#10

 それからジェミリラはすぐに店を出た。データ塔という場所へ戻ると言っていた。凍死体もやがてどこかへ帰っていった。主人公は店の片すみのラックから古い雑誌を取ってきて、スパイ映画の特集ページをぼんやりながめて過ごしていた。

 しばらくして、店の扉が叩かれているのに気づく。

「おや、入ってこないね。看板出てるよね?」

「わたしが見た時はあったけど……」

 マスターが洗いものの手をとめるより先に、主人公はカウンター席を下り、扉を開けに行く。乾いた空気が流れこむ。外を見渡す。

「誰もいないみたい」

 と、言ったその時、すぐ近くで、硬いものが路面に落ちる音がした。主人公は視線を下ろす。

 そこにあったのはギャラリストの杖だった。店の扉へと立てかけられていたようだ。主人公はそれを拾って、道路をまたよく見渡す。

 すると、黒っぽい、小柄な影が路地裏へと隠れていく姿に気がついた。彼は……。主人公はできるかぎり、空気のにおいに注意してみる。すると、やはり下水道の臭いがわずかに残っていた。

「下水道さーん!」

 主人公は呼んでみた。もう影は見えなかった。再び現れる様子もなかったので、主人公は店の中へと戻った。マスターは棚へ食器を並べる手を止め、振り返った。

「下水道が来てたのかい? なんでまた……あ。それって、ギャラリストの杖だね?」

「表にあったの。どこかで見つけてくれたのかな」

「そういえばステッキを持っていなかったね彼は。なんか歩き方に違和感があるなと思ったんだよ」

 主人公は杖の先を引きずってきて、カウンター席へと再び戻る。膝の上に杖を置き、浅く腰掛ける。重く、冷ややかなエボニーが、薄紙のパニエを重ねたスカートへと沈み込む。手持ちぶさたなのでまた古い雑誌をめくる。

「マスターさん、下水道さんとも知り合いなの?」

「ああ。たまには会うよ。この店のすぐ裏にだってマンホールがあるし、なにより小さい街だからね。みんながみんなと知り合いだよ」

「どんなひとなの?」

「そうだね、悪いひとじゃない」

 それを聞けてよかったと主人公は思った。別に、下水道にも善人であってほしいなんて願っているわけではない。……いや、むしろ、善人であってくれた方が複雑に考えなくてすむのだろうか? 脚を盗んだ理由も単純そうではなかったし……

「彼も昔はお客さんとして来てたよ」

「えっ!」

「……ああ、そっか。あのころと今じゃ、下水道の姿は変わっているんだ。そういうひとは結構いるかな」

「そ、それって、なおるの? どうして、そうなっちゃったの?」

「なおるかは分からないけど……大丈夫、多分君はならないから」

「そうじゃなくて、下水道さんがどうしてあんな姿になっちゃたか知りたいの!」

 と、マスターに問いながら主人公は下水道の言葉を思いだしていた。『俺の体は、礼拝のたびに広がっていく』……

「いや、決して、その……どうしてか、は難しい問題だけれども、うん……君が怖がることではないんだ。ま、ヒルの群れ、ってのは単純に見た目が怖いけどね……そう、そこだけ、怖いのは!」

 シンクを拭く手をとめ、ちょっとあわただしい身ぶり手ぶりを交えながらマスター話す。主人公はその動きや、バンダナの下で微妙に上下している狼の耳、鼻のわきから生える白く太いひげなんかを気にして見ていた。

「……いや性格も結構、子どもには怖く思われるかも……あれっ、怖いとこしかねえぞ。いや、彼は……」

「うん、それはいいわ。マスターさん、もうちょっと聞いていい?」

「ああ……」

「ウサギ礼拝って何?」

 少し、思い切って聞いたつもりだった。ギャラリストがあれほど忌まわしそうにしていたのだ。きっとマスターもいい反応は見せないだろう、と思っていた。

「あれっ、そっか。それもまだ知らないのかぁ!」

 けれども彼は存外、気さくな調子を取り戻し、続ける。

「ここの住民はみんなやってることなんだ。三日に一度、司会者が知らせてくれるんだけど、昨晩の君は……ぎりぎり聞こえなかったのかな。いや、確か君が目を覚ました後だったよね、礼拝のお知らせがあったのは。それでね。ウサギ礼拝は本当に簡単だ。時間になったらお月さまを見つめてお祈りする。たったそれだけだ」

「どんな風にお祈りするの? 神さまがいるの?」

「いいや、とってもシンプルだ。何にも難しいことはないよ。ただ、お月さまに、みんな幸せでいられますようにってお願いするだけだ」

「……なにそれ。本当にそれだけなの」

「うん。あの月が僕たちの心をきれいにしてくれるんだ」

「ギャラリストさんは私に、月は見ちゃいけないって言った。心をすすってしまうって」

「心をすするだなんて、そんな、ああ、言いようだね。確かにそう……かもしれない」

 ふとマスターの声色が、うなり声のように低くなる。だがそれも一瞬だった。

「頭の中にあるものを、どこまで自分の心と定めるか、だね。でもこれは、君にはまだ早い話だ。そしてそう、君は街から帰ることを目標にしているんだった。ごめん」

 なぜ謝られたのか主人公には分からない。

「……僕はさ」

 長い牙をちらつかせ、大きな舌を波うたせ、マスターは続ける。

「ここに来て良かったと思うよ。忘れてしまったことはたくさんあるけれど、それが僕にとっては最善だったんだ。……主人公ちゃん、君が誰を信じようが、誰を嫌おうが構わない。でもね。でもさあ。僕らから何かを奪うような考えだけは持たないで、……ごめん」

「ねえ、どうして謝るの」

「いやあ、自分で言っててさ、ムシが良すぎるなって思ったんだ」

「マスターさんは何にもしていないじゃない」

「そんな風に考えてくれるなんて、君はよくできた子だね」

「当たり前でしょ。……マスターさんはいいひとだって分かるし」

「そうかな。ありがとう」

 感謝される覚えなんかない。ひとのものを奪わないのは当たり前のことし、しかも面倒を見てくれているマスターに迷惑なんてかけたくない。やがて、一息ついて、マスターはつぶやく。

「……誰か来ないかな」

 ふたりが黙った店内は静かだった。時が経つのを待つためだけに、主人公は古い雑誌の滲んだ写真を見続けた。

 その甲斐あって、また店の扉が開いた。来たのはピトフーイだった。彼女がマスターと挨拶しているのを見て、主人公はレイコとの約束があったのを思い出した。ギャラリストの杖をつきながら椅子から下り、彼女のそばへ歩いた。

「ん、嬢ちゃんか。今はギャラリストといっしょじゃないのか」

「こんにちは。ピトフーイさん。レイコさんが探していたよ」

「おう、手紙だろ。もちろん回収してやるよ。入るぞ、マスター」

「ああ、どうぞ!」

 ふたりはカウンターの奥へ入り、カーテンをくぐり、間借りしている部屋のドアを開けた。その途端、部屋の隅にいたレイコがはつらつとした声をはり上げる。

「ピトフーイさんじゃありませんの! お待ちしていましたわ!」

 フレンチドア越しの、しかもばらばら死体のはずなのに、腹の底から出ているような声を響かせる。レイコとの会話に慣れるまでには時間が掛かりそうだなと主人公は思った。

「お、おう。どうしたレイコ」

 ピトフーイは苦笑いした。ターバンに覆われた彼女の喉元でさえ、大きな飴玉でも飲み込んだときのようにギクリと動くのが主人公には見えた……このルームメイトの挙動が馴染むのは時間の問題というワケじゃないのかもしれない。

「お手紙! お手紙を出させてくださいませ!」

「そっかそっか、手紙な、分かった分かってる」

「ありがとうございます! 手紙はここにありますわ!」

「はいはい」

 なだめるような調子でレイコに応答しながら、ピトフーイはフレンチドアを開け、その中から便箋を取った。

「しかしよく続いているな。手紙なんて。書くことないだろ」

「まあ、郵便屋さんなのにお手紙についてそんな風におっしゃるのですか? どんなに平凡な毎日だとしても、同じ時間は流れませんもの。日々の心の変化やちょっとした近況を伝えているのですよ。今回はかわいい服のお話ですわね」

「ほーん。何が面白いのか分からんが面白いんだろうな。じゃあ、確かに預かったぞ」

 ピトフーイは手紙を革の鞄に入れる。そしてさっさと部屋から出ようとする。……が、なぜかぴたりと立ち止まった。

「待てよオレ。何かするためここへ寄ったはずだ。なんだったっけ」

「あらあら、そういう時もありますわね! 忘れるということは、重要な用事ではなかったのでは?」

「いやレイコ、ちょっと黙ってくれ。思い出すから。えーとな……」

「黙りますわ! 黙りましたわ!」

「黙って黙れ!」

 それから狭い部屋の中を、ピトフーイはぐるぐると歩き出した。

「あの……」

「思い出したぞ嬢ちゃん!」

 主人公が話しかけたのとほぼ同時に、その何かしらを思い出したらしいピトフーイは、羽飾りを揺らして主人公へと近づく。

「あんたの頭をオレが取り返してきてやろう! ……って言いたかったんだ!」

 人差し指を立てる。艶のあるオレンジ色の爪がきらりと光る。つばの広い帽子の影の奥で、鋭い野鳥の瞳が笑う。

「復員兵の家はノースサイドの、ちょっと面倒な場所にあってな。歩いていくのはかったるい。それでな。あんただってこう、面倒って聞いたら、関わりたくないだろう?」

「……親切なことを考えてくれたのね。どうして?」

「オレは根気がないんでなあ。さっさと終わらせられるもんなら、ぐずぐずしてる理由なんてない。時間が経って状況がよくなることなんてないんだからな」

「そう、でも……ギャラリストさんに相談したいな」

 小さな声で主人公は言った。誰かに何か聞かれるたび、この返事ばかりしているなと気づく。

「そう? あいつが許してくれなくても、オレが勝手に行くかもしれないけどな! というのも個人的に、復員兵が嬢ちゃんの頭を盗んでどうなったかも見に行きたいんだ。むしろそのついでかもな。とにかく、言われなくてもオレはいずれ復員兵の所へ行くぞ」

「あらあらまあ! では郵便の配達はいつごろになりますの?」

「大丈夫だレイコ、いつもの時間には間に合わすって。嬢ちゃん、どうする? ……そっか、ついてこないのか。じゃあ……」

 ピトフーイは封筒を鞄に入れ、扉を開ける。

「待って。……少しだけ、待って」

 主人公はピトフーイを追いかけた。そして引きとめるようにその上着を握りしめた。

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