#13

 主人公は古いソファーの上に座って、ギャラリストが作業しているのを黙って見ていた。ここは、街に来て初めて目覚めた部屋だ。ギャラリストは何枚かの、形状のちぐはぐな合板のサイズを測り、メモを書いていた。この部屋にある大きな窓を、次の礼拝までにはすっかり塞いでしまうつもりなのだ、と彼は言っていた。

 その背中を眺めながら、何か話しかけようと主人公は思ったが、なんだか突然億劫になってしまう。上着を脱いだ、白いウエストコートをぼんやり照らす、曇ったガラス越しの街灯を眺めるだけで、今は充分だった。精一杯だった。

「君は……別に、ここでじっと見てなくてもいいんだよ」

 ギャラリストはそう言ったが、主人公には何もすることがない。

「金庫の部屋にはベッドがあっただろう。そこで休めばいい」

「疲れたりはしてない。なんだか……退屈なの」

「退屈か」

 少し険しい声でギャラリストは言った。主人公も自身も『退屈』という言葉は伝えたい気持ちと全然違う、とは感じていた。

「ううん、ただ、何していいか分からないの。よかったらお手伝いさせてくれる?」

「いや、君に手伝えることはない。気持ちは嬉しいけれども」

「分かった。じゃあ……あのお部屋にいようかしら」

 そう言って主人公はソファーから降りる。急ごしらえのままで何年も使い続けられているかのような、薄っぺらいトタンのドアを引き、廊下に出る。裸電球の下に並んでいるドアのひとつを開ける。

 その小部屋は、素朴なモーテルくらいには家具が置かれている。しかしどれもこれも古い。手入れもされていない。チェストと鏡台は埃まみれで、ベッドもずいぶんの間シーツの洗濯さえしていないように思われる。電灯のスイッチを入れる。それでも薄暗い。

 床には積もった黒い埃を踏んだ足跡がついている。ギャラリストが脚を金庫に入れた時につけたものだ。あの中には確かに自分の脚がある。鍵とダイヤルの番号はギャラリストが管理しているが。

 主人公は、そのいかめしく大きな金庫に部屋の間取りを圧迫されている小部屋で気晴らしにさまよう。まず鏡台の引き出しを開ける。ルーペと、何も書かれていない便箋の束と封筒、インク、万年筆が入っていた。やはりどれも古かった。便箋は端の方から紅茶を吸ったように変色しているし、万年筆のペンの付け根は錆びている。糊づけされた封筒をすかして見ると、何やら新聞か雑誌の切れ端が入っているのが分かったが、そんなものを見つけたってどうしようもない。主人公は引き出しを閉める。次にチェストの引き出しを上から順に開けてみた。全てからっぽだった。

 もう何もできることがないので、横になった。ベッドは堅かった。シーツ越しに古びた埃っぽい空気がのぼるのが感じられた。寝ころんでも、この体に疲れはないので、ただ休んでいるふりをしているのにすぎない。こんなことをしているうちに、ふと心細さがわいてくる。耳をすましても物音は聞こえない。もうそろそろ、ギャラリストに話しかけに行っていいのではないか。そんな気分になるだけの時間が過ぎたころだった。

『さてさてさてさて!』

 すぐ近くとも、彼方の海鳴りより遠くとも思われるようなどこかから、よく透る司会者の声が聞こえてきた。

『皆さん注目の主人公の子ですがぁ! 今度は復員兵のもとへ行くべきなのに! まだギャラリストのアジトでぐずぐずしているのです! 留まる方を選んだ!』

「そんなつもりじゃない!」

 主人公は言った。誰もいない部屋を見渡して、身構える。

 その直後、どこかでガラスの割れる音がした。乱暴な音だった。主人公は急いで廊下へ出た。

「止まれ!」

 すると背後から声がした。その人物は主人公の腕をつかむ。

「部屋に戻れ! そして出るな、……頼む!」

 ヘドロの悪臭、そして紙の腕に粘液が染みこむ冷たい感触がした。小柄な、ヒトの姿で現れた下水道は、主人公がたった今出た小部屋……の向かいのドアを開け、その中へ紙の体を放り投げた。主人公は声すらあげる間もなく閉じ込められ、その体は机と思しき堅い木の家具にぶつかる。ドアはすぐに閉められる。走っていく下水道の足音がわずかな間だけ聞こえ、静かになる。

 その部屋はほとんど真っ暗だった。塗りたてのペンキの臭いが充満している。おがくずのようなゴミがよく落ちている、冷たい床でしばらく主人公は呆然としていた。ドアの隙間からは少しだけ外の光が入ってきていたが、それだけでは何も見ることができない。

 立ち上がるのが怖かったので、主人公は四つんばいで光の方まではって行った。そうして正解だった。床には物がたくさん落ちていた。金属の工具だったり、木の板だったり、薄い紙きれだったり。

 ドアまでたどり着いた主人公は、まずは外の音をよく聞くために、耳をぴったりドアに当ててみた。だが廊下のコンクリートが物音を吸い込んでしまっているかのように、届いてくる物音は小さかった。

 主人公は暗い部屋の中で、ドアノブに手をかけた。しかし、しばらくそのまま動けずにいた。誰かが来てくれるのを待っていたのかもしれない。今の自分はあまりに無力だ。それに、下水道に対しての恐怖はまだ残っている。しかし……しかし……

「きっと理由があるはずよ」

 主人公は焦る自分を落ち着かせるため、そんな独りごとを呟いた。……やがて扉のむこうから、ギャラリストのものに違いない錆びた足音が聞こえてくる。急ぎ足だった。杖が乱暴に床を叩く音もよく聞こえてきた。主人公は出ていこうか迷った。そうしているうちに、さっきまで主人公がいた部屋を扉をギャラリストが開けたらしい音が聞こえた。

「……あいつらめ!」

 そしてギャラリストの怒鳴り声が響いた。バネの右足で走り出す、頭に響く足音が、廊下を駆け、外の方へと遠ざかる。主人公はあわててドアを開ける。

「待って! ギャラリストさん! わたしはここよ!」

 主人公はできる限りの大声をあげた。ギャラリストはすぐに立ち止まり、振り向いた。主人公は彼のそばまで走り、迷宮の柱のような太く冷たい胴体にしがみついた。

「どうしてそこに! 驚かせるな!」

「ごめんなさい、びっくりして、隠れたの」

 下水道に投げ入れられた、とは言う気になれなかった。きっと面倒が起こるから。

「あいつらに連れていかれたかと思ったじゃないか」

 ギャラリストはしゃがみ、主人公の頬をなでる。伸ばした腕の、白いシャツの袖には赤い染みがついていた。錆びた臭いもしたが、それはギャラリストの節々からもともとしていた臭いかもしれない。

「下水道さんは……」

「ああ、追い払ったよ。他にはもう誰も来なかったか?」

「うん」

「そうか。……随分体が汚れているな。あの部屋で転んだのか?」

 ギャラリストは主人公の体を優しくはらった。おがくずがぱらぱら床に落ちていく。細かなゴミには黒い塗料のカスも混じっていた。

「大変だっただろうが、あまりあそこには行かないでほしい。私の体を修理する工房なんだが、君に使わせるのは少し危なっかしい」

「うん、……あのね、下水道さんは」

「だからもう大丈夫だと言っただろう。確かに、私への信頼は……もうないだろう。こんなに何度も君を怖い目に遭わせたのだから。だが、これからは……」

「うん、ありがとう。本当に、ギャラリストさんには感謝してるし、信頼だってしてるわ。だから聞きたいことがあるの。下水道さんは、何をしにここへ来たの?」

「……私たちの邪魔をしに来ているんだよ」

 主人公の手を取り、エボニーの杖に体重をかけ、ギャラリストは立ち上がる。

「すまない。ここを出よう。誰に言われたか忘れたが、確かにこの辺りは寂しい。こそこそと悪だくみする奴らにとっては都合が良すぎる。何も持っていきたい物がないなら、すぐに行こう」

「どうして?」

「分かるだろう。ここはもう危険だ」

「危険って何があったの? 下水道さんならわたしは怖くないわ」

「君がそう思ったとしても、私にとっては違う。それとも君は私の気持ちなんてどうでもいいと思っているのか?」

「え、そんな……」

「君がいい子なのは知っている。大丈夫。少し迷っているだけだね」

 ギャラリストはモーニングの上着も取りにいかないまま、主人公の手を引き、アジトの外へ出てしまう。風は相変わらず寒々しい。ギャラリストがいないと、主人公はまた飛ばされるだろう。

「もしかして、もう復員兵さんのところに行くの?」

「もちろんだ。少し遠くなるけど、我慢できるかい」

「……我慢はできるわ」

 そして大通りへと続く坂道をまた歩いていく。……吹き抜ける風の中に、主人公はまたオレンジ色の羽毛を見つけた。それを追いかけるように幻のウサギが跳ねて、ともに路地裏へと隠れていく。

 坂を歩き、メインストリートを抜ける。人狼マスターの店の看板を照らす電灯は消えていた。そこを通り過ぎると、行ったことのない町の一角へさしかかる。景観はあまり変わらない。窓から光をもらす建物をいくつも見送り、ふたりは歩く。道幅が狭くなっていく。

 しばらくして曲がった路地の先から、馬具をこすれ合わせながら歩く、蹄鉄をつけた馬の足音が聞こえてきた。こちらに向かって来ている、一頭の馬の影も見えてくる。

「おや、さっきのアナウンスを聞いたばかりなのに。嬢ちゃんたち、もうここまで歩いてきたのかい?」

 聞こえた声は、女のものだった。馬だと思っていた存在は、本来あるべき首から上が人間の上半身になっている、いわゆるケンタウロスと呼ばれる怪物だった。近づいてきた、かなり体高のあるその人物を主人公は見上げる。黒毛のたくましい馬体に生える上半身は、青いマントで頭からすっぽり覆いつくされている。その陰からは、褐色の肌と、厚ぼったい涙袋に縁どられた赤い目がのぞいていた。

 ギャラリストはケンタウロス女をよけて、急いで行く。

「復員兵のところに行くんだろ?」

 だがケンタウロス女は同行してくる。ふたりの隣から離れない。せわしなく杖をついて歩くギャラリストに、女の大きな馬体が蹄を鳴らしながら付きまとっている。

「その足じゃかなり時間がかからないかい?」

「ああ、かかる。だがこうするしかないんだ」

「そうか、私はこれから自宅に帰るところだ。つまり、おふたりが行こうとしている場所と途中まで道がいっしょってこと。だからさ、よかったら私の背に乗りなよ。ラブラドロブスターを運んでたから、ちょっと泥臭いかもしれないけど」

「断る」

「なるほど、ギャラリストは断ると。じゃあお嬢さんはどうする?」

「この子にはかまうな!」

 ギャラリストは主人公の体をまた引き寄せる。

「先を急いでいるんだ。お前も、でかい図体でずっと付きまとってくるつもりか、やめてくれ!」

「なんでそんなに怒ってるんだい……」

「おせっかいをして良い気になりたいような奴に絡まれたら当然だ」

「ああそうだよ、世話焼きな性分で悪いね」

「ならやめてくれ、理由もないのに押しつけがましい真似は」

「理由があると言ったら?」

「……誰の差し金だ?」

「いや、嘘。理由なんてない」

 ケンタウロス女はわざと含みのある笑い方をしてみせた。ギャラリストは杖の先を彼女の前足めがけて突き刺すように振り下ろした。蹄鉄を打ち鳴らす軽快な音を立てて、ケンタウロス女はそれをひらりとかわす。

「なにするの!」

 主人公は叫び、ギャラリストの腕をひっぱって立ち止まろうとした。しかし紙の体重をかけても手ごたえはない。ケンタウロス女は主人公を見て眉をひそめ、一本のガス灯のそばで歩みをとどめる。ギャラリストは黙って路地の先へと急いで行く。

「……思っていたよりずっと怒らせてしまったね。ごめん」

 ケンタウロス女の声が背後で聞こえる。ギャラリストは駆け足で交差点を曲がった。バネの足がはずみ、関節がきしんでいた。その音を体中に響きわたらせながら、主人公はただ手を引かれるまま、夢中で走ることしかできなかった。

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