#11
少しも揺るがず浮かび続ける月が、ふたりを空で見おろしている。店先に吊るされた電球が、切れかけているのか一度だけ点滅した。
「本当に、わざわざギャラリストに相談しに行くのか? 律儀だな、嬢ちゃんは」
「……あなた、面倒なことは嫌いなのよね。ごめんなさい」
「ん、それはいいんだ。オレにかかればデータ塔なんて一瞬だしな」
紙の体に当たる向かい風は、やはり強く感じられた。主人公は爪の長い、赤い魔女の手を握り、頼りにしていた。もう片方の手には下水道が届けてくれた、エボニーの杖を持っている。
「……わたしを、ほんとに連れて行けるの? 邪魔にならない?」
「大丈夫、オレに任せてな」
そう言って、ピトフーイは主人公の体をもっと近くへ引き寄せる。
「怖かったら目を閉じてるんだぞ」
ピトフーイの声はとても優しい。粗暴な言葉遣いをしているひとなんかは、たいがい声も荒々しくなるものだが、巧みな錯視の絵を見せられているように、違和感なく二極の印象を伝えるトリッキーな彼女の声は、主人公にとっては嫌なものではなかった。
主人公は外套をまとった胸へと抱き寄せられる。その体の感触は、内側に雲が詰められているのかと思うほど柔らかだった。細い腕に、主人公は支えられる。小さな紙の体はやすやすと抱きあげられた。
風の音が大きくなる。足音が響きだす。ピトフーイは駆け出した。走っていた時間はわずかだった。ひときわ高らかなコンクリートを蹴る音を立てるまでの、数秒間だけだった。
そして主人公の視界は、一瞬でオレンジ色の羽毛にふさがれる。
音と、うずまく大気の流れによって、怪鳥のピトフーイが巨大な風切り羽を広げ、乾いた街の上空へと舞い上がっていく。細い腕に抱き留められている感触はまだ続いている。羽毛の奥からヒトの腕が伸びてきているようだった。
ところで、目を閉じてるんだぞ、と言われたところで、薄紙のレースでごまかされた、何もない目元でそれはできない。顔を向けた方に見える全てをストレートに受け入れるしかないのだ。ピトフーイは残念ながら、それを察せるほど気が回る方じゃなかったらしいが、主人公の全身をうずめるほどに広がる羽毛はちょうどいい目隠しになるので、自分の意思で視界をふさぐことはできそうだった。
けれども主人公は首を回して、エボニーの杖を握りしめながら、この場所から何が見えるかを、あえて確かめてみることにした。
大気を操る怪鳥の翼は、その風切り羽の先が空の端まで触れそうなくらいに広がっていた。真下にある街明かりの集合なんか、今やピトフーイの翼の影で、やすやすと覆いつくしてしまえそうだった。
街は、主人公の想像よりは狭かった。地形などはよく見えないが、生活の灯火が見える地帯だけなら、そう大した広さじゃない。……街明かりを点繋ぎすると、ウサギの形になりそうだったが、そのことに主人公は気づかなかった。
乾いた風の上を滑りながら、ピトフーイは街から少し外れた場所にある、灯台に似た形の建築物の方へと飛んでいった。月の逆光に建つ細い影。灯光などの明かりはない。そのさらに先には学校か工場のような、広い敷地と建物を持つ施設があった。
「川がある」
主人公は呟く。下界にきらめく細長い水面が見えた。
「お、高い所は怖くない方か?」
「うん。平気よ」
赤い魔女のウィスパーボイスは、血管が透けた嘴の奥から聞こえていた。風の流れに包まれている今は、少しだけ聞き取りづらい。
「そっか。やっぱり主人公やるくらいだから、度胸があるよな!」
「うーん、あんまり関係ない気がするけど……物怖じしない、ってよく褒められるわ」
「そっか、いいなあ、主人公ができるって! 華やかだもんな!」
ピトフーイがあまりにも屈託のない感じで褒めたので嬉しくなる。
「あのねあのね、ほかにもできることがあるのよ」
「へえ、すごいな! 何ができるんだ?」
「楽器ができるの。ピアノとか。アコーディオンも。これもお客さんに見せられるようになりたいわ」
「色々できたんだなあ! よかったら今度聞かせてくれ! ピアノならガムボールハウスのロビーにあるから、いっしょに行こう! 約束してくれよな?」
「うん。約束よ」
風切り羽の角度がわずかに変わる。体をつたう風の向きが変わる。
「……さっ、もうすぐ下りるそ。ゆっくり下りるが、怖かったり、耳が痛くなったりしたらごめんな」
「わかった、多分平気だと思う」
ビンの底にたまった澱のような、下界の空気が立ち昇ってきた。主人公は怪鳥がぐんぐん迫っていく、データ塔のある方向をもう一度見る。かなり近づいたのに、その形はまだ黒いシルエットでしか確認できない。こんなにはっきりした月の光で照らされているのに、なぜ……と思ったが、ある距離まで近づいたとき、主人公は事情を理解した。この塔はそもそも真っ黒なのだ。
天に向かって伸びる影のようなデータ塔を、ピトフーイは降下しながら通り過ぎ、広い翼を傾け迂回する。激しい気流が翼の内側に発生する。羽毛の奥から生える魔女の細い腕が、紙の体をさらに強く抱く。落とさないよう、だが潰さないよう、丁寧に力を込めているのが伝わってくる。そして、波うつ羽毛が主人公の視界を覆う。ひときわ大きい、空気の塊を押しのける振動が紙の体に響きわたる。緻密ならせん状の風が、怪鳥の体躯をすくい上げる。広がる羽毛をなぎ倒すように、ピトフーイの胸の上を滑り抜けていく。
石畳に靴底を叩きつける音がした。宙を舞っていた不思議な感覚が終わる。嘘みたいに気流が消える。巨大な怪鳥といっしょに街の空を飛んでいたことなど、嘘みたいに……
「大丈夫だったか? もう着いたぞ」
すっくと二本の足で地に立つ魔女の姿がそこにあった。主人公は細い腕から下ろされる。遠くから吹く微々たる風だけが、今は羽飾りを揺らしている。ピトフーイは主人公の手袋を引き、歩き出すと同時に見上げる。
「あれがデータ塔だ」
夜空よりも黒い塔が、ふたりの目と鼻の先にそびえている。窓も灯火もない。まるでその部分だけ世界をくり抜き、捨ててしまった跡のようにも見えた。
「真っ黒ね」
「中は明るいから大丈夫」
ピトフーイは主人公を案内していく。すぐに黒い塔の根元から、白く四角い光が溢れ出してきた。塔のシャッタードアが開いたのだ。月明かりしかないこの場所では、まっ白な電灯は非常に眩しく感じられた。わずかに脚がすくんだが、ピトフーイに手を引かれて先へ先へと歩いていく。塔の内部は、白いタイルの床と壁がまた眩しい、清潔な病院のような構造だった。
「多分二階だ。階段を上がるぞ」
部屋の中央には螺旋階段があった。それは軸も足場もすべて、ガラスのような無色透明の素材で造られていた。ピトフーイはためらいなく昇っていく。もちろん主人公もいっしょだ。自分自身は紙だからまだしも、ピトフーイの紅い靴が、陶器をぶつけるような音を立てて一段一段と踏みしめていくのを見ていると、そのたびに主人公は気が気でない思いにさせられた。
「おーい、来たぞ! お前ら!」
二階の広間へとピトフーイは歩いていく。
「ギャラリストさん!」
データ塔の二階は資料室だった。壁には棚板がびっしり取りつけられてあり、本やファイルが隙間なく並べられている。三六〇度を膨大な数の背表紙に囲まれた圧巻の配置だ。だが、主人公にはその凄みがよく分からない。ひとまず、階段の先に見えたものが、ギャラリストとジェミリラの姿だったことが嬉しかった。
不自然に眩しい一階とは違い、アイボリーホワイトの壁紙に灰色の絨毯、黒く塗られた棚板と、そこに収まる色分けされたファイルといった、『データ塔』という呼称で想像できる空間として、二階はおおよそ妥当な景色だった。ピトフーイが繋いでいた手を離したので、主人公は早足でふたりの方をめざす。
「あら、ピトー。それに主人公ちゃんじゃない」
ふたりはガラスのテーブルを囲んで座っている。ジェミリラは椅子を回して体をこちらに向けた。ギャラリストは顔を上げる。
「なんだって。……ピトフーイ、その子を連れてきたのか」
それなりに広いテーブルの上には何冊かのファイルと書類、たくさんの紙、さっきも店で使っていた、半球形の小さな機械がある。紙はほとんどが白紙だが、文字の書かれた一枚が視界に止まったので、主人公は少し読む。そこにはなぜか、司会者が前にアナウンスしていたセリフが、一字一句おそらく正確に書きとられていた。
「おう、連れてきてやったぞ! この子くらいなら運べるからな」
「……色々言ってやりたいな。何のつもりかは知らないが……」
自分がこの場所に来たことは、ギャラリストにとって都合が悪かったのだろうか。店から勝手に外出したことがいけなかったのかもしれない。ギャラリストの声は機嫌が良さそうではなかった。
「どうしたんだ、こんなところまで来て。何か私に用があるのか?」
「うん……。勝手に出てきてごめんなさい」
「いや、知っている大人といっしょに来たならいいんだ。まだいい。ああ、いや……私は別に、君の行動に何か言いたいわけじゃない。怒っているようにみえたか?」
主人公は首を横に振る。ジェミリラが主人公を見て口を出す。
「ねえ、主人公ちゃん。もしかしてその杖を持ってきてあげたの?」
「あ、そう……これ」
主人公はエボニーの杖を差し出した。ギャラリストは受け取る。
「おや、私の杖だね。これ無しで歩けないこともないんだが、少し不便だからね。ありがとう。わざわざこのために来てくれたのか?」
「それだけじゃなくて、相談しにきたの。忙しかった?」
「私は大したことない。こっちに座るか?」
テーブルを囲む、モダンでスマートで座り心地の悪そうなデザインの椅子は六脚もある。主人公はギャラリストの隣に座る。ピトフーイどこかに腰を下ろせばいいのに、ドーナッツのような間取りの部屋を、何かするでもなく時計回りにうろうろし続けている。
ジェミリラは半球形の機械を操作し始めていた。すべての指を素早く動かし、機械から飛び出たゴルフのピンのような部品を、押しこんだり離したりしている。たくさん生えたピンの先には、文字がひとつずつ刻まれている。
「あ。これはね、もう博物館にしかないような、とっ……ても昔のタイプライター。を参考に作ったあたしの特製打刻機。打ち出した活字に対してワープロに相当する操作ができるのよ」
主人公の注意を引いていたのに気づいたジェミリラは言う。そうだと知った上で彼女の手元を見ると、カチカチとピンを押し込む音に合わせ、彼女の目の前に敷かれている白紙に文字が発現し、凄い速さで文書を作っていっているのが分かった。だが紙と機械を繋ぐものはなにもない。部品が触れてももいない箇所に、勝手に文字が現れ続けている。
「まあ気にしないで。っていっても気になるなら、暇なとき見せてあげるから」
「わかった、邪魔してごめんね」
そう言った主人公は、ジェミリラの赤いレンズの目に会釈しようと顔をあげた時、真っ黒なストールが初めて出会ったときより少し長くなっているかもしれないことに気づいた。インクのような匂いもする。が、今はギャラリストに伝えたい話もあるし、忙しい彼女をしげしげと眺めるのも悪いので、観察するのはやめた。
「それでね、ギャラリストさん」
ふたたびギャラリストの何もない顔を見あげる。
「ああ、相談か。外に出るのは怖かっただろう。それでもわざわざ話に来てくれたくらいだ、君にとっては大きな問題なんだろうな」
「問題なのかな……。あのね、わたし、あとでまたピトフーイさんといっしょに出かけたいの」
「出かける? どこへ」
「ピトフーイさんがね、わたしの頭を持っていったひとのところへ行くみたい。それで、わたしもついて行こうかどうか迷ってるの」
「ついていく? 怖くないのか? 君の頭を盗んだ相手だぞ。それはつまり、君に危害を及ぼすことを厭わない相手、ということだ」
「……そういうことになるのかしら」
主人公は小さな声になる。言われてみれば、その通りだ。すると、部屋をぐるぐる散歩していたピトフーイが近づいてきて、ふたりの背後から話しかけてきた。
「大丈夫だって。オレがついてるんだから。さっさと行って、取り戻しちゃったらいいのに」
「なぜそんなことを提案する?」
ギャラリストは明らかに穏やかでない様子で、くい気味にピトフーイへと尋ねた。ピトフーイは赤い唇を少し舐め、ギャラリストを覗きこむ。マネキンの黒い顔に羽飾りの影がゆらりと被さる。
「オレの趣味だよ。別に悪い話じゃないだろ」
「ピトフーイ、柄にもなく面倒なことをやろうとしているな。そこまで関わるのはなぜだ?」
「ふうん、それを言う? ……全くオレも同感だ」
「返事になっていない、ふざけているのか? ……私の方は、人として当然の行いをしているまでだ。人の尊厳を捨てた落伍者が、子どもに世迷いごとを吹き込むのは見ていられないな」
「はあ? 曲解してんの? 早合点でがなりたててるのは無様だぞ」
「お前は交渉しに来たんじゃないのか?」
「いいや? 何の交渉? まさかオレがその子をつれ出していいかどうかの交渉? そんなバカな……それはこの子の意思で決めることだよなあ?」
「その意思にお前たちの影響がなければ私も認めただろう」
主人公はじれったい思いでふたりを見ていた。いらだっていくギャラリストが心配でもあった。
「ほら、今舌打ちをしただろう(主人公にはピトフーイの舌打ちなど聞こえなかったが)。お前の思うようにいかなかったからだな。ああ、お前たちの好きなようになどさせるか」
主人公はたまらなくなって声をあげる。
「あの、わたし……じゃあ、待ってようかな! ギャラリストさんといっしょに、ピトフーイさんが、わたしの頭を持ってくるの!」
「……」
ギャラリストの表情はないが、ピトフーイの方は一度、なんでもない素振りで主人公を見たあと……座った目つきでギャラリストを睨んだのが分かった。
「……ごめんなさい、わたしが……自分がどうしたいか、ちゃんと言えなかったから」
ギャラリストは主人公の肩を、鉄の芯が通った指先で抱き寄せた。
「すまなかった。……このことは私たちに任せなさい」
「……これで……これで、いいのよね?」
ギャラリストはうなずいた。……ピトフーイの、いつも微妙に揺れている、ふんわりとした羽飾りが、今はぴたりと止まっているように見えた。ジェミリラがファイルのページをめくる音が聞こえた。
「分かった。じゃあ、ひとりで行ってくる」
ピトフーイは螺旋階段の方へ歩いていく。
「待て、」
「はぁい、ピトー。いってらっしゃい。またいつもの店で」
ギャラリストが止めようとするのを遮り、ジェミリラは去っていくピトフーイにそう伝えた。透明な階段を下りる足音が、データ塔を突き抜けるように響く。
タイピングが止まる。ジェミリラは、顔の横に垂れ下がっていたコードの髪を耳にかけて、静かになったギャラリストを瞳のレンズに少し映し、すぐに作業を再開する。ピトフーイの足音はなくなり、小気味いい打刻の音だけが、ありあまる静けさを埋めようとするように鳴り続けた。
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