続「黒猫」と「独り言」

yaasan

第1話 続「黒猫」と「独り言」

 帰宅時の電車の中だった。ふと正面の網棚を見上げると、置いてある鞄の上で寝そべっている黒猫がいることに俺は気がついた。もちろん寝そべっている黒猫の下にある鞄は俺の鞄だ。


 そう。いつかと同じ光景だった。

 そしてその時と同じで、黒猫は鞄の上で寝そべりながら俺を凝視していた。


 やれやれだ。

 俺は軽く溜息をついた。


「何だ、随分な反応だな」


 そんな様子の俺を見て黒猫は不満そうに鼻を鳴らした。以前と同じで黒猫の声が周囲に聞こえることはないようだった。鼻を鳴らして網棚の上で喋る黒猫に、車内の誰もが注意を向けてはいない。


 となると以前もそうだったように俺が声を発しても、それが周囲に聞こえることはないということか。

 そこまで考えて、俺はあからさまな溜息をもう一度だけついてみせた。


「歓迎しろとまでは言わないが、人の前でそう何度も溜息をつくものではないな。失礼だぞ」


 人ではなくて猫だろうと俺は思ったが、話がややこしくなりそうだったのでその言葉を飲み込む。


「この前と同じだな。随分と面白くなさそうな、疲れた顔をしている」


 人の顔を見て面白くなさそうなだの、疲れた顔だのと言う方が失礼ではないだろうか。そんなことを思いつつ黒猫の言葉に俺は軽く肩を竦めた。


「そうか? そうでもない」


 そう言えば以前もこんな返答をしたなと俺は頭の片隅で思う。続けて俺は口を開いた。


「知っているか?」


「いや、知らないな」


 黒猫の返答に俺は鼻白む。そんな俺の様子に黒猫は少しだけ表情を和らげたようだった。


「すまなかったな。悪気はなかった。だが、会話の導入のためとはいえ、よくない言い方だと思うぞ?」


 俺は四十二歳にもなって帰宅時の電車内で、猫に話し方について注意を受けているようだった。そのシュールな状況に俺は再び肩を軽く俺は竦めてみせる。それを見て黒猫は不満げに鼻を鳴らす。


「それでどうした。その顔の理由は?」


 その言葉に俺はどんな顔をしていたのだろうかと思いながら口を開いた。


「大したことじゃない。今後のことを考えていただけだ」


 黒猫は俺の言葉に少しだけ考えるような素振りを見せた。


「今後のこととは? 家庭のことか?」


 俺は首を左右に振った。


「違うな。仕事のことだ。こう見えても俺は営業でな。営業として今後のことを考えていた。歳を取った営業なんて、上の方の管理職にでもならない限りは、段々と居場所がなくなっていくのでな」


「お前が営業だということは知っているさ。だが歳を取ったと言っても、お前はまだ四十二歳だろう?」


 その言葉に何で俺の職種や年齢を知っているんだと俺は思う。


「もう四十二だ。五年もすれば五十が見えてくる」


「よく分からんな。ならば部長だか何だか知らんが、上の方の管理職とやらに出世をすればいい。そうすれば、居場所がなくなるなどといった心配をする必要はないのだろう?」


「簡単に言うな。俺が今の会社に中途で入ったのは三十八歳の時だ。そんな奴は余程のことでもないと、組織の上の方に位置する管理職なんかになれるはずがない。それがある程度の大きい組織ならば尚更だ」


「よく分からんな。そんなものなのか?」


 黒猫の言葉に俺は大きく頷く。黒猫は更に言葉を続ける。


「それを言い訳にしているだけじゃないのか。営業なのだろう? 誰にも文句を言わせないような結果を出せば、自ずと役職が上がっていく階段を登れるのではないのか?」


「簡単に言うな。結果なんてものは、会社から任されて担当するクライアント自体で左右されるのさ。全ては会社から任されるクライアント次第なんだよ。俺がいる広告業界は所詮、受注産業だからな。クライアントに仕事がなければ、当然受注する仕事なんてあるはずがないのさ。極論ではあるけどな。それにそんなことも関係なく結果を出せるスーパー営業マンなら、俺は自分で会社を既に作ってるさ」


 俺は自嘲気味に答える。自分を卑下するつもりはないのだが、この手の話になるとどうしてもこういった言い方になってしまうようだった。


「何だ。全部が言い訳にしか聞こえないな。そしていずれ居場所がなくなる言い訳をもう考えているのか」


 黒猫は呆れたような声を出した。


「は? ふざけるな。言い訳じゃない。俺は事実を言ってるだけだ。大体、猫ごときに仕事の何が分かる? こっちは子供だってまだまだ小さいし、大変なんだよ!」


 俺は声を荒げた。しかしそう言いつつも、黒猫が正しいことを言ってるのを頭の隅では認めざるを得なかった。だからそこには八つ当たりもあったのかもしれない。


 だが一度、怒りに任せて紡いだ言葉は簡単に止まってはくれないようだった。


「人に依存して生きている自由な猫ごときに言われたくはないもんだな!」


「そうか? お前が言うそんな猫ごときにこの話を始めたのは、お前自身なのだがな」


 ……それにと言って黒猫は更に言葉を続けた。


「前も言ったが、猫だって大変だ。人に依存して可愛いがられて飼われているからと言って、必ずしも生活が安泰というわけではない。家の中でツンデレを繰り返していれば全ての猫が幸せなわけでもない。所詮、そんな生活にはろくな自由もありはしない。自由がそこにあるとすれば、ツンデレを繰り返す自由だけなのかもしれないな」


 黒猫はそう言うと左右を見渡して再び口を開いた。


「ほら、もう最寄りの駅じゃないのか?」


 そう言われて俺は窓の外に視線を向けた。確かに黒猫が言うように、最寄りの駅に近づきつつあった。俺は怒りを収められないままで黒猫の言葉に無言で頷く。


 頭の隅ではそれぞれに立場があって、それぞれの立場では当然それぞれの問題があることぐらいは分かっていた。どの立場においても問題が皆無だなんて世の中があるはずはないのだ。


 ただ先程はあまりにも的確に黒猫から言われてしまった。分かっているからこそ怒りが生まれて、その怒りを表面化させる他になかったようだった。事実を当たり前のように突きつけられると、人は時に怒り出すものなのだ。そうしてはいけないと思いながらも。


 しかし、そう思ってはいても俺の口から謝罪の言葉が出ることはなかった。


 やれやれだな。

 俺は心の中で呟く。


 黒猫は頷いた俺の顔を凝視しながら、ゆっくりと口を開いた。


「そうか。ならば俺は眠るとする」


 やがて電車は軽い揺れを伴って駅に停車する。俺は網棚にある鞄に手を伸ばした。  


 帰宅時で混み合う電車内。俺は軽く頭を下げながら、開いた扉に向かった。担当しているクライアントの企業キャラクターである黒猫。クライアントからの依頼で作ったその黒猫のばら撒き用のノベルティ。


 鞄の取手にはその黒猫のキーホルダーがぶら下がっている。何かの加減で背を向けてしまっている黒猫の背中が怒っているように見えたのは、きっと俺の気のせいだったのだろう。

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