第101話 計画開始

 彼の胸に頬を押し付けて、荒い呼吸を繰り返していると、長い指の大きな手が、こちらの頭の後ろに回された。

「どうしたんだ、ミサキ。何かあったのか?」

 いつもと違う事を感じ取ったのだろうか。密着した身体を離そうともせずに、彼はただ、そのままこちらの返答を待っている。

「何も無いよ。ちょっと私も、エッチな気分になっちゃったから」

 彼はそうか、とそれ以上は聞かずに、こちらの背中に手を回した。紐の間から差し込まれた手のひらから、彼の熱が伝わってくる。

 採卵され、体外受精にそれを使われるという事は、彼に対する裏切りなのではないかと思ってしまう。

 その罪滅ぼしのつもりなのだろうか。これだけあなたを愛しているのだ、という証明をしてみせたかったのかもしれない。ある種の言い訳のようなものだ。

 けれど、彼に言う事はできない。言えば彼は絶対に反対するが、同時に賢い彼は、それが必要な事だと理解してしまう。

 大切な人に余計な苦痛を与えてしまう事は本意ではない。この事は墓まで持っていこう。

 彼に抱かれて、心の整理をつけると少しだけ楽になった。何事も中途半端な状態よりも、ある程度区切りを付けたほうが安心するらしい。

 彼がいるからこその悩みではあるのだが、その彼に癒して貰っている事になる。実に現金な事だ。

 小さく微笑みを漏らしたのを見逃さなかったのか、彼は背中からまた尻に手を伸ばしてきた。

「今度の休み、どっか行くか」

「そうだね。あんまり遠出はできないけど」

 連休はもう、来月の頭になるまで無い。少し足を伸ばすにしても、一泊が限度だ。

「そうだ。久しぶりにソウの実家に顔を出してみる?」

 彼の実家は、都市部から少し離れた山の近くにある。周辺一帯の土地は彼の母、ハルコの名義のものとなっていて、広い屋敷の隣には彼の妹、キョウカの家が建ててある。

 ソウは大地主の御曹司であり、かつ父親は国会の上院議員という、産まれとしては相当に毛色の良い男だ。

 金もあれば土地も名誉もある。こちらは何というか、意図せず玉の輿に乗っかったようなものである。あまり今まで意識した事は無いが、このマンションにしたって、いくら収入が良くても独身の男が買えるような物件ではない。

「実家か?まぁ、ミサキがいいなら構わないけど。上院議員選挙も近いから、もしかしたら親父も帰ってきてるかもな」

「良いに決まってるよ。久しぶりだなあ」

 懐かしい。子供の頃は良く遊びに行ったものだ。

 子供の頃からゲーム好きの彼は、当時ハード戦争でしのぎを削っていた企業、全てのハードを所有していて、それに乗っかる形で随分とこちらも遊ばせてもらった。

 もっとも自分がいそいそと彼の家に出かけていく目的の半分は、可愛らしい室内飼いの子犬に会う事でもあったのだが。

 個人的には猫が好きなのだが、犬も大好きだ。

 自分の実家は父親があまり動物を好きではなかったのと、死んだらかわいそうだ、という身勝手な感覚から、一度も生き物を飼った事はない。

 いや、そういえば妹が一度、真っ白な文鳥を貰ってきて飼っていた事があったか。

 白くてほっぺたが丸くて、ふわふわの羽毛とつぶらな瞳がとても可愛かった。

 ただ、気性は荒くて、掃除や餌、水の世話をしていた自分にも妹にも、容赦なくガリガリと噛み付いてきていた。やはり籠の中ではストレスがたまるのだろうか。

 その攻撃的な文鳥が死んだ時のロスがひどかった。まる三日、ろくに何も喉を通らなくて、ひたすらぐったりとして、学校まで休んだ。

 休んだ理由を教師に聞かれて、文鳥が死んで悲しかったからだと答えると、もっとマシな嘘をつけと説教されてしまった。この教師には何故その辛さがわからないのかと、本気で悩んだ事もあった。

 小さな小鳥ですらこれなのだから、猫や犬など、恐ろしくて飼おうという気にもなれない。万が一、自分の不手際で死なせたりしようものなら、一生立ち直れる気がしないからだ。

「なんだ?何を思い出してるんだ?」

 こちらの尻を撫で回しながら、ソウが耳元で囁いた。密着した胸から、声帯の振動が直接こちらの身体にも伝わってくる。

「うん、マルちゃんの事とか、あと昔飼ってたシロちゃんの事とか」

 シロちゃんというのは文鳥の事だ。安易な名前だとは思うが、愛玩動物の名前は分かりやすいほうが良い。呼ばれる方も覚えやすいだろう。

「ああ……お前、滅茶苦茶落ち込んでたもんな。流石にあれは心配したぞ」

「なんで皆平気なんだろう。私とは感覚が違うみたいだけど」

「別に平気なわけじゃねえよ。ただ、折り合いをつけてるだけだ。あと、お前は優しすぎるんだよ。それはそれで美徳だと思うけどな」

「優しいかなあ」

 自分で自分の事を優しいなどと思った事は無い。怒る事は滅多にないが、それは怒っても仕方がないと諦めているからだ。

 ある程度他人に優しくするというのは人として当然の事だし、結果的にそれで人間関係が円滑になる事も多い。別に他人の為ではない、自分を取り巻く環境のためにそうしているだけだ。

「優しいだろ。こうやってずっと尻を揉んでても怒らないし」

「それは、ソウだからだよ。知らない男に触られたら、流石に怒るよ」

「そうだな、それは俺も怒る」

「触るのはお尻だけでいいの?」

 上体を持ち上げて挑発的に微笑むと、彼の腕が当然、こちらの前にやってきた。

「そんな訳がない。全部触りたい」

 中で彼のものが、急激に力を取り戻していく。今夜の営みはまだまだ続きそうだ。



 翌日は雨が降っていた。

 視界の悪い中、事故を起こさないように気をつけながら駐屯地へと向かう。

 毎朝門の前に座り込んでいた人達は、雨天のせいか一人もいなかった。『希少生物を守れ!』と書かれた白いプラカードが、持ち手を失い、雨に濡れて転がっている。

 あれはゴミとして処分しても良いものなのだろうかと、自分にはまるで責任の無い事を考えながら、立哨に開けてもらった門をゆっくりと通り過ぎる。駐屯地内は基本的に徐行運転だ。

 駐車場にクルマを駐め、傘をさしていつもの建物へと向かっていく。

 10月の雨はもう秋雨と言っても良いだろうに、気温はじっとりと高い。

 大好きな季節である秋が中々来ないことに、僅かばかりの寂しさを感じる。既に野菜も魚も秋のものがスーパーに並んではいるものの、この気温では食欲の秋、というほどの増進効果が得られないような気がしてならない。

 気持ちの悪い湿度を振り払うように、庇の下で傘についた水滴を払い落とす。雨天でも訓練はあるらしく、防衛隊員の集団が雨具を着けて建物の前を通り過ぎていった。

 かれらが通り過ぎる時、こちらに向かって幾人かが手を振っていた。それに気づいた先頭の曹長が怒鳴ったが、彼自身の表情も穏やかな笑顔をしていた。割ともう、慣れっこになっているのだ。

 駐屯地内にいる人の顔は殆ど覚えてしまった。士官も含め、用事で駐屯地の中を移動すると、誰かしらに会って声をかけられるものだ。

 ここにいるのは陸上防衛隊員が多いが、滑走路側の建物には航空も駐屯している。『紫電』の搭乗員は全て航空防衛隊員だ。

 海防の人間はまず見ない。そちらは港の方か、或いは近くで一番大きな所だとアキ県か、ヤマシロの北部にある基地だろう。

 あまり海上防衛隊の人達と接点が無いのは、基本的に恐竜は陸上に出現するからだ。

 海上に出現した、という話はまるで聞いたことが無いのだが、仮に出てきても海の藻屑になってしまうから、ではないかと思われる。

 どちらにせよ、首長竜や魚竜なんかがいなくて助かった。水中では流石に駆逐者と言えどもどうしようもない。

 傘を入口にある傘立てに置いて、監視室の前へと向かう。窓口で顔なじみになった女性隊員に声をかけると、彼女は下を向いて作業をしていたオオイに声をかけた。

「毎日やる事が多くて大変そうですね」

 我々の出動がなくとも、オオイは何かしら仕事をしている。くつろいでいる姿はあまり見たことが無い。オーバーワークではないだろうか。

「いえ、午前中ですからね。朝一で処理しなければならない事も多いので。昼を過ぎれば多少は手が空きますよ」

「そうですか。あまり無理をしないでくださいね。オオイ二佐は他に替えが利かないので」

 そう言うと、何故か彼女は苦笑いを返してきた。

「ミサキさんに言われると、なんだか複雑な気分になりますね。どちらかと言えば、替えが利かないのは皆さんの方ですから」

「それもそうですか。マンパワーに頼り切りというのは、あまり良い現場とは言えないですね」

 二人して乾いた笑いが出る。こればっかりは、マニュアルを整備して他の人間でもできるように、とはいかないのだ。

 女性で幕僚課程を終わらせている人間などごく少数だし、今更別の人間に交代する、というわけにはいかない。

 自分たちはそもそも人を外れた存在なので、代わりが居るのならさっさと連れてきて戦力に加えろ、という具合である。対竜戦線は薄氷の上に立って成立しているのだ。

 マツバラとサカキを待つ間、このところの竜の出現の無さについて話をする。

「やはり、大物がやられたので、も慎重になっているのでは、と思われますね」

 先の異形竜を撃退した後、こちらにも、アトランティックの受け持ち範囲にも、竜災害の発生は無い。

 以前であれば二週間と待たずに次の竜が発生していたのだが、不気味なほどの沈黙が訪れている。

 こちらとしてはその方が楽だ。戦わなくて良いのだから、出かける必要も無く、トレーニングだけ積んでいれば良い。半分遊んでいるようなものである。

 だが、これはさらなる大災害の予兆である事は疑いようもないだろう。

 前回の被害は、悲惨としか言いようのないものだった。

 ツェン市に発生したあの竜は、執拗に、徹底的に街を破壊し、人を殺し尽くした。

 出現した都市部にいた、およそ30万人が全滅。竜災害始まって以来、未曾有の大災害だという事になる。

 政権交代直後の出来事であった為か、央華国内ではワン主席の指導力を疑問視する声も上がったと聞く。当然、独裁国家ではそのような声は許されずにすぐに沈黙したが、諸外国のこの災害に対する姿勢は様々だ。

 基本的には西側諸国では、央華に対して同情的な反応が多数だ。

 元々マオからワンへの政権交代が歓迎されていた面もある上に、これだけの人死が出た以上、他国も他人事ではいられない。

 人道的支援も含めて、あらゆる国から被災国、被災地に、様々な手が差し伸べられている。

 一方、逆に冷ややかな姿勢を見せているのが連邦を筆頭とする東側諸国である。

 同志の一大事、ということで、表面上は死者や央華に対し、哀悼の意や労いの言葉をかけてはいるものの、支援に関しては余裕がない、という理由から、二の足を踏んでいる所が多い。

 元々西よりの政権誕生を疑問視する声が多かった事も含めて、東側各国の指導者は、表立って支援を表明する事ができないでいるらしい。面倒なことである。

 そもそも竜災害というのは、世界のどの国であっても他人事ではない。次はどこに出現するのか、古代の恐竜の胸先三寸なのである。

 ただ、新古生物側が慎重になっているというのは事実だろう。

 知性のある、あれほど強大な存在を送り込んだにも関わらず、返り討ちにされてしまったのだ。次に送り込むのはより強力な者か、或いは大量の数を投入するか。

 次元転移というものが一体どれほどのエネルギーを消費するのかは分からないが、手軽にほいほいと行えるようなものではない事は確かだ。あちらは一々観測を行っているらしく、手探りのように一定の間を開けて出現していた事からもそれが窺える。

 竜に知性があったことや、あちらの意図によって連中が出現している事は、未だ世の中には伏せられている。

 それ故、各国の報道ではこの小休止の時期に、様々な憶測を巡らせているようだ。

 曰く、打ち止めではないか。曰く、嵐の前の静けさではないか。

 その理由も多種多様で、太陽フレアの影響だとか発生地の終息期に入ったのだとか、はたまたこの災害は宇宙人によるものだという、突拍子のないものもある。人の想像力というのは実にたくましいものだ。

 ただ結局のところ、こちらが取れる手段は限られている。やるべき事をやって備えるしかないのだ。今日もその、備えるべき事の前段階が一つ、自分にはある。

「おはようございます。いつも早いですね」

 サカキが濡れた靴音を響かせながらやってきた。タイル張りの床は水はけがあまり良くなく、目地に溜まる水分が清掃業者泣かせだ。

「サカキさんはいつも時間ぴったりですね。遅刻しないだけ良いんですが」

「5分前には来ていますよ。人聞きが悪いなあ」

 クルマの渋滞を加味すれば、もう少し早めに来ても良さそうだ。今の所彼が遅刻をした事は無いのだが。

「おはよう、皆。カラスマさん、今日はよろしく」

 上から降りてきたマツバラに、三人揃って挨拶を返す。

 彼女は実家を引き払ってきて、この駐屯地のに賃貸マンションを借りたそうだが、基本的には研究所に泊まり込んで仕事をしている。家に帰るのは週に一度か二度、らしい。

 ワーカーホリックも良いところだが、そもそも研究者というのはそういうものだ。仕方がないとは言え、医者の不養生にだけは気をつけて欲しい。

 替えが利かない、という意味では、彼女もそうだし、今ではサカキもそうだろう。

 女医にして新古生物学の最先端技術に触れている彼女は、もう市井の医者に戻る、と言っても許されない立場だ。自分たちにとっても必要な存在である。

 サカキがいなくなれば、メイユィは彼を追いかけていってしまうだろう。そうなれば防衛省も外務省も大騒ぎである。

 また、彼の広報による影響は、案外馬鹿にできない。DDDの認知度の向上に加えて、様々な世代に、竜災害というものの恐ろしさを伝える役目も担っている。

 誰も彼も、崖っぷちで動いている内に身動きが取れなくなってしまった。誰か一人でも欠ければ現場崩壊を招きかねない、危うい状態だ。

 その点はアトランティックの方が上手くやっているのだろうか。軍も外務省の担当も任期性らしいので、交代はいつでも可能だと聞いている。

 ただ、その分の負担はフレデリカにのしかかっている。それはそれで危険な事だ。

 いくら彼女が公爵家の令嬢であろうが、こちらで分担している作業を彼女一人に背負わせるのは、流石に少々荷が重すぎる。いかに彼女が賢く丈夫だろうが、まだ20代前半の若者なのである。

 どっちもどっち、という所だろう。

 余裕がない。人類には余裕がない。獣脚類たちはどうだろうか。


「それじゃあ、この後私は研究室に上がるので」

 トレーニングルームから、マツバラ達と一緒に引き上げようとしたところ、ジェシカがこちらの袖を掴んで引き止めた。

「待ってください。ミサキ、ヒトミ。前みたいなことはしないですよね?」

 心配になったのだろう。不安そうに寄せた眉根と下がった眉尻が、彼女の心情を如実に表現している。

「前みたいなこと?ジェシカ、何かあったの?」

 珍しいジェシカの態度に、メイユィも疑問符を頭に浮かべて近寄ってくる。

「大丈夫だよ。今日はちょっと話をして、注射を射つだけだから」

「注射ですか?ミサキは病気なのですか?」

「ねえ、ジェシカ。前みたいな事ってなに?」

 面倒な事になりそうだ。マツバラもあまり迂闊なことは言わないで欲しい。

「以前、ちょっと実験で失敗した事があって。大丈夫ですよ、二人とも。私は病気というか、まぁ、ちょっとした調整のようなものですから」

 注射をするというのは聞いていなかったが、恐らく採卵する上で必要な事なのだろう。その説明を今日受ける、という話だったのだが、話の後に何かこちらに薬剤を入れる事が決まっていたようだ。

 しつこくジェシカに質問を繰り返しているメイユィを利用する形で部屋を出て、LED照明に照らされた薄暗い階段を上がる。すぐにサカキが同じ質問をしてきた。

「注射って、何の注射なんですか?」

 マツバラは言うべきかどうか迷ったようだが、サカキであれば大丈夫と判断したのだろう。階段を上がりながら、今日する事の説明を始めた。

「本当はカラスマさんだけに説明する予定だったんだけど。注射っていうのは、排卵誘発剤の事。カラスマさんの生理周期は把握してるから、念の為調べはするけど多分、今日で大丈夫」

 オオイは知っていたのか、何も反応しない。だが、サカキは明らかに動揺して視線をあちこちに彷徨わせた。

「え?排卵、って。何でですか?カラスマさん、お子さん、作られんですか?この時期に?」

 いや、普通は通常の妊活にそういう薬は使わないのではないか。そんな物を通常の性行為前に使ったら、双子とか三つ子になってしまいそうな気がするのだが。

「違うって、サカキ君。研究の為に、カラスマさんから卵子を提供してもらうの。今日はそのための前準備」

「え?あ、はい、そうなんですか。……いや、待ってください。卵子を使っての研究って、それ、大丈夫な研究なんですか?」

「大丈夫じゃないから、黙ってて」

「あ、はい」

 青褪めたサカキは俯いた。これが普通の反応だろう。

 彼はエリートだ。黙っていろと言われれば口を噤む。彼の好奇心で聞いた事だが、抱える闇を増やして墓穴を掘ってしまった形になる。

「もう……上で説明しようと思ってたけど、歩きながら話すよ。いい?カラスマさん」

「構いませんよ。二人に聞かれないのなら、どこでも同じです」

 サカキに聞かれても、もう問題はないだろう。オオイは当然、計画の事は知っているであろうし、手間を省くという意味であれば構わない。戻れる時間が早くなるのであれば、それはこちらも願ったりだ。

「まず、静脈注射で薬剤を入れて、卵巣を刺激するの。刺激といっても乱暴な事じゃなくて、文字通り誘発するものだから。これをしないと、一度に成熟する卵子は一つだけだから、一つしか採取できない。一発勝負よりも、予備があったほうが良いに決まってるからね」

 それはその通りだろう。一発勝負だと、失敗したのでまた次お願いしますとなりかねない。負担を考えれば注射をした方が結果的に楽だ。

「で、血液検査と超音波でカラスマさんの排卵状態を毎日確認して、可能と判断したら、一日前にトリガー注射を行う。その後、状態を確認しながら麻酔をかけて卵巣から採卵、という流れ」

「結構細かく調べながらやるんですね。すぐにできるのかと思っていました」

「そりゃね。排卵されちゃったらその卵子は使えないし、未成熟でも使えない。適当に、いい加減にはできないの」

 流石に専門家だけあって説明には淀みがない。恐らく、彼女は産婦人科医時代に、何度も不妊治療を行ってきたのだろう。彼女が即座に研究室に迎えられた理由が何となくわかった。

「麻酔はどうする?全身と、局部があるけど」

「……全身でお願いします」

 できれば眠っているうちに終わって欲しい。意識のある状態で、大切な所を弄られるのはあまり気持ちの良いものではないだろう。

「わかった。それじゃ、上についたらまず体温測定と超音波計測ね。その上で大丈夫そうなら誘発剤を注射して、明日以降、毎日検査をするから」

 わかりました、と答えると、彼女は無表情のまま頷いて前を向いた。

 研究者、医者としての顔を保ってはいるものの、彼女も内心は複雑なのだろう。

 初めて彼女の医院を訪れた時、こちらの事を本気で心配して、あれやこれやと便宜を図ってくれた。本来マツバラは、思いやりのある、倫理観の強い医師なのだ。

 だが、今回の採卵の目的は、彼女が今まで何度も行ってきた、不妊治療の為にするものではない。人倫に背く、過去の科学者には異端と言われるような計画の為である。

 望まぬ子を作る、という意味では、ある種の同意のある強姦、とでも言うか。こちらが断れない以上、そう表現しても差し支えない気がする。

 その行為に積極的に加担しようと言うのだ。彼女の内心はいかばかりであろうか。

 一階に戻ってくると、サカキは黙って俯いて表に出て行った。彼の傘に降りかかる、そぼ降る雨が彼の内心を示しているようだ。

 余計なことを聞いてしまったばかりに、彼も嫌な気分になった事だろう。申し訳無さで胸が痛む。

 だが、動き出した計画は止められない。これは、人類存続のために必要な事なのだ。

 大義のために感情を押し殺し、詳しい彼女の説明の後、左腕に突き刺される注射針をじっと見つめていた。

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