#5

 寂しさが駆けあがってくるかのように、下り坂の先から風が吹きつけてくる。店から遠ざっていくほどに、まばらになる生活のともしびが主人公の不安をかき立てる。

 静かになるのがたまらなくて、主人公は話し始める。

「ねえ、ジェミリラさんってどんなひとなの」

「だいたい分かるだろう、あんな女だ」

「何をしてるひとなの」

「記録だ」

「何を?」

「何でもだ」

 知らない人ばかりの街だからこそ、せめてギャラリストとはもっと仲良くなりたかった。でも今は話せば話すほど、彼の機嫌を悪くしてしまっているような気がした。

「あのさ、じゃあ……」

「店の連中のことなら、後からマスターにでも聞いたらいいだろ」

「……そうね、そうする。そしたら、その……ギャラリストさんが探してる絵ってどんな絵なの? ジェミリラさんと話してたよね」

「絵か? どうしてそんなことを聞くんだ?」

「だってだって、わたしの体、探してもらってるんだもん。わたしもギャラリストさんの探し物、手伝いたいな」

 でこぼこした、粗雑なコンクリートの路面を踏む足音が心なしか遅くなる。主人公は続きの言葉を待つ。月が二人を見つめている。その赤い光は体のないふたりの存在なんて、軽くかき消してしまえそうなほどの存在感を持っている。

「じゃあ……少し怖い話をしてもいいかい」

「もちろん」

 あまり考えずに主人公は答える。

「共鳴するもの、見つめるものを……殺してしまう絵があるんだ」

 暗がりの道で、ギャラリストの真面目な声が言う。主人公は素直に思ったことを伝える。

「すごい!」

「……ああ。凄い絵だ。それを見て心をとらわれたなら、……君にはどう伝えたらいいか困るが、死にたくなる。死に誘われていくんだ。それでも探してくれると言うのなら、構図だけでも教えるよ」

「なんで死にたくなるの?」

「まあ聞きなさい。その絵は、女の子……そう、君くらいの年の子が描かれている。髪はプラチナブロンドだがね。それから黄色いドレスを着ているよ。その子が幻想的な街を背景に、きのこの椅子へ座っている。私が担当した画家の遺作だ」

「ふうん。それはこの街にあるのね?」

「ああ。でも、期待はしないよ」

 ふたりはもうすぐ、もと来たギャラリストのアジトへ着くくらいの場所まで来ていた。次の角を曲がった先だ。しかしギャラリストはその手前で立ち止まった。

「どうしたの」

「静かに」

 真剣にささやいたギャラリストの言う通り、主人公も黙る。向かい風が紙くずを吹き飛ばしながら街をつらぬく。主人公は飛ばされないようギャラリストの後ろで身をひそめる。風が止まる。

 すると、聞こえ始めた。ヒキガエルを思わせる暗い声で、どことなく異国のフォルクローレに似た歌を、誰かが口ずさんでいるのが。

 ……闇の底の蛆のように、生ぬるい調べは乾いた街路をはいずる。この角の先に声の主がいる。しかし、主人公にはギャラリストが、それを警戒している理由が分からなかった。だいたい、誰ともすれ違わない、寂しすぎる街の方が不気味ではないか? 歌声そのものは陰気だが不可解じゃない。

 だが、その姿が建物の陰から現れたとき、主人公は理由を知った。叫びたい気持ちを抑えてギャラリストの腕を握る。

 ぼろぼろの雨傘をさして、どぶねずみ色のレインコートを着た、主人公と同じくらい小さな体の人物がいる。その足元で輝く銀色のリボンは、主人公にとって甚だ見慣れたものだった。

「下水道だ」

 ギャラリストはとても小さな声で主人公に言った。聞こえてくる、しゃがれた、体格からは想像もつかないほど低い歌声がやむ。

 嫌な空気が迫ってくる。生ごみと濁った水たまりに似た臭いは、この人物を呼ぶ名前と同じ『下水道』の悪臭に違いなかった。顔を覆うレインコートのフードの中では赤い目がふたつ、街灯を映して光っていた。

「おい、下水道、その姿は……脚は……」

 ギャラリストは毅然を装った、しかし明らかにうろたえた様子で切り出した。下水道は悪びれもしない感じでこちらへまっすぐ歩いてくる。主人公はギャラリストと手をつないだまま一歩下がる。臭いは濃くなる。嫌な予感をはっきり覚えながらも、近づいてきた下水道のフードをのぞき込もうとしてみる。やはり顔は分からない。何やらうごめく、てらてらとした物体の光沢が見えた気もした。

 下水道は足を止めなかった。そのままふたりとすれ違い、立ち去って行くつもりのようだった。フードの奥で、赤い目が細くなる。

「悪かった。だが、この街に居れば、いずれどうにでもなる……」

 おそらく主人公に対して、下水道はセリフを放つ。しかし、その先の言葉はなかった。彼がふたりの横を通り過ぎようとしたその時だった。ギャラリストは主人公の手を振りほどき、バネの右足で踏み切って、悪臭を放つ盗人のレインコートを引っつかんだ。街に響いた、マネキンの複雑な骨組みが一斉にきしむ音は、音色を出しそこねたコントラバスの噪音のようだった。

「返せ!」

 傘が落ちる。レインコートのフードがめくれる。

 あらわになった正体に、主人公は悲鳴をあげる。

 皮膚を埋め尽くすほどのヒルにたかられた顔、のように見えた。いや、そんなものでさえない。主人公にもすぐ分かった。

 彼はヒルだ。無数のヒルが絡み合い、人間の形を作っている集合体こそ下水道なのだ。むき出しの赤い眼球は『顔』をつくる群れの中に埋まっている。粘液をまとい、眼球を囲む数匹が伸縮すると、ぎょろぎょろと動く目玉に笑ったような表情が与えられる……

「やだ……なに、なんなの、これ!」

 フードの中にこもっていた臭いが広がる。主人公は下水道という存在も、その怪物に自分の脚が取りつけられている事実も恐ろしくて、震えながら立ち止まることしかできなかった。

 ギャラリストは下水道を捕まえる。家畜の仔を抑えこむように胴体を抱える。

「この子に、脚を返すんだ!」

 下水道は抵抗する素振りを見せなかった。しかし、ギャラリストは彼の体を捕らえ続けることができなかった。木の腕ががっちりと、下水道をつかんだと思った矢先、その小柄な体が溶けるように崩れ始めたのだ。レインコートの内側で、ヒルたちがいっせいにほぐれ、人間の形を作るのをやめていたのだ。

「……ああ!」

 ギャラリストが気づいたときには遅かった。ヒトの形をしていた影が、砂のように崩れて広がる。レインコートのすそからヒルたちが何匹も何匹もあふれていく。ヒルの激流は外れた主人公の脚を巻き込んで、うねりながら地面をはいつくばっていく。

「待て! その脚を持っていくな!」

 ギャラリストは、のたうつヒルの塊に両手を突っこんだ。けれども脚には触れられず、ヒルの群れ、下水道は、想像もつかない速さで路地裏の方へとはいずって行く。赤い彼の眼球も、主人公の脚も、群れの中へと呑み込んだまま、逃げていってしまう。

 そして下水道を追いかけて、ギャラリストも路地裏へ走っていく。

「……あ、待って、ねえ!」

 やっと絞りだした主人公の声は弱々しく、下水道にはもちろん、金属音をあげて遠ざかるギャラリストにも届かない。

 ……

 主人公はギャラリストの後を追うべきか迷った。主人公はこの街の地理も、下水道のことも知らない。はぐれることを考えれば、ここで待つ方が良い気もする。たったひとつ確かなのは、こうして決めかねている間にも時は過ぎていく、ということだけだった。

 下水道の残していった、傘とレインコートが路面に落ちている。幻覚のウサギが現れ、傘を飛び越し、消える。とうとうギャラリストの足音は聞こえなくなった。

 ここには誰もいない。

「どうしよう……」

 答える声はない。ひとりになった主人公は街を見渡す。叫んでも、何が起こっても、見知らぬ子どもを助けに誰か来てくれる気が全くしない。……すぐに、主人公はこの場所にいたくない一心でもって思いつく。さっきの店に戻ろう、と。そうすれば少なくとも、ひとりぼっちではなくなる。

 先ほど降りてきた坂道を見上げる。あの店に戻りさえすれば、知り合いになれたジェミリラたちがいる。一刻も早く、まともな気配のない街並みから逃げだすべく、主人公は駆けだした。

 しかし、また風が吹く。おんぼろの傘が転がり、汚いレインコートがずるずると地をはっていく。主人公はあわてて近くにあった街灯を握ろうとした。が、その手はあと少しのところで届かない。コウモリ傘が舞い上がる。

「きゃっ!」

 主人公の足が浮き上がる。軽く、中身のない体が倒され、空気の流動に負けて飛ばされる。

「たすけて……!」

 誰もいない街で、声は冷たいコンクリートのひび割れへと消えていく。意に反して体が浮く、それがこんなにも絶望的だなんて主人公は知らない。

 街がさかさになり、空がぐるりと回転する。声が出ない。今、自分はもがいているのか、固まっているのかさえ把握できない主人公を、風はまさらに巻き上げようとする。

 ――けれどもその時、誰かが主人公の手首をつかんだ。

 そして風がわずかに止まった隙をつき、紙の胴体をたぐりよせ、主人公をしっかりと受けとめてくれた。

 わけも分からないまま主人公は何者かの胸に抱きしめられる。助かった。そう気がつく。主人公は泣いてしまいそうだった。風に浮かされて見た街は怖かった。

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