#2

 そして女の子はその静寂のどこかに、なにやら……珍しい音が潜んでいるのに気づく。それは皆で食事するときなんかに聞こえる、たくさんのグラスや陶器がかち合っているような音だった。

「……何か聞こえる?」

 女の子が言い終わるちょうどその時、勢いよくドアが開けられる。

「司会者だ!」

 訪れた者の方を向くこともなく、マネキンは叫ぶ。

 壁に叩きつけられたトタンのドアが震えている。やたら眩しい廊下の電光を浴びる、現れた者の姿を女の子は見た。華やかな衣装の彩りが視界に飛びこむ。

「今、僕はギャラリストのアジトに踏み入れましたあぁあぁ――」

 ビブラートを利かせながら、しゃくりあげる甲高い声が、鉄筋コンクリートのこの建物さえ震わすように響きわたる。細かいワレモノたちがぶつかりあう音とともに、その人物は歩いてくる。

 マネキンはしっかり包み込むように、女の子の体を抱き寄せる。さざめくガラスの音。訪問者の小男はふたりの前まで来る。

「先日流れ着きました、あの子と同じくらいの幼い主人公は今! なんと紙の人形と化していたのです!」

 彼のその声は、わき腹や背中に縛りつけられた、幾つかのの……長い物、短い物、丸い物、三角、ハート、いびつにゆがんだ深海生物の器官のような渦巻き型……ユニークな形をした水タバコのシーシャパイプにも、酷烈に、張り裂けんばかりに響き入っていた。溜められた水が震えている。今にも内側から割れてしまいそうだ。

 ……一呼吸おき、シーシャパイプを衣装に吊るした奇怪な小男は、潤んだ赤い左目で女の子を見る。

「いや、あの子の方が下かな? んんん。子どもの大きさってよく分かんないんだよな」

 女の子はぞっとした。

 小男は、シーシャパイプのトップヘッドを模した、銀のエナメルレザーの帽子を被っている。その鏡のように光る帽子に映った自分は、瞳さえ持たない作り物の顔をしていた。それに対して司会者の顔は、右目に眼帯をつけているが、鮮やかな左の瞳と白い肌をもつ、あたりまえの人間の様相をしている。女の子はぞっとした。人形になった、自分の顔に。

「おい司会者!」

 マネキンは声を荒げる。

「あい、なに?」

「お前のしたことは分かっている」

「これが僕のお仕事だからね」

 小男はにやりと口の端をあげた。いくつものシーシャパイプの重さを支えている、防弾チョッキのような厚いベストの襟には、スパンコールを縫いつけた、どでかい金ぴかの蝶ネクタイが光っている。

「……ああ。だから、それも、分かっている。理解している……」

「だよねえぇえ? 僕はただみんなのために、全力で司会を務めているだけなの。当然。モナリザだってゲルニカだって、解説がなけりゃあただの紙切れじゃん?」

「それはどちらも紙ではないぞ?」

「まあ、テンポ重視の言葉選びってやつだから。大目に見てよね」

 横目でマネキンを見やりながら、小男は女の子の方へ手を伸ばす。マネキンはそれを払いのける。マネキンは怪訝そうだった。だが何が起こっているのかまだ分からない女の子は、小男の右目を隠している、磨かれたメダルのような眼帯の模様なんかを気にしている。そこには弾丸か、もしくはロケットであろう、シンプルな半楕円形の図形が彫られていた。

「……司会者。今すぐ消えてほしいが、ひとつだけ教えろ。この子の体はどこにある?」

「下水道のとこ」

「そいつは知っている。下水道以外だ」

「うん。だからこれ以上教えないよ」

「なぜだ? なぜ今回に限ってそう言うんだ?」

「教えられないんだよ。それに、もう紙の体は君たちが盗んでくれたじゃあない? それがあれば充分、……それともまさか本当に、その子を街から出すつもりでいるの」

「ああ。帰すんだ」

 マネキンがそう言った途端、おどけた様子が司会者から消える。

「……そんな真似するの? なんで? 可哀そうだよ、帰すのは」

「で、でもわたし帰りたいの!」

「というか、その体さ……」

 風がやむ。司会者は、紙のこぶしを結び叫んだ女の子を見すえる。

「帰す気、ないでしょ。街の外に。ね?」

 それは呆れたような声だった。きしむ音がマネキンの体からまた鳴りだす。

「やっぱ宣教師様は君を買い被ってるよ、ギャラリスト」

「何の話をしているんだ? お前はただいつものように、私の言う通りにすればいいんだ。さもなくば出ていけ!」

 いら立っていくギャラリストに、女の子は小さな声で尋ねる。

「ねえ、どうしたの……わたし、帰れるよね……?」

「ああ。もちろんだ」

 マネキンは力強く答えた。それを見た司会者は、ほんの一瞬だけ眉間にしわを寄せ……また、ぎらつくような笑顔をぱっと作る。

「新入りの……主人公ちゃん! ギャラリストはこんな風だけど、誤解しないでほしい。僕は決して悪いようにしたいわけじゃない。なんたって僕はこの街みんなの幸せを願っている。忘れないで。だから、そう、気が変わったり、そのマネキンの言うことに愛想が尽きたりしたら、いつでも僕を呼んでくれたらいい。……あとこれはどうでもいいことなんだけど……その紙の体は僕たちから盗んだものなんだよねえぇえ!」

 早口で、声をめいっぱい震わせて、笑顔をこちらに向けたまま、以上のセリフをまくしたてた司会者は後ずさりし、立ち去る。廊下に出て、無性に心地よいガラスのぶつかりあう音を立て、走り出す。

 彼が廊下の突き当りを曲がってしばらくもすれば、よく響く足音も聞こえなくなる。

「……変な奴が来て、嫌な思いをしてしまっただろう。あいつのことは放っておけ。耳を貸しちゃいけない」

 マネキンは女の子の頭をなでた。女の子は黙っていた。マネキンの手は重く、冷たかったが、それは仕方のないことだった。また、小男に『主人公』と呼ばれたことは、なぜか違和感なく受け止められた。そういえば自分は主人公だった。この姿は主人公のものだ。

「ああ、私が怖かったかい。すまないな、怒鳴ったりして。気にしないでくれ……私があいつを嫌いなだけだ」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 それを聞いてからマネキンは立ち上がり、蝶つがいを鳴らしながら揺れ続ける、うるさいドアを閉めに行った。

 主人公だった女の子は、その後ろ姿から視線をそらす。そして窓の外を眺めながら、うちに帰ったらまずどうしようか、なんて考え始める。自分が消えて、どれくらい時間が経ったのだろう。まず何があってここへ迷い込んだのかも覚えていない。とにかく思い出そうとする。紙の体になる前のこと。最後の記憶は雪の降る朝の景色。あたたかい服装で、いつものように妹分の子たちといっしょに外へ出た。……でも、その先は記憶からするりと抜けてしまっている。

「ねえ、マネキンさん……」

 主人公は呼びかける。これからどうしよう、といった話を早く始めたかった。

 しかしその幼い声をかき消すように、街は響いた。

『紙の人形となった女の子、その子は誇り高き主人公! あわれ、その子はギャラリストに拾われ、そそのかされ、街からの離脱を謀ろうとしていたのです!』

 大気が震える。なんてよく通る、大きな声。どこから聞こえているのだろう。主人公は窓の方へと駆けよる。誰もいない。

『主人公の体はどこにあるのでしょう! さあ、月の街の僕たちと遊ぼう! みんな、君を、待っていますよおぉおぉお――』

 主人公は窓を開ける。街灯の明かりをたよりに、きらきら輝いて見えるはずのシーシャパイプと衣装を外に探す。誰もいない。だが……紙の体を揺さぶるビブラートの残響が、かなたで何かと共鳴しているような感じがして……主人公は空を見上げる。

 そこには月があった。見たことのない月だった。

 赤く、燃えているようにも、今にも涙をこぼしそうなほど潤んでいるようにも見える、妖しい月、それが手を伸ばせば届きそうな空から街を一望している。

 街に風が吹く。枯れ葉だか紙くずだかが舞い上げられて、星のない、赤い月だけの浮かぶ空を漂う。主人公は食い入るように身を乗り出した。この軽い体や意識を吸い込んでしまいそうな、月の妖しい引力を心の真ん中に感じながら。やがて、マネキンがきしむ腕で、そっと主人公を抱えて連れ戻すまで……ただ、薄紙越しの少し霞んだような視界で、主人公は怪奇の空と見つめあっていた。

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