#3
「ねえ、ギャラリストってなにするの」
「だいたいは、絵を売る仕事のひとかな」
「じゃあギャラリストさんって呼べばいい? お名前も知りたいわ」
「おじさんでいいよ」
「それじゃだめ。おじさんに見えないもの。マネキンだし」
「じゃあマネキンでいいよ」
「それも……だめ」
どこから話しているかも分からない司会者の告げる、『ウサギ礼拝のお知らせ』から少し時間を置き、マネキンのギャラリストは古びた彼の部屋を出た。主人公の子は彼と同行する。重たい木の手を握り、トタンの扉が並ぶ廊下を抜け、街へくり出す。
等間隔に立つ街灯が、ひび割れたコンクリートの道を照らしている。いくつかの建物の窓には明かりがついている。夜の街だ。だがそれは、せいぜい主人公の子が知っている夜、つまり仕事帰りの人たちでにぎわう街並みとは違う、活気を欠いた寒々しい景色だった。
「ねえ、今って何時ごろなの?」
「夜だ」
「それは分かるよ……もうみんな寝てる、遅い時間かしら?」
「いや、この街には夜しかない。いつも暗いんだ」
風が、あまり背の高くない建物が並ぶ通りに吹く。あちこちでわびしげな音が鳴る。からっぽの紙の頭に音は響く。ひび割れたオカリナのような音だった。
紙の体は風を受けると歩きにくい。足元が浮き上がってしまいそうだった。どこへ連れていかれるのかも分からないまま、主人公はひたすらギャラリストの左手をつかんで暗い街を歩く。ギャラリストの杖の先が叩く、灰色の路面を辿っていく。
「……ギャラリストさん。さっきのウサギ礼拝ってなんなの」
「言っただろう。気にしちゃいけないよ」
「そう言われても……何なのか、教えてくれないと落ち着かないの」
「……そうだな。ひとつ注意しないといけないことがあったね」
上り坂へと差しかかる。しばらくすると、葉のない街路樹が立ち並ぶ広い道へと出た。通りの道ばたには電光の看板が出ていたり、自家用車や自転車が停まっていたりしている。ようやく街らしい、人の営みが感じられる場所へ出て、主人公はちょっとだけ安心した。この街はいつも暗い、とギャラリストは言っていたが、誰もが眠る本当の真夜中なんて子どもは知らない。さっきまでの静かすぎる街並みは怖かった。幼い主人公には、まるで世界中の人が死んだあとの廃墟のように見えていたのだった。
少し考え、言葉をまとめていたギャラリストが、主人公にゆっくりと聞かせ始める。
「できれば次の礼拝までに、君には帰っていて欲しいのだが。……よく覚えておいてほしい。さっきみたいに司会者が、ウサギ礼拝の時間を知らせる声を聞いたら、しばらく月を見てはいけない」
「月? なんで」
「だめなんだ。あの月は、私たちの心をすすってしまう。こうしている間でさえ少しずつね。そうするとやがて、君は街の住民になってしまう。もう帰ることはできなくなる」
そう話しながらギャラリストは、一軒の店の前で立ち止まった。無骨な、枕木のような扉に看板が吊られている。ペンキで走り書きされたその言葉は異国の文字だ。店先の、緑のセロハンを被せられた裸電球が、ふたりの頭上で灯っている。
「司会者の目の色を見ただろう」
「赤かった」
主人公は、ギャラリストが開ける扉の奥を見る。薄暗い。
「この街の住民は、みんな赤い目をしているんだ」
屋内へと入ったふたりに、店中の視線がいっぺんに向けられた。……それは狼の目であったり、野鳥の目であったり、また、信号のような機械の一つ目であったり……そのすべてが赤かった。みんな赤い目をしていた。
奥にある、ローテーブルの席から声があがる。
「主人公ちゃん! やっと来てくれたのね!」
立ち上がったのは痩せた女だった。彼女は機械の一つ目だ。丸いガラスに守られた、赤い眼光は信号にも見えるが、最も近いものを挙げるとするなら、一眼レフのカメラのレンズ、かもしれない。
「あたしのこと、知ってる? 知らない? じゃあ教えてあげる! あたしがあなたの体、工面してあげたの! どう、覚えている体とそっくりでしょ? あたしの記録と機敏さの賜物よ!」
ローテーブルに置かれたカンテラ型の電光ランプが、身振り手振りも楽しげに話す女の姿を浮かび上がらせる。女は政治家の令嬢が仕立ててもらうような、スリムなツイードの黒いスーツを着ていた。長い黒髪はドレッドヘアーにしている。ごわごわとした黒く重そうなストールは妙にしわ寄っていた。痩せた体に対して胸が大きい。
ギャラリストは主人公を連れて、女の向かいのソファーに座る。ギャラリストの隣に続いて座った主人公は、店中にただようアルコールの香りにくらくらしながら、彼女の頭のドレッドヘアーに……どうも違和感があるな、などと取りとめもなく考えていた。
「紹介しよう、彼女が……」
「あたしは人呼んで完全なるレコードにしてデータベースの忍び、またの銘を電離層のゴーゴン、名前はジェミリラジオカポート! 覚えてくれてありがと!」
「私たちはジェミリラと呼んでいる」
「……ジェミリラさん、よろしくおねがいします」
「よろしく!」
レコードとかゴーゴンとか自称した女は着席する。ギャラリストは話を続ける。
「さっき言っていた通り、私の指示で君の体を見つけてきたのはジェミリラだ。こんなやつだが、記録に誤りはないから比較的頼りにしてもいい」
「主人公ちゃん、体を探しているのね。あなたの体のありかなら、あたしの記録から割り出せるわ。ええ、割り出すことは可能」
ローテーブルの上のグラスを取り、ロイヤルブルーのソーダを一口飲んでから、ジェミリラは話し始める。大きなレンズの発する赤い光が、バイオレットリキュールの紫に溶けあってゆるりと光る。主人公は期待してその目を見つめる。
「まず頭は復員兵のところに。そして脚は下水道のところに。さっき下水道の様子を見ようとしたんだけど、あいつはいなかったわね。まあすぐに出てくるでしょ」
「ありがとう、それから?」
「それから北東の方に復員兵の家があるわ。この情報はあたしのデータベースが由来なんだけど……もう知ってしまった真実は忘れることができないものね、その共有は世のためだし伝えるわ」
「うん?」
「そうそう、下水道の所、さっき行ったのよ。でもいなかったの。ということは……」
「えっと、えっと、頭と脚のほか。手とかお腹はどこなの」
「まだ発見できる段階ではないわ」
「え……」
「でも心配しないで! あたしだって誰が盗んだのか気になるもの。……時が来れば、必ず探し出して見せるわ! なにせあたしはデータベースの忍びよ!」
灰色のルージュを引いた唇で、ジェミリラは眩しく笑う。真剣に話を聞きながら、その姿を見ていた主人公は気づく。彼女の垂らす、ボリュームのあるドレッドヘアーだと思っていたものは、ビニールでできた管の束だった。……黒い髪の代わりに配線コードが、女の頭から生えていたのだ。
「あ、ありがとうございます。ちゃんと帰れたらお礼します」
「気にしないで。あたしだって、やりたいからやってるの。でもね、主人公ちゃん」
揺れるケーブルの先では、よく見ると小さな端子が光っている。主人公は、ギャラリストが言っていた『住民』の意味を少し思う。……ジェミリラは、主人公が何か考えているのを察したのか、少し間をあけてから言い始めた。
「体を取り返したあとに……帰るかどうかは自分で決めるのよ」
「え、帰るに決まってるよ」
「揺るがない、それもいいわ。それでも時間は過ぎてしまう。その長さも私には推察できる」
「……わかんないけど、大丈夫。わたしは帰るの」
それを聞くとジェミリラは、整った白い歯を見せ笑った。そしてカメラの目をギャラリストの方に向ける。
「あんたにも言ってるのよ」
「どうした。私がもし帰れたら、の話か? あいにくまだ絵は見つからないんだ」
「……そうね」
ギャラリストは体をきしませ、背もたれに寄りかかる。ジェミリラが首をかしげると、ケーブルの髪の端では端子がきらめく。
……主人公は店の中を今一度見渡してみる。店は、あまり広くないダイニングバーのようだ。他の客はカウンター席に座っている。
「ねえ、この子はしばらくどこに泊めるつもり?」
「私の拠点にするつもりだ」
「そこね……どうかしら」
ジェミリラとギャラリストが話しているが、主人公はあまりよく聞かず、店に居る住民を観察し始める。……カウンターの向こうでシェイカーを振る主人は、白いシャツにエプロンをという妥当な服装だが、頭部はけむくじゃらの狼のものだった。銀の毛皮、裂けた口。それからバンダナの下に大きな耳が隠されているのも分かる。
「もっとにぎやかなところに置いてあげた方がいいんじゃない? たとえばこことか」
「私のギャラリーも悪い場所じゃないだろう。ここからも遠くない」
「あたしは通いにくいの。この子との接触が一番有意義なのはあたしよ。それにあなたの所はね……ちょっと紙の体じゃ居づらいかも」
……狼がいるすぐ前の席にいるのは、紅い羽飾りがたくさんついた、派手な上着と帽子の人物だ。ごちゃごちゃと飾り立てられた衣装に、顔も背格好も隠れている。
「そうか。でもここに預けてもいいのか?」
「もうマスターに相談はしたわ。ドロシーが時々遊びに来る部屋があるじゃない。あそこなら自由に使っていいって」
「そ、それはドロシーの子守をこの子にさせようって魂胆だろ」
「それもちょっとはあるかも? まあ別にいいんじゃない」
……一番壁ぎわの暗い席には、黄緑色の分厚い防寒ジャンパーを着た男がいる。室内なのに紐を絞ったフードを被っているのは妙だが、ここから見る限りは人ならざる奇怪な姿かたちではない。深めのスープ皿で湯気のたつシチューのような料理をすすっている。
「分かった? 主人公ちゃん」
「えっ?」
二人の話を聞き流していた主人公は、大きなレンズを持つ顔を近づけてきたジェミリラの方へあわてて向きなおる。
「しばらくあなたはこの店に泊まってね。奥に使いやすい部屋があるから。ね?」
「えっと、わたし、ここにいればいいの?」
「ああ、いつでも案内するよ!」
聞き返した主人公に陽気な声をかけたのは、狼の頭の主人だった。
「僕はここの店主。人狼マスターって呼ばれてるよ、よろしく」
「……そっか。マスターさん。じゃあお願いします」
人狼マスターは黒いバンダナに包まれた耳を立てて、カウンターテーブルに肘をつく。その目はまさに狼らしい、大きく鮮やかな光彩を持っていた。色はやはり赤だ。
「ここはダイニングバーだから、今の君には何もおかまいできないけど……もし体が取り戻せたら、僕の料理をぜひ食べてほしいな。あと、こいつも紹介しておこう。うちの常連のピトフーイだ」
「おう、よろしくな! 嬢ちゃん」
「よろしく、ピトフーイさん」
紅く飾り立てた人物ピトフーイが、椅子を回してこちらを向いた。焼けたようなウィスパーボイスは女のものだった。着こんだ衣装の隙間から見える目は、長い下まつ毛と、野鳥を思わせる鋭さを持って光っていた。マスターが続ける。
「ギャラリスト。奥の部屋にその子を通してあげてよ。……君はこんなところにいても仕方ないだろ?」
「分かった。じゃあ、行こうか」
「うん」
ギャラリストから言われるより先に、主人公はソファーから跳ねるように立ち上がる。でこぼこした粗雑なタイル敷石の床を、軽い紙の靴が踏みしめる。それは白鳥の羽が湖面に落ちる様子にどこか似ていた。ギャラリストも、重そうな骨組みの関節を鳴らして席を立ち、また主人公の手袋を握る。
バーカウンターは主人公の背より少し高い。その裏へと回っただけで、色々なお酒が入り混じった匂いや、鍋でぐつぐつ煮られるトマトとチーズとタイムの香りが押し寄せてくる。棚からポーリッシュポタリーのかわいいボウルを取ろうとしているマスターの横を通り過ぎ、主人公たちはその奥にある、麦わら色のカーテンで仕切られた先へと歩いてく。その先には短い廊下があった。
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