#12
ジェミリラはまだしばらくデータ塔に残ると言っていた。主人公はギャラリストとともに再び外へ出た。
ふたりは街の方へ歩き続ける。外は、さらさらとした土埃が地面につける模様のほかは、何もない広い荒野だった。あいかわらず星ひとつない天上からは、大きな月が黙して世界を見おろしている。街明かりは遠かった。
「ここまで来るのは疲れたか? 君を背負っていってあげようか」
「ううん、わたしは平気。ピトフーイさんが空を飛んでくれたもの」
「……そういえばそうだったな」
歩きにくい道ではないが、なかなか近づかない街の灯の距離には心細さを覚えてしまう。
「……彼らには関わっちゃいけないよ。ピトフーイは君が思っているような善人なんかでは全くない」
「そうなのかしら」
主人公はギャラリストを見上げようと思ったが、なんとなくそれができなくて、わずかに視線をさまよわせた後、彼の足元を見た。粘土質の地面に、革靴と杖とバネの跡がついていっている。その足取りを追い越して、細い、オレンジ色の羽毛がひとひら、地面をなでるように吹き飛ばされていくのが見えた。主人公の体に付着していたものが落ちたのかもしれないし、さっき、あるいはずっと前に、ピトフーイから抜けて荒野を舞い続けているものなのかもしれない。
空を見ても怪鳥の姿はもうどこにもない。また風が強くなった。足元を風にすくわれそうになって、ギャラリストの腕にしがみつく。
「大丈夫だ。私がいる。君はこの街を出るんだろう」
「出る……」
「じゃあピトフーイや他の住民ことは、気にとめちゃいけないよ。どうせ街を出たら、二度と関わらずに済む相手だ」
「もう会えないの?」
「私なら絵を見つけ次第街を出る。そうしたら君とはいつか会えるかもしれない。……いいや。約束しよう。私は君に必ず会いに行く」
「……絵を見つけなきゃいけないのね」
「ああ。そうだ、君は……もう少し絵のことを聞きたいだろうか。案外、君みたいな子が、何か手がかりを見つけられるかもしれない。私は奴らに嫌われているものだからな……」
「そうね、そのことなら……聞きたい」
ギャラリストは、一言ずつを確かめながら、セリフを続けていく。
「私を呼ぶ絵。それは死んだ少女のために描かれた月の世界の絵だ。プラチナブロンドだと言ったが、実はモデルは日本……東洋の少女。でも彼女は金の髪と赤い瞳を持っていた。肌も真っ白だった」
主人公はまっすぐ前を向いて歩きながら、ギャラリストの話を真剣に聞こうとしていた。
「ロケットが月に着いた日のことは知っているかい」
「えっ」
そして思いもよらない質問に少し驚く。
「……知ってる」
詳しくは知らないが、前にそんな話題でみんな盛り上がっていた覚えはあった。
「そうか。絵が消えたのは、その三日後だった。私の画家は、幻想的な世界と建築物を、半立体的な切り絵で表現する女流画家でね。その絵に着手したきっかけとは、ソ連の探査機が月面に軟着陸し、鮮明な写真を撮影した成果について語った、日本人の古い投書だったそうだ。そして奇しくも人類が、有人月面着陸の偉業を成した、翌日に……絵は完成し、それは彼女の遺作となった。それから遺作は彼女の娘が盗み出し、行方不明になってしまったんだ」
「盗まれたの? この街にあることは確かなの?」
「それは間違いない。娘はここに漂着した。絵は、……絵の中に描かれた世界は、迷える魂を呼んでいる。私はそれを止めるために、ここで絵を見つけださなければいけない。そうだ、それと少し話はそれるが……日本に流通しているウサギはアルビノが多い。赤い目をしている。手記にあった、死んだ日本人の少女は、現地ではウサギのようだと言われて愛されていたそうだ」
「街のひとたちも、みんな目が赤いけれど……」
「ああ、君の知らない話ばかりですまないが……日本には伝説があるんだよ。月にはウサギが住んでいる、というね」
「その、街のひとたちは……」
「……絵の悪質なパロディだ」
「パロディって?」
「模倣による、特に笑いや風刺のための画風だ。まあ君が気にする要素ではないさ。……ああ、絵の大きさは、君が家に飾るには少し大きく感じるくらいだと思ってくれたらいい。今、君に教えておくことは……これくらいかな」
「わかった。覚えておく」
返事をした。全部を覚えるなんてできないが、はっきり伝えた。
それから、また歩いた。さらさらと乾いた地面を踏み続けていた。ギャラリストの足跡だけが点々と、データ塔の影から続いている。紙の体は軽く、主人公はここに足跡をつけることができなかった。
ようやく、街の端に立つ標識なんかが、はっきり読めるようになってきたころだった。古く、誰も使っていなさそうな、スプレーの落書きが描かれた車庫にもたれ、目立つ赤い衣装を着たその人物が、ふたりを待っていたのに主人公は気づく。
「よう」
ウィスパーボイスが投げかけられる。彼女の足元にいた幻のウサギが跳んで消える。ギャラリストは立ち止まらなかった。
「……なぜまだそんなところにいる、ピトフーイ。頭を取り戻してくるんじゃなかったのか。どうも持っているようには見えないが」
「ああ。オレもあいつらの様子を観察してやりたかったが、思っていたような感じじゃなかったから、もう飽きたよ。それにどうも、あいつらは嬢ちゃんに会って伝えたいことがあるらしい」
「つまり無駄足だったということか」
「そうだな」
ギャラリストは主人公を引き寄せ、肩を抱く。車庫を通り過ぎる。じりじりとした野鳥の視線を背後から感じる。
「でもオレにとっては大した徒労じゃなかったよ。……復員兵の家にはあんたが行くんだろうな。嬢ちゃんもその優しいギャラリストといっしょにいる方が好きだろ」
「君は何も答えなくていい」
一切の間をおかずギャラリストはぴしゃりと言う。
「ピトフーイ、お前がそんなに干渉してくるとは思わなかった」
「よっぽど予想外だったのか? それどもオレってそんなに消極的に見えたか……」
独り言のようにつぶやくピトフーイの声は、すぐに遠く、聞き取りづらくなる。でも主人公は背を向けたまま、できるだけ耳を傾けようとしていた。だがそれも、もう静寂になる。
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