#4

 廊下には質素な白木の扉が、右手側に二つ、左側に一つある。ギャラリストは右の奥にある部屋の前へと主人公を連れていく。石レンガの壁に杖を立てかけ、ドアを開ける。

「あっ!」

 しかし、部屋を覗いたギャラリストは何かに気づいた。

「どうしたの」

 主人公は聞く。そして、すでに明るい部屋の中を覗き込む。

 部屋にいたのは主人公よりも幼い女の子だった。女の子はケチャップやソースらしき汚れがそこかしこについた、水色のワンピースで小さな手を拭いている。床には透明な水たまりが広がっていた。妙につやのあるその水は、強い粘りけがあるように見える。

「あ、おじさん!」

「ドロシー、いたのか! マスターは知っているのか?」

「わかんなーい」

 謎の子どもは笑いながら、灰色と黒の混ざった巻き毛を揺らし、首を大きく横に振った。ギャラリストが部屋に入る。床や机、ベッドの上にまで、べたべたした物体は広がっている。

「……おい、ひどいことになってるな! 何をやったんだ!」

 部屋の真ん中では四角いブリキの缶が横倒しになっている。その口からは透明な液体がゆっくり流れ出ていた。コットンキャンディに似た甘いにおいもする。

「やだやだ、違うもん……」

「違わない! どういうことだ!」

「やだー!」

 手にもワンピースにもべたべたを付けた子どもは、その小さな体ですばしっこく、ギャラリストと主人公の間をすり抜けて駆ける。丸くて赤い目が、主人公の方を一瞬見あげて……あっという間に走って行く。カーテンを向こうに消える。マスターの大声が聞こえる。ギャラリストは部屋の奥へ入ろうとしたが、足を止める。

「うわっ、だめだ。君は外に出てくれ」

「一体どうしたの」

「これは水飴だ。何をしようとしたのか知らないが、部屋中にぶちまけられている。片付けないと」

「水飴だったの。……ぐちゃぐちゃね。わたしも片付けるよ、わたしが泊まるとこでしょ」

「いや、君はいい。その体に飴がついたら面倒だろう。まず、マスターに伝えておいてくれないか」

「そう? 分かった」

 倒れている大きなブリキ缶をギャラリストは起こした。まだまだ中身はたっぷり入っているらしく、重そうだった。彼が力を込めると右足のバネがぐっと縮む音がした。

 主人公が廊下に出ると、ピトフーイがこちらに歩いて来ていた。

「おー、どうした? あの子が何かしでかしたか?」

 全身を彩る、大小様々な羽飾りの影が、灰色の壁へ伸びていた。

「あのね、女の子がいてね。その子が部屋を汚しちゃったそうなの」

「そんな大したことか?」

「これはひどいぞ」

 部屋の方からギャラリストが言った。

「床は徹底的に拭かないといけない。ベッドはどうしようか……」

「うわ、大変だな。そこ、この子を今日泊めるつもりだったんだろ、どうするよ」

 ピトフーイのウィスパーボイスに合わせ、真鍮のかしめ玉で吊り下げられた羽飾りが、ゆったりとした帽子のつばの端で揺れている。何もできずに立っている主人公は、窓ぎわから飛行機の軌跡を追う猫みたいな気持ちで、紅いその羽をただただ眺めている。

「とりあえずマスターに言ってくるな。ま、すぐママさんが来るだろうけど。行こうぜ、嬢ちゃん」

 ピトフーイは主人公を見おろして言った。鷹にも似た、異国の雰囲気をそなえた鋭敏な印象の瞳はなんだか気になる。主人公はピトフーイの後に続いて歩いた。店内に戻る。キッチンの暖かい蒸気が毛羽立った肌に触れる。ピトフーイは、ぎょっとするような真珠色のロブスターを下ごしらえしていたマスターへ雑な報告をする。

「どうだ?」

「飴! あの徳用」

「あれ? やばいか」

「ベッドまでやられた」

「最悪じゃないか!」

「どうする? どうせドロシーのママさんが片付けるだろうけど」

「どうすっかなー。すぐに来るとも限らないんだよな」

 マスターは手を休めず、流し台で殻を上手に砕いている。ピトフーイは席に戻る。主人公もその隣にひとまず座る。カウンター席は少し脚が高く、靴が床につきそうにない。

「主人公ちゃん! あのお部屋どうしちゃったの? 使えないの?」

 ローテーブルでジェミリラが声を上げたので、主人公は答える。

「そうみたい! ……今日はギャラリストさんとこ帰るかも!」

 するマスターがロブスターの爪を割ろうとする包丁をふと止め、顔を上げた。

「おいピトー。お前が送ってやれよ」

「オレかよ!」

 口もとに巻いた薄いターバンをずらし、ピンクグレープフルーツの薄切りが沈んだカクテルに唇をつけようとしていたピトフーイは、細い八重歯を見せて苦笑いした。

「主人公ちゃん、安心してくれ。ピトフーイはこう見えて強いんだ。適当に用心棒にでもしてやりな。それが本業だったんだし」

「なんだそれ! ていうかギャラリストがまた持って帰るだろ?」

 バンダナに覆われた人狼マスターの耳はふくみ笑いをしているように震えていた。カーテンの向こうからギャラリストが出てくる。

「そうだ、帰るのならば、私が責任を持って送っていく」

「って、ギャラリストも言ってるじゃねえか。それに人形の扱いはオレには分からん」

 ピトフーイがグラスを傾け、カクテルを一気に飲み干すと、甘酸っぱくも強烈なアルコールの香りが主人公にもかかる。つやのあるオレンジ色のマニキュアを塗った、器用そうな細い指がピンクグレープフルーツの皮をつまみ上げる。皮から果肉をはがす小さな音がして、赤黒い唇の奥にピンクの粒々が飲まれていく、それを見て主人公は、とてもおいしそう……お酒はいらないけど、きれいなフルーツを自分も食べたい……なんて思っていた。

 そうしているうちに、ギャラリストが関節をきしませながら、早々に扉の前へ移動しているのに気づく。主人公は椅子から降りる。

「ギャラリストさん、もう行くの」

 主人公は小走りに寄っていく。

「仕方ない。ひとまず戻ろう」

「あのお部屋はどうしよう」

「そのうち、ドロシーのママ……っていう女が掃除するさ、別に君は気にしないでほしい」

「大変ね。色々あるんだもん、気にしちゃいけないことが」

「ああ、そうだな」

 ギャラリストは適当に頷いていた。わざと聞き流しているそぶりを見せたいのかもしれなかった。主人公はちょっと気まずくなって、マスターたちの方を見る。

「あ。もう行くのかい?」

 ロブスターの殻のかけらを流し台に捨てながら言ったマスターの声を聞き、ピトフーイも椅子をくるりと回しこちらを向く。

「帰るのか。嬢ちゃん、またな!」

「うん。またね。ありがと」

 主人公は会釈した。ギャラリストが店の扉を押し開けた。彼の体が動く音と、青錆のこびりついた蝶つがいが開く音は似ていた。

 風吹く外の乾いた空気が流れ込む。主人公のフリルがはためく。店の奥からは存在感を放つレンズの瞳が主人公をはっきりと見つめてきている。耳に残る、ほどよく低い女の声が響く。

「じゃあね、主人公ちゃん」

「ジェミリラさんも、本当にありがとう」

「忘れないでね、あたしの言ったこと」

「も、もちろん。……またね」

 もっと明るく返事するつもりだった。どことなく挑発的なジェミリラの微笑み方に、少し心ざわめくものを感じながら……主人公はまたギャラリストにその手を引かれる。葉のない街路樹の長い影が、いびつな魔物の形のように伸びる街路を戻って行く。

「ギャラリストさん」

「なんだ」

 主人公はすぐに心細くなって話し始めた。

「ね、わたし、早く体を取り戻したいな。それで、おなかいっぱい好きなものを食べるの。わたしフルーツが大好き」

「そうか。そういう気分にもなるか。……早く体を取り返そう」

 コンクリートをこするバネの右足が、マネキンの重い体を支えながら、寒々しい下り坂を踏みしめている。

 その少しだけ危なっかしい足元を目で追っていた主人公に、突然ふわりとした幻のような何かが見える。白く、ぼんやりとした姿のそれは、街明かりがつくる錯覚ではないか、とさえ思われた。

「どうしたんだ?」

 路面を跳ねる、小さな幻に気を取られた主人公へギャラリストは話しかける。幻は道端にあった立て札の陰へと跳んでいく。

「変なものが見えたの! ……なんだか、白くてふわふわした、ウサギ……みたいなものがあったわ」

「ウサギ、ウサギを見たのか。それは……」

 ギャラリストはぶつぶつと声に出して考え始める。

「君には何と説明すればいいのだろう。象徴、仕掛け、いや……」

「……ウサギ、消えちゃったね」

「そうか。まあ、あれは実際的じゃない幻だ。……君にとっては何の意味のないものだ」

 消えたウサギはもう現れなかった。主人公は交差点を見る。そこでもいつの間にか、小さく白い光のウサギが一匹、軽やかに跳ねまわっていた。それもまた、ふたりが近づくと姿を消した。

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