【Town&ghost】
Track3.introduction ——凍死体の余生
【加筆年月日XX 凍死体の余生】
某日の遭難事故で、たったひとりの生き残り。
長時間雪にさらされた男は、神経と精神に異常をきたした。
ストレスが少しでもかかると、あの恐ろしい寒さを神経が思いだし、再現してしまうようになったのだ。
その不安から、やがて男はどんな環境でも凍える廃人となった。
男はしきりに語る。仲間とともに白銀へ埋もれて死んだ方が楽だったと。
☾
「いつもドロシーがご迷惑をおかけしています」
「いいや、気にしてないよ」
扉を開けた店の前で、灰色と黒の混ざった巻き毛の、中年と呼ぶにはまだ若い、しかしとても落ち着きを感じさせる女……ドロシーのママが人狼マスターに頭を下げた。柔らかな水色のロングスカートが揺れる。すその所どころには水飴がこびりついている。
「ドロシーちゃんは今どうしているんだい?」
「ドロシーは遊び疲れたみたいで、すっかり眠っています」
「あはは、そうか。ママさんも大変だな」
「ええ、大変なものなのです。でも例えば、この店の皆さんは理解してくれている。今日のような出来事があっても、あなたは私に一言も不安を与えず、笑って許してくれた。こういった近隣の助けは、ドロシーに、そして母である私にとって非常にありがたいものなのです。それはもう、理想的に……」
背筋を伸ばし、両脚をそろえ、微笑んだ表情を保ちながらドロシーのママは語る。マスターの裂けた口はまだ何か言いたげには見えない。ただ、どこか浮かないような様子で黙していた。
「そういえば、新しい子はドロシーよりも少しだけ年上みたいですが……うふふ、いいお姉さんになってくれたら嬉しいです。街の皆さんにお世話になってドロシーは生き生きと毎日を過ごしていますがそれは大人しかいない環境においての可能な限りの理想でしかなくそこで育まれる情緒には限りがある。子ども同士がコミュニケーションをはかり社会性を身につけ人格を形成する、それはドロシーくらいの年の子どもを教育するには欠かせないプロセスですので、ええ、あの女の子はきっと……ドロシーにとって大切な人物となるに違いないでしょう」
……ドロシーのママが長々と喋っているさなかだが、マスターは一度店の方を向く。客は今、ひとりだけだ。店内にはアルコール、フルーツ、ブイヨン、トマトソース、それから香草と牛肉が順調に焼けつつある香りがただよっている。ドロシーのママはマスターがそっぽを向いている間も、同じ調子でずっと喋り続けていた。
「――マスターさん」
「や、やあ! どうしたんだい」
そして、どれほどかのセリフを聞き流したあとに……呼びかけられたマスターは取りつくろったような陽気な返事をした。
「それでは、私はこれで失礼いたします。いつもドロシーの遊び場を提供してくださってありがとうございます。子どもは家庭だけに任せられるものではなく実際の社会によっても育てられるものであり身の回りのすべての大人たちが教師となりまた友人となる環境に置かれるべきだということを、あなたは分かっていらっしゃる。大変ありがたいことです。また、よろしくお願いいたします」
ドロシーのママはかちりと言葉を止め、背を向け、街路樹の立ち並ぶ路地を歩いて行く。
「ああ、いつでも歓迎するよ。僕は子どもが好きだからね」
マスターはそう言う。おそらく聞こえていたはずだが、足を止めることも振り向くこともなく、ドロシーのママは去っていく。……マスターは店内へ戻り、扉を閉めた。バンダナの下にある獣の耳が、今になって穏やかではなさそうに上下し始めた。
バーカウンターの奥へと戻る。キッチンの奥のオーブンが開くと、食欲をそそる辛口なハーブと上質な脂の匂いが店に広がる。
「おいしそうな香りだね。それが予約の料理かい?」
「ああ、ガムボールハウスからだよ」
尋ねる凍死体が傾けた、無骨な陶器のカップには、クローブのホットカクテルが満たされている。厚い手袋をつけた両手で、暖をとるかのようにカップを包み込んで口をつける。
「マスター、今日はとっても忙しそうだなあ」
「そう……だね!」
「それでも親切にできるなんて凄いよ。さっきのドロシーのこともだし、あの新入りの子のことも」
「凄いだなんて……結構、苦にならないもんだよ。ドロシーは確かにちょっと面倒な相手だけど、ほら、こうやって話のネタにできる」
てきぱきとミートローフ、トマト、焼き目のついた香ばしそうなセサミベーグルを切り分けていくマスターの手元を、凍死体はホットカクテルをすすりながら見ていた。
「偉いなあ。なんて、ぼくに言われても嬉しくないだろうけど。でもこの店、どんどん人が居ついてくね?」
「ははは、いや、嬉しいよ。だいたい、全部好きでやってるから。あの主人公ちゃんなら凄くいい子そうだし、ドロシーだっていつも来るわけじゃないし。レイコは看板娘だろ? 特に君にとっては」
「んーと……そうだね。どこにも行かないあの娘は、僕にとってはいい相手だ。……ガムボールハウスからの注文はまだあるのかい?」
「いいや、これでもう終わりだ。あとしばらくしたら、少しだけ店を抜けていいかな。レイコにも言っておくけどね」
「うん、分かった。そうだ、ガムボールハウスといえば……」
マスターはミートローフにパプリカのソースを塗る。サンドイッチが次々と出来上がっていく。料理する手は休ませずに、マスターは凍死体のおっとりとした口調にちゃんと合わせて相槌をしている。
「マスターがドロシーにあげたがっていた絵本、あったって」
「お! いい情報をありがとう! じゃあサンドイッチのついでに見てこようかな」
そう言いながら、マスターはカウンターの端に置いていたバスケットケースを開ける。内側にはまっさらなハーフリネンのキッチンクロスが敷かれてあり、その上には先に作られていたロブスターロールが並べられていた。そこへさらにミートローフのサンドイッチが詰められていく。バスケットの蓋が閉まる。
「じゃ、すぐ戻るよ!」
マスターはバスケットを片手に、仕切りのカーテンの奥へと歩いて行く。ドアの開閉する音が、一度、二度、と店内に聞こえた。
凍死体はフードに包まれた頭を少し上げて廊下の方を見た。が、またすぐ猫背になって、ちびちびとホットカクテルをすすりだす。
ローリエと、肉のこそげ落ちた牛テールの軟骨だけが残っているスープ皿の上へとクローブの殻を吐き出し、ため息をひとつ吐いた。冷たい息がホットカクテルの湯気と交わる。乳白色とワイン色の溶けあったカクテルが、店内のわずかな照明の光、そしてチョコレートに混ぜ込まれたフランボワーズのような暗い目を映している。
……
店の扉が再び開く。そこにいたのはギャラリスト、そして主人公の女の子だった。
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