【Hello,暗闇,我が盟友】

Track2.introduction ——シーシャにたゆたう瞳

【加筆年月日XX シーシャにたゆたう瞳】

ある薬物中毒者の女は信じていた。

幻覚症状の中で見える世界こそ真実であると。

そこではあらゆる者が救われ、生を全うできる。

しかし肉体はシーシャガラスに入ることはできない、ならば魂を囲おう。

そして私は、不幸の生まれ出ないよう監視する《視界》となろう。



     ☾



 街には司会者という人物がいる。彼は街の定義にしておよそ三日半に一度、とある女の子を訪ねに行く。場所は郊外に建つデータ塔より、更に街外れにある地下二階の小部屋だ。

 彼女は紙でできている。長くまっすぐ下ろしたプラチナブロンドも、赤い目も白い肌も、広がる黄色いドレスも、すべてが紙だ。赤いきのこを模した大きなクッションに、いつもひとりで座っている。

 部屋に外界の光が差し込む。ふたつの人影が足を踏み入れてくる。司会者と、もうひとり。黒装束に身を包み、ベールで顔を隠した人物だ。ガラスを鳴らす司会者の前を、黒服はしずしずと歩いている。

 女の子の側までくると、黒服は背筋を伸ばし、都会で数多の群衆へと聞かせるかのように、虚空に向かって言葉を告げる。

「今夜もウサギ礼拝を始めます。あなたのために!」

 黒服の、母性的にも少女らしくも聞こえる伸びやかな声、

「街のみなさん、ウサギ礼拝の時間ですよおぉ――」

 それにやや被せて司会者は高らかな声を張り上げる。

 その残響から少し間をおき、司会者はその場に膝をついて座る。それから、体に巻きついているベルトのひとつを緩め、背負っている一番大きなシーシャパイプを衣装から外した。紫と緑の色付きガラスがグラデーションをつくる、最も美しいボトルのそれだった。

 そして、被っていた大きな帽子を脱ぐ。その帽子は二重底になっている。内側にあるフェルトの板を外せば、ホースやスクリーン、角砂糖状のブロックコールといった、シーシャパイプのパーツたちが分厚い布に巻かれて出てくる。司会者は帽子からそれらを手際よく組みたて、取りつけて、オーロラ色の壮麗なシーシャパイプを立ち上げていった。……黒服の同行者は何をするでもなく、少し後ろからベール越しに、動かない紙の女の子を見ていた。

 しばらくして、シーシャパイプの組み立てが終わる。あとはタバコの葉を詰め、火の点いた墨をくべるだけで使える状態だ。しかし彼が帽子から取り出した物の中に、タバコはない。

 おもむろに黒服は司会者のすぐ後ろへと歩いて行く。司会者が顔を上げる。

「宣教師様、お願いします」

「はい」

 宣教師、と言えば確かにそれらしい風体をした彼女は、その長くしなやかな指で、淡い真珠の輝きを思わせる奇抜な青に奇抜な青に染められた司会者の髪をかきあげ、顔を近づける。近く……司会者の鼻先に薄いベールが触れるほどの距離まで。司会者はほほえんでいる。それは新しく来た主人公の子などに見せていた笑顔とは様子が違った。

 宣教師は、司会者の眼帯を少しずらす。彼の右目のあるべき穴からは、ちらちらと赤く、眼光には到底見えない、機関車の火室のような輝きがもれていた。宣教師はベールを少しだけ持ち上げる。光を嫌いそうな青白い肌と、血色の透けた紅の唇があらわになる。 その紅で、宣教師は司会者の右目に触れる。そうすると、突然司会者の頬がひきつり、震えだす。

 宣教師は口を広げ、司会者の右目へと食いつかんばかりのキスを続ける。ガラスのさざめき、そして腸詰の中身を混ぜ合わせるのに似た音が聞こえている。司会者の潤んだ左目がさらに熱っぽさを増していく。押し殺されたうめき声も聞こえたかもしれない。

 ほどなく、宣教師は口を離し、司会者の右目に眼帯をまた被せる……その舌先には、白銀塊のような、光り輝く小さな物体が絡め取られていた。宣教師はそれを口から吐き出し、司会者の手にそっとつかませる。解放された司会者は、宣教師がその物体を手渡してきたのに気づくと、またオーロラ色のシーシャパイプに向き合って、本来はタバコの葉を詰める場所であるハガルに、その白銀塊の欠片を落とし入れた。司会者はオイルライターの火を点ける。そして真鍮色の小さなトングでブロックコールを取り、赤くなるまで炙って、くべる。

 煙がシーシャパイプの中を通り抜け、水をくぐって泡をつくる。翡翠色をした吸い口から、ゆるやかに薄い煙が通り抜けだす。わずかに、甘いような、煮詰めたクリームのような香りがしてくる。宣教師は吹い口を手に取る。

「ねえ、司会者さん。昨日街に来た、女の子の話なんだけど」

 そして司会者に話しかけながら、動かない紙の少女へと、やさしい匂いの煙を近づけていく。

「あの子の体のある場所、ギャラリストは探すことにしたのよね」

「そうです、今のところは」

 女の子の、顎の下あたりにある紙の継ぎ目に、宣教師は吸い口をさし入れる。甘い煙が紙でできた、その子の体中へと広がっていく。

「それでは引き続きその目的のため、私が取り引きできるよう見立てていきましょう。あの人が街の解説者になってくれなければ……」

 宣教師はミルク色の煙をくゆらせる女の子を見ている。紙の表面が、ほんのりと光るかすみに包まれていく。その、煙に溶けた白銀のフレーバーが、女の子の柔らかな頬に輝きながら蒸着していくような姿を、司会者も宣教師の後ろから眺めていた。

「さあ、難しいと思いますよ。ギャラリストが見ず知らずの子に、ずっと構っていられる器だと思いませんから。まあ、せめてうつつのことを思い出してくれたら、引き留められるんでしょうけどね。マネキンの体じゃあ、いつまでたっても考えが変わらないでしょう。だいたい、いくら学があったって、頭が良くったって、この街を嫌いなやつなんかにあなたは任せられません!」

 司会者は宣教師の背中に向かって、ひとり喋り続けていた。ボトルをくぐる泡は小さくなっていく。吹き出る煙は細くなっていく。

 ブロックコールの灯が冷めたころ、宣教師は静かに振り返った。

「いいえ。思い出すことができてこそ、きっと私を愛してくれる」

 言葉を止めた司会者に、宣教師は吸い口を返した。司会者は黙ったままで受け取った。彼が意識して息を吸い込み、沈黙を破るまでの時間は長かったかもしれない。

「僕がいるじゃないですかぁ!」

「……あなたは弁が立つし、うまく街を要約してくれる。けれども、本質の私とは分かりあえません」

「そんなこと……! 必ず人々に望まれる解説をしてみせます!」

「ごめんなさい。だって、あなたはギャラリストじゃない。これは、どうしようもないことなのです、……もう何も言わないで」

 宣教師はふいとあさっての方を向く。

「早く片付けてください、司会者さん。ここを出ましょう」

「……」

 司会者は黙々とシーシャパイプの部品たちを緩衝材に包み、やがて全て片付け終えて、エナメルレザーの帽子を被る。少しだけ、宣教師は彼の方を見つめてから、引き返して行く。その後ろ姿を司会者も追いかけた。ふたりが出ていく。扉が閉まる。

 ガラスの足音はよく響くが、それも聞こえなくなる。

 女の子はまたひとりになる。部屋にうっすら残った煙も、幻のように消えていく。

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