第11話 無我夢中


「……」


 屋根裏部屋に戻ろうとして教会の外へ出たとき、僕はそこから一望できる街の景色に目や声を奪われていた。


 それまでは太陽が低くて陰影が目立つ余所行きの光景だったのが、はっきりと慣れ親しんだタオリアの街だと認識できるものに戻ったからだ。


 そんな風景を前にして鮮明に思い出すのが、毎日のように色んな家にパンを配達していた日々。それを受け取った人たちの弾けるような感謝の声や笑顔。


 ここ数年は平凡でつまらない日常でしかないと思えていたものが、不思議と懐かしく輝いて見えてくる。そのせいか、僕は葛藤を覚え始めていた。


 確かに、ありきたりな人生を歩んでいた。それが嫌でしょうがなくて、逆転させようとしていた。でも、本当にそれでいいのかな。色んなことに巻き込まれて、段々と事が大きくなってきて、なんだか怖くなって……。情けないけど凡庸な人生も悪くない気がして、無性に実家へ帰りたくなってきた。


 でも、今更シビルさんを裏切れないし、どうすればいいんだろう……。気が付けば、板挟みから逃れるように僕の足は昔懐かしい郊外の森へと向かっていた。


 そこは幼少期によく一人で遊んだ場所。父さんに遊んでもらえなかった僕は、いじけて森の中で蝶を追いかけてたっけ。煩雑とした心の整理整頓をする場所としては、一番相応しいところだといっていいんじゃないかな。


「あ……」


 タオリアの街を出てしばし歩を進めていくと、例の場所――月見の森――が見えてきた。当時となんにも変わってなくて安心する。ずっとあのときのままなんだ。まるでそこだけ時間が止まってるみたいに。


 鬱蒼とした森の中へ足を踏み入れると、その途端に周囲が一気に薄暗くなる。それでもあまり怖さを感じないのは、緑を掻き分けてきた光が涙みたいに滲んでいて心身に優しいからだ。樹々に遠慮するかのように射し込んでくる木漏れ日が、僕の傷ついた心をそっと撫でてくれた。


 そうだ、あの蝶もどこかにいるかな? 一見するとただの漆黒の蝶だけど、光に当たると月のような模様がくっきりと浮かび上がる幻想的な月夜蝶。


「……あれ?」


 子供の頃のように蝶を探して、夢中になって森を歩いていたときだった。不思議なことが起きた。前方のほうで赤い目のようなものが光ったんだ。


 ま、まさか、この辺に生息するっていう大きな尻尾と体躯が特徴的な狼、タオリアンウルフ? かつてはタオリアの周辺に多く生息してたけど、銀色に輝く美麗な毛皮目的で乱獲されて今じゃこの森の奥にしかいないっていう。


 それでもタオリアンウルフは温厚な性質だそうで、しつこく挑発したり追い詰めたりしてよっぽど怒らせない限り、人を襲うことは稀らしいけど……。


「ゴクリッ……」


 赤い目が徐々にこっちへ近づいてきて、僕は緊張しつつもロングソードを構えて臨戦態勢を取る。僕には加護があるし、以前の僕とはまるで違う。さあ、来るなら来い……。


「アルム」


「え……」


 茂みの中から現れたのは、頭に花を咲かせた少女――ナナだった。


「ナ……ナナじゃないか……こんなところにいたんだ……」


「……」


 ナナは申し訳なさそうにコクリと頷いたかと思うと、僕に背を向けて走り始めた。


「ナ……ナナ!? 怒らないから、ちょっと待ってよ。僕は君と話がしたいんだ!」


 それでも、ナナの足は止まることを知らない。僕はそれを絶対に逃すまいと、必死に彼女の背中を追いかけた。




■□■




「アルム様……」


 黒蛇組の寮の最上階。使用人リリが屋根裏部屋を確認するものの、朝食にはまだ手が付けられていない様子だった。ベッドに視線を移すと微かに動いているのがわかり、リリは聞こえるように溜め息をつく。


「はあ……。いつまで寝ておいでですか。いい加減、起きてください」


「……」


「まったく、もう……」


 アルムから一向に返事がないことにリリは業を煮やすも、ベッド上の毛布を乱暴に剥ぎ取るような真似はしたくてもできなかった。


 それは何故かというと、こうして監視を任された時点で、アルムはシビルにとって大事な人材であることは目に見えていたからである。


(あの方がここまで守ろうとする人だから、変なことはできないよね……)


 リリは一度手を引っ込めたものの、また毛布に手をかけた。


(だからといって、ずっと寝させるのは体に悪い。起こさないと……)


「起きてください、アルム様。さもなくば、でございます」


「……」


「覚悟はできておられるようですね。それでは」


 リリは毛布越しに、両手を器用に動かした。なるべく対象に触れないように、指先を微かに当てるのがポイントだ。


「こちょこちょこちょこちょ……」


「……」


「こちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょ……!」


 それは次第にエスカレートしていったが、いくら擽っても起きる気配のないアルムに対し、リリは遂に手を動かすのをやめてしまった。


「……はぁ、はぁ……ア、アルム様、参りました。降参します。お願いですから起きてください……」


 諦念の表情で毛布を捲るリリ。そこにはゆっくりと回る小さめの樽があり、彼女は一瞬硬直したのち、見る見る青ざめながら【超音波】スキルを使用するのであった……。

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