第80話 八人目
特別大きく何かが動くという事も無く、日々はただあるがままに過ぎていく。
何も無かったわけではない。相変わらず自分たちを取り巻く環境は騒々しいし、発生した問題は解決したものもあれば、そのままになっているものもある。
自分以外だと、オオイの抱えていた刑事告訴は片がついたようだった。
彼女の部屋に侵入してきた学生三人は、掘り返すと大量に余罪が発覚したらしい。
不法侵入のみならず、アパートの部屋だけでなく、大学の部室を使って酔わせた女子学生を輪姦していたそうだ。
大学は即退学という処分としたものの、刑事罰と民事賠償は当然それだけでは終わらない。
被害者があまりにも多かった為、被害者を纏めて弁護団が結成され、三人には法外な額が、民事と刑事の両方から課される事になる。
どうやら彼らの親がそれなりの富裕層だったらしく、徹底的に搾り取るのだと弁護士のミズモトは言っていた。
リュウキュウの新聞から端を発した自分への暴行傷害事件に関しては、証拠を固めたサカキとミズモトが、実行犯だけでなく、それに便乗していたDDDアンチのSNS発言を徹底的に洗い出した。
根拠なき誹謗中傷だと認定され、例の動画を投稿していた者はもちろん、それに賛同していた者たちの事も全て開示請求をかけ、漏れなく法廷に持ち出す事になった。SNSでは前代未聞の大規模訴訟となる予定である。
ミズモトが過労死してしまうのではないかと心配したが、どうやら懇意の弁護士事務所も参加するらしく、どちらかと言えばサカキの方が多忙な日常を送っている。
自宅に張り紙をした老人の件も片がついた。
微罪ということで執行猶予はついたものの、マンションの管理組合が流石にこれは問題と見て、駐車場の利用も含め、より厳しい罰則を盛り込んだ規約の変更を行う事になった。
もちろん、民事の方ではこちらの賠償請求は100パーセント認められた。被告が支払いを渋ったので、預貯金の差し押さえが行われた。
比較的順調。竜災害も今のところ、極端に危険なものは出てきていない。
連邦の駆逐者は今のところ、まだ表に出てきていない。分かっているのはルフィナ・ナザロヴァという名前と、モーニングスターのようなトゲ鉄球を武器に使っているという事。年齢も素性も何もわかっていない。
恐らく連合王国や合衆国ではその辺りも掴んでいるのだろうが、ヒノモトには今のところその情報は回ってきていない。まだ情報管理に問題ありと見られているのだろう。
何にしても、彼女の事が分かるのは次に協力が必要となった時だ。もしかしたら、こちらと一緒に戦うこともあるかもしれない。
そんな日々を過ごしている中、8月に入って夏真っ盛りという折、オオイから驚きの情報が齎された。
「は、八人目!?いたんですか?どこに?」
寝耳に水だ。新たに見つかったのか、それとも連邦と同じように隠されていたのか。
「それが……その、南コリョ、です」
「南コリョ?でも、ハルナ。あそこはワタシ達で倒しに行った事があるよね?無かったことにされてるけど」
「そうですよ、ハルナ。デストロイヤーがいるのなら、私達に退治の依頼がくるとは思えません」
思い返せば苦々しい。テーマパーク内に大量に発生したSクラスとMクラスの混合群に、どうにかギリギリで勝ったと思ったら、お前らなど知らんとばかりに追い出されたのだ。
確かに自前の駆逐者がいるのであれば、まずそちらで戦うなり様子を見て逃げるなりするだろう。だが、自分たちが到着した時、竜と駆逐者が交戦した形跡は無かった。
「あの後に見つかった、という事ですか?それならば分かりますが」
オオイに聞いてみるが、彼女の答えもどうも要領を得ない。
「その辺りも不明なのですが……どうも、七人目が現れたので公開に踏み切った、とかいううような論調なのです。南コリョの大統領からなのですが、DDDパシフィックに合流してやってもよい、と」
「何ですか、それ」
つまり、隠していたという事だ。連邦と同じく、自前で駆逐者を抱えていたと。
先の北東部における竜災害では、数が多いと見て温存して表に出さなかった、という事になる。これは、連邦と同じく世界に対する裏切りではないか。
これが連邦や北コリョといった東側国家ならまだ分かる。だが、南コリョはまがりなりにも西側国家だ。足並みを揃えて協力すべき仲間のはずなのである。東側の央華だって、経緯はどうあれメイユィをDDDに参加させているのに。
「また、お得意の見栄っ張りですかね」
「多分……ただ、戦力が増えるのは歓迎すべき事です。部屋を準備して、受け入れる体制を整えておこうかと」
確かに、そうだ。世界で八人目、パシフィックとしては待望の四人目だ。一人増えるだけでも駆逐者は大幅な戦力の増加になる。四人いれば、今までできなかった戦略が可能になる。歓迎も歓迎、大歓迎だ。
「そうですね。あの、オオイ二佐。戦力が安定したら、でいいんですけれど」
「はい、何でしょう」
「あー、いえ。後でお話します」
待て、まだ焦るな。新しい駆逐者がどの程度の戦力になるかはまだ分からない。暫く様子を見てからの方が良いだろう。
不思議そうな顔をしたオオイに曖昧に笑いかけて話を終わらせる。あまり先走ると後で後悔する事になる。
オオイの話から三日後、昼食を済ませて休憩している時、待望の四人目が大荷物を背負って地下へとやってきた。
談話室の内線で彼女が来たという話を受けて、慌ててトレーニングルームに二人を連れて行く。重たい扉を開けて、オオイとマツバラ、サカキの後ろにその人はついてきていた。
『三人とも、紹介しよう。新たな仲間、ミン・スビンだ。南コリョ出身で、年齢は22歳。ミサキさんの一つ上だ』
久しぶりに聞いたオオイの連合王国語。相変わらず固い。
恐らく彼女はヒノモト語ができないのだろう。暫くはジェシカ達の時と同じように、連合王国語で会話をする事になりそうだ。
『はじめまして、ミンさん。DDDパシフィックのリーダーをしています、ミサキ・カラスマです。宜しくお願いします』
笑顔で彼女に右手を差し出すと、やや緊張した感じのその女性も握り返してきた。
『はじめまして。ミン・スビンだ。よろしく』
ややコリョ語訛りの入った連合王国語は、オオイと同じく若干固い。軍人なのだろうか。
『よろしくね、スビン!ワタシ、メイユィ!ジュエ・メイユィだよ!』
『ジェシカ・サンダーバードだ!クソよろしくな!スビン!』
ジェシカの言葉だけやや聞き取りにくかったのか、やや戸惑った表情をしたスビンだったが、硬い表情のまま二人とも握手を交わした。
『簡単にここの事を説明しておこう。ミンさんには特定の相手がいないという事なので、基本的に出動があるまではこの中で待機していてもらう。部屋はそちらの並び、左端を使ってもらいたい。食事は基本的にこちらに食べたいものを要望してもらえば良いが、昼食はミサキさんが作ってくれる事が多い。それから――』
オオイの言葉を聞き逃すまいとしているスビンを眺める。
初対面としての印象は、何というか……強そうだ。
背もジェシカと同じぐらいに高く、全身をざっと見る限り、随分と鍛え上げられた身体をしている。固い言葉を見るに、やはり軍出身の人なのだろうか。
容貌もそれに準じてやや尖ったような印象を受ける。短く刈った黒髪はツンツンしていて、まるで男性のようだ。
男性のように見えるのは髪だけでなく、やや骨ばった顔も、何というか……やはり、強そうだ。
強そうだ、という感想しか出てこない。ジェシカのように輝くような美形というわけでもないし、メイユィのように可憐で可愛らしいという事も無い。何度見ても強そうに見える。
『そういうわけで、これからよろしく頼む。三人も、仲良くしてやってくれ』
元気に返事をした二人に頷いて、オオイは彼女を新しく整えた部屋へと案内していった。取り残されたこちらは、やや困惑してマツバラに話しかける。
「なんというか、今までと随分毛色の違う方ですね」
「そうだね、強そう。あれだけ鍛えてるのなら、すぐに戦闘にも慣れそうだね」
「うーん……どうでしょうか」
隣りにいたサカキだけが首を傾げている。
「どうしたの、シュウトさん」
「いえ、今までの駆逐者とあまりに違いすぎるなと。カラスマさん達もそうですが、アトランティックの三人も、皆、見た目はそんなに強そうではないですよね」
その通りだ。基本的に全員が華奢な感じの女性で、一番体格の良いジェシカやゲルトルーデだって、女性らしい丸みを帯びた体つきをしている。
スビンはそれとは明らかに違って、固く四角く鍛え上げられたアスリートや格闘家のような身体をしている。
「強そうなのは良い事ではないですか?」
ジェシカの言う通り、竜を退治するのであるから、強そうである事は別に悪い事ではない。寧ろ、普通はああいった人の方が一般的に抱く駆逐者としてのイメージに近いのではないだろうか。
「そうなんですけど。その、若干違和感が」
違和感は確かにある。あるが、そこは問題ではない。要は竜を屠れるなら問題がないのだ。
「シュウトは、新しい子が好みではないから不満なのですか?」
「何、それ。シュウトさん、本当?」
「ち、違います違います!そういう事じゃなくて!」
慌てたサカキに苦笑する。まあ、確かに見栄えを気にする広報のサカキにとっては気になる事だろう。我々は半分アイドル売りのような事もしてしまっているのだ。
だが、それは本来の目的ではない。一般に我々の存在を周知するというのも大切だろうが、本分は竜災害の鎮圧にあるのだ。そこができれば何も問題はないし、見た目がどうあれ、人類の守護者となれば、人々の目だって変わってくるだろう。
「兎に角、新しい戦力です。仲良くやっていきましょう」
「もちろんだよ!」「イェス!」
オオイ達が引き上げていき、一旦トレーニングルームには四人だけが残される。
好奇心旺盛な二人は、早速スビンに様々な質問を投げかけていた。
『ねえねえスビン、スビンは最初どれぐらいの大きさの竜を倒したの?』
『すげえ筋肉だなぁオイ。一体どんだけクソ鍛えりゃこんな肉体になるんだ?』
遠慮のない二人に、スビンは若干戸惑って引いている。
『二人共、一度に質問をしてはミンさんも答えられないでしょう』
見た所真面目そうな人だ。あまり今までのこちらのノリに巻き込んでは戸惑ってしまうだろう。
『三人は、あまり鍛えていないのだな。駆逐者とは、皆私のような体格のものばかりだと思っていたが』
その言葉にメイユィが首を傾げる。
『そう?皆こんな感じだけど。スビンの方が珍しいよ』
『そうだな、ムキムキなのは海兵隊のクソ野郎どもぐらいだぜ。ああ、ハルナもああ見えて鍛えてたな、スビンは軍人か?』
見た目からしてそうなのだろう。髪の毛は短く刈り上げているし、言葉や体格からしてもそのように見える。
『そ、そうだ。私は元々軍にいたのだ。詳細は機密なので話せないが』
『そうなんですね。記憶喪失の後から軍人に?』
『記憶喪失?いや、私にはそのような経験は無い』
記憶喪失じゃ、無い。まさか、自分やフレデリカと同じ、記憶を持ったままの駆逐者か。
自分とフレデリカの例だけになるが、記憶を持ったままの駆逐者というのは総合的に能力が高い事が多い。これは、相当期待できるのではないだろうか。
『えっ!?以前の記憶があるの!?そんなの、初めて聞いたよ』
『マジかよ。スビンは特別なんだな、クソすげえなあおい!』
二人は自分たちの事情を知らない。教えていないし、教えるつもりもない。なので、彼女たちにとってはスビンが初めての記憶を保持したままの駆逐者という事になるのだろうが。
『そういや、スビンは何の武器を使うの?ワタシは槍だよ』
『俺はナックルだぜ!』
武器、という言葉に若干戸惑ったスビンだったが、言葉を選ぶようにして答える。
『初めて、竜を斬った時は、斧を使ったが』
『マジかよ!斧!こいつはクソ強そうだな!』
斧か。確かに重量があって遠心力も乗せれば火力がありそうだ。彼女はメイユィと同じく、主に火力担当だと見ておいた方が良いか。
ジェシカとメイユィは尚も質問したそうにしていたが、取り敢えずそれは後回しだ。
オオイは部屋の説明はしたものの、ここの施設の説明はこちらに任せて帰っていった。まずはそれが先である。
『二人共、質問はその辺にして。ミンさん、簡単ですがここの案内をします。ついてきてください』
二人は少し不満を垂れたが、時間はあるのだからというと二人揃ってジェシカの部屋の方へと戻っていった。またアニメでも観るのだろう。
『すみません、騒々しくて。こちらへどうぞ』
戸惑いを隠せない大柄な女性を連れて、ロッカールームへと移動する。
『トレーニングは大体午前中で終わらせてしまう事が多いです。ここでトレーニングウェアに着替えて、表にあるマシンで鍛える事になりますが……トレーニングマシンの経験は?』
『ある。軍にも基本的なものは置いてあった』
『そうですか、ここのものは負荷が極端に高いですが、駆逐者であればすぐに慣れると思います。経験者だと説明がいらなくて助かります』
ジェシカとメイユィは最初、使い方を知らなかったので、全てのマシンの使い方を教えて鍛える部位のレクチャーもする必要があった。
スビンを見る限り相当鍛え込んでいるようなので、この辺りの説明は必要なさそうだ。楽で非常に助かる。
一通り中を案内して、談話室でコーヒーを出す。まだ落ち着かない様子の彼女に向かって、微笑みながら話しかけた。
『そう緊張しなくてもいいですよ、ミンさん。出動が無い時は基本的に自由にしていて良いのですから。外出は私かオオイ二佐が一緒でないといけませんけれど』
『外出に制限があるのか?軍と変わらないな』
確かにそうかもしれない。まぁ、防衛隊はそこまでは厳しくは無いが、外国の軍は規律も厳しいと聞く。絶賛北と睨み合い中の南コリョであれば、軍規が厳しいのも納得できる。
『まぁ、制限といっても理由があれば問題ないですよ。二人も休日には良く外に遊びに出かけますし。うちに遊びに来る事もありますね』
『うち?ミサキは外に住んでいるのか?』
オオイはその事を説明していなかったのか。まぁ、取り立てて重要な事だとは思えないので教える必要もないと思ったのだろうが。
『私は結婚していますから。毎日ここに通ってくる事を許されています』
『結婚していれば自由に外に出ても良いのか?何故だ?』
『それは、その。研究上の都合と言いますか』
子供を作ってその結果を見せろと言われているとは少し言いにくい。何とか誤魔化そうと思ったのだが、スビンはちょっとしつこい。
『それは、ミサキがヒノモト人だからではないのか?』
『いえ、そういうわけでは。ジェシカやメイユィも相手が見つかれば、外で暮らして良いと言われていますので』
『それはつまり、世帯を持ってこの国の人間になったから、というわけか』
『それは……まぁ、結果的にはそうなるかも知れませんけれど――』
『やはり差別の強い国だ。問題だろう』
『うーん……その、国籍とかはこの際重要視されているわけではなくてですね、その……』
言いにくい。果たして初対面の人に言っても良いものだろうか。というか、これを言うことによって自らが研究者の観察対象だと自覚させるのも忍びないのだが。
『いや、もう良い。よく分かった。やはりヒノモトは信用ならん。部屋に戻らせてもらう』
『え?いえ、ちょっと待って』
彼女は飲みかけのコーヒーをそのままにして、部屋へと戻ってしまった。コミュニケーションの失敗だ。我ながら情けない。
まぁ、仕方がない。ちょっとしたすれ違いというのは良くあるものだ。
これから長い付き合いになるのだろうし、一緒にトレーニングをして、食事をして、戦闘をこなしていけば、自然と仲良くなるだろう。
もともとコリョというのはその国民に対する教育方針から、北も南もヒノモトを敵視する傾向にある。
ネットで外国の情報によく触れる人や海外旅行をする人はそこまででは無いのだが、狭い世界で生きているとどうしても与えられた価値観に依存しがちだ。
まぁ、それも一種の誤解なので、暫く過ごせば変わってくるだろう。
飲みかけのコーヒーを流しに捨てて、カップを洗ってから自分も自室に戻る事にした。
オオイ達三人がトレーニングルームを後にし、重たい扉のハンドルを回して閉めた後、ずっと考え込んでいたらしいサカキが口を開いた。
「マツバラ先生」
「ん?何?サカキ君」
階段を上ろうとしていたマツバラが振り返って、若い外務省職員の方を見る。
「ミンさんの身体データ、送られてきてるんですよね?どうでした?」
「うん、きてるよ。数値的にはかなり高いね。初期のカラスマさんよりも少し上ぐらい」
「それって、一般人と比較するとどれぐらいの差があります?」
サカキの言葉に、やや不審なものを感じたマツバラだったが、すぐにそれに答える。
「そうだね、トップアスリートよりも頭二つぐらい抜けてる感じ。間違いなく人間レベルじゃないよ。何、サカキ君、疑ってるの?」
「ええまあ。オオイ二佐はどう思われますか?」
話を振られた彼女も、やや複雑そうな表情で応じる。
「それは……まぁ、あの国ですから。サカキさんの考えている事も可能性としてはあり得ますが……ただ、それをするメリットがありません」
「そうなんですよね。寧ろ損の方が多いです。考えすぎかな」
思い直して階段を上がり始めたサカキだったが、やはりその途中でもう一つ質問をした。
「オオイ二佐、彼女は軍人だと言っていましたが、身元がはっきりしているのですか?」
「そうですね。元々父親が軍の高官だそうで。娘を最初から軍人にするつもりで、子供の頃からかなり鍛えていたそうですよ。あれだけ引き締まった身体をしているのはそのせいですね」
「それって、記憶を失っていないって事ですか?」
「そう、なりますかね?そういえばそうですね。唯一身元のはっきりしているフレデリカさんも、記憶を失っているので……単に情報の記載漏れかもしれませんが」
「そうですか」
少し考え込んだ彼は、意を決したように言った。
「彼女のことは、まだ広報からは黙っていようと思います」
「え?なんで?超重要事項じゃないの?」
「だからですよ」
マツバラの疑問にサカキは即答する。
「万が一があります。隣国との関係も悪くしたくありませんから。これは外務省の人間だったら、誰でも同じ判断をすると思います」
「そうですか。では、防衛省からも彼女のことを表に出すのは少し待ってもらいましょう。確かに、あまり急ぐと良い事は無さそうです」
オオイも頷いてサカキの提案に乗ることにした。元よりエリート防衛官である彼女はかの国のことを信用していないので、サカキの懸念と同じものを最初から持ち合わせていたのだった。
だが、かれらの気遣いは無駄に終わった。
その翌日、他でもない南コリョの大統領府自らが、大々的に世界に向けて『我が国からDDDパシフィックに駆逐者を出した』と発表してしまったのだ。
野菜たっぷりのポトフをじっくりと煮込んでいると、いつもより少し遅れてソウが帰って来た。手にはデパ地下にある酒専門店の袋を提げている。
「おかえり。何、お酒買ってきたの?」
「おう。またワイン展やってたからな」
「そっか、今日はポトフだし丁度いいかも」
汁物なのであまり酒には合わないのだが、ワインとなら相性は悪くないだろう。これが肉じゃがや鯖味噌なんかだったりしたら、ワインは明日に取っておこう、と言う所だった。
もう少し煮込みたいので彼には先に風呂に入ってくるように言って、煮込んでいる間にスマホの通知をチェックしておく。
ジェシカからワイアードで連絡がきていた。どうやら彼女達は早々に夕食を済ませてしまったらしい。
『スビンは少し変わった人です。夕食に、自分で持ち込んだレーションを食べていました』
『こちらのものを少し食べるかと聞いたのですが、必要ないと言われてしまいました』
食事に何か混ぜられるのを警戒しているのだろうか。それとも、食べ慣れたもののほうが良いという事だろうか。
『食べ慣れたものの方が良いという事でしょう。明日のお昼はまたカレーを作るので、その時一緒に食べましょう』
彼女はアニメキャラのアイコンで了解!と返してきた。今季始まったばかりのアニメだが、原作漫画があるので既にスタンプが販売されているらしい。
ワイアードはその他、リンやウミ達のグループチャットが騒がしかったので少し挨拶をしておいた。小学校低学年でも既にスマホを使いこなす時代になってしまった。違和感が無い事も無いが、これも時代の流れだろう。
続いてウィスパーラインを開く。自分のアカウントは完全にROM専で、一言も囁いたことはない。
フォローしているのも公的機関ばかりなので、誰からもフォローされていない。人目につかないよう、情報を得るだけのツールと化している。
今日のスビンの事について、サカキは公表しているかと思ったが、全く彼女の事には触れていない。
もうじき我々を特集した秋藝の特別号が出るという話と、時節の挨拶だけだ。
少し疑問に思ったが、彼なりに何か考えている事があるのだろう。特に気にすることもなく、トレンドを軽く眺める。
少し笑えるような失敗談だとか、多くの人の怒りを買うような囁きが大体人気になっている。日頃はインフルエンサーのwisが大半だが、妙に目につくのはやはり、自然保護に過激な主張をしている人たちのものだ。
先日の暴力事件があってから、その手の過激な発言者達のアカウントは一斉に凍結された。
ただ、当然の事ながら、別アカウントを作ってすぐに復活してくる。メールアドレスさえあればいくらでもアカウントは作れてしまうのだ。
雨後の筍、ではないにしても、そういった人たちの声は大きい。大きいと言うよりも、見つけた人間がつつくものだから、一気に炎上してトレンドに上がってきてしまうのだ。
実際に人数はそれほどでもないと思うのだが、この流れだけを見れば、我々は危険な存在だと認識している人が、かなりの人数いるように錯覚してしまう。
多少過激な物言いをしたところで、こちらから動かない限りウィスパーライン運営は動かない。サカキもいちいち相手をするのは得策ではないと認識しているのか、そういった連中はブロックこそするものの、基本的には放置状態だ。
自分が蹴られている動画は結構あちこちに広がっている。顔を手で覆っているので、肖像権の侵害だと訴えるには至らない。
この動画を見た時、ソウは烈火の如く激怒した。蹴ったやつ一人ひとりに同じことをしてやるとまで息巻いていたのだが、もう塀の中だからと言ってどうにか宥めた。
民事賠償請求で衣服の分プラス慰謝料を思い切りふんだくると言って、一時期ミズモトと頻繁に連絡を取り合っていたほどだ。
だが、そんな事があっても画面の向こうではどこ吹く風、有名な漫画で自爆を食らったアース人のように丸まっている自分が蹴られている動画は、半ばネットミームの如く、『無抵抗エッチな人』というタイトルで出回っている。こうやって段々ギャグ化されていくのだろう。
趣味が良いとは言えない。現に多くの人が、人が蹴られているのを笑いのネタにするなと怒っている。ただ、それも多分、段々と慣れていく。
ネタとして消費される事が状態化すると、常識というのは麻痺していくものだ。だいぶ前だが、リベンジポルノをされた女性が、体毛が濃いというだけで匿名掲示板で散々ネタにされていたのを思い出した。自分もあれと同じになるのだろう。
蓋付きの陶器の鍋にごろごろ野菜のポトフを入れて、炊飯器の中からエビの入ったピラフを皿によそう。この炊飯器、大きいだけではなくて実に高性能だ。
カレーは流石に鍋で作るが、炊き込みご飯だけでなく、煮物やこういったピラフ、パンまで作れるのである。
ソウが使わないまま置いておけば宝の持ち腐れだったが、今は時々こうやって手間を省く事にも使える。素晴らしい文明の利器である。
「おほ、いい匂い」
茹で上がったソウがリビングに戻ってきて鼻をひくつかせた。コンソメとバターの香りが部屋に充満している。
早速テーブルに並べてワインを開け、いつものように下らない話で盛り上がる。大抵はソウの仕事場での話だとか、最近のゲームの話、今季のアニメはあれが良さそうだから休日に見ようと相談したり、そろそろこちらの衣類が増えてきたのでタンスかドレッサーを買おうとかいう話にまでなった。
「うーん、確かにもう、カバンじゃ無理かな。畳んで置いたままにするのも問題だし」
「和室に置くか?書斎でもいいけど」
「寝室は?まだスペースあるでしょ?」
置き場所が問題になったが、結局二人の寝室に置こう、という事になった。
和室は客が来たときに使うし、着替えるにしても別に夫婦なのだから同じ部屋でも構わない。そもそも書斎は本棚とフィギュア用のケースばかりで置く場所が無い。
「それじゃあ、今度の休日に見に行くか。えーと、そういう家具だとオーヤマ家具とかか?」
「ヒトリでいいよ。高いものは必要無し。収納ができればそれでいいんだから」
「相変わらずだなあ。そういや、職場でも着替えるんだろ?防衛隊の制服か?」
そういえば彼には職場での姿を見せたことは無かったか。戦闘服は出動の時だけだし。
「いや、トレーニングの時以外は私服のままだよ。トレーニングの時は専用のウェアだけど」
「ふーん、どんなの?」
言うのに少し躊躇した。だが、聞かれて答えないというのも不自然だ。
「短いタンクトップに、薄い短パンだよ」
可能な限り自然に言う。声は震えていない。大丈夫だ。
「エロいのか?」
「……少し」
どうしてもその方向になってしまう。困ったものだ。話を逸らさねば。
「職場と言えばさ、今日、新しい駆逐者が入ってきて」
そこまで言ったところで、彼は飲んでいたグラスを置いて腰を浮かせた。
「はぁ!?な、なんでそんな大事な事、早く言わないんだ!?」
「うーん、サカキさんが公表してないから、別にいいかなって」
「いや、問題だろ、それ。世界中の人に教えなきゃダメなんじゃないのか?」
「そうだけど。多分明日にでも発表するんじゃないかな。話した感じ、ちょっとなんていうか……ヒノモトに偏見があるタイプの人だったから」
「偏見?どこ出身なんだ?」
これは機密情報だろうか。だが、どうせ明日にでも広がるのだから構わないだろう。
「南コリョだよ」
「……そっか、なるほどな」
彼は再び腰を落ち着けて、ポトフの中にあったソーセージを美味そうに齧った。
「ほんじゃ、こっちは四人体制か。楽になるんだろ?」
「うん、そのはず。連邦の人は多分アトランティックとの協力が多くなるだろうし、これで八人、四人ずつだね、大分楽になるよ」
そして、それだけではない。
「まぁ、南コリョってのがちょっと気になるけど、央華のメイユィちゃんも仲良くやってるんだし、問題ないだろ」
「そうだね、竜災害は世界的な脅威だから、多分すぐに慣れるよ。それでね、ソウ」
大事な事なのだ。言っておかねばならない。
「その、新しく来た人、ミン・スビンさんって言うんだけど」
「うん」
「その人がね、ある程度慣れたら、というか、戦力になるのがわかったら……作らない?」
彼はぽかんと口を開けたまま止まった。
「嫌かな」
そう言うと、慌てた彼はぶんぶんと首を横に振った。
「いや!そんな事ねえよ!そっか、そうだな。そろそろ、いいよな。よし、そうしよう」
「うん」
彼の約束も取り付けた。やっとだ、やっと。
まずは彼女がどれぐらいできるかを確かめなければならない。明日のトレーニングには気合を入れて挑むとしよう。
記憶のある駆逐者だ。相応に鍛錬もしているようなので、きっと即戦力になってくれるだろう。そうすれば……研究者達の望む通り、人道的な生殖実験の開始だ。
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