第四話 くろち

「ハジメ君、猫を飼ったことないでしょ」


「ああ、そうだね」


 自慢じゃないが俺の家ではペットを飼ったことはない。別に家族が動物嫌いということもなく、どっちかといえば好きな方だと思う。テレビの動物動画の特集モノや感動モノの動物映画なんかでは揃って涙するような家族だ。ただただ機会が無かったという他はない。


「私も猫は飼ったことがないんだけどね。えっと、犬は飼ってるわよ。三匹いるの」


「おおっ、三匹もいるんだ。羨ましいなあ。やっぱ、トイ・プードルとかチワワとか、いやポメラニアン?」


「いいえ、三匹とも可愛らしいドーベルマンよ」


 ふと、筋肉質で獰猛な狂犬たちが大好きな彼女を守るために、パンチラに喜ぶ不届きな俺に一斉に襲いかかる映像が一瞬脳裏に浮かんだ。


「ど、ドーベルマンっすか……。警察犬とか軍用犬で活躍してるのをテレビで見た記憶があるよ」

 

 おそらく広大な勘解由大路のお屋敷を守る警護要員なのだろう。


「そうね。一般的には怖いイメージがあるようね。でも、甘えん坊で人懐っこいのよ。夜は私も一緒に寝ているんだけど、昼間は庭を自由に走り回っているわ。たしか私が日本に戻る前に、忍び込んだ窃盗団を撃退したって、お祖父様が仰ってたわね。警備会社よりも優秀だってよく自慢しているわ」


「窃盗団……」


 泥棒が入ったとかじゃなくて、集団で組織的なやつですか……。


「もともとはドイツ産である愛すべきドーベルマンが、19世紀にカール・フリードリッヒ・ルイス・ドーベルマン氏によって、さまざまな犬種の交配によって生み出された人類最高傑作であることなど、語りたいことは多いのだけれど……。いまはこの子のことね」


 なんちゃらなんちゃらドーベルマン氏って、ひとの名前だったの?


「私の親戚に獣医さんがいるの。猫についてはそのおじさんから教えてもらったわ。大人の猫の性別判断は簡単なのだけど、子猫は難しいわね。そもそもあなたが想像した猫のおちんち……、いいえ、外部生殖器。なんだかこれもカタイわね……。猫のぺ、ペニスは陰嚢の下の包皮の中に埋もれているのよ。だから見たことがないとしても当然ね」


「なんですと?」


「さらにこの子は生後何ヶ月も経っていないと思われるから、陰部も性別の判断が容易にできるほどは発達していないわ。だから判断は、肛門から陰部までの距離で推測するのよ。この距離が長いのがオスで、短いのがメスね。他にも細部についての違いもあるのだけど初心者のあなたは知らなくてもいいわ」


「ほ、ほう……。で、この子のは……。長いとか短いとかよくわからないね」


「そうでしょうね。私はおじさんのところでたくさんの子猫のアソコを観察したからわかるけど、あなたが普段から猫の陰部を好んで観察するような変態さんであって欲しいとは思わないわ」


「そ、それはもちろん! 猫ちゃん自体あまり接する機会がないから。それで、この子は男の子ということでいいんだね」


「この私がそう判断したのよ。間違いないわ!」


 起き上がった黒猫もそうだと言わんばかりに『みゃう』と鳴く。


「うん。それでこの子どうすんの?」


「きっと親とはぐれたのだと思うわ。この子を親を探すわよ!」


 沙也加さまは男の子だと判明した猫ちゃんを抱きかかえて、すくっと立ち上がる。


 俺達はしばらく周辺を探索してみたが、この猫の家族を見つけることはできなかった。


「この子の健康状態は問題ないと思うわ。詳しくは動物病院で診てもらったほうがいいわね」


「なるほど……」


「ハジメ君」


「はい」


「この子を保護しましょう」


「飼うの?」


「ハジメ君、あなたがね」


「ええっ!?」


 てっきり沙也加さまがお屋敷に連れて帰るのだと思ったのだが、どうやら俺にこの子の将来は託されたようである。


「私もご家族にお願いしてあげるから。ねっ、いいでしょ?」


 彼女の腕の中の猫ちゃんも俺を見上げて『みゃー』 と鳴く。この状況で俺が断れるはずもなく取り敢えず前向きに検討することを伝えた。再び俺達は歩き出す。


「良かったわねぇ。ママもうれしいわ。あっ、ねえパパ。たいへんよ!」


 唐突に始まった夫婦コント。なんだか悪い気がしない、というかちょっと嬉しかったので乗っかってみる。


「う、うん? どうしたんだい?」


「この子、名前がないのよ……」


 それはそうだ。彼はおそらく野良の子猫なのだから。でも、自然界の動物たちってどんな感じで我が子や他の個体をとらえているのだろう。しっぽの長い可愛いあの子とか、髭のながいむかつくあいつとかその形状とかなのだろうか。言葉をもたない存在の認識の世界にちょっとだけ思いをはせてみるが、気の利いた言葉なんて出てこなかった。こういうとき沙也加さまだったら、その頭の中の無数の引き出しから凄いものが飛び出してくるのだろうけど。やっぱり自分は凡人なのだと再確認する。


「名前かぁ。沙也加さまは何かないの?」


「私は、ハジメ君につけてもらいたいの。ねぇ、そうでちゅよね? パパにお名前をつけてもらいたいよね」


 こういうのは多数決で負けているといっていいのだろうか? 民主主義に逆らえるほど俺は尖ってもいないし、長いものには巻かれていたい主体性のない一般ピープルであると自信を持って言える。


「うーんと。クロちゃん」


「却下」


「くろすけ」


「却下」


「ジャン・クロード・ヴァンダム」


「偉大な格闘家であり、俳優ね。でも彼は1997年の『ダブルチーム』で第18回ゴールデンラズベリー賞の『最低スクリーンカップル賞』を元バスケットボール選手のデニス・ロッドマンと受賞しているの。いろいろとツッコミどころはあるのだけど、映画のことは置いておくとしても、ゴールデンラズベリー賞というのがいただけないわ」


「ううっ……」


 マジか。俺はけっこう好きだったんだけど……。ん? 沙也加さまはブラックベリーが好きだったよな。


「ブラックベリー」


「ううん……。却……」


「待って。ブラックベリーは黒いちごだろ……。くろいち。くろち?」


「くろち? ふむ。どうでちゅかー? パパがあんなことをいってますけどぉ」


 すると子猫は『みゃー』 と鳴いた。


 こ、これはどっちなんだ? 俺は沙也加さまをじっと見つめて返事を待つ。


「そ、そんなにじっと見つめられたら……、困るのだけども……」


 彼女が小声で何かを呟いたようだが、聞き取れなかった。おそらく合否ギリギリのラインで迷っているのだろうと推測した俺は、引き続き祈るように彼女を見つめる。


「わ、わかったわよ……。だからそんなに……。く、くろち。くろちに決定しましゅ」


「やった!」


 俺は思わず渾身のガッツポーズを決めた。沙也加さまがちょっと噛んだ気がしたが、パーフェクト美少女の彼女がそんなミスを犯すはずはない。『くろち』を見つめる彼女の表情はよく見えないが、きっとこの名前を気に入ってくれたのだろうと思うと、言いようもない達成感で俺は満たされるのであった。

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