第78話 増幅する憎悪

 溜息が出た。

 休暇が終わっての初出社……ではない、初出勤だ。会社ではない。

 いつもの借り物の白い軽で丁字路の突き当りに到着したが、また駐屯地の入口が塞がれている。しかも、今度は前回の比ではない人数だった。

 以前は何だったか。自然破壊だったか。動物虐待だったか?

 同じ連中の顔も見えるが、数が倍ぐらいに増えている。大体20人ぐらいか。

 何故か道路の脇にはハンディタイプのカメラを構えている人間もいる。いや、この状態を映して賛同を得られる人間がいたとしたら、それは脳に何らかの障害を持っている者だけではないだろうか。

 多様性。そう、多様性かもしれない。そういった脳障害のある方へと向けた何かそういうサービスなのかもしれない。だが、攻撃性をむき出しにした状態を見せてセラピーとするには流石に問題があるのではないだろうか。いくら教育だからと言って、凄惨な戦争の肉片や臓物が散らばるグロい現場を子供に見せたりは普通しない。

 原因は恐らく、あのウルミ新報の記事だ。自分たちが恐竜の出現に関与しているのではないかという根拠もなにもない理屈に加え、サカキが公開した動画で襲ってきた海洋生物を迎撃して食ったという事が原因だろう。

 だが、どれもここまで青筋立てて怒り狂うほどの理由になるものだろうか。目の前にいる集団は、明らかに常軌を逸している。

 理屈は通用しない。基本的に人間とは理性に生きるものだと思っていたが、この身体になってそれは幻想だと思い知らされた。人間とは。


『愚かな生き物だ』


 全てがそうではない。少なくとも自分の周りでは、そこまで愚かな人間ばかりではない。


『不躾に身体を触られ、見られ、自分勝手な理由で他者を攻撃するものばかりではないか』


 そればかりだというのは間違いだ。そうではない。弟のトシツグも、妹のミユキも、キョウカも。


『彼らとて打算の上だ』


 ジェシカも、メイユィも。


『あれらはお前と同類だ。いや、お前のしもべだ』


 そうじゃない。オオイも、マツバラも、サカキも。


『奴らはお前を利用しているだけだ。仕事とやらで一緒にいるだけだ』


 ソウは、ソウだけは何があってもずっと一緒にいてくれる。


『性欲による幻想に過ぎぬ。あいつの目的はお前の身体だけだ』


「黙れ」

 黙れ、黙れ。てめえの自分勝手な幻想を押し付けるな。あいつはそんな奴じゃない。

 こめかみに力を入れて下らない幻聴を弾き飛ばす。この身体はもう私のものだ。どこのどいつだかわからない怪物にくれてやるわけがない。

 大きく深呼吸をして、目の前で喚いている集団を見る。まるで獣だ。

 曰く、滅びつつある生き物を殺して食っただの、遊び呆けている税金泥棒だの。

 挙句の果てには、竜災害を呼び込む疫病神だと。

 落ち着け。こいつらは無学で無知な連中なのだ。賢者は愚者が喚く様に心揺らされるべきではない。

 近頃どうにも私の中にいる獣がうるさくて困る。とうに滅んだ連中のくせに。

 集まってきた暴徒を轢き殺すわけにもいかず、ウィンドウを固く閉ざしたまま、じっとオオイがやってくるのを待つ。

 自分の出勤は公務にあたる。それを妨害したのなら公務執行妨害だ。

 自分は法に守られている。そしてその上で自ら法を逸脱している。どちらが正しいのか。

 言うまでもない。人類が滅びてしまっては意味がない、多少の逸脱は許容範囲だろう。

 例えば。今この場で、無礼な働きをした愚民どもを皆殺しにしたとしても。


 馬鹿らしい。ステアリングを握ったまま、スマホをホルダーに置いて録画を始める。この様子を見て、異常だと思えない連中が圧倒的多数を越えた時点で、自分は人類を見限るだろう。だが、そんな事はありえない。こんな野獣のような連中のそれが、人の本性であるわけがない。

 暫く待っていると、以前と同じくオオイと弁護士のミズモトが出てきた。案の定、言葉の通じない獣相手に揉めている。

 前回と同じくもう通報はしたのだろうが、なかなか警察官はやってこない。近くを巡回していなければすぐに来るのは難しいだろうし、そもそもこの人数だ。捕まえて帰らせるには結構な人員が必要になる。警察署からの動員が必要になるだろう。

 自分が出ていっては火に油を注ぐことになるだろうし、何もできる事が無いのが歯がゆい。

 そしてついにこちらに気づかれた。前回と同じ顔ぶれの人間プラス複数名がクルマに取り付いてくる。

 オオイもミズモトも必死に公務執行妨害に器物損壊だと叫んでいるが、当然のようにかれらは聞く耳を持たない。必死の形相で手の脂をフロントガラスに貼り付けることにご執心だ。

 自分はこの人たちにとって、そんなに憎むべき存在なのだろうか。

 かれらを傷つけたわけでもないし、財産に損害を与えたり名誉を毀損したわけでもない。そりゃあ、回り回ってかれらが損をしたこともあるかもしれないが、こちらを恨むのはお門違いだろう。

 自分はただ、人の命と財産を守ろうとして恐竜を屠っているだけだ。どう考えてもかれらが目を血走らせてまで怒るような事はしていない。

 困惑してしまう。ひょっとして、自分の気がついていない所でとんでもない事をしでかしているのではないだろうかと。

 だって、こんなに必死なのだ。ここまでするからには、自分にも相応の落ち度があったのだと考えなければ辻褄が合わない。

 かれらは単に頭が足りていないだけかと思ったが、ひょっとしたら頭が足りていないのは自分の可能性だってあるのだ。

 一度落ち着いて話を聞いてみるべきだろうか。最初から頭ごなしに聞く価値もないと切り捨てるのは、理性ある大人のすべき行動ではないような気もする。

 そう思い立って、キーを抜いてドアロックを外す。ドアの外に張り付いている人たちに、身振りで出るのでどいてくれと促した。

 だが、どうにもそれが通用しなかったらしく、目の前に張り付いた60代ぐらいの男性は開けろ開けろと喚いている。だから、開けるというのに。

 仕方なくがちゃりと少しだけドアのラッチを外して浮かせる。流石にこれには気がついたのか、男性は思いっきり扉を引き開けた。その勢いで、隣にいた中年の女性が彼の腕にあたってアスファルトの地面に転げる。おいおい。

 女性は転がったまま、突き飛ばされたと叫びだした。そうだね、おじさんに突き飛ばされたね、痛かったね。

 とりあえずクルマの外に出ると、暴徒の対応をしていたミズモトがぎょっとして叫んだ。

「ミサキさん!出てきてはダメです!」

 そんな事を言われても。この人々は満足しなければ何度だってやってくるだろう。そうなれば自分は毎朝駐屯地に入れなくなってしまうし、万が一出動があった場合、到着が遅れることになってしまう。そうなれば竜災害の発生地で、全く関係のない被害者が増える事になってしまう。それはまずいだろう。

「とりあえず、皆さんのお話を――」

 転けた女性を起こそうとして手を差し伸べた所で、脇から髪の毛を掴まれ、引っ張られた。

 流石に髪を引っ張られたら少し痛い。毛は抜けるし、頭皮も痛む。やめてほしい。

「この!魔女が!成敗してやる!」

「暴力女!破壊者!」

「市民の怒りを思い知れ!」

 抵抗する気にもなれず、されるがままもみくちゃにされる。かれらを突き飛ばして逃げるのは簡単だ。だが、そうすれば暴力を振るったのはこちらになってしまう。それはまずいだろう。

 こちらが棒立ちになって黙っているのが気に入らなかったのか、数名がこちらの両足を掴んで持ち上げた。当然、重力に従ってアスファルトの上へと倒れ込んでしまう。

 怪我はしていない。多少擦りむいた所ですぐに治ってしまう。ただ、ソウに買ってもらった服が砂に塗れて汚れてしまった。これぐらいなら洗濯すれば落ちるだろうか。

「何をしているんですか!暴行の現行犯ですよ!」

「やめなさい!自分たちが何をしているか分かっているんですか!」

 ミズモトとオオイが必死になって叫ぶが、かれらの上がりきった負の感情はその程度で収まるものではない。こちらを蹴りつけ、踏みつけ、持っていたバッグを遠くへ放り投げた。

 意味の理解できない罵声が口々に上から投げつけられる。これはヒノモト語なのだろうか。脳が理解を拒む。

 魔女、売女ばいた、自然の破壊者、化け物、税金泥棒。

 出ていけだとかはまだ生易しい方で、死ねだとか消えろだとかありとあらゆる罵倒がふりかかる。そんなに、自分は生きていてはいけない存在なのだろうか。

 痛覚はある。痛いわけではないのだが、痛いと感じる事はできる。痛覚がなければ肉体の危機を感じられない。逆に危険だ。

 ただ、できた傷はすぐに塞がってしまう。痛いのは一瞬だけで、すぐに痛覚は消えていく。力のない人間にいくら蹴られようが、痛いと感じる前に治ってしまう。

 横倒しになったこちらのあちこちを靴のつま先で蹴り、髪を、頭を踏みつけ、顔面に靴の裏を押し付けられる。

 目の前につま先がきた。流石にこれはまずい。

 眼球を潰されては流石に治るのに時間がかかる。急所は鍛えられない。

 慌てて腕を上げて顔をガードする。暴徒達は抵抗されたことにまた腹を立て、攻撃が一層激しくなる。

 止まない暴力。継続する憤怒の絶叫。一体この人たちは、そして自分は何をやっているのだろうか。

 唐突に攻撃が止んだ。けたたましいサイレンの音が近づいてくると、暴徒たちは蜘蛛の子を散らすように、一斉に走って逃げていった。

 彼らは逃げる時にもこちらに侮蔑の言葉を投げつけることは忘れなかった。化け物め、と。

 服の埃を払いながら立ち上がる。すぐに近寄ってきたオオイとミズモトが、こちらの服についた砂を一緒に落としてくれる。

「どうして出てきたんですか。こうなるのは分かっていたでしょう?」

「ええ、でも。こうしないとかれらは満足しないのではないかと思って」

 ミズモトの言った通り、できれば話をしようと思ってはいたが、恐らくこうなるだろうというのは分かっていた。警察が来て中断してしまったので、もしかしたらかれらは明日も来るかもしれない。

「だからって。かれらはこれで暴行傷害罪までついてしまいましたよ。公務執行妨害や器物損壊より遥かに重いです。それは、ミサキさんが出てきたからですよ?」

「……そうですね、すみません」

「いえ、謝る必要は……兎も角、警察に言って被害届を出しましょう。酷い有様ですよ」

 言われて自分の格好を見た。上品な紺色のタイトスカートはあちこちが裂け、ブラウスも背中のボタンが取れてしまっているようだ。踏まれて引っ張られたせいか、ついていたレースは半分近くが千切れてだらしなくぶら下がっている。

 オオイがやってきた警察官に事の次第を説明し始めた。殆どの警察官は到着と同時に逃げていった暴徒を追いかけていったのか、残ったのは現場確認の為の三人だけだった。

「ミズモト先生、被害届は出しません」

「は?」

「私は怪我をしていませんし、暴行傷害にはあたりません」

「そんなわけがないでしょう!?怪我をしていなくても、暴行を受けたのは事実なんですから!」

「怪我をしていないのなら成立しないのでは?」

「暴行傷害は親告罪ではありません。事実として、私は法に携わる者ととして、かれらを訴えます」

「……そうですか」

 法律の専門家が言うのだからそうなのだろう。だが、意味はないのではないだろうか。

「さっきの人たち、以前にもここで騒いでいた人たちが混ざっていました。法と罰ではかれらを止めることはできないのではないでしょうか」

 そう言うと、眼鏡をかけた長身の男は若干怯んだ。

「それは……公妨だけでは初犯ですと大体執行猶予がつきますし……」

「執行猶予期間、前回からまだ過ぎていないですよね?つまり、かれらは執行を恐れずにここへやってきたという事です。あんなに激昂して」

「何がおっしゃりたいんですか?」

 簡単な事だ。実に簡単な事。

「どれだけ罪を罰しても、かれらの私に対する怒りというのは消えないという事です。罰は意味がない。それこそ、死刑か終身刑でもあれば別ですが、暴行傷害だけではそんな事にはならないでしょう?」

「それは、勿論。少なくとも複数の殺人を犯さなければ死刑は求刑されませんので……終身刑もヒノモトにはありません」

 ならば、かれらを止める手段はこの国には無いという事だ。話し合いができるのならば、そしてそれで納得できるのならばそれに越したことは無いが、残念ながらそれは無理だった。ならば、好きなだけ殴らせるしか無いのではないだろうか。どうせこちらは怪我をしないのだ。

「ミサキさん、中で少しお話を聞きたいと。とりあえず、着替えて来られては」

「ああ、そうですね。ありがとうございます、オオイ二佐。着替え……その、トレーニングウェアか戦闘服しかありませんが……」

 あんな格好で警察と話をするわけにもいかない。下着も同然だ。

「ああ……どうしましょう。近くで何か買ってきましょうか」

「いえ、とりあえずはこのままでも。仕方がありません。サカキさんが来たら――」

 言った直後、ハイブリッドカーの静かなエンジン音が近づいてきた。

「え?あれ?警察の方?お疲れ様です。カラスマさん、その格好、何があったんですか!?」

 時間きっかりにやってきたサカキが、道の端にクルマを停めてこちらに駆け寄ってきた。

「サカキさん、以前も来ていた活動家の連中です。奴ら、ミサキさんを取り囲んで」

 ミズモトの言葉に、彼は信じられないといった顔をした。

「な、なんで!?カラスマさん、カラスマさんなら余裕で逃げられるでしょう?」

「そうなんですけど。あの人達、満足しないと何度でも来るかなと思って」

「だからって、蹴られていいわけがないでしょう!足跡ついてますよ!」

 サカキはこちらのスカートに手を近づけて払おうとして、慌てて手を引っ込めた。お尻の部分についているようだ。自分の手でパンパンと少し強く払った。

「すいません、サカキさん。ミサキさんの服を買ってきてもらえますか?ジャージか何かでもいいので」

「わ、わかりました。帰ってきたら詳しく聞かせてもらいますからね!」

 サカキはしっかりと念を押してクルマに戻っていった。パトカーを避けるように丁字路を左折して、外務省のクルマは街なかの方へと走っていった。

「とりあえず中へ、警察の方もご一緒に」

 オオイとミズモトに従って、汚れて乱れた格好のまま、駐屯地の中へと入っていった。


「ミサキさん、これを。警察の方が拾ってきてくださいました」

 ミズモトからブランドもののバッグを受け取る。中身を確認したが、特に何か無くなっているという事は無いようだ。頑丈な作りをしているためか、バッグ自体も壊れた様子はない。

 オオイ達とやってきたのは、普段はミーティングルームとして使われている事務棟の一室だった。長方形に囲んだ長テーブルを挟んで、向かい側に三人の警察官が座っている。

 こちらが特に何も言わなくてもオオイやミズモトが一部始終を見ていた為、正確に、理路整然と法的根拠も交えて警察官に説明している。口を挟む意味は無い。

「しかしまた、駆逐者に手をあげるとはなんというか、命知らずな連中ですな」

 やや年嵩の警察官が何気なく口にした。

 確かに自分たちがその気になれば、一瞬にして彼らの息の根を止める事は容易い。だが、自分がそれを絶対にしないと知ってか知らずか、かれらは一方的な暴行に及んだ。命知らずといえばまあ、そうかもしれない。

「全く抵抗しないのは見事と言えば見事ですが、普通は何かしら抵抗するものですよ。どうして黙ってされるがままになっていたのですか?」

 隣の警察官も疑問に思ったのか聞いてくる。

「私が抵抗、というか、手を出してしまえば、かれらはそれを逆手に取るでしょう。それに、私はあの程度では怪我をしませんし、やらせるだけやらせれば気が済むのかなと思って」

「それにしても、ねえ。ちょっと酷いですよこれは」

 現場で撮ってきた写真を見ながら、三人目が眉根に皺を寄せた。オオイ達の証言を合わせれば、かれらは何の落ち度もないこちらを一方的に取り囲み、無抵抗なのを良い事に、こんなに服がぼろぼろになるまで蹴り、踏み続けた。

「とりあえず、首謀者と思われる者は確保してあります。執行猶予中だったのでまぁ、確実に取り消しですな。他のものも大半は捕まえましたが、一部は逃げられました。ただ、証拠映像も残っているようですし、連中のスマホなんかを調べりゃすぐにどこの誰かわかるでしょう。その、ええと。サメガイさん。彼らに何か言っておく事や伝えたい事なんかはありますかね?」

 聞きたいのはたった一つ。

「どうしてそんなに私を憎むのか、ただそれだけが知りたいです」



 滞在中の執務室として与えられている小さな会議室の中で、サカキは机に叩きつけようとして握った拳から力を抜いた。

 怒りの発露をなんとか思いとどまった彼はしかし、ノート型端末の中、ウィスパーラインのウィンドウに表示されている囁きを見てその心情を思わず吐露した。

「こいつら、自分たちが何をしたのか、本当に分かっているのか……?」

 表示されているwisには、短い動画が添付されている。再生ボタンを押すと、無抵抗なミサキが周囲の人間から激しく蹴られ、踏みつけられている様子が映されている。

 動画に添えられている囁きはこうだ。


『生き物を殺す魔女を成敗!こんな弱っちい奴らに殺された恐竜たち。保護すべきではないだろうか。我々、平和市民連合の勝利です!』


 サカキは煮えたぎる感情を抑えたまま、腹の奥から声を絞り出す。

「何が平和市民連合だ。無抵抗な女性を一方的に蹴りつけて。お前らが足蹴にしたのは、世界を守ってくれている人なんだぞ。彼女が、彼女たちがいなければ、お前らだって死んじまうんだぞ」

 近くの量販店で女性用の上下を買ってきたサカキは、オオイにそれを渡してすぐにこの会議室に閉じこもった。

 端末で調べてみれば案の定、大炎上しているこのwisがトップに上がってきていたのだ。

 大半はこの暴挙に怒り、非難する返信や引用ばかりだ。だが、一部にはあろうことかこの愚行を褒め称え、賛同するような返信もついている。

「頭おかしいんじゃないのか。こいつら、本当に同じ人間なのか?」

 この囁きの主はどうやら反対意見をする者を片っ端からブロックしているようで、賛同者達にはこまめに返信をしている。典型的なエコーチェンバーだ。

「どうする、外務省としてはどう反応する?カラスマさんの意志に反するwisはしたくない。したくないが、だが、これは」

 彼は立ち上がって狭い部屋の中をうろうろと歩き回る。顎に手を当て、ああでもないこうでもないと唸りつつ、結局は元のパイプ椅子に腰を下ろした。


『広報として現在、ミサキ・カラスマへの暴力行為について、本人への聞き取りを含めて調査を行っております。詳細が分かり次第ご報告致します』


 ありきたりな定型文だ。公的機関では質問への回答に比較的この文言が使われる。一旦間を置くための逃げだが、だんまりを決め込むよりは良かろうという彼の判断だった。

 ウィスパーラインに書き込むなり、彼はすぐに立ち上がって表に出た。ミサキ本人から事の次第を聞こうと、トレーニングルームのある建物へ向かって歩き出した。



 ジェシカ達を心配させるのは嫌だったので、部屋に入る前、薄暗い階段室でサカキに買ってきてもらったものに着替えた。

 シンプルなスラックスに半袖のレディースシャツ。無難を好むサカキらしい選択だと思った。

 きちんとタグが切ってあるので、その辺りの気遣いは細やかだ。恐らく彼は何度か女性と付き合ったことがあるのだろう。

 一人で重たい扉を開けて中に入る。中には先にオオイとマツバラが来ていて、二人といつもの朝のミーティングをしていた。

「おはよう!ミサキ!今日は遅かったね」

「珍しいですね、ミサキが遅刻するというのは」

「ええ、ちょっと色々ありまして」

 元気な二人の姿に癒される。彼女たちは心のオアシスだ。

「特筆すべきところはありませんが、リュウキュウでの戦闘の報告書だけ、お願いしますね」

「わかりました。帰るまでに提出します」

 他には何も無いようなので、着替えたばかりだがトレーニングウェアに着替えようとロッカーに向かおうとした所、マツバラがちょっと、と手招きをして、こちらの部屋へと誘った。

 先に始めていてください、と二人に言って、誘われるがまま、緑の絨毯の敷かれた自室へと入る。座るように促されたので、デスクの椅子を反転させてマツバラの方へ向いた状態で腰を下ろした。

「大丈夫?いえ、怪我はしていないというのは分かるけど」

 マツバラは壁際にあった折りたたみ椅子を持ってきて腰掛けると、開口一番、こちらを心配するそぶりを見せる。オオイから今朝の事を聞いたのか。

「大丈夫ですよ。服は……まぁ、折角彼に買ってもらったものですが」

 サクラダ駅前に竜が現れる直前に買ってもらったものだ。選んだのは妹と義妹だが、金を出したのはソウだ。

 ずっと着ていて結構思い入れのある服だったのだが、あちこち破けたり装飾が取れてしまったので、もう着ることはできないだろう。

 そう思うと少しだけ悲しくなってきた。どうせ蹴られるならもっと安い、適当な服を着てくれば良かった。

「わざわざクルマの外に出て、自ら襲われにいったって聞いたけど」

「そうですね、多分、そう見えたと思います。本当は話をしようと思ったんですけど」

 ダメだった。無駄だった。

「そんなの無理だって、カラスマさんなら分かってたでしょう?大丈夫?何か、気にかかっている事とかあるんじゃない?」

 マツバラは、何故、と聞いてこない。

 普通なら、どうしてそんな事をしたのかと聞いてくるはずだ。だが、彼女はこちらを信じて、何か気持ちの変化でもあったのだろうと優しく聞いている。

「流石ですね、先生。メンタルケアもばっちりです。心配しないでください、私は大丈夫ですから」

「はぐらかしちゃダメ。大丈夫ってことは、何かあるんだね。ちょっとで良いから話してみてくれない?医者に言うんじゃなくて、友達や、あるいは専門家に知見を求めるとか、そういった感覚でもいいから」

 伊達にメンタルが不安定になった女性を沢山見てきたわけではない。彼女は鋭い。そして、話を聞き出す手管にも長けている。

 だが、そうか、専門家に知見を求める、というのは良い視点だ。確かに自分の知識では説明のつかないことでも、彼女になら、あるいは。

「声が、聞こえるんです」

 マツバラは頷いた。何の?とか、どこから?とか、何も聞いてこない。ただ話の続きを促している。

「この身体になって暫くしてから。正確には、ヤマシロ市役所で竜を殺した後からでしょうか。体の中から、声が聞こえてくるんです。自分の殺戮衝動を肯定し、本能のままに動かせという、そういった方向性の声が」

 大抵は無視できる。だが、人の悪意に触れたりすると苛立つほどに強く聞こえてくる。意識して抑え込まないと、飲み込まれてしまいそうになるほどに。

「それは、男性の声?」

「わかりません。性別、というか、声というのも比喩的なものなんですが。要するに、頭の中にそういった考えが生まれるんです」

「それは、誰でもそうだと思うけど」

「違うんです。自らの葛藤やなんかってのは誰でもそうだと思います。そうではなくて、自分の意識外の存在が囁いてくるんです。ふふ、これって、なんか統合失調症みたいですね。もしかしたらそうなのかもしれませんが」

 マツバラは少しだけ黙って考え込んだ。しかしすぐに呟くように返答をしてくる。

「カラスマさんに統合失調症の症状は見られません。疲労によって幻聴が現れる方もいますが……他に考えられるのは、PTSDによるフラッシュバックや躁鬱なんかですが」

 医者としての話し方に戻ったマツバラの言葉に少し考える。

 心的外傷後ストレス障害か。何かのトラウマがあるのかという事だろうが。

「可能性があるのは躁鬱でしょうか。ただ、そこまで感情の起伏があるわけではありません。感情の波は比較的平坦ですし……過去に何かのトラウマがあるというわけでもありません。まぁ、この状態になって最初に乗った電車で痴漢にはあいましたが」

「痴漢って……それ、どうしたの?」

「関節を取って電車から追い出しました。当時はまだ以前の意識が強かったので、あまりショックには感じませんでした」

 少し小声になって話す。自分が男であったと知っているのは、ここではマツバラだけだ。音声を拾われて聞かれると困る。

「そう、じゃあそのセンは薄いかも。他に、その声は何か気になることを言っていなかった?」

 気になること。そうか、そういえば。

「あの、絶対に私がそうは思わない事なんですけど」

 しっかりとそのように前置きをして言った。

「ジェシカとメイユィの事を、私と同類、いや、彼女たちは私のしもべだと、そう言っていました」

 あの二人が下僕などと自分が考えるはずもない。彼女たちは大切な友人であり、同僚であり、可愛い妹のようなものだ。一度たりともそんな風に思った事は無い。

「しもべ……同類、というのはわかるけど、そこは良く分からないね。あの二人は確かにカラスマさんに懐いているけど、関係性として主従というのは不適切だし」

 DDDパシフィックのリーダーという立場ではあるものの、それは戦場での役割というだけだ。二人はこちらと同列だし、何かを命令しようと思った事など一度もない。

「それで、その声が命令したの?クルマの外に出ろって」

「いえ、逆です。その声は、人間は愚かな生き物だ、と言っていました。なので、そうじゃない、かれらには何か理由があって怒っているのだろうと思って……それで、話をしてみようと」

 マツバラは再び考え込んだ。彼女の脳の中にしまわれている症例と比較しているのだろう。

「良く分かった。それで、どうする?あんな事があったんだし、今日はもう帰って休む?それなら診断書書くけど」

 ありがたい申し出だが、その必要はない。

「先程から言っていますが大丈夫です。寧ろ、少しトレーニングで身体を動かしたり、書類を作成していたほうが気が紛れると思いますので」

 そこまで言うと、流石にマツバラも強要はしてこなかった。辛くなったらいつでも内線で教えて、とだけ言って、部屋を出ていった。

 言ったことは本当だ。身体を動かしたほうが気持ちが晴れるし、料理をしていれば心が落ち着いてくる。時代遅れの紙にボールペンで報告を纏めるのも、良い気分転換になるだろう。

 やたらと体のラインを露出するトレーニングウェアに着替えるため、彼女に続いて部屋を出た。



「どうでしたか、マツバラ先生。彼女の様子は」

「今のところ問題は無さそう。けど、一つ気になることは言ってた」

 監視室の中、パーティションで区切られた一角で、オオイとマツバラが顔を突き合わせて話をしている。

「気になる事、ですか?」

「うん。まぁ、これは研究者の領分になるから詳しくは言わないけど、声が聞こえるんだって」

「声?幻聴ですか?」

「単なる幻聴じゃないみたい。妄言を言う人じゃないから、何らかの肉体的変化によるものじゃないかとは思うけど」

 オオイは先程のマツバラと同じように黙って考え込んだ。誰も彼も、分からないものを理解しようとして思考の隘路に陥りがちだ。

「そういえば、オオイさん。帰りの飛行機の中で、カミヌマ教授について聞いてきたよね。後から調べたんだけど、カミヌマ教授はリュウキュウの古代史が専門分野だよ」

 少し話題を変えるつもりで、マツバラは金曜日の話を持ち出した。

「リュウキュウの古代史?竜災害に何の関係も無いじゃないですか。理系ですらない」

「そうだね……って、竜災害に関する事なの?なんで?」

「ああ、すみません、説明していませんでしたね。先日の竜災害の記事が載っていた、ウルミ新報の話なんですが」

 オオイは突拍子もない意見を載せた新聞の記事について彼女に説明する。

「全く。マスコミってのはそうやって全然関係のない専門家から話を引き出して箔をつけようとするんだから。あの頃から全く変わってないね。でも、まだそのカミヌマ教授ってのはマシなほうだよ。科学者は、絶対に無いとかあり得ない、とは言わない。可能性はあるって答えるから。古代史が専門でも、学術者としては普通だね」

「そうですね。例え0.0001パーセントでも、可能性があるといえばありますから。ですが、彼女たちの存在が竜災害の発生に関与しているなどと」

 オオイは軽く笑い飛ばそうとしたが、マツバラはそうはならなかった。

「わからないよ。確かに、竜災害は彼女たちと全く違う場所でも沢山発生してる。けれど、彼女たちの存在と竜災害との関連性は、何かしらあるのでは、というのは研究者の間では暗黙の了解になってる」

「えっ……」

 絶句したオオイに、違うよ、とマツバラは首を振った。

「別に彼女たちがいるから近くで竜災害が発生するって言ってるんじゃないの。竜を倒せるのが彼女たちだけで、竜災害の発生とほぼ同時に彼女たちも発見されてる。順当に考えれば、何か関係があるんじゃないか。誰でもそう考えるよ」

「それは……しかし。彼女たちは人の側に立って守る立場です。それが」

「うん、だから、関連性だけの話。それが順応による生物的な進化なのか、片方が何かのトリガーとなってもう片方が発生したのか、それはまだ調べてるところ。まぁ、そう簡単にはわかるとは思わないけどね。それはそうとして、その新聞記事」

 マツバラは剣呑な表情になって続けた。

「多分、それだね。カラスマさんは心のどこかで、今私が言ったことに思い至って、心の隅で罪悪感を抱えてる。彼女は賢いから、その可能性なんて当然のように気がついてる。もしかしたら、自分たちが生まれたせいで竜災害が起こったんじゃないかって」

「そんな。そんな事、ミサキさん達にはどうしようもない事じゃないですか」

「そうだよ。だから悩んでるんだと思う。いつもなら相手にしなかっただろう今回のあの連中に、話を聞こうと思ったのもそのせいだよ、多分。連中はしきりに彼女たちの事を、化け物だの魔女だの言ってるでしょ。自分たちとは違う、異形の存在だって」

 オオイは唇を噛み締めて黙った。

 殆どの人々は彼女たちを好意的に見ている。見た目が非常に可愛らしく、性格も親しみやすくて身近に感じる。それは上の広報戦略としてそのように露出したのだから当然だ。

 だが、それを快く思わない者たちにとっては、彼女たちの存在は常軌を逸した魔女に映るのだろう。人を誑かし、人心を惑わし、恐るべき腕力で生命体を屠る鬼や悪魔のような存在に。

「私達ができる事は何でしょうか」

「そうだね、オオイさんは普通に彼女たちに接する事かな。私達は研究を進めて一刻も早く竜災害と、彼女たちの事を解明する事」

「それって、いつも通りですよね」

「そう、いつも通り。ただ、ちょっとカラスマさんは弱気になってる部分があるから、それとなく励ましてあげて。あなたのお陰でこの世界はどうにか保ってるんだからって」

「わかりました。ありがとうございます」

「ま、お互い頑張りましょ。私達もこの世界の平和を担ってる一員なんだし」

「そうですね、そうでした」

 マツバラは階段で上の階へと戻っていった。オオイも安堵して監視室に戻ろうとしたが、厳しい顔つきでやってきたサカキを見て、溜息を吐いた。

「こっちもこっちで厄介そうですね」

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