#8
だんだんと、シーシャパイプの輪郭が、金具が、水が、ベルトをつかむ主人公の手袋が、目視できるようになっていく。マンホールから射し込む月の光が、届くところまで戻ってきたからだ。気がつくと、そこは先ほどギャラリストと引き離された場所だった。油の浮いたドブ川や、くすんだコンクリートの足場を主人公は見渡す。
「貴様!」
「!」
突然声が聞こえた。ギャラリストの声だ。彼は暗がりから現れた。司会者をはり倒した。蝶ネクタイを引っつかむ。突然顎を殴りぬかれた司会者は、特に抵抗もせずギャラリストに捕まっている。
「この子を連れ去ったな……許さない」
「も、もう帰ってきてるじゃん?」
「連れ去ってからどうした!」
司会者は露骨に舌打ちしてからギャラリストの手を引き剥がす。
「ちゃんと応えろ、どうした、そして!」
「どうもしてないし脚も返した! そもそも僕たちはこの子をさらったっていうか、あんたをはじき出したんだ!」
「脚を返しただと?」
「……僕はもう帰る」
「待て!」
下流の方へ走っていこうとした司会者、それを捕まえようと伸ばしたギャラリストの腕に、主人公は背伸びして触れる。
「ギャラリストさん! あの、わたしは……大丈夫。大丈夫だから」
「けれども君は……」
ギャラリストは何もない顔で主人公を見おろす。そのあいだに司会者は、抱えていた脚の包みを無造作にその場へ置いてから、逃げるように上流の方へと消えて行ってしまった。ガラスの足音も闇に溶けたかのように、すっと、すぐに聞こえなくなる。
伸ばした腕を下ろし、ギャラリストは中腰になって主人公と顔を合わせる。そういえば、杖がない。失くしてしまったのだろうか。
「君は、自分がどんなに酷いことをされているか分からないのか? とにかく、司会者の言うことを聞くな。今できることはそれだけだ。……君を置いてきてしまったことは迂闊だった。これからは必ず君を守る。だから司会者なんて無視してくれ」
「そうね……気をつけるよ」
「……あそこに落ちているのが、返してもらった君の脚か?」
ギャラリストは司会者が残していった包みの中を確認する。
「ちゃんと返ってきて本当に良かったじゃないか! さあ、こんな所からは出よう。そしてジェミリラに会いたい。彼女なら、きっと今ごろ他の体のありかを見つけてくれているだろう」
それから早々と包みを拾い上げ、月の光が射し込むマンホールの方へと歩いていった。主人公もすぐに彼を追いかける。
まっ白なギャラリストのモーニングと、追いついた主人公のフリルの衣装が、円く切り取られた空の下で弱々しい月明かりを浴びる。
「ここは、君が先に上っていくんだ。もし私が脚を滑らせたら大変だろう。君がくしゃくしゃになる」
首をきしませ、マンホールを見上げながらギャラリストが言う。
「わかった。ありがとう」
主人公は足掛け金具に手をかける。頭上の夜空に、ひとひらの枯れ葉か何かが風に舞っている影が見えた。上っていく。地上の乾いた空気の層が少しずつ近づいてくる。
途中で主人公は一度、下を向いた。表情のないギャラリストがただ立っていた。もし主人公が落ちてしまっても、彼は多分受け止めてくれるだろう……。
やがて、新鮮な空気が頬に当たる。ひらけた地上へと顔を出した主人公の目の前に、一枚、ひらりと落ちてきたものがあった。オレンジ色の羽だった。マンホールからはい出て、立ち上がる。
「嬢ちゃん!」
ふいに、特徴的なウィスパーボイスが呼びかけてきた。だが辺りに人影はない。
「なーにやってんだ? もしかして下水道のとこ行ってたのか?」
とまどう主人公のすぐそばへ、オレンジ色の大きな鳥が、空から滑るように飛んできて着地した! 黒い風切り羽から押し出される空気に、主人公はよろけ、顔を覆う。
そうしてもう一度怪鳥の方を見ると、その姿は見覚えのある赤い魔女、ピトフーイへとすり替わっていた。
「あなたは……?」
「おう、オレはこれから野暮用だ。……嬢ちゃん、ひとりか?」
ピトフーイは色あせた革の鞄を肩にかけなおす。
「ううん、ギャラリストさんもいっしょ。すぐ上ってくると思う」
「そうか。どうだった? そこから出てきたってことは、下水道に会いに行ったんだろ?」
紅の羽飾りを見あげ、主人公が返事しようとした途端、あの声がまた街を震わせる。
『下水道のもとへで主人公は、脚を返してもらいました! そしてギャラリストと共に、再び地上へ帰ってくるのでしたぁあぁ――』
「いまいましい!」
そして、司会者の声が終わったと同時に、マンホールから黒い木の腕が突き上がってくる。がっちりとアスファルトをつかみ、錆びた関節をきしませながら、ギャラリストは重い体でよじ登ってきた。
「よう、ギャラリスト。それが脚か?」
「ピトフーイか。ああ、この子が脚を取り戻してきたんだ」
ギャラリストは脚の入った包みを、外したベルトで体に巻きつけ背負っていた。
「そっか。あんたもよくやるね。ま、適当にがんばれよ」
逆なでと言えば過ぎるくらいだが、猫の毛並みをくしゃくしゃと遊ばせるような心にいたずらっぽく触れる声を出しながら、ピトフーイは赤い帽子の下からギャラリストを覗き込んでいた。主人公は再びギャラリストの手を繋ぐ。
「じゃあ次は復員兵のとこか? ならオレが案内してやろうか」
「いや、まずは私のもとで脚を厳重に保管する。そしてジェミリラに相談する」
「相談? そんなのいるか?」
「私は必要だと思う。ところで、そうだ。ジェミリラはまだ店か?」
「帰ったぞ。データ塔に戻るって。じゃ、気をつけてな」
ピトフーイは主人公の髪飾りの端を、てかてか光る橙の爪で軽くなでた。
「ばいばい、ピトフーイさん」
ひとまず主人公は別れの挨拶をした。ピトフーイは背を向けてから、主人公に軽く手を振り、歩きだした。……去っていく、ピトフーイの歩調は徐々に速くなっていく。街灯の明かりを浴びながら、羽飾りや長い上着のすそ、口に巻いたターバンの端がたなびく。
駆け足になる。暗がりの先へと赤い影が遠ざかっていく。
「あ……」
主人公は小さな声を出した。一陣、風が流れる直前だった。
ピトフーイは地面を蹴った。すると彼女の上着が広がる。風をはらむ帆のようだった。彼女の体が宙に浮く。異国の官吏のものに似た意匠だったかもしれない上着は、先ほどまでの形からは考えられないほど大きく広がり、いっぺんに裏返る。その内側から現われ出でたのは、黒い風切り羽に縁取られたオレンジ色の翼だった。
もう魔女の姿はない。はるか上空で一羽の怪鳥が飛び、街並みと闇の狭間に消えていこうとしているだけだった。
ギャラリストは主人公の手を引いた。吹き抜ける乾いた風に乗り、また空から降ってきた一枚の羽毛を目で追っていた主人公は、ついマンホールの蓋につまづいてしまう。
「ぼんやりしていたら危ないぞ」
うなずきながらも主人公は空の方をまた見た。自分の意思で飛んでいける翼……それさえあれば、世界のどこへ置いていかれても、きっと帰るべき場所へたどりつけるのに、と思いながらだった。
開いたままのマンホールを後にして、さっきは司会者といっしょに歩いた街並みを、ギャラリストとともに主人公は引き返し始める。杖をなくしたギャラリストの右足は、伸縮する音をあげながらアスファルトを踏みしめていく。支えを失った体を一歩ごとに大きく揺らし、傾かせながらも帰路を急ぐ彼の手を、主人公は黙って握りしめていた。
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