#7

 紙の体は軽く、どこまでも続く梯子だって下りて行けそうだった。

 川の音は近づき、臭いも湿気も濃くなっていく。主人公は自分が辿りつこうとしている底を見渡す。わずかに射しこんでいた月光は、もう思ったよりも近いところにあった汚水の川の、粘りけのありそうな水面を照らしている。……自分の真下をもっとよく見る。足場はあるようだった。主人公は慎重に、また下りて行く。

 すぐに厚紙の靴が足場へ着いた。汚水の川沿いに長々と続く、コンクリートの通路の上だった。ここを歩いて行けば、いずれはギャラリストと会えるのだろうか。主人公は壁に手をつたわせて、彼の足音が響いてくる方へ歩いてみる。

 悪臭は覚悟していたよりもひどいものではなかった。あるいは慣れただけかもしれない。ギャラリストの足音は確かに聞こえ続けている。そしてそれは着実に、こちらへ近づいてきているようだった。

 背後の、少し遠い上流の方で、大きな水音がした。石が川に落ちたような音だった。主人公は後ろを向く。誰もいない。マンホールから消え入りそうな月光が射しこんでいるのが見えただけだ。

 また、苔だかカビがかの点々と生えたコンクリートを静かに踏みしめて歩きはじめる。ざらついた不衛生な足場の感触が、厚紙の靴底をへだてて伝わってくる。ギャラリストとの距離がどれほどかは全く分からない。主人公は思いきって呼んでみることにした。

「ギャラリストさん!」

 よく響いているはずなのに、届いているのか心細くなる。

「君は……ここにいるのか!」

 けれどもあまり長くない間をおいて、ギャラリストが返事してくれている声が聞こえた。しかも遠くはないようだ。主人公は今すぐ走り出したい気持ちを押さえながら、それに答える。

「すぐ、そっちに……」

 しかし、主人公の声はかき消される。

 虹色の油膜を浮かべた水面が揺れる。波が立つ。壁の下水管がうなり、不潔な音をたてヘドロの泡を飛び散らせる。かき混ぜられたよどみの臭いが炸裂していく。

「やあやあ、どうぞ待ってほしいなぁ」

 肩を叩かれる。背後にいたのは司会者だった。強ばった主人公の手をつかみ、引きよせる。

「やめろ、何をしでかす気だ!」

 いまだ姿が見えないままの、ギャラリストの叫びが聞こえてくる。

「何も? ただ下水道が会いにきただけ。ギャラリスト、あんたにじゃなくてね」

「――そう。関係があるのはお前ではない。そうだ」

 しゃがれた声がした。いっそう高い汚泥の波が立ち、黒ずんだ飛沫が降り注いでくる。司会者は、これもまたいつの間にか手にしていた大きな黒い傘を広げ、その陰に主人公を素早く引き入れた。主人公は何も分からず、司会者のなすがままにされるだけだ。……波が落ちついてもなお、地鳴りのような音は絶えない。司会者は傘を閉じる。主人公の視界が開ける。そこで見えたものに目を疑う。

 司会者の背後にはヒルの壁があった。ひしめき、折り重なるヒルたちで編みあげられた壁だ。その中にはさっき見たマンホールの蓋よりも大きな、赤い怪物の目玉が、ふたつ並んでうずもれていた。

 壁をつくるヒルたちは、川底からどんどんはい上がって来ている。それらは主人公の知っている、ありきたりな虫の大きさのものばかりではない。猫の前脚くらいのものや、ロングブーツくらいのもの、そしてまるまると太った豚の胴体みたいな、考えられない巨体に膨れ上がったもの、そのすべてがうねり、波うち、集合してきている。……主人公とギャラリストを遮断するように、壁は形作られた。

「さあ、ここから少しだけ歩こうか」

 司会者は言う。マンホールから射していた唯一の明かり、月光が、ゆっくり何かに遮られていく。

「だめだ! お前たちなんかに、その子を……」 

 ヒルの壁の向こうがわから、ギャラリストの声と足音がしたが、それらはすぐにかき消され、聞こえなくなってしまう。

 マンホールが完全にふさがれる。地下は一切の光がない闇になる。そんな中で、司会者は主人公の手を引いて歩き始める。ほんの数歩、いやとても長い距離か……主人公には分からなかったが、軽い体はころころと、彼の歩みに引きずられてしまうだけだった。

「暗闇というものは、不安だろう。しかし、俺は望んでここにいる」

 ミイラからしぼり出したような声が、街で聞いたときよりもはっきりと聞こえたのと同時に、司会者はやっと足を止める。すると、暗闇にようやく光が灯りだす。それは花の形をした、ガラスのオイルランプの火であった。そのゆっくりと広がる光が、司会者のシーシャパイプや眼帯、下水道の巨大な瞳や粘膜を照らしあげていく。司会者は主人公の手を放してから、そばにあったコンクリートのブロックへと腰を下ろした。

「大丈夫かい? いやあ、あんまり君には嫌な思いをさせたくなかったんだけどねえ」

 主人公はギャラリストがいた方向を見る。だが、やはり大小さまざまのヒルからなる壁が、通路に栓をつくって見通しを阻んでいた。

「ギャラリストのことは心配しなくていいよ? 君のことを心配はしていそうだけど」

「そんな! ギャラリストさんのところへ返して……」

 主人公は司会者へとすがるように飛びついた。そうしながら、前後をヒルの壁にはばまれたこの空間が、さっきまでの地下とは少し様子の違う場所であることに気づく。でもそんなことはいい、ギャラリストが心配だった。主人公はコンクリートのブロックの上で脚を組む司会者の膝をゆする。だが非力な紙の手ではシーシャパイプの水に波を立てることくらいしかできない。

「大丈夫だって。僕らがあいつに何かしたりはできない。悪いことがあるとするなら、せいぜい足を踏み外してドブに落ちるくらいだ」

「でも……」

「司会者の言う通り。お前にだって何もしない。時間もとらせない」

 そう言われても、ギャラリストにとっては明らかに良くない存在であろう司会者と、自分の脚を盗んだ下水道の言葉を真に受けるわけにはいかない。

「下水道は君と会いたかったんだ。そうでしょ? 下水道」

 司会者は、地下の空間をふさぐヒルの群れを見あげる。

「ああ。それから、お前は自分の本当の脚を、今はその手元に置いておきたいのだ、ということも分かっている。本当に悪かった」

 主人公は司会者の視線をたどり、眼帯のメッキにも映っていた、下水道の巨大な赤い眼球を見る。

「じゃあ……どうしてわたしの脚を盗んだの?」

 壁を造るひときわ大きな一匹が、その眼球の上部で体を縮こまらせる。まるで眩しい光に目を細めているような表情が作られる。

「お前が流れ着いてきた時に、思った。お前は幼い。だから身軽で、心も自由だ。……俺はこの街に住んで長い。しかし何か、思い出したいものがある気がした。だから、俺はお前の脚が欲しくなった」

「……何が言いたいの? 私の脚を盗むとあなたはどうなるの?」

「俺にも、お前くらいの……大きさのころがあった。その小さな脚は、人の住む場所ならどこへだって行ける。自由だ」

「わたしは自由なんかじゃない」

「……悪いな。ではお前は、俺よりは自由だということにする」

 下水道はひとつひとつのセリフを、わざわざ的を外して言ってきている感じがして、主人公は歯がゆい気持ちになっていく。司会者はというと、下水道が言いたいことを多分に知っているのだろう、口を挟もうとはせず……下水道の眼球の、深い瞳孔の底を静かにのぞき続けているのだった。

「司会者。……こいつはもう知っているか、礼拝について」

「存在は。でも意味はまだ知らないねえ」

「そうか。ならいい」

 巨大な赤い眼球がまたこちらを向く。膨大な群れの体を流動させながら生きるなんて、主人公にはとても想像のつかない感覚だ。

「思い出したかったのは、甘い煙に溶けださなかった、幼い記憶。俺の体は、礼拝のたびに広がっていく。だがいつか、ここを出なければならない時が来るだろう。その時のために……」

 なんとなく、下水道の話は聞いていたくなかった。意味が分からなくて嫌な感じがするだけではなく、理解してはいけない話であるような気もしていた。そういえば、と主人公はそっと見わたす。ここは、下水道の部屋のようなスペースなのだろうか。格子柄の描かれた小さな机の上にある、オイルランプに浮かびあがる空間には、キャビネットや樽なんかも見当たっていた。ジュークボックスらしき装置もある。こんな環境で湿気やカビにやられないのだろうか。

 下水道の目玉は相変わらず、小さな白い体を瞳の奥へと吸い込もうとするように、主人公をありありと映し出している。

「聞け」

 主人公はびくりと身構える。

「俺は、お前に脚を返すことはできる」 

「じゃあ……お願い、返して」

「だがひとつ……約束してほしいことがある。こんな小さな子ども相手に、取引のような真似はしたくないが……」

「なに?」

「……俺はお前の脚のおかげで、ほんの少しだけ、ヒトの歩き方を思い出した……かもしれない。だがそれもすぐ、このどでかい体の中で薄まって、俺は忘れ去ってしまう。……もしもだ。お前が街の一部になったとしよう。その時にはまた、その脚を貸してほしい」

「街の一部って……? わたしは街から出たいの! ……だから、あなたに脚は貸せない」

「分かっている。出ていくのなら、脚は必要だろう。この約束は、それが叶わなかった場合の話だ」

「そう、わかった、もし、本当に、もしものお話よ。わたしがここに住むって決めたら、たまに貸してあげる。だから今は返して!」

「ああ。……お前の望みが叶うことを、俺もここで願おう」

 壁のヒルが下水道の目玉を多い、瞳を隠した。まるでまぶたを閉じた、黙とうの真似事のようだった。そして少しの静けさが過ぎたあと、固い小さな物音が主人公の足元から聞こえた。下を見ると、万年筆ほどの大きさのヒルが、紙のブーツのすぐ側をはっているのに遭遇した。ヒルは体の先に金色の鍵を巻きつけていた。

「あっちにジュークボックスがあるだろう。鍵はその横にある棚を開けるためのものだ」

 鍵をたずさえたそのヒルは、威嚇する蛇のかたちに体を持ち上げる。濡れたメッキがオイルランプのやわらかい火を映す。主人公は手をそろそろと伸ばした。銀の手袋の中へと鍵が受け渡されたのを見届けると、ヒルは机の影へと消えていく。

「お前には、悪いことをした」

 主人公は顔を上げる。か細いメッキの輝きを見つめる。キーリングの穴越しに、下水道の瞳が光っているのも見る。ジュークボックスと、いかめしい紫檀の飾り棚の方を向く。

「好きにしたらいいよ、下水道は一切嘘を……君には言っていない」

 なんだか分からないが司会者は冷めた様子だった。主人公は彼の前を通りすぎ、つたの緻密な彫り物が施された飾り棚の方へと歩く。

 握りしめた鍵を、ひっかき傷だらけのメッキを纏う、小さな鍵穴へと挿し入れ、回す。分厚い紫檀の奥から、解錠の音が聞こえる。ゆっくり棚の戸が開く。

「お前としては、ここにはもう来たくないだろう」

 藤色の絹で包まれた何かがそこにあった。薄いその布を広げると、見慣れた形に結ばれた、リボンの銀色が表れる。いつものブーツ。そこからは細く浅黒い太ももが伸びている。暗く冷たい棚の中で、並べて横たえられたその脚は間違いなく主人公のものだった。

「しかし、お前にももし、秘密の闇を欲するときが来たならば……俺は歓迎しよう」

 主人公は自分の脚に触れた。紙の体とは全く違う、熱い血の流れている感触が伝わってくる。主人公は絹の包みごと脚を引き寄せ、抱きかかえた。とても暖かくて、ずっしりと重い脚だった。

「……ギャラリストなら、まだしつこく地下をさまよっている。すぐに出会えるだろう。脚が重いならば、司会者に持たせればいい」

 どうしてこんなことになったのだろう、なぜ自分で自分の脚を持ちあげているのだろう……主人公はふわりと立ちのぼった目眩の中で、考えをよぎらせる。でもそんなことはすぐに忘れた。そうだ、今は一刻も早くギャラリストのもとへ行きたい。ようやく下水道に返事をする。

「ううん、大丈夫……わたしが持っていく」

「生身の脚は、思ったよりも重いだろう。そしてお前は今、軽い」

「大丈夫」

 主人公は脚を布でくるみ、棚から持ち出す。確かに重い。両手に抱えて歩きだすと、すぐに紙の体はバランスを崩しそうになる。しかし、もう違う誰かに自分の脚を触れさせたくはなかった。

「ねえ下水道」

 汚水の水面のどこかを眺めていたような司会者は、心持ち静かに話し始める。

「街では自分の気持ちに嘘をつく必要なんてないし、そんな事態は僕が許さない。……この地下は街でもなかでも相当安全な場所だ。何かあったって君が出ていく必要なんてない。ここで収束を待っていればいいのに」

「全くその通りだ。しかしお前の声は、この場所でも聞こえる」

 ……ふたりの会話など聞いていない主人公は、脚が入った包みを持ち上げようと、しばらく苦心を続けていた。しかしそれらは重い。どう持っても、主人公は背中から倒れてしまいそうになる。司会者は気づいてこちらを向く。

「やっぱり重いでしょ? 僕が持ってあげるよ?」

 主人公が何とか言う前に、司会者は立ち上がり、落ちた包みを勝手に拾ってしまう。

「あ、重いねこれ。やっぱり子どもでも、生身の脚ってのは」

「あ……」

「それじゃあ行こうか。そうそう、今からまた、暗い中を帰るからさ。僕の服でもベルトでも、つかんでてくれない? あ、ボトルはやめてね。引っぱったらすぐ抜けるから」

「なんで? なんであなたについて行かなきゃいけないの」

「だって君、帰り方分からないじゃない。すぐにここは真っ暗になるよ。……ごめんね。そうするしかないんだ」

「……」

 主人公は、一番大きなオーロラ色のシーシャパイプを留めている、司会者のベルトをぎこちなく握った。納得したわけではなかった。自分の体を持たせた相手から目を離すのが嫌なだけだった。司会者は下流の方へと歩いて行く。

「……また、あとで」

 下水道のこもった声がした。暗くなっていく。オイルランプの火が小さくなっているようだった。明かりが消え、何もかもが見えなくなるその直前、主人公は少しだけ下水道の目玉を振り返ってみた。赤い瞳が、そっと闇に沈んでいく。

 そうして、地下はまた真っ暗になった。だがガラスの足音は歩調を変えず、迷いなくどこかへと歩き続けた。

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