時に、パーティションの裏側からも、足音と思しき物音が聞こえ出す。誰かいるのは明らかだった。だが、ギャラリストは気づかないのか無視しているのか、そちらへは注意を払わない。主人公は……ギャラリストの動向も気になるが、パーティションの裏へと回って、その人物の姿を確かめに行くことにした。

 そこには復員兵と同じく、古い軍服を着た人物が、コンクリートの床に直接座っていた。バケツを被り、頭を隠している。

 バケツの人物は主人公に気づく。主人公は少し混乱する。さっき話しかけてきた男が復員兵だと思っていたが、もしかするとこちらが復員兵なのだろうか? ……もたもた考えているうちに、ギャラリストとさっきの復員兵(?)の声が聞こえてくる。

「その言い方が気に入らない。盗んだものを返したからといって、犯した罪が消えるわけではない」

「許してもらおうと思って返すんじゃないさ。もう結構。それだけ」

 主人公はパーティションの影からふたりをのぞく。嫌な予感ばかりが胸を支配していた。

 その時、目の前にメモの切れ端が差し出される。……それは横からバケツの人物が見せてきているもので、『心配しないで』と書かれてあったのだが、暗さとクセのある筆跡のせいで、その走り書きの文字を主人公はきちんと読めなかった。けれども……言葉の最後に描かれていたスマイリーフェイスの絵が、深刻な敵意は持っていないことを辛うじて伝えてくれている。落ちついた主人公を見て、バケツ頭はメモを裏向ける。そこには少し長い文章があった。絵はない。単語の間にいくつかの数字が書かれているのだけは分かる。

「ごめんなさい、よく読めないの」

 傍らにしゃがんだバケツ頭に、主人公は小声でそう伝える。細かな傷が無数についた、スズのバケツを軽く押さえながら、その人物は大ぶりにうなずいて見せた。そしてまた、パーティションの裏であぐらをかく。主人公は彼の様子をうかがってみた。

 彼が座る、きめの粗い麻の敷物の上には、古いラジオと人狼マスターの店にもあった電光ランプが置かれている。しかしだだっ広い部屋を照らすには、その明かりだけでは全く足りていない。壁ぎわには家具もあるようだが、それらは輪郭しか確認できなかった。

「君の頭はここにあるよ」

 そして、意外にもバケツ頭は言葉を発した。さらに意外なことに、声はかなり高い女のものだった。主人公は彼の姿を改めてよく見る。大きくごつごつした手。サイズにあまりゆとりのない、使い込まれた軍服、広い肩。……それなりに大柄な、男の体格はしている。

「声は気にしないで。男の体には変だろうけど」

 こうしている間にもギャラリストと復員兵(?)は話し続けているのでそちらも気になるが、主人公には目の前のバケツ頭に関する情報を受け止めることだけで手いっぱいだった。声は、これでもまだ無理して、低い声を出そうとしている女の子のものにも聞こえる。また、どことなく馴染みがある響きにも感じる……

「……もしかしてもう気づいた?」

 主人公はうなずく。

「ごめんね、気分が悪いでしょう。自分の頭と話をしているなんて」

「それくらい平気。……よかったらその頭、見せてくれる?」

「本当に? 俺は別に見てもいいけど……本当に平気かい?」

 交互に喋る、主人公とバケツ頭の声は、確かにそっくりだった。

 スズのバケツが床に落ちる。

 自分の小さな頭が、大柄な男の肩から上に乗っている姿は確かに不気味だが、そう覚悟してから見てみると酷いショックはなかった。建築用のマスキングテープで、太さの違う首は強引に繋がれている。黒く、柔らかな髪が額に被さり、皮膚の薄いまぶたが軽やかに瞬きしている。茶色い瞳だ。これが自分の目の色だった。何重にも巻かれたテープの切れ目を、男は手探りして剥がそうとしている。

「首はすぐに返す。でもこの首を取ると、俺は何も見えなくなるし、聞こえなくなる。話もできなくなる。だからその前に、街を出る君だけに言いたいことがあるんだけど……」

 そしてやにわに、思ってもいなかったことを知ってしまう。

「え……そんな、どうして? わたしは頭も何もないのに平気よ?」

 主人公は急かすように聞き返す。テープがほどかれていく。

「今の君が使っている体は創作物だからね。君が君であるというテーマを持つ限り、世界は展望し、君は世界に存在を与える。人間の、肉の檻っていうのは不便なものだよ。だぶついた心のように不便だ」

「ど、どういうことなの」

「とにかく君と俺とは違うってこと。人間は頭の有無で色々変わる」

「じゃあ、……どうしよう。どうすればいいのかしら。なんにも見えなくなるなんて……」

 あと少し巻き取れば終わりそうなところで、男はテープを剥ぐのをやめる。ぐらつきかけた頭を支えながら、少女の声でまた話す。

「ああ、でも心配しないでよ。あくまで今は見えなくなるだけだ。いや、うん。君に責任を感じさせる言い方をしたのは悪かったな。俺たちは、」

 ……主人公は目の前にいる男にばかり注意していたので、ギャラリストの方の動向などその時は気にしていなかった。だから、もうすぐそばまで、バネの足音が迫ってきていたなんて知らなかった。ランプの光が、ぬっと現れたマネキンの姿に遮られ、男の首に座る小さな頭に影を落とすまで……

 マネキンの、黒くて節々に隙間のある両手が、何かを喋りかけた目の前の頭へと伸びてくる。つや消しの黒の指がその頬を包み込む。コルクを抜くような、あまりに間の抜けた音を立てて、小さな頭が首から外れ、ギャラリストの腕の中へ持ち上げられる。フイルムのコマを送るように、その一挙一動はしっかり主人公には見えていたが、これについてギャラリスト、あるいは自分の頭を乗せていた、今となっては首なしの男に、何かとっさに声をかけることはとてもできなかった。なにせ数秒の出来事だったからだ。

 突如頭を奪われた男は、少しのあいだ自らの首の断面をぺたぺたと触っていたが、すぐ動くのをやめた。座ったまま、背中を丸め、諦めてその場がやり過ごされるのを待つかのような姿勢になった。主人公はギャラリストを見上げた。ギャラリストは細い首にへばりついた、建築用マスキングテープの残りを引っぱって剥がしていた。床へ、しわくちゃになった長いビニールの帯が落ちていく。

「こいつは何を話していた? ……怖かっただろう?」

 ギャラリストは心配してくれていた。しかし、主人公の気持ちのほとんどは、今の出来事を首なしの男にどう伝えようかという思案でいっぱいだった。しかし、目も見えず、耳も聞こえない相手に、何としてこれを話せというのだろう。とりあえず、主人公はギャラリストから目をそらして復員兵(?)を探した。普段から共にいるであろうその人なら、話を伝える手段を持っているはずだからだ。

 彼は懐中電灯を立てて床に置き、半開きのシャッターの横に座っていた。光の筋がトタンの天井にすらりと伸びている。その光線のおこぼれを浴びる彼は、黄色い髪の青年だった。

「さあ、帰ろうか」

 けれども主人公の様子には気づかず、ギャラリストはシャッターの方へとどんどん歩いていく。首なしの男は相変わらず動かない。

「待って、ギャラリストさん」

「待ってやる必要なんかないよ」

 シャッターを潜り抜けるまでに、主人公はギャラリストを留める言葉を探そうとする。

「ねえ、お願い、待って。ピトフーイさんが言ってたでしょ、復員兵さんがわたしに伝えたいことがあるって、それが気になるの」

「大した用事じゃない」

「なんでそれが分かるの」

「分からないとでも思うのか!」

 がらんとしたガレージに怒鳴り声が響いた。冷たい水槽みたいな四角い家の角まで声は広がり、空間をすっかり支配してしまったかのようだった。その声の余韻が主人公から消えいく前に、ギャラリストはシャッターをくぐってしまう。

「早く来るんだ。手はつなげないから服をつかんでくれ」

 主人公は言う通りにした。ウエストコートのすそにつかまった。外に出る。風はとても強かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る