第106話 僅かな差異
全体的に魚介類が多めの、我々にすら満足感を感じさせるほどのボリュームを持った料理の数々が並べられている。
各々が談笑しながら、戦の前の腹ごしらえとばかりにお腹を満たしている最中、フレデリカが立ち上がってきて、そっとこちらの耳元に囁いた。
『少しだけ、二人きりで話がしたい』
先月以上の死闘になるが故に、事前になにか作戦会議でもしておこうというのだろうか。
別にこの場ででも良いような気はするものの、賢い彼女がそう言ったからには、なにか意味があるのだろう。小さく頷いて、グラスの中の炭酸水を飲み乾してから席を立ち上がった。
他の五人もこちらに気が付いたものの、それぞれのリーダーでの話し合いだ、というふうに当たりを付けたのか、特に何も言ってこない。
ラウンジから出て、近くにあったトイレの横、パウダールームの中へと入った。
海軍の施設のはずだが、女性向けのこのような部屋があるというだけで、軍人以外の賓客を招くこともあるのだ、と推測できる。そういえば、昔の軍艦は外交の場にも用いられたと聞く。ヤマトやムサシ、古くはミカサと言った戦艦にも、接待のための部屋があったそうだ。
洗面所と鏡台の居並ぶ部屋の奥、隅っこの椅子を引き寄せてフレデリカが座る。こちらもその隣の鏡台の椅子を引っ張り出して、彼女に向かい合うようにして座った。
『僕の部屋にも、サイズはもっと大きいが、似たような化粧台があったよ。フッ、勿論、この身体になる前にもね』
本題に入らずにパウダールームに言及するフレデリカ。こちらも敢えて急かさない。
『私はあまり化粧をしないので馴染みが無いですね。する時も、大体洗面所で簡単に済ませてしまいますから』
実際に外出時にも殆どしたことは無い。一応妹やキョウカに無理矢理一式を押し付けられて教わったものの、必要性をあまり感じないというのが実態だ。
撮影なんかの時は専用のスタイリスト兼メイクアップアーティストがやってくれるので、敢えて自分でどうにかする必要も無い。得意ではないものを自ら無理にする意味が無いのだ。
『そうかい?まぁ、ミサキは化粧などせずとも魅力的だからね。というか、駆逐者全員がそうか』
『実際にプロにやってもらうと差に驚きますが、普段から肌は綺麗ですからね。礼儀もなにも、私たちは基本的に戦闘員なので』
長いまつ毛にきめの細かい肌。常に一定の潤いを保ったそれは、水で洗い流すだけで常に美しい状態を保持している。
これも竜の因子だというのなら、あの獣脚類どもももっと可愛く大人しい姿で出てくれば良いものを。いや、それだと人と紛らわしいか。
人間に擬態して密かに侵略や殺戮を始める宇宙人の映像作品を思い出して、少しだけ身震いした。倒すべき相手がわかりにくいというのは、この上なく厄介だ。
『僕はね、男の頃からこうやってドレッサーの前に座って、化粧をしていたよ。いや、させられていた、というのが正しいか。だから、今もその習慣は抜けていない』
彼女は人差し指と中指を伸ばして、軽く頬を伸ばすような仕草をした。
『私とは逆ですね』
『そうだね。君が化粧をする余裕のある生活ではなかっただろう、というのは聞いているよ。流石に、一般成人男性の平均以下の年収で、大食らいの駆逐者を養うには無理があるだろうから』
なんとも複雑な気持ちになる。
確かに自分は同年代の平均より低い年収で生活していた。ただ、中央値よりは少し低い程度なので、生活する分には全く問題がなかった。まぁ、実際には一人暮らしだったわけだから、彼女がそう勘違いするのも無理は無いだろう。
平均というのは異常値も含めてしまうので、無収入の人を除けばかなり高めに出てしまう。
ごくわずかの高収入の人達が、労働人口に対して大きくその平均を引き上げてしまうのだ。なので、この場合は中央値で比較するほうが良い。
今はもう二人して平均以上を稼いでいるので、マンションのローンを支払ってもかなりの余裕がある。今の時代のヒノモトは、両輪で稼ぐのがデフォルトになっているのだ。
『ミサキ。君の境遇のせいか?どうして君は、ひどい扱いを受け入れているんだ?』
ひどい扱い、だろうか。日常的には寧ろ相当にホワイトな職場であるように思う。
確かに、生きるか死ぬかの戦場に放り出される事を考えれば、年収にして600万も行かないというのは理不尽に思える。ただ、平時は特に何もせずに、トレーニングに励んで遊んでいるだけだ。それを考えればまあ、別に酷い扱いだというわけでもない。経費だって申請すればちゃんと出るし。
『フレデリカには、私が酷い扱いを受けているように見えるのですか?』
『見えるに決まっているだろう!フェルドマン博士たちの、研究報告書や論文を読んだよ。信じられない。どうして連中は、君をただの物のように扱う事ができるんだ!?』
そうか、給与面や労働面ではなく、実験の方だったか。確かにそれはちょっと、こちらにも思う所はある。
『……見たのですか。論文にはどこまで書かれていました?』
『全部だよ。恐らく全部。君と、君たちにしたこと全部だ。『ゾーン』の暴走を引き起こしたことも、何もかも!』
何もかも、か。
『確かに、一部私たちの人権が制限されている部分はあります。ですが、そうしないと、人類は恐竜に飲み込まれてしまうのです。私に、選択権はありません』
『だからと言って!いくらでも穏便にできる事を、直接的にやりすぎだ!』
『そうですね。私もまさか、不妊治療でもないのに卵子を採られる事になるは思いませんでしたが』
フレデリカの表情がすっと消えた。恐ろしいほどに冷たい真顔になってこちらを見ている。
『何?ミサキ、今、何と言った?』
しまった。
彼女は全てを見たと言っていたが、この計画はまだ報告されていなかったのか。
迂闊だった。確かにこれはまだ始まったばかりで、報告にも論文にもする段階ではない。
『聞かなかった事にしてください、フレデリカ。この話は他言無用です』
フレデリカは賢く、冷静な判断ができる人だ。そう言いふらしたりするような事はしないとは思うが。
彼女は大きくため息を吐くと、右手の親指と中指で、両のこめかみを押さえて下を向いた。
『なんてこった。アレ以上の狂気を聞かされるとは。それで?フェルドマンたちは、君の生殖細胞を使って何を企んでいる?』
『本当に、誰にも言わないでくださいね』
『言わないよ。言えるわけがないだろう』
先の竜の精子を使い、駆逐者と新古生物の間の子を作り、人類の味方として育てる。話すうち、荒唐無稽かつ冒涜的な内容に、彼女の顔はどんどん曇っていく。
『神をも恐れぬ所業だ。だが、確かにそれは有効だろう。成功すればの話だが。これは、ジェシカたちには?』
『言えるわけがありません』
『だろうね』
背もたれのない椅子に座ったまま、彼女は股を開いてその間に視線を落とした。
女性としては甚だ下品なその仕草が、今の彼女の内心を現していると言っても良いだろう。彼女はゆっくりと顔を上げて、どこか虚ろな瞳でこちらを見据えた。
『ミサキ。どうしてそこまでする?いくら人類の為だからといって、君がそこまで自分を犠牲にする必要など、どこにもないだろう。今日、君を呼び出したのは、一つはそれを言うつもりだったんだ。なのに』
フレデリカの価値観は、全くもって正しいものだ。それが平時であれば。
『確かに研究は有用なものだ。駆逐者の事が詳しく理解できれば、さらなる力を引き出すことも可能になるかもしれない。だが、だが。どうしてだ?よりにもよって、ここにきて尚酷い話を聞かされるなんて』
『フレデリカ』
彼女は善良だ。そして、育った環境にも関わらず、先進国の人間らしい、強い人権意識を持ち合わせている。
貴族としての教育がそうさせたのか、彼女が元々そういった性質を持っているのかは分からない。だが、彼女にはまだ、危機感というものが足りていないのだ。崖っぷち、瀬戸際にいるのだという危機感が。
『私が守りたい人類というのは、人類全て、などという立派なものではありません。私は、自分を多少犠牲にしたとしても、私の大切だと思う人たちを守りたいのです。フレデリカにも、そういう人がいませんか?』
自分は聖人などではない。そこいらに普通にいる、ごく普通の、友人を、家族を、愛する人を大切にしたいだけの、利己的な人間だ。
だが、その大切な人達が生きていくには、人類の作り出す漠然とした社会というものが必要不可欠なのである。それが消えて無くなってしまえば、大切な人たちも生きていく事ができなくなってしまう。人類のために、という悲壮な思いは、最初は兎も角、今はもうついでだ。大切な人を守るために人類が必要という、ただそれだけなのだ。
だからこそ、多少の理不尽は飲み込んで、未来を見据える必要がある。例えそれが一時的に自らを傷つける事だったとしても。
『生殖細胞はまた生み出されます。暴走も、きちんと脳まで再生する事を見越して行われたものでした。一時的に我が身を差し出すことで、仲間が、家族が守れるのなら、私は何度でも、嫌々ながらもそれに従うでしょう』
彼女はこちらの話を聞きながらずっと下を向いていたが、こちらが言い終わると、顔を上げて足を閉じた。
『カミカゼ精神ってやつかい』
『似たようなものかもしれませんね。特攻に出た当時の若者たちも、死ぬのは嫌だったに決まっています。私は今の所、死を迫られていないだけ、彼らよりマシです』
『今日、死ぬかもしれないのは同じだよ』
『死んだら人類も、大切な人たちも終わりですね。フレデリカは死ぬつもりなのですか?』
『まさか』
『そうでしょう?ならば、問題ありません』
彼女は参った、という風に両手を上げた。
『ミサキは強いな。とても勝てそうにない。だが、そうだね。僕も一つ、切り札を持ってきたよ。死にたくはないからね』
彼女はそう言うとこちらを見た。その瞳を見て、思わず息を呑んだ。
虹彩が、黄金色に輝いている。
一瞬だけその状態を見せて、すぐに彼女は元の碧い瞳に戻した。
『これもあの非人道的な研究の成果ってやつだろうね。君の詳細情報を見て、僕に足りなかったものを満たしてきた。君を誘い出したもう一つの理由は、これができるようになった事を教えたかったんだ』
『足りなかったもの?フレデリカに?』
分からない。彼女は極めて優秀であり、足りないものなど無いように思える。なんならこちらよりも遥かに沢山のタスクをこなしているし、自分と比較すれば彼女の方が余程優れているように見えるが。
『研究者たちは、その条件に気が付いていなかったみたいだ。駆逐者ならば、鍛錬すれば誰でも身につけられると思っているだろうね。ただ、その条件が何か、というのは伏せておこう。色々と問題があるんだ』
彼女が伏せておくと判断したのであれば、そこは納得しておいた方が良いだろう。
気になるのは気になる。もしその条件を満たせば誰でも『ゾーン』に入れるようになるというのであれば、一気に全員の戦闘力が増す事になる。
たとえ使用後に動けなくなるにしても、ここと決めて瞬発力を高められるならば、取れる戦略が大きく広がる事になる。
『そうですか。それでも、フレデリカが『ゾーン』状態になれるというのは非常に心強いです。たすかります』
立ち上がって両手で彼女の右手を握った。その上から重ねられた細く繊細な指が、こちらの甲に触れる。
元々彼女は牽制を主とする動きをしているが、ここぞという時には強烈な火力を発揮していた。
正確無比で貫通力のある連続突きが『ゾーン』状態で繰り出されるとなると、単純な切断による自分のものよりも、より効率的な火力が出せるかもしれない。正しく、切り札だ。
『こちらもアトランティックのリーダーだからね、君には負けていられないさ。それじゃあ、戻ろうか。もう少しお腹も満たしておきたいからね』
『急がないと、ロロに食べつくされているかもしれませんね。急ぎましょう』
彼女の手を握ったまま、パウダールームを抜け出した。近くのラウンジへと戻る道すがら、言うのに問題のある条件とは何なのだろうと考えた。
結局それは、自分とフレデリカの相違点がわからないとどうにもならない、と結論付けた。我々はとても強い絆で結ばれてはいるが、お互いのことを何でも知っているとは言い難い。ならば、考えても思い当たるはずがないのだ。
フレデリカがそれに気が付けたのは、恐らくこちらの情報を隅々まで見たからだろう。気恥ずかしい気もするが、別に彼女になら構わない。
こちらも彼女の他人に知られたくない事実を知ってしまっている。ならば、これはお互い様という事になるのだ。
普段は離れて戦っているとは言え、彼女たちもまた、同じ方向を向いている大切な仲間なのだから。
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