#6

 動転した心を落ちつけられず、分厚い服を着た何者かの胸へ、主人公はしばらく体を預け続けていた。その人物も優しく主人公の肩をなでてくれた。ギャラリストでは絶対にありえない、あたたかく柔らかなヒトの手であった。

 そういえば、肩をなでる動きにともない、薄いガラスのかち合う音が聞こえていることに気づく。主人公はそっと顔をあげる。

「怖かった? あいつは分かってないなぁ、紙のレディの扱いを」

 ぎらりと光る眼帯のメッキが見つめてくる。吸血鬼の牙を思わせる妖しい片八重歯が、つくり笑顔の端にのぞいている。

「司会者さんだ……」

 何かを予感するより先に、主人公がまず思い出したのはギャラリストの忠告だった。司会者の言葉に耳を貸してはいけない、と……

「大丈夫。君がギャラリストに言われたことは知ってる。けど僕を恐れる必要はないよ?」

 視線を伏せ、主人公はとりあえず司会者の腕をほどこうとする。

「危ないよ、また飛ばされちゃう」

「そうだけど……ごめんなさい。あなたの言うこと、聞けないの。ごめんなさい」

「おかしいなぁ。なんで謝るの? 僕は君に、言うことを聞いて欲しいなんて思っていない。君は街で自由にしていたらいい、ずっと」

「いや、街から出たいの!」

 大声でそう言ってから、はっとして主人公は司会者の顔を見上げた。さっきと何も変わらない笑顔があった。

「本当にそうしたいなら止めないよ。まぁ、またいつでも呼んでね」

「呼んだ? あなたを? わたしが?」

「言ったじゃなぁい、たすけて、って。僕はいつでも見ているよ。君が怖い思いをしないように――」

 主人公は司会者の声が徐々に大きくなっているのに気づく。乾いた街の空気に響きわたっていくような震える声。そして……司会者は大きく息継ぎをする。

 目の前の主人公に言い聞かせるわけでもなく、まるでここが舞台で観衆がいるかのように、彼は高らかに告げていく。

「下水道を追いかけて、路地裏へと消えたギャラリスト! ひとり残された女の子、しかしその体はクチュールの紙人形! 危うく海辺からの風に吹き飛ばされてしまうところでしたあぁあぁあ――」 ぐわんと、めまいみたいに、音はまとまりなく轟く。司会者が声をあげている、ただそれだけのはずなのに、街のどこもかしこもが彼の喉と共鳴し、発声しているようにさえ思わされた。

「……ねえ、君」

 そうして一度ゆっくり瞬きしてから、司会者はわりと静かにそう切り出した。そこに先ほどまでの異常な響きはない。普通の肉声だ。

「僕は今から友達の様子を見に行くとこなんだ。君はどうする? ここでお別れする?」

 司会者は背中を丸め、主人公のうつむく顔をのぞき込む。また、ゆるい風が路地を通り抜ける。司会者は白くて肉厚な両てのひらで、主人公の手を丁寧に包む。

「ま、一緒に行こうか」

 紙の体を舞い上げてしまうほどの強風は、今はない。それでもいつ吹きすさぶかと思うと、とてもひとりで街を歩く勇気は出せない。けれども、このまま司会者について行っていいのだろうか。ギャラリストの重い木の腕と、白いモーニングの背中が思い浮かばれる。それからあの、司会者にだけ放っていた荒々しい口調。

 ……迷う女の子の左手を引いて、司会者は歩き始める。繋がれて引きずられる子犬のように、ただ彼の歩みに合わせて足を動かすことしか主人公にはできない。彼が歩いていく方角は、ジェミリラたちがいた店とは真逆だった。

「怖くないよぉ。僕と街が守ってあげるから。この街はとても素敵だよ。新入りの君はどんなところから来たの?」

 主人公の足下を注意しながら歩く司会者、その所作は高貴な淑女をエスコートするのにも足りる丁寧さに見えた。逆らいようがない女の子を連れ回すのにもちょうどいい、隙のない導きでもあった。

「僕はずっと遠い小さな町の、裕福であたたかい家庭から来たんだ。優しいお母様に愛されて、幸せだったよ」

 一方的なおしゃべりを続けながら、司会者は主人公がまだ見たことのない通りへとさしかかって行く。

「僕はこの街で、特別に幸せな存在なんだ。だからみんなが不幸から守るためなら何でもできる。それがお母様の望みでもあるからね。君は……どんな子だった?」

 ……何も自分には話しかけていない、全部司会者の独り言だ……と主人公は心の中で繰り返す。耳をすまして、ギャラリストの足音をひたすら探す。

「どんな子だったって、自分では思っていたの?」

 司会者はさらに姿勢を低くして、瞳のない、主人公の顔をのぞき込む。切りそろえられた前髪が、光る眼帯にかかっている。青みが深い、牡蠣の貝殻の裏面のような、奇抜なグラデーションに染めあげられた髪だ。主人公は萎縮して路面だけを見ている。そんなことを聞いてどうするつもり、と尋ね返せば彼は何と言うだろうか……あるいはきっぱり拒絶したならば……彼はそれでも作り笑顔のまま、主人公に話しかけ続けるのだろうか。

「……本当にずっと、ギャラリストの言いつけを気にしてるんだね。そんなに怖がらなくていいのに。僕は君の邪魔なんてできないんだ。……もうすぐ着くよ。ここが正面玄関だ」

 主人公は慎重に視線を上げる。広い道が交差する、アスファルトの十字路までふたりは歩いてきていた。交差点に立つ、しなだれた花のような形の街灯が、司会者のシーシャパイプや、スパンコールや、エナメルレザーの衣装を照らしあげている。そして、司会者が立ち止まった場所は、……十字路のど真ん中だった。

「ところで君、もちろんギャラリストと合流したいよねぇ?」

 主人公は周りを見る。正面玄関、と言われても、どこのことだか分からない。

「だったら僕についておいで。あいつはこの先にまだいるよ」

 司会者は主人公の手を離した。そしてその場へ膝をつき、地べたに両手を伸ばす。そこに何があるかと言えば、マンホールの蓋しかないのだが。……大きな、緑っぽく錆びた、君の悪いメデューサの横顔をえがいた模様をつけられた円盤があるだけ……。

「ガムボールハウスの裏から入っていくのをさっき見たんだ」

 いつの間にか司会者の手には長いバールがあった。それをマンホールの蓋に引っかけ、体重をかける。錆びのこすれる音を鳴らし、鉄の円盤が持ち上がる。十字路の真ん中に穴が開く。

「そしたらさあ、もう分かってると思うけど。僕は、ここを下りて行くよ。ギャラリストもそこにいる。……あいつは下水道を追いかけていったでしょ? 君のために」

「……」

 主人公はこわごわマンホールに近づく。深い穴から複雑な排水の臭いが上がってくる。あの下水道と同じ臭いだ。底は見えない。

「じゃあね。あ、ふたは閉めないでね。無理だろうけど」

 司会者はとても動きにくそうな格好をしているにも関わらず、慣れた様子ですいすいとマンホールへ入っていく。彼が足かけ金具を降りるごとに、ガラスの和音が地下から響く。クリスマスソングの鈴にも劣らないきれいな音が、腐臭によどんだ筒状の闇へと吸い込まれ、その清らかさを失いながら地底へ降り積もっているような、何とも言えないイメージが主人公の頭をよぎっていく。そのうちに、むかむかするほど目立つ銀のエナメルレザーの帽子も、一段、また一段と暗がりのもとへ沈んでいき、すっかり見えなくなってしまう。

 ほどなく、司会者は穴の底へと下り着いたようだった。どこかへ歩いて行ってしまう。ガラスの足音が消えていく。主人公は、今や不安も恐怖も抱える余地さえなく、立膝をつき、路面に座っていた。……いまだに視線を感じる。誰もいないのに。……蛇の髪に黒ずんだガムを挟んだメデューサが、空を見上げているだけなのに……

 少し強い風が吹く。主人公はマンホールに手を伸ばし、一番手近の足かけ金具を握りしめ、吹き去るのを待つ。この穴の奥にギャラリストがいる、と司会者は言っていた。

 もうマンホールからは何も聞こえないわけではない。壁に石ころをぶつけたような音や、目の粗い土嚢を引きずるような音が微妙に、不規則に聞こえることがある。主人公は路面に寝転がり、マンホールの奥へ身を乗り出してみる。

 腐臭、それと浮ついたケミカルな臭いが、うっそうと湿った空気に包み込まれ、地下から静かに滲み出てきている。町中の色々なものが溶け込んだ湿気を顔に当てながら、主人公は耳をすます。すると、浅い川が流れる音とともに、かすかだがギャラリストが鳴らす鉄骨のきしむ音が、本当に聞こえてきたのだった。

 主人公は足かけ金具をつたい、マンホールの奥へと入っていく。どこにいても仕方ないし、じっとしているともう気が休まらない。無心で下水道のもとへと下りて行った。

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