第83話 白き同胞

「オーウェン、ブレンドン、正気か?」

「無論ですよフレデリカ様。やむを得ません。これは必要な安全策です」

 サハラ地域でも比較的経済規模の大きな国、プタハに竜が現れたとの情報を得た直後、国防軍と外務省は同時にその決断を下した。

「協力できるのか?あの子供に」

「せざるを得ないでしょう。いずれ訪れる機会が今回、訪れたに過ぎません」

 呼び寄せるというのだ。あのお隣さんの番犬を。

「災害規模は?」

「機器復帰後にドローンで確認したところ、Mクラス5以上にSクラス多数です。以前、南コリョで発生したもののレベルに近いかと。パシフィックでもあの数には相当に苦戦したそうで、あのミサキ・カラスマ嬢でさえ、戦闘後に暫く動けなくなったとか」

 ミサキが。あの単独でGクラスを倒す程の彼女が動けなくなるほどに疲弊したと。

 数というのは非常に厄介だ。駆逐者と言えども一度に相手にできる竜の数は限られるし、全方位からの攻撃を凌ぐ手段というのは殆ど無い。なので、自分の場合でも地形を利用したり、引き離して各個撃破する事が多い。

 ただ、それだって体力に限界というものはある。いかに我々が優れた持久力を持っているとは言えども、無限に走り続けられるわけではないのだ。

「連邦を調子付かせてしまうぞ」

「計算のうちです。それよりも、皆さんの安全の方が重要です」

 少しだけ考えてみる。連合王国の頭脳は優秀だ。特にこの国防省のオーウェンという男の事も、判断力という点で自分は大きく評価している。

 結論を出したのは上だろうが、彼も異論無し、というのであれば仕方がない。どちらにせよ、我々は言われた通りに竜を駆逐するのが仕事だ。

「分かった。ランデブー地点は?」

 気に食わなかろうが仕事は仕事だ。騒々しい鶏を精々こき使ってやれば良い。その程度の認識で構わないだろう。



 プタハはその国土の殆どが砂漠に覆われた、非常に空気の乾燥した国である。

 その為、大河沿いに点々と存在する大規模な街の人口密度は非常に高く、密集した中で竜災害が発生すれば、凄まじい被害が発生するだろうと言われていた場所だ。

 ただ、幸いにして今回の発生地点は、その国土の殆どを覆っている砂の大地だ。そこまで急がずとも、人的、物的被害は拡大しにくいと言える。

 出現した新古生物というのは、何故か出現した場所からあまり大きく動く事は無い。なにかの縄張り意識があるのか、それとも行動範囲に制限があるのか、詳しいことはよく分かっていない。

 生体を捕獲すればその辺りの事も分かるのだろうが、現状、生きて捕獲されているのはヒノモトの一体だけだ。それに、まさか自然に放ってどこまで移動するかを観察する、なんて事もできるはずがない。

 何にせよ、出現が町中でなくて助かった。だが、それでも安心できるというものではないのだが。

 プタハはサイクロプス島から、内海を渡って向かい側、すぐ近くだ。

 こちらからの移動に音速機を使う必要は無いが、問題は連邦の駆逐者が到着する時刻である。

 彼女、連邦の駆逐者、ルフィナ・ナザロヴァは、基本的にルーシ社会主義共和国連邦、その首都のモスコーに滞在しているらしい。

 位置的には連邦の広い国土の中でも、かなりこちら寄りの街ではあるが、それでもサイクロプス島や北サハラにはかなりの距離がある。

 どのようにして移動してくるかは分からないが、我々とのランデブーポイントはプタハの首都、アルカーヒラの郊外にある空港だ。当たり前だが航空機でやってくるのだろう。

 あまり乗り心地の良くない軍用の輸送ヘリで空港の隅に着陸し、機内で彼女の到着を待つ。外は暑くて乾燥しているので、一応は空調の効いているこの中で待機しているというわけだ。

 どうせなら空港のラウンジで軽食でも摂りながら、と思ったのだが、竜災害が発生しているというのに人前でDDDの人間が呑気に食事でもしていれば、また痛くもない腹を探られる事になる。

 折角ミサキの援護射撃で世論がこちらに傾いたというのに、以前と同じ事をやらかすわけにはいかない。何とも、駆逐者というのは窮屈な存在ではないか。

 ロロとゲルトルーデ、三人で多数相手の戦術を考察していると、暫くして操縦席の方が俄に騒がしくなった。

「どうしたんだい、何か異常発生かな」

『管制が滑走路上の航空機に退避命令を出しています。国籍不明の戦闘機が領空内に侵入したと。こちらへまっすぐ向かっているそうです』

「国籍不明だと?識別信号の解析ができないのか?」

『そのようです……いえ、これは……連邦の超音速戦闘機です!Su-63!』

「ほう。あのお嬢様は中々派手好きのようだね。連邦の最新鋭戦闘機でご登場とは」

『は?あ、あれに乗って来ていると?しかしあれは』

 そう、まだプロトタイプのはずだ。連合王国では情報を得ているが、未だ連邦は公的には量産を開始したとは発表していない。色々と問題のある機体だとは聞いているが。

「良いじゃないか。二人乗りだが、中々良い足だ。航続距離に問題があるのではと思っていたが、ここまで飛べるのか」

「フリッカ、その飛行機、速いのか?」

 話を横で聞いていたロロが素直な疑問を口にした。

「そうだね、巡航速度はどうだか分からないが、戦速であれば『アイオーン』の最高速度を超えるだろうね。まぁ、戦闘機と輸送機では用途が違うのだが」

 そもそも人を運ぶために戦闘機を使うのは非効率的だ。荷物もロクに運べないし、当然ながら三人同時に移動する我々の場合はそんな事はできない。単独行動するが故の彼女の足なのだろう。

 事前通達無しで航路を無視した識別不能の戦闘機が飛んでくれば、そりゃあ管制は慌てるだろう。プタハの軍がスクランブルしなかったという事は、そちらには連絡が行っていたようではあるが。

「出迎えようか。移動はトラックだ」

 輸送ヘリの脇に降り立ち、美しく機首を上げて滑走路に着地した戦闘機へと三人で走って向かう。

 大きな滑走路の隅で止まった尖った機体のコックピットが開くと同時に、中から白い影が飛び出し、音もなく灰色の道の上へと降り立った。

「ようこそ、砂漠の国へ。ピラミッド観光でもしていくかい?」

「私は竜を倒しにきただけだ。観光などしている暇はない」

 ロロと同じか少し高い程度の上背の白い少女は、戦闘機の下にくくりつけてあったポッドのようなものを、跳び上がってどんと蹴りつけた。

 ばかんと開いた輸送ポッドから、巨大な棘付き鉄球と、それに繋がった鎖と柄が落ちてくる。

「適当な開け方だな。連邦はいつもそうやって荷物を出しているのか?」

 ゲルトルーデが呆れて肩を竦めた。

「我が祖国の製品は頑丈が取り柄だからな」

「カラシニコフでも蹴り飛ばしてみるかい?駆逐者の力だと弾倉が歪んでしまいそうだね」

「お前らは本当に能天気だな。竜を殺しに行くんじゃないのか」

「そのつもりさ。何、初めての共同作業だ。精々楽しくやろうじゃないか」


 軍用トラックに乗り込み、むすっとした表情で座り込んでいるルフィナを眺める。

 見た目は非常に可愛らしい。

 前回は茶色い帽子に隠れて見えていなかった薄く細く長い金髪が、薄手の真っ白な服に良く似合って、その姿を際立たせている。

 幼い容姿の割に切れ長の瞳と長いまつ毛、彫りの深い憂いを帯びた表情が、どこか幼さを越えた色気のようなものを醸し出している。

 窓辺で外を眺めていたりすれば、それはもう一枚の絵画として成立してしまうほどの、儚げな美少女だ。

 駆逐者というのは総じて見目麗しい事が多い。だが、このルフィナという少女は、肌の白さも相俟ってその美しさが段違いだ。成長すればゲルトルーデのように輝くばかりの美人になるであろう。

「なぁなぁ、ルフィナ。ルフィナは竜の肉を食ったことあるか?」

 物怖じしないロロが彼女に話しかけている。いきなり食べ物の話になるところが彼女らしすぎる。

「ない。あれを食い物だと認識した事はない」

 無愛想に答えた彼女にも全く気を悪くした様子もないロロは、そのまま続けて話し続けている。

「そうなのか!?美味いぞ!ミサキが作ってたカラアゲも美味しそうだったけど、こっちのシェフが作ったテリーヌ?とか、ポワレ?も、すごく美味かったぞ!ルフィナも食べてみろ!」

「うるさい。あれを食うなどと、共食いのようなものではないか。竜人ドラゴノイドのくせに」

 竜人。そういえば、シビルで迎えに来た軍人も同じような事を言っていた。

竜人ドラゴノイド?何だ、それは。ファンタジーの設定か?」

 ゲルトルーデが勝手に聞きたいことを聞いてくれる。黙って拝聴しておくべきだろう。

「我々の事だ。お前たちが駆逐者と言っている者の事だな。我が祖国ではそのように呼んでいる」

 それは分かる。だが、問題なのはその呼び名の事だ。ルーシ語でも連合王国語でも、竜の人というのはつまり、そのままの意味だ。

 物語に出てくるような、半人半竜の生き物で、その見た目はトカゲ人間のようなものという事になっている。どう見たって、美しい人間の容姿をしている我々には似つかわしくない単語だ。

「何だ、お前たちは知らされていないのか?我々の体細胞には、あの忌々しい恐竜とかなりの類似点があるという事を」

 トラックの中の空気が凍りつく。固まっていないのはロロだけだ。

「そうなのか?そう言われてみればそうだな!再生力も高いし、力も強いぞ!」

「それだけではないが、まぁ、そういう事だ。そちらの研究者は、お前たちに教えていなかったのか?現代の科学では検出できない遺伝部位にそれが含まれているだろうという事を」

 知っていた。それは知っていた。だが、表立ってそれを言ってしまえば、誰もがこう言うだろう。お前たちと竜にどんな関係があるのだ。竜災害はお前たちのせいではないのか、と。

 トップシークレットなのだ。故に、この事は自分にしか知らされていない。ロロもゲルトルーデも知らないし、あちらでは……ミサキは聞かされているだろうか。彼女であれば知っていてもおかしくないが、基本的に表に出してはいけない情報なのだ。

『聞かなかった事にしてくださいね』

 イラブ語で前に呼びかける。返事はなかったが、運転しているのは将校だ。理解はしているだろう。

「私達の力が何からくるものであれ、竜を殲滅する事に違いはない」

 ゲルトルーデが動じずに言った。それに対して、珍しくルフィナも小さく笑みを浮かべて言った。

「その通りだ。私達はそのためにいるのだからな」

 本当にそうだろうか。自分は少し違った考えを持っている。

 だが、ロロもゲルトルーデも、彼女の意見に微笑んで同意している。わざわざチームワークを乱す必要などないだろう。

 砂漠仕様のトラックは、独特な駆動音を響かせて戦場へと我々を運んでいく。

 竜人が、竜を殺すための戦場へと。


 遮蔽物が殆ど無いというのは有利な場合もあるが、こと大群を相手にする場合は大体において厄介だ。

 視界を遮られることが無いというのは相手も同じ。となれば、数が多いほうが有利になりやすい。

 おまけに足の下は目の細かい砂で踏ん張りがききにくい。機動力を殺され、全方位からの攻撃を余儀なくされる。

「円陣を崩すな!穴ができた所から狙われるぞ!」

 正直かなり厳しい。

 自慢の足と跳躍力が活かせないというのもそうだが、常に同時に2、3体を相手にしなければいけない。いくらSクラスだとは言え、鋭い爪や牙が刺さろうものなら出血を強いられ、集中力が低下する。パフォーマンスが下がれば当然被弾も多くなる。鈍感な竜と違って、こちらはあちこちに急所のある人間と変わらないのだ。

 左右から飛びかかってきた細い首のトカゲから、僅かに身体をずらしてギリギリでその爪の一撃を避ける。噛みつこうと大口を開けた所に細剣を連続で突き出し、頭部を粉砕する。

 常に襲い来る鋭い攻撃を躱しながら、同時に一体にトドメを刺す。空いた所にまたやってくる、とこういう具合だ。キリがない。

 正直な所、対多数はあまり得意な方ではない。

 細剣という武器の性質上、ロロやゲルトルーデのように纏めてなぎ倒すといった力技が使えない以上、地道に単体を始末していくしかないのだ。

 それでもいつものように動ければSクラスなど、敵ではない。しかしながら、生憎とこの足元の不安定な砂漠の地は、竜どもにとって有利な環境にあるらしかった。

 ただ、小型の竜の背後をうろついているMクラスの動きは鈍い。そちらから視線を外す事はできないものの、その重量のせいか、砂に足を取られて思うように動けていないようだ。

 また一つ、けだものの細い首の先についた司令機能を吹き飛ばす。数は減らしてはいるものの、流石に多い。それに、いつもよりも消耗が激しい。

「ぐぅっ!このっ!」

 左後方、視界の隅で血しぶきが飛んだ。竜のものではない。

「トゥルーデ!集中を乱すな!」

「わかっている!くそっ!しかし、多すぎる!」

 総勢30体以上もいた竜どもは、戦闘開始直後から、両脇に広がって取り囲んできた。明らかにどう攻撃すれば有利かというのを理解している動きだ。

 重量のある武器を抱えたこちらは走って逃げる事を早々に放棄、已む無く全方位からの攻撃を各個で対応するという戦法を取らざるを得なかった。

 右方では砂塵が噴き上がる。ロロが叩きつけた巨大な鉄槌が、竜の胴体ごと、その頭部を砂の大地にめり込ませる。

「くっそー、下がこれだと、威力が出ないぞ」

 叩き潰した竜は絶命したものの、衝撃を吸収する砂の上では、彼女の武器はいつもよりも強く振り回さねばならないようだ。

 叩きつけて開いた彼女の前の空間に、砂塵を切り裂いて二体同時に飛び込んでくる。

「くっ!」

 こちらに蹴りを浴びせてきた鈎爪が、浅く皮膚を裂く。気にしてはいられない。ロロの左にいた竜の方に跳びつき、上半身の捻りだけで強引に刺突を放った。

 片方は始末した。ロロ、早く武器を持ち上げろ。武器で受けろ、間に合わなくなるぞ。

 深く砂にめり込んだハンマーを掲げようとするロロ。だが、一瞬間に合わない。

 細かく鋭い歯の並んだ真っ赤な顎が彼女に迫る。まずい、やられる。

 ロロに食いついてきた竜は、口腔を閉じようとしたその直前、身体を大きく弾け飛ばして後方へ千切れて飛んでいく。これは。

「ぼさっとするな。こういった場所では、直線ではなく回転の動きを意識しろ」

 砂漠の熱を反射する白装束が、手に持った鎖を大きく振り回している。先程の一撃は、遠心力を乗せた棘鉄球の一撃だ。

「なるほど!助かったぞ!ルフィナ!」

「あっ!おい、こら!」

 ロロはそう言うなり、巨大なハンマーのギミックを起動し、その柄を長い物へと変形させた。一人で突出して、Sクラスのど真ん中に飛び込む。

「くだけろぉ!」

 小さな体が乾燥した砂を巻き込み、竜巻が発生する。

 獲物が来たとばかりにその竜巻に飛び込んだ竜は、振り回された巨大な鉄塊に叩き伏せられ、吹き飛ばされる。ルフィナに言われた通り、叩き潰すのではなく吹き飛ばすといった回転運動だ。

「おいおい、意識しろとは言ったが、敵のど真ん中でそれをするのか」

 止まった時に一斉に襲いかかられたら対処のしようがない。自分と同じく呆れたルフィナの心配をよそに、今度はゲルトルーデまでもがその真似をし始めた。

「うおおおおおっ!」

 腕力に物を言わせて、もう一つの竜巻が発生する。砂塵を上空へ巻き上げ、全てを叩き斬る刃の嵐が左舷の恐竜たちを巻き込んでいく。

 呆れた戦い方だ。一人だとすぐに力尽きてしまうだろう。だが、今こちらには4人いる。

「ルフィナ!合わせろ!」

「私に命令するな!」

 それでも彼女はこちらの意図を察して追いかけてくる。背後から迫っていた小型のトカゲは、寄ってきた二つの竜巻に巻き込まれて吹き飛ばされ、四肢を両断されていく。

 正面から向かってきたSクラスの攻撃を紙一重で躱し、すれ違う。同時に砂の大地を蹴りつけ、その竜の上へと跳躍する。

 足場が悪いのなら、作ってしまえば良い。

 飛び石を渡るかの如く、次々と寄ってきているトカゲ共を足蹴にする。狙いは奥でうろついているMクラスだ。

 自分が蹴り飛ばしたSクラスは、当然こちらに意識が向く。そこを背後から飛んできた鉄球が全て一撃で粉砕していく。やはり、このルフィナの攻撃の正確さは相当なものだ。

 軽やかに竜達の背中を蹴り、自分よりも遥かに上背の高いMクラスへと近づく。砂に足を取られてゆっくりと近寄ってきていたそいつらは、向こうから獲物がやってきたとばかりに全員がこちらに殺到してくる。

 空中に飛び出す。後ろでぐしゃりと骨の砕ける音がした。退路は無い。

 空中では制動が効かない。大きく飛び跳ねたこちらの先に待つものは。先頭のMクラス。

 醜い顔だ。ごつごつとした皮膚には所々にできもののような突起があり、開いた鼻腔からは僅かに鼻水が漏れ出している。

 大きく開いた口腔に並ぶ歯だけは一人前に綺麗に生え揃っており、内側にある次の歯列までもが確認できた。

 高まった集中力の中、ゆっくりと過ぎる時間。開いた顎の先端を蹴り、その竜の背後に跳ぶ。

 がちんと閉じられた音を確認した直後、背後の首筋から一撃、右手を滑り込ませるように細剣を放った。

 根本まで食い込んだ剣をすぐさま引き抜く。血と脳髄で汚れた白銀の刃を気にすること無く、次に迫った竜へと顔を向ける。

 噛み付いてきている。仲間ごとこちらを噛み砕くつもりだろう。遠慮も何もなし、やはり知能の低い獣か。

 鋭く飛び跳ね、すれ違いざまに今度はそいつの耳元から鋭く突き刺し、引く。同時に動きの止まった一体目に、横面から強烈な勢いの鉄球が飛んでくるのが見えた。

 意図通り。問題ない。即席のペアとは言え、我々は駆逐者だ。瞬時に連携を組み、知性の必要な殲滅作戦を実行する事ができる。

「素晴らしいぞ!ルフィナ!」

 立て続けにMクラスの間を跳び回り、触れると同時に様々な角度から竜の脳を抉る。

 瞬間的に動きの止まったその頭部には、容赦なく棘付きの鉄槌が下される。

 醜い竜の間で舞踏を踊る。だが、踊っているのは自分と白き竜人のみ。醜き獣はただ、ダンスの誘いを断られ、動きを止めて地に伏すのみ。

 最後の一体の頭部が破裂したのを逆さまの視界で見届けて、熱く柔らかな大地に音もなく舞い降りた。

「どんなからくりだ。とんでもない動きをする奴だな、お前は」

 半ば驚愕を顔に貼り付けた白い少女が近づいてくる。

「お褒めに与り光栄だよ。君も凄いじゃないか。こちらの意図を汲み取って、全て一撃でMクラスを粉砕とは。素晴らしい、実に素晴らしいよルフィナ!」

 細剣を砂に突き刺し、彼女を抱きしめる。とんでもない逸材だ。連邦はこんな秘蔵っ子を隠し持っていたのか。なるほど、これなら一人でいけると連邦の上層部が勘違いしてしまうのも頷ける。

「お、おい、やめろ。曲芸みたいな動きをしたかと思えば、全く。本当に良く分からない奴だな」

 照れたのか、少し頬を赤くしてこちらを引き剥がす少女。それがなんとも可愛らしい。

「いいじゃないか、折角の勝利だ。仲間と祝福し合うのは当然だろう?」

 周辺を見渡せば、そこかしこの砂丘に延々と横たわる竜の死骸。

 両舷の竜巻となったゲルトルーデとロロが、Sクラスをほぼすりつぶしてしまったのだ。

 Mクラスに至るまでの背後には、全てルフィナが叩き潰した小型の死体。どれもこれも的確に急所である頭部が破壊されており、彼女の攻撃の精密さとその威力を物語っている。

「あの数を、二人で殲滅したのか……無茶苦茶だな」

 累々と横たわる死骸を見て、彼女もまた感嘆の声を漏らす。

「二人の火力だけは特級品だからね。まぁ、普段だったらあんな事は絶対にさせないんだが」

 四人いたからこそ、後を考えずに全力で武器を振り回せたのだ。特に障害物のない砂漠であったことも有利に働いたと言えるか。

 流石に疲れたのか砂の上にしゃがみこんでいる二人に近寄っていく。二人共軽い怪我をしていたようだが、既にその傷も塞がっている。

「二人とも、おつかれ」

 砂の上に武器を転がした二人は、立ち上がるのも面倒とばかりに手を上げて返事をした。

「おー、疲れたぞー」

「流石に多かったな」

 一人ずつ手を貸して引っ張り上げると、尻の砂を払ったロロが、ルフィナに近づいていって抱きついた。

「ありがとう!ルフィナ!さっきは助かったぞ!」

「あ、あぁ……いや、大したことではない。ロロ、と言ったか。お前も物凄い火力だな。私以上じゃないか」

 ゲルトルーデも立ち上がった後、大剣を鞘に戻しながら感心したように言う。

「いや、本当に助かった。恐らく我々だけではこの大群を相手にするのは、相当危うかっただろう。その鎖鉄球、素晴らしい攻撃範囲と威力だな。攻撃の精密さにも驚いた」

 精密さ、そう、彼女の最も驚くべき所はそこだ。

 寸分違わず竜の頭部を打ち据える正確性、味方の邪魔をしない武器の取り回し、威力を兼ね備えた上でそれを行うのは、並の習熟度では不可能だ。恐らく一人でもかなりの戦闘をこなしてきたのだろうと窺える。

「それは……まぁ」

 照れている仕草が大変可愛らしい。

「なんだい、ルフィナ。褒められているのだからもっと胸を張りたまえ」

 ロロから彼女を引き剥がして抱き寄せる。

「おい、やめろ。いや、あまり褒められたことが無いものだから、すまん」

「褒められたことが無い?君は人々を守る駆逐者だろう?感謝される事なんて当然あるんじゃないのか?」

「それは……」

 どうやら少し言いにくい事らしい。それなら、と、口ごもる彼女に笑いかけて言った。

「一旦戻って食事にしようじゃないか。当然、我々の奢りだぞ。ほら、丁度プタハの軍もやってきたところだ」

 戦闘終了と同時に、ウェアラブル端末から完了信号が送られる事になっている。いちいち手動で連絡しなくとも、勝手にこちらの体内情報から竜の殲滅を読み取って、自動でその国の軍へとGPS情報が送られるようになっているのだ。

 死亡時の事は考慮されていない。我々が死んだら、その時点で人類は滅びへの道を歩み始める事となる。死刑宣告をされたところで、誰も喜びはしないだろう。

 食事と聞いて少しだけ顔を緩ませたルフィナの肩を抱いたまま、やってきた巨大な砂漠仕様のトラックへと乗り込んでいった。



「えっ!?ルフィナは毎日そんなものを食べているのか?」

 軍用糧食の中でも最底辺と言われるような保存食を見せられたロロは、目を丸くして驚いた。

 食事の席となれば、普段は何を食べているのか、何が好みかという話にもなる。

 ルフィナは母親の作ってくれた煮込み料理が好物だと言ったが、普段は軍で食事をしているのだとそれをこちらに見せたのだ。。

「まぁ、私は大量に食べるから。他の将校や兵士よりは、粗末なものになるのはしかたがない」

 出された茄子とひき肉の煮込み料理と、ベシャメルソースのグラタンのようなものを美味しそうに食べながら彼女は言う。

「君は連邦の救世主じゃないか。どうしてそんな境遇に甘んじているんだい」

 多少の贅沢は許される身だろう。彼女がいなくなれば連邦の世界での立場は悪化し、それどころか竜災害だって拡大してしまう。もっと栄養のあるものを、しっかりと食べさせるのが国としての責務ではないだろうか。

「それは……私が竜人ドラゴノイドであるという事と、望まれない子だからだ」

「……どういう事だい」

 いかに恐竜の特徴があろうが、彼女は、いや、自分達も人である事に変わりがない。

 意思疎通ができ、理性を持ち、感情を持って生活している。突発的に現れた身体の異変によって差別されるなど、あって良い話ではない。

「恐れているんだ。私の事を。我が祖国では、独自に竜災害についての研究を進めている。機密なのでその内容を言う事はできないが、その過程で恐ろしいものを見つけた、と、聞いている」

「恐ろしいもの?」

 連邦は一体どのような研究をしているのか。こちらで掴んでいない情報を持っているのだとすれば、それは、こちらではできない研究を行った、という事だ。まさか。

「ルフィナ、君、何かされたのか」

 ざわざわと総毛立つのを感じる。あり得る話だ。あの国は指導者の下、かつて様々な非人道的実験をしていた事でも知られている。何かしたのか、この子に。

「私は五体満足で生きている。それだけで十分だろう。それに、私が逆らえば、お母様が……」

 そうだ、彼女は母親がいると言った。つまり、身元がしっかりとしているという事だ。私と同じ様に。

「お母様、か。ルフィナ、君はその身体になる前の記憶があるのかい」

 彼女は黙って首を振った。

「いいや。何も覚えていない。ただ、気がついたら自宅のベッドの上にいた。朝、私が起きてこないので、お母様が様子を見に来たんだ。その時の驚いた顔ははっきりと覚えている。それが私の最初の記憶だ」

 つまり、彼女は自分と同じく自宅のベッドの上で転換を起こしたという事だ。

「君のお母様は、その時何とおっしゃったんだい」

「『どうして若返っているの』だ。話を聞けば、私はもっと年上の人間だったそうだ。46の母が18の頃に産んだのが私だそうだから、私は今年で28歳になる」

「……その見た目で、僕より年上なのか。そりゃあ、お母様も驚くだろうな」

 それよりも驚いたのはこちらだ。彼女の年齢もそうだが、記憶がないまま、身元のはっきりしている唯一の駆逐者という事になる。

 対外的には自分と同じだろうが、ミサキの時と同様、それぞれ微妙に境遇が異なる。

 自分は元男であり、転換前の記憶があり、身元がはっきりしている。

 ミサキは元から女であり、転換前の記憶があるが、身元は不明で両親はいない。

 ルフィナは性別と記憶はミサキと同じだが、母親がいる。このケースは初めてだ。

「お前の父親は誰なのだ?さっき、望まれない子だと言っていたな」

 ゲルトルーデが白身魚の蒸し焼きを豪快に口に放り込みながら、聞きにくい事を直接聞いた。マナーとしてはどうかと思うが、それは自分も気になっていたところだ。

 彼女は少し言いにくそうにしていたが、暫く思い悩んだ末にゆっくりと口を開いた。

「私の父は……現書記長、ヨセフ・ミロヴィチ・ウリヤノフだ」

 頭を殴られたような衝撃を受けた。何だと、今、彼女は何と言った。

 現書記長の娘、ウリヤノフ書記長の娘だと?

「偉い人の子供なのか?その割に、あんまり大事にされてないなー」

 ロロが煮込まれた肉団子を頬張りながら言う。そうだ、その通りだ。

 よりにもよって国の最高指導者の娘であれば、もっと手厚く保護されるはずだろう。戦場にたった一人で放り込まれ、人に言えないような実験までされて。

「親愛なるヨセフ書記長は、モスコーのあちこちに妾を持っている。私の母もその一人だった。だが、母は私を産んだせいで遠ざけられた。私のせいなんだ」

 なんだ、それは。中世の貴族ではないのだぞ。いくらなんでも、非道過ぎないか。子供を産ませた挙げ句、それを理由に放り出すなど。

 確か、ウリヤノフは今年で65歳になるはずだ。彼女の年齢から逆算すれば、彼が37歳の時の子という事になる。

 彼が今の政権を築き上げたのが24年前の話だから、大粛清を終えて化石燃料を武器に、軍事大国へと突っ走っていた時期だ。相当に血の気も多かった事だろう。それにしたって。

「その事は、連邦ではどれぐらいの人が知っているんだい」

「お母様と……軍の一部の人間と、あとは親愛なるヨセフ書記長の周辺の僅かな人々だけだ」

 とんでもない事を聞いてしまった。だが、こんな事、本国の耳に入れるというのはどうなのだろうか。

 不遇な彼女の境遇を考えると、外交の手札として使うにはあまりにも不憫すぎる。ましてや彼女は駆逐者だ。仮に彼女の母親が情報を漏らした罪で処刑されようものなら。

「二人とも、今聞いたことは黙っておこう。誰にも話してはいけないぞ」

「わかってるぞ」「無論だ」

 記憶を失っているという事は、彼女にはまだ数年分の経験しかない。ロロ達と同じ、子供のようなものだ。

 その上で彼女が大切に思っている母親に何かあれば、彼女がどれだけ悲しむか。それだけじゃない、逆上した彼女が暴れてしまえば……。

「何故だ?この情報は、お前たちの国にとって有益な情報ではないのか?」

「損益よりも大切な事があるだろう。僕らは同じ境遇の仲間じゃないか。そうだろう?」

「そうだぞ!ルフィナは友達だ!」

「駆逐者同士、助け合うのは当然だ。パシフィックの者たちも同じことを言うだろう」

 彼女達は心からそう思って、そして自分は若干の危惧も理由に彼女に語りかける。

「……そんな事を言われたのは初めてだ。こんなに色んなものを腹いっぱいに食べたのも。ありがとう、フレデリカ、ゲルトルーデ、ロロ」

 彼女は最後の一口を飲み込むと、泣き笑いのような顔をしてこちらに感謝の言葉を告げた。目尻に輝くものがあったのは、多分、見間違いではない。



 来た時と同様に、軍用輸送ヘリに乗って島へと帰還する。ルフィナもまた、来た時と同じ様に、戦闘機に武器を積んで帰っていった。

 帰ってくるなり、会見を設定してあるとFCDOのブレンドンに告げられる。毎度毎度、疲れて帰って来たこちらに配慮のかけらも無い事である。

 ただ、それでもこれは自分の責務だ。公爵家の娘として、やるべき仕事を放り出すわけにはいかない。

 そう考えて苦笑した。何かに縛られているのは、自分とてルフィナと同じではないか。こちらは人権に配慮されている分、多少はマシ、というだけだ。

 サイクロプス島の会見場として使っているいつもの公民館へと移動する。竜災害があった後はいつもこれだ。専門の広報官を使っているミサキが非常に羨ましい。こちらも一人、そういった人間をつけてもらう事はできないだろうか。

 ブレンドンも外務省の人間として有能ではあるものの、期限がきたら入れ替わりで本国へと帰ってしまう。彼は専ら、マネージャーのような役割をしているだけだ。

 国防省のオーウェンも優秀ではあるが、彼はあくまでも国防省の人間、言わば軍とこちらとのパイプ役である。そう思うと、こちらの意図を汲んで補佐してくれる人間が、もう一人いても良いのではと思ってしまう。

 とは言え、そんな事を口に出そうものなら、またお母様から厳しいお言葉を頂くことになる。曰く、『公爵家の長女がそのように大切な事を人任せにして良いとでも思っているのですか』だ。

 ノブレス・オブリージュというのも中々辛いものだ。絶滅危惧種である貴族として生まれたというだけなのに、これも一種の逆差別というやつではないだろうか。

「お待たせしたね、諸君。まずは簡単に今回の災害について報告させてもらおう。場所はプタハ、首都アルカーヒラ郊外から南東へおよそ150キロメートル程の砂漠地帯であり――」

 単なる報告だ。出現した竜の数を言うと、場が大きくどよめいた。恐らく、先のバーラタに現れたGクラス二体の出現を除けば、過去最大級の規模となる。

 一通り説明を終えたところで、司会が質問に手を上げた記者を指名した。

『ステイツ・ジャーナルです。Mクラスも含む30体規模というのは、過去に例を見ない大群だと思われますが、被害の程はいかがでしたか』

「災害発生地点が良かったのだろうね、人的被害はほぼゼロだと聞いている。現場に負傷者も死者も見かけなかった。詳しい報告はプタハから上がってくるだろう」

 続いて指名されたのは、東洋系の女性だった。

『デイリー・ホンハイです。今回の作戦には、連邦の駆逐者が参加したと聞きました。戦力としての彼女はどうでしたか?また、連携は上手く取れたのでしょうか』

 これも答えるのに問題はない。中核に切り込めるほど、まだ世界は情報を握っているわけではない。

「彼女は非常に強力な駆逐者だったよ。詳細は連邦の発表に譲るが、連携も全く問題ない。我々は駆逐者なのだから、即興でいくらでも可能だ」

 あまり感情を込めてはいけない。感情移入しすぎている事がバレれば、彼女にとっても、自分達にとってもあまり良い影響が無いのは分かりきっている。

『グラスゴー・プレスです。連邦の駆逐者が到着するのを待っているというのは、被害の拡大に繋がらないでしょうか。今回はたまたま人のいない地域だったようですが、合流する前の遅滞戦闘などは』

 眼鏡をかけた黒人男性に、苦笑と共に返答する。

「今回の規模を、遅滞戦闘だって?グラスゴーの新聞社は、パシフィックで公開されている映像でも見て、もう少し新古生物の生態を勉強する事をオススメするよ。仮に今回の規模で遅滞戦闘など行っていれば、間違いなく被害が拡大したか、あるいは僕らが死んでいただろう。自ら首をかけた断頭台の縄を切り落とす気かい?」

 現状は我々が水際であり、その後は無いのだ。安全な場所にいる者達は、その事をまるで分かっていない。

『しかし、実際に人の命が失われてもその事が――』

「より多くの命を危険に晒すことを、僕達は良しとしない。君が僕達に死ねというのは自由だ。だが、その後の事を良く考えてほしい。忘れていないかい?いくら強いとは言っても、僕らも君たちと同じ、人間なのだよ」

 同じだ。竜人ドラゴノイドと言われようがなんだろうが、美味しいものを食べて笑い、友人と語らって涙を流す、普通の人間なのだ。我々は超人ではあるが、空想上の神や悪魔などではない。

 司会が新たに指名した。背の低い赤毛の男性だった。

『エウロ・ニュースです。竜災害の鎮圧、大変お疲れ様でした。今回、連邦の駆逐者の参加によって、連邦の立場を強くするような形になったと思いますが、その辺り、どのようにお考えでしょうか』

 それは駆逐者に聞くべきことじゃない、政治家に聞くことだろう。

「僕達DDDは、連邦出身だろうがなんだろうが、駆逐者であれば仲間だと思っているよ。パシフィックのミサキでも同じことを言うだろう。政治的な駆け引きは、僕らじゃなく本国か欧州連合、または連邦に直接聞いてくれないかな?」

 最初は自分もこの記者と同じような懸念を持っていた。だが、彼女に会って一緒に戦い、共に食事をし、その境遇を聞いた以上、彼女は、ルフィナはもう我々の大切な仲間だ。

『質問を変えます。ミズ・ゴールドクラークの個人的印象として、連邦の駆逐者はどのように感じましたか?』

 嫌な質問をする男だ。心情に嘘をつきたくはない。されどもその事を言ってしまえば大きな問題になる。

「そうだね、彼女はとても可愛らしく、美しい女性だったよ。僕が男性だったら、是非結婚を申し込みたいと思った程だ。こんな所でどうかな?」

 会場に軽く笑いが起きる。こういう時に使える連合王国謹製のジョークは実に素晴らしい。時に回りくどく思う事もあるものの、オブラートに包んで冗談として流してしまえる。実に素晴らしい文化じゃないか。

 欧州連合最大のテレビ局から派遣されてきた男は、流石にばつが悪そうな顔をして座った。仮にもお堅いニュース専門局が、そんな下世話なインタビューを流せるはずがない。下らない質問をした彼への、ちょっとしたお仕置きだ。

 その後の質問も大したものではなく、大半が竜の形状や特徴について、砂漠での戦闘はどうだったかというものだった。今回も現地の食事については突っ込んでくるものはいなかった。これもミサキのお陰だろう。


 精神的には戦闘よりも疲労した状態で、内装を改造した宮殿の中へと帰ってくる。毎回これではどうにも身が持たない。マスコミ対応の仕事分、何か特別報酬でも用意してくれれば良いのに。

 ラウンジにいたバーテンダーに強めの酒をお願いして、バターレーズンと共に精神疲労を癒す。ルフィナの無事を祈りながら飲んでいると、思いの外過ごしてしまった。

 美味い酒を提供してくれたバーテンダーに丁寧に礼を言って部屋に戻る。ロロ達は帰ってくるなり軽食を摂って眠ってしまった。あれだけ動いたのだから当然だ。

 こちらもベッドに潜り込みたい誘惑を堪えて、室内に備え付けのシャワーを浴びる。姿見に映る自らの裸体にはもう流石に慣れた。今ではこれも美しくて良いものだと思えるほどだ。

 浴室を出て、髪を乾かしてバスローブのまま、さあ寝よう、というところで、ベッドのサイドボードに置いてあったスマホが振動した。表示を見れば母からだ。勘弁してくれ。

「はい、お母様?」

『ええ、フレデリカ。お休み前にごめんなさいね』

 本当にすまないと思っているのなら明日にしてほしい、この母は口では謝るが、心の底では謝意を持っているようには絶対に思えない。

「何か御用ですか?」

『そうね、些細なことなのだけれど』

 そう、この母は実に些細なことでいちいち通話料の高い国際電話をかけてくる。やめてほしい。

『今日の会見、ああいう事を言うのはやめて頂戴』

「ああいう事ですか?どの件でしょう」

 用件は具体的に、簡潔にだ。社会に出た事の無いお嬢様である母にはわからないのだろうが。

『あなたが男性だったら、という冗談よ。ああいうのは、冗談でもやめて』

 ああ、なるほど。母は自分がまた男に戻ってしまうのではないかと危惧しているのだ。そんな事はもう、生物学的にありえないというのに。

「よくわかりませんが、わかりました。それだけですか?」

『ええ、気をつけてね。おやすみなさい』

 言いたいことを言うだけ言って切る。あの母はいつもそうだ。疲労が五割増しである。

 母はこちらが男の頃の記憶を失っているという事を、微塵も疑っていない。だが、ああやって自分が冗談でも男っぽい事を言ったりするのを、極端に嫌がるのだ。

 気持ちはわからないでもない。ずっと女の子として育ててきて、それでも男である事は隠しようがなくなり、軟禁状態にまでしていたのだ。それが、ふとした幸運――そう、彼女にとっては願ってもない幸運だったのだろう――によって、正真正銘の娘ができたのだ。男に戻る事を必要以上に恐れるのも理解はできる。

 だが、理解はできても、それは身勝手なものだというこちらの憤りの感情は抑えきれない。

 この身体になった事で、母は急に優しくなった。

 父も今までの怯えたような態度はどこへやら、家族で連れ立って近くの公園でピクニックをするまでに関係が修復されたのだ。自分にとっても悪い事ではなかった。

 だが、それでも、それでもだ。

 この転換がなかったら、と思うと背筋が寒くなる。子は親を選べない。そして、経済的にも成功した公爵家という、強い社会的影響力を持つ家に生まれた以上、醜聞は絶対に避ける事になる。もしあのままだったとすれば、最終的に思い余った両親に、自分は毒殺されていた可能性だってある。

 この身体に起こった異変は、一体何が原因なのだろうか。

 自分は神など信じてはいない。だが、たまたま、本当にたまたま、この境遇であるこの身に降り掛かったものだとすれば、それは一体何と呼べば良いのだろうか。奇跡、としか言いようがない。きっと母も父も、そして兄もそう思ったに違いない。

 潜り込んだベッドの中、まだ何も知らなかった幼い頃の事を思い出しているうち、意識が自然と遠のいていった。

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