#1
染みだらけの黄ばんだ壁紙、カビの生えたタイルの床、曇りきった窓ガラス……部屋は家主を失って久しい廃屋のように荒れている。
部屋の奥には、ところどころをガムテープで補修されたソファーがひとつあった。その薄汚れた合皮のカバーの上に、女の子の人形が寝かされている。……何もかもが古ぼけている部屋でその人形だけは、手練の細工師が無垢な子らへ届けようと作り上げたばかりのクリスマスプレゼントのように真新しかった。
人形は、体も衣装も軽やかな紙で出来ていた。小麦色の肌も、パニエで膨らむスカートも。細かい銀の切り箔が散りばめられた手袋も。繊細だった。こんな部屋で眠り続けていれば、きっとすぐに色あせ、カビに食われてしまう。外の世界など何も見ることなく、このように眠りながら……。紙人形の顔に瞳は与えられていない。目元にはレースの模様が描かれた柔らかな薄紙が、その視界を隠すマスクのように巻かれていた。
窓越しに街灯の明かりがある。風の音が大きくなる。小部屋を閉ざす、薄っぺらいトタンのドアの向こう側では、いつからか、安楽椅子をこぐような音が聞こえだしていた……錆びついた風見鶏が回る音にも似ている音だった。
ドアが押し開かれる。廊下から、排気ガスを思わせる臭いの空気が少し入り込んでくる。姿を現したのは、エボニーの杖をつき、真っ白なモーニングを着こなした、肩幅の広いマネキン人形だった。
それは指先から、凹凸のない玉子のような頭部まですべて、つや消しの黒でむらなく完璧に塗装されていた。首や指の継ぎ目には金属の関節がちらついており、木の肉、鉄の骨のきしむ音が、全身のいたるところから絶え間なく鳴っていた。
彼の体で特にうるさいのは右足だった。左足の方は、よく磨かれた革靴を履いている。問題なし。だが右足は無い。足首の少し上あたりから失われている。かわりに取りつけられているのは乗り物の部品などに使われるような、大きなバネだった。それが大柄の男をかたどった、彼の重そうな体を支えていた。
マネキンはドアをゆっくりと閉め、女の子の方へと歩いた。タイルの目に黒カビのつまった床を、杖と革靴とバネが踏みしめるたび、奇妙でうるさい足音は響く。風に揺れる街路樹の音も騒がしくなる。もし横たわる紙の子が夢を見ているならば、それは嵐激できしむ幽霊船にとらわれる悪夢なんかかもしれない。
マネキンは、フリルで飾られた細い首に手を伸ばす。腰を曲げるとさらに鉄の関節がこすれあい、きしむ。まるで子猫の喉を鳴らそうとするように、首筋にやさしく触れていく。
「そろそろ、目を覚まそうか。……目を覚ましに行こう」
語りかけるマネキンの声は、もの静かな、この真っ白なモーニングの上着が似合うであろう紳士の声だった。
女の子の、喉の継ぎ目がかすかに動く。
マネキンの手がはねのけられる。ソファーを蹴り、女の子は飛び起きる。瞳にあたるパーツがない造形だが……女の子は小部屋をぐるりと見渡すように、首を動かす。肩を飾る薄紙のフリルが揺れる。
覚醒したばかりの紙の女の子は、窓の外へと視線を向けた。道の明かりと建物の影が、曇ったガラスの先にある。紙の胸が、フリルが、わずかに上下している。人形でありながらも、まるで浅く息をついているかのようだった。
「わたし……」
女の子はマネキンの、真っ黒な表情のない顔を見上げる。
「早く! 帰らなきゃ! 帰りたいの! ……ここはどこなの!」
「ここは君の知らない街だ」
子犬のような声で叫んだ女の子の両肩へと、マネキンは重く冷たい手を乗せた。しかしマネキンが言いかけた話も聞かず、女の子は必死に甲高い声をあげる。
「ねえ、うちはどっち? 知ってるの? 知らないの? ……わたし、エレナと次の練習をしなきゃいけないの!」
「落ち着いて聞いて欲しい、とりあえず練習は置いておこう。まず、今の君がこの街から出るのは難しいことなんだ」
「あなたは誰? ここへわたしを連れてきたのね?」
マネキンはその虚ろな顔を、女の子を見つめるように向けたまま、ついさっきまで彼女が寝ていたソファーへと腰を下ろす。ソファーのスプリングや、マネキンの関節、そして右足のバネが大きくきしむ。女の子はマネキンをのぞき込む。
「帰り道なら心配しなくていい。今はただ、慌てず聞いて欲しい」
「……あなたは何なの?」
「私はただのギャラリストだ」
「ギャラリストって何」
「そういうお仕事があるんだよ。まあ、それはいいんだけどさ」
マネキンの、泥がついたバネの右足を女の子は見おろす。そうしてから、首をかしげてゆっくりと、マネキンとはやや間隔をあけてソファーへと座る。
「君はもちろん、早く帰りたいだろうね」
「当たり前じゃない。みんな今ごろ騒いでるはずよ。それにエレナが心配よ、寂しくて泣いちゃってるかもしれない。電話はある?」
「すまない、電話は繋がらないんだ」
「そんなことってあるの? もしかしてここ、うちから遠いの?」
「いや、そうではない。でも君はこのままじゃ帰れないんだ。そんな姿では……」
「わたしの姿?」
そう言われて女の子は、自分の脚を……きめの粗い麻袋のような灰色の紙のブーツ、それに通された銀のテープの靴ひも、パルプの繊維が毛羽だった小麦色の膝を……改めて見つめる。そしてまた立ち上がり、薄紙のパニエに広がるスカートと、腰に飾られた上質紙の黒いリボン、銀の切り箔を散らした手袋、脚と同じ紙でできた腕、頬に触れる黒髪のショートカットをかたどって切りだされた薄紙をひとしきり見渡し……
「あ、あなただってマネキンじゃない……!」
と言った。
「そうだ。私はマネキンで、君は紙の人形だ。でも君は今までに、紙の女の子や木のおじさんを見たことがあるかい?」
「……ない」
「だろう。それは、君みたいな姿の人は、この街から出ることができないからなんだ」
「そうなの……? どうしてわたし、紙になっちゃったの?」
「君は本当の体を盗まれたんだよ」
マネキンは続ける。彼はうつむいている。膝の上で重ねた木工の手へ、視線を落とすように顔を伏せている。
「手癖の悪い、この街の住民に持っていかれたんだ。……今の君の姿は、体を奪われた君のために、私の知り合いが探してきてくれた結果だ。それも、できるだけ君に似たパーツをね。……奪われたんだ。盗まれたんだ。探しに行かねばならないんだ。私たちと……」
一言ごとに木材と鉄のひずみの音が、マネキンの体の内側で騒ぐ。きしむ。繰り返す。女の子は思ったことをそのまま口にする。
「じゃあ、あなたも体を盗られたの」
「――」
マネキンはぴたりと言葉を止めた。突然、部屋は静かになった。外を吹く風さえなければ、時が止まってしまったのかと思うほどに。
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