#9

「……こんばんは、おふたりとも」

 一番壁ぎわのカウンター席には、以前は挨拶さえ交わさなかった、防寒ジャンパーの男がまた座っていた。主人公は会釈する。

「おい、マスターはどこだ?」

「ちょっと届け物だってさ……すぐ戻るよ」

「そうか」

 ギャラリストは先ほどジェミリラが座っていたソファーへと腰かけた。主人公はその向かいに座る。取り返した脚はアジトに寄り、暗証番号付きの大きな金庫へとすでに保管した。ありふれたワンルームのホテルくらいには家具がそろっている、正方形の狭い部屋に備えつけられた大きな金庫だった。

「みんないないのね。ジェミリラさんも」

 主人公はソファーの背もたれに軽い体を預ける。店は、寂しすぎる街路よりはもちろん、ラッカー塗料の臭気が染みついたギャラリストのアジトよりも、ずっと落ちつく場所だと主人公には思えた。あのアジトは薄暗く、ほのかに寒い。まるで自殺者に遺されたまま引き取り手が現れないマンションのように、ひとを陰気な心持ちにさせる場所だった。……おもむろにジャンパーの男が話し始める。

「ジェミリラさんは、結構前に店を出たよ。行き先は知らないけど」

「そうなのか? まあ、データ塔に行けばすぐにでも会えるか」

「そう、それとさあ、ドロシーがいた部屋、きれいになったってさ」

「ならばこの子は安全なこの店で待っていてもらおう」

 ギャラリストは席を立つ。ジャンパーの男はテラコッタの無骨なつくりのカップを再び傾ける。

「ギャラリストさん、もう行くの?」

 主人公はあわてて尋ね、ソファーから降りる。

「ああ。でも君はここにいるのが安全だ。私だってじきに戻るさ」

 優しい雰囲気を出すべく努めたと分かるその言葉に、主人公は少し黙って、また座った。

「すぐ戻って来てね」

 主人公は扉を開ける彼の背中を見送る。杖がないままで歩くギャラリストの肩は、バネで床を踏むごとに、がくりがくりと上下する。

「私の言いつけを守るんだよ」

 そう言ってギャラリストは扉を閉める。主人公は寂しくなった。しかし、目標のためには、これが今は一番正しい行動なのだろう。

「主人公さん」

 防寒ジャンパーの男が主人公を呼ぶ。

「挨拶が遅れちゃったね。ぼくもここの常連なんだ。よろしく」

「うん、よろしく」

 主人公はソファーを降り、男が座る席まで歩みよった。しかし、暗がりの店で、男が履いている登山靴が、メーカーのロゴまで読めるくらいまで近づいた時……急に寒気がした。

「あらら……大丈夫? 主人公さん」

「……」

 寒気は止まらない。いや、これは明らかに『寒さ』そのものじゃないか……。この男の周囲にある空気だけ冷たいのだ。

「嫌な感じがするかい……。なら、すぐに僕から離れなよ」

「えっと……ごめんなさい!」

 男がそう言ったので、主人公は少し彼から離れる。すると寒さは明らかに消えた。主人公は気まずい思いでフードの奥にある男の顔を見上げる。

「……謝らなくていいよ、仕方ないもの」

 生気と水分のない、紫色にくすんだ肌だった。住民たちに共通する、瞳の赤さは残されていながらも、潤いをすっかり失った目玉は落ちくぼみ、しわ寄ったまぶたからほの暗くのぞいている。

「ぼくは……凍死体。……って、呼ばれているよ」

 まつ毛に霜のかけらが付着している。鼻先の皮膚は壊死して破れている。その顔に触れたらどんなに冷たいだろう。つららのように、凍土のように……。主人公はなぜだか、胸が締め付けられるような気分になった。思わず駆け出し、彼から一番遠いローテーブルの席へと座って身を縮こまらせた。

「……ごめんね」

「あ、あの……」

 主人公は今の気持ちをどう伝えようかと悩んだ。実は、彼が怖いわけではない。彼が死体であることは、ギャラリストがマネキンであることくらいには難しい問題ではないだろう。それに彼はきっと悪人ではない。おっとりとした喋り方には親しみだって感じられる。ただ、近づくと寒い。そして、その寒さだって、雪の朝に吹き込んでくる風くらいのものだ。驚きはするし、舞台衣装なんかで長時間触れてはいられないが、怖がるほどのものではない。しかし主人公を支配する心は、自分でも嫌になるほど過剰に警鐘を鳴らしている。

「うん。分かる。……君がぼくに近づいて来たとき、君はきっとそんな風になるって予感はしてた、……だから謝るんだ。ごめんね。本当に気が利かなくて……」

「……違うのよ、あなたが嫌とか、そんなのじゃないのに」

「それはちゃんと知っているよ」

 主人公を落ち着かせるつもりで適当に言ったのか、それとも彼が本当に何かを理解していたのかは分からない。凍死体は頬杖をつき、何もない壁の方を向く。細く長く吐いた息は、やはり非常に冷たいのだろうか。ホットカクテルの湯気が白く揺れていた。そして、少し無理して上機嫌を装ったような調子でまた話しかけてくる。

「そうだ、マスターが貸してくれた部屋、見て来なよ! ドロシーのママさんは完璧主義者だからね、すごくきれいに片付けてくれているはずだよ」

「あ、……うん。じゃあそうしようかな」

 主人公はソファーから降りた。カウンターの裏へと周り、カーテンをくぐる、その前に凍死体の方を見る。少し背筋を伸ばして主人公を見守っていた凍死体と目が合う。凍死体は、分厚い手袋に覆われた手をぎこちなく挙げて小さく振っていた。

 廊下に出た主人公は例の部屋を開ける。暗い。電灯の位置を思い出す。確かスタンドランプがあった。机とベッドの間にあったそれを手探りで点けるため、主人公は部屋の中へと入っていく。

 すると声が聞こえた。

「あらこんばんは」

「ひゃ!」

 女の声だ。主人公は驚き、あわてて廊下へと戻る。

「だ、だ、誰かが……ねえ、凍死体さーん!」

「私はここですわ」

 再び声が聞こえる。それと同時に部屋で明かりが点く。見ると、探そうとしていたスタンドランプのスイッチが勝手に入っていた。……そして、冷蔵庫のような、銀色の大きな直方体が、部屋の奥に置かれているのも知る。以前来た時にはなかったものだ。

「主人公さん……何かあった?」

 仕切りのカーテンをめくり、凍死体が様子をうかがってくる。

「えっと、その、誰かがいる! 女の人の声がする!」

「ああ、レイコさんだね。彼女もこの店に間借りしているんだ」

「そ、そう……なの?」

「うん。優しいひとだから怖がらなくてもいい……挨拶してみな? 開けるのは上だよ」

「……?」

 凍死体はカーテンを閉め、立ち去った。最後、よく分からない言葉があったな……と主人公は思ったが、何についての話だったのかはすぐ察することになる。

「うふふ、私が珍しいのですね。かわいい子」

 また人影のない部屋からそう聞こえた、その次の瞬間……銀色の直方体がこちらを向いた(?)。大きなボディをかたむけ、底面の角の一つを軸にして半回転したのだ。ずどん! と床が鳴る。

「れ、冷蔵庫……」

 それは間違いなく、フレンチドアタイプで大容量の家庭用冷蔵庫だった。

「そう。私は冷蔵庫のレイコと申します。かわいいルームメイトが来て嬉しいですわ!」

「えっ、うわ、わわっ!」

 冷蔵庫は全身(?)を左右に振りながら、どすんどすんと床を鳴らして主人公の方へと迫ってくる! 思わず飛びのき、部屋の外まで後ずさりしてしまう主人公。

「あら、少し人見知りなのでしょうか? ……いえ、私こそですね。少々フランクすぎると時たま言われますので。失礼いたしましたわ」

「いや、わ、わたし、人見知りとかは大丈夫です、その……」

「そうですか? どうも緊張がほぐれないように見えまして……」

「えーとえーと、確かにちょっと人見知りかもです、たぶん……」

 動く冷蔵庫だなんて……いや、しかしもう十分、おかしなひと達には会っているじゃないか、と主人公は思い、一呼吸おく。そして威圧感のある大型家電へとまた近づく。白い紙人形の姿がかすんで映る銀のボディには、ふたつの開閉できるドアがある。上部の大きなフレンチドアと、下部の引き出しだ。

「そうそう! 先ほど凍死体さんがおっしゃっていましたが……ええ、よろしければぜひ直接ご挨拶したいので、上のドアをあけてやってくださいな。下はご遠慮ください」

「……分かった」

 主人公はレイコに言われるままフレンチドアを開けた。涼しい空気が足元に流れ落ちてくるが、せいぜい冷蔵庫、寒いとまでは感じなかったのでその点では平気だった。

「……」

 主人公は、何というか、面食らった。

「ありがとう! 改めまして初めまして、レイコと申しますわ」

 冷蔵庫の中にあったのはロングヘアの美女、の生首だった。その奥に腕。脚。背骨のつながった胸部……さらに奥の肉塊についてはもう分からないが……多分、女ひとりの全身が解体されて、この冷蔵庫へと収納されている、それが彼女、レイコの姿なのだろう。

「あら、すてき! あなた、私を怖がらないなんて!」

 生首が赤い瞳を輝かせて微笑んだ。確かに今店にいるふたりは、どちらも凍った死体ではあるのに、蝋か象牙のように白い肌をした、変質の形跡がほとんどないレイコの死体に対しては、心をえぐられるような恐怖心を主人公は覚えていなかった。異様な姿への衝撃はもちろん受けていたが。

「それがね、わたしも今はバラバラだから」

「そういえばそうでしたわ。さっき脚は戻ってきたんですってね」

「そうそう。……バラバラになったひと、わたし以外にもいたのね」

「うふふ、悪くないですわよ?」

「そうね……もし最悪、バラバラのまま暮らさなきゃいけなくなったら、色々聞かせてね……」

 主人公はドアを閉じた。思い過ごしかもしれない程度だが、ほんの少しずつ、古い肉の、気分を悪くする臭いが広がってきたような気がしていた。

「あっ、髪が」

 しかし、ドアを閉めた時に、レイコの長い栗色の髪を挟んでしまっていたのに気づき、主人公はもう一度ドアを開けようとする。

「いえ、髪は私がわざと挟んで出していますの」

「……いいの? 痛くない?」

「ええ、これで良いんです。……ほら!」

 レイコの、ドアからはみ出している髪の束が、ミミズのようにのた打ち始める。

「うわ、わあ?」

「言ったでしょう、私は自分でこのドアを開けられないって。ですからこうしておかないと、さっきみたいに電球のスイッチも入れられませんわ。これがバラバラゆえの嗜みですのよ?」

「……わ、わたしもできるようになっちゃうのかな……」

「あなた、もうすでに紙の体を動かしていますでしょう。それができるなら自分の体の一部くらい、すぐ使えるようになりますわ!」

「そっかあ……」

 主人公はレイコのボディをてっぺんから足元まで何度か見渡してから、部屋のベッドへと腰を下ろした。レイコはまた体を傾け回転しようとするが、

「あら、マスター!」

 その前に扉が開く音が聞こえた。レイコはマスターが裏口から入ってきたことにすぐ気づいたようだ。

「主人公のお嬢さん、もうお部屋にいらしてよ!」

「ん? そうなのか! いらっしゃい、主人公ちゃん!」

 そして人狼マスターは、こちらの部屋まで入ってきた。手にはやや大きめの紙袋を持っている。

「マスターさん、お邪魔してます。あ、脚は返してもらえました!」

「そうか、よかったな! 早く全部返ってきたらいいのにな。ああ、この部屋は気が済むまで使っていいからね! 表が閉まっていても勝手口から入れるから」

 マスターは紙袋を部屋の机の上に置いた。しっぽが揺れている。喜ぶ犬のようだった。しかし、急に酔いが醒める思いでもしたかのように、ぴたりとマスターはその動きを止める。

「……そういや今、どうしてここに君がいるか分かるかい?」

 もし紙の顔に表情があったなら、主人公はきっと引きつった顔になっていただろう。マスターがどんな意図でそんな質問をしてきたのか分からなかった。

「あ、別に、深い意味のある質問じゃないんだ! 君はここにいるのがいいってさ……ギャラリストがよく納得したなって思ったんだ。……いやあ、うまく言えないな」

 様子が変わった主人公を見て、マスターはおどけた声でとりつくろう言葉を選ぶ。するとまた冷蔵庫の重たいボディが動き始めた。

「ええ、マスター。分かりますわ。お任せくださいな」

 レイコはずんずんと部屋の壁ぎわへと寄って行きながら言う。

「ギャラリストは私たちを嫌っておりますものね」

「え……」

 主人公は怪訝な声をあげる。

「いえ、我々だけではありませんわ。あの方は自分が一番賢いと思っておりますの。私たちは軽蔑されている」

「ははは! ひどいなあレイコ!」

 食い気味に、あざといほどの大声でマスターは笑った。

「……ははは、はは……今のことは……気にしなくていいからね。ギャラリストは客席かい?」

「ううん、ジェミリラさんに会いに行った」

「あ、そうなの。じゃ、……僕は店の方にいるけど気軽に呼んでね。店内にいてもいいし。それとさっきの紙袋に、ドロシーへ用意した絵本が入ってるから、もしあの子が遊びに来たら、それでしばらく相手してやってくれないかな?」

「分かった。ありがと」

 マスターは心なしか早口になりながら、主人公の返事にうなずきドアを閉める。

 レイコは部屋の角にボディをぴったりと合わせ、さも普通の電化製品のように佇んでいる。冷蔵庫によくある機械の唸り声などは発しない。まず電源もない。ドアを開けた時に感じた冷気は、レイコ自身から生じているのかもしれない、凍死体もそうだったように。

 しわのないシーツの上で、主人公は両足を浮かせて座っている。ダークチョコレート色をした床板の上でさまようブーツ。この靴は脱げるのだろうか。ベッドに入るなら靴は脱がないといけない。泥水のしみが靴底のへりに付いている。

「ねえ、ちょっといいかしら」

 レイコが話しかけてくる。もしかするとギャラリストの悪口かも、と少し嫌な予感がする。それは、できれば自分は聞かない方が望ましい話ではないか、と主人公は思っていた。

「私の隣に戸棚がありますわね」

 レイコの髪の束が持ち上がり、壁にかけられた合板の戸棚を指す。

「そこをちょっと開けてくださらない?」

「あ、……うん、いいよ」

 戸棚は主人公が腕を伸ばしても少し届かないほどの高さにあった。机とともに並べられていた小さな椅子を主人公は持ってきて、その上に乗り戸棚の中を見る。中にはからっぽの瓶、お香かタバコの紙箱、それから輝くように白い便箋と封筒が入っていた。

「封筒があるでしょう。それを私の中に持ってきてくれません?」

 言われたとおり一枚の封筒を取り、フレンチドアをまた開ける。

「どうぞ」

「ありがとうございます。適当に置いてくださいな」

 先ほど開けた時は気にならなかったが、彼女の中ではほんのりと涼しい光が常に灯っているようだった。光源は分からない。暗闇で形を見せる幽霊さながらに、レイコ自身の肌が青白くその姿を浮かび上がらせているようにも見える。主人公は、断面に霜がこびりついた、レイコの太ももの近くに封筒を置く。

「レイコさん、お手紙を書いているの?」

「ええ、礼拝の翌日ごとに文通していますの! ……ドア、閉めてくださいます?」

 主人公はレイコにそう言われるまで、手紙のありかを見つけようとしていた。でも冷蔵庫の中には女の体しか入っていない。古い血の黒をした断面の色が、粗悪な肉の缶詰を思い出させるばかりだ。とりあえず、言われた通りに彼女を閉める。するとその際、ドアの内側の収納ポケットに、便箋とインク、万年筆が、きっちり並べられていたのにようやく気づいた。

「レイコさんって、その中で字が書けるの? 結構色々できるの?」

「いえ、大したことはできませんわ」

 銀のボディの内部から、小さな物音が鳴り始める。澄んだ今の音はおそらく、万年筆の先でガラスのふちを叩いたときのそれだった。

「……普段は何してるの?」

「普段って……それはもちろん、皆さんが思っている冷蔵庫と同じようにしていますわ」

 万年筆で紙をなぞる音が、とぎれとぎれに聞こえだす。それとともに、フレンチドアから垂れる栗色の髪が、くるくるとよじれだす。しばらくすると逆によじられて、元に戻る。またよじれる。戻る。それは手紙を書きながらも次の言葉が思いつかない少女の、手持ちぶさたな左手に弄ばれている髪の毛の動きそのものだった。

 主人公はベッドへまた座る。ブーツを見つめる。それをゆっくり脱ごうとしてみる。しかし少し引っ張ったところでためらいが生まれる。もろい紙の体だ。少しのほころびができれば、そこから全身がほどけ、台無しになってしまうかもしれない。この脛とブーツはどこでどういった形に折りこまれているのだろう。だいたい、いつものブーツはリボンをゆるめて脱いでいたが、この銀色のリボンは糊でブーツに接着されているではないか……

 すぐに諦めて、そのままベッドに寝ころんだ。眠ってみようとも思ったが、目のない顔はまぶたをふさげない。……枕をたぐりよせ、抱きしめる。爽やかな香料の混ぜられた洗剤の臭いがする。顔をうずめる。羽毛が柔らかい。目に見える景色が遮られると、少しは眠っているような気分になる。

 主人公はしばらくベッドでそうしていた。時間が流れる。とてもゆっくりとしていながら、あっという間に過ぎ去ってしまうような……この街に流れる時間は、今まで知っていた『時』と何かが違う。

 そのうちに、店の方からマスターが女と話している声が聞こえてくる。主人公はベッドから降り、部屋のドアを開ける。

「あら、どうされまして? お店の方にご用ですか?」

 レイコに呼び止められたので、うなずく。別に誰か来たからといって、見に行く理由があるわけではないが。

「それなら見てきていただきたいのですが……。ピトフーイさんがいらっしゃってるか知りたいです」

「ピトフーイさんなら道で会ったけど……うん、いたら教えるね」

「ありがたいですわ!」

 レイコは言った。彼女の声には舞台女優、あるいはアニメーション映画の声優のような抑揚がある。身振り手振りも表情もない姿で過ごすうちに身についたものなのだろうか。

 ひとまず、主人公は店内へと出向いた。湯気とアルコールの香りのせいか、店内は部屋よりも暖かい気がする。凍死体もいるのだが、彼の冷気は近づかない限り感じられない、雰囲気のような何かなのかもしれない。問題はなかった。

「……主人公ちゃん、また会ったわね!」

 声をかけられる。見ると、ジェミリラがソファーに座っていた。喋っていたのは彼女だった。ローテーブルにはさっきも飲んでいたものと同じ色をしたバイオレットのカクテルと、活字の打たれた十何枚かの書類、そしてゴルフのピンに似た金具が無数に刺さった、半球状の古い機械が置かれている。主人公は彼女の向かいに座る。

「ジェミリラさん、わたしもまた会えてうれしい。……あの、わたしの脚、戻ってきたよ」

 そう伝えると、灰色の唇は笑った。ふと、主人公は彼女の痩せた胸に違和感を覚えた。いや、以前の記憶が思い違いだったのろうか。

「分かったわ、お疲れさま。じゃあさっそく次の計画を立てましょ」

「うん。でもギャラリストさんがいないよ」

「そうねえ。どこにいるの?」

「あ、……ジェミリラさんを探しに行ったのよ!」

「あら? ……ふーん。けれどそれは……重要な事項じゃないわ。探しているのはあなたの体だもの。あなたがいれば話はできる」

「だけど、今わたしのことを色々決めてくれるのはギャラリストさんよ。わたし、ギャラリストさんがいないと外にも出られないのに」

「それは誰かが決めたことじゃないでしょう?」

 話すふたりに凍死体が席から声をかけてくる。

「……あ、ごめんねジェミリラさん。てっきり、ギャラリストとの用事はもう済んだのかと思ってた。教えてあげればよかったね……」

「あら、ありがと。気にしないで。……ねえ、主人公ちゃん」

 凍死体の方に笑いかけてから、すっと口角を下ろし、ジェミリラは主人公に顔を近づける。スミレの香りがわずかにかかってくる。アルコールのにおいはしなかった。

「私、いろんなことを覚えているの。見たものも、聞いたものも」

「……どういうこと?」

「難しい話じゃないわ。……つまり、何かを忘れてしまったときは、私を頼ってもいいのよ。完全なるレコードにしてビッグシスター、またの銘をヤペタスのロータリプレスマシン……このジェミリラジオカポートのことはギャラリストもまあまあ信用しているんだから」

「……ジェミリラさんって頭がいいのね。探偵なの?」

「そうね、探偵でもあったわ。なろうと思ってなったワケじゃないけれど。私は真実が好きよ」

 主人公はよく理解しないまま相づちした。そのまま視線を下げて、飲みかけのカクテルの青紫色をしばらく見ていた。ランプの暖色に照らされて、グラスは複雑な彩りの影を卓上に伸ばしていた。

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