第50話 旅程

「やっぱり普通の飛行機での移動が良いですね!」

 窓際に陣取ったジェシカが、嬉しそうに雲海を眺めている。眼下には碧い海、上空には蒼い空。天気明朗なれども波、は上空からでは分からない。

 いつもの超音速機と違って、ゆったりとした旅客機のファーストクラス。ほぼ貸し切り状態のエリアで、ドリンクを片手に優雅に空の旅だ。

 しかし、一方で優雅とは言えない表情をして震えている者もいる。

「シュウトさん、大丈夫?まだ12時間以上も飛ぶんだけど」

「だ、大丈夫ですよジュエさん。この程度、なんてことはありません」

 真っ青な顔色はとても大丈夫な様には見えない。サカキは高所恐怖症なのである。

「先生、これって克服できないものなんでしょうか」

「少しずつ慣れるのが一般的な治療方法だけど、いきなり飛行機は無理だね。まぁ、乗り慣れれば多分大丈夫だと思う」

 前の席でオオイがマツバラに話しかけている。恐怖症の原因がどこから来るのかは分からないが、やはり慣れさせるのが一番なのだろう。ただ、いきなり航空機は流石にきついのではないだろうか。

「サカキさん、お酒でも飲んで眠ったらどうですか?ファーストクラスなので、お酒が貰えるはずですよ」

 あまりに酷い顔をしているので、心配するメイユィの顔も見ていられない。さっさと眠ってしまえば良いのだ。

「い、いえ。仕事の時間ですので、お酒を飲むわけには」

「薬ですよ薬。ねえ、マツバラ先生。いいですよね?」

「この場合は緊急避難だね。なんなら睡眠導入剤を出そうか?」

 流石に医者にそう言われては、サカキも酒の力を借りることに抵抗がなくなったようだ。フライトアテンダントから度数の強い蒸留酒を受け取って、ちびちびと飲んでいるうちに彼はすぐにダウンしてしまった。今度は二日酔いにならなければ良いのだが。

 超音速機ではなく、旅客機で移動しているのには訳がある。

 今回の移動は竜退治が目的ではなく、もう一つのDDD、アトランティックに会いにいく為である。

 彼女たちが拠点にしているのは地中海に浮かぶ小さな島国、サイクロプスである。

 なぜそこに拠点を置いたか、というのは、単純に受け持ち範囲の中央部に近く、どこへ向かうにも便利だからという理由だそうだ。だが、自分は恐らく他の意味もあってそこにしているのではと思っている。

 政治的な理由はさておき、島国というのは海がある分、封鎖が楽だ。何らかの理由で彼女たちが反旗を翻した場合、島ごと焼き払うという非人道的な行為だって可能である。我々がヒノモトという島国に押し込められているのも大体似たような理由からだろう。

 現代兵器の通用しない新古生物という存在は、人類に対する圧倒的脅威だ。そしてそれを唯一倒せる我々に対しても、新古生物に対してのものと似たような目が注がれるというのも当然の事だろう。

 我々がアトランティックの三人と中々面会がかなわなかったのは、合流されて6人になってしまうと手がつけられなくなるから、という理由もある。勿論それだけではなく、国家間の政治的な理由からというのもあるのだが。

「ハルナ、こんなにゆっくり移動していて大丈夫なのですか?移動中に災害が発生したらどうするのですか?」

 ジェシカが窓の外を見ながら当然の事を聞いた。ヒノモトを離れてしまえば超音速輸送機が使えず、現場への到着が相当に遅れる。被害が拡大してしまう。

「各国協議の上での結論ですので問題ありません。それに、研究の結果、竜災害はある程度発生に時間的周期が見られる事がわかっています。次に発生するのは恐らく、あちら側の受け持ち範囲でしょう」

「そんな事がわかっているのですか!では、出る場所に待ち受けていれば早いのでは?」

「いえ、流石にそこまで詳細な予測は……すみません」

 謝る必要などない。ある程度の周期があるというのが分かっただけでも大きな前進だ。心構えと余裕の持ち方が随分と楽になる。

「いやー、それにしてもファーストクラスは快適だわ。学会に出向く時とか、エコノミーだったからもう、移動が辛くて」

 マツバラが気持ちよさそうに前の席で伸びをしている。

「そこまでですか?LCCではなく?」

「当時はLCCとか殆ど無かったからね、もう、隣の席に肥満の人とか来ると最悪で」

「あぁ……それは辛そうですね」

 隣に席をはみ出すぐらいの巨漢やら、臭気のきつい人間が座るとフライトが地獄に変わる。国内の新幹線ですらそうなのだから、長時間移動ともなると相当に堪えるだろう。

 その点、今回は広々とした座席で、しかも周辺まで押さえてあるのかほぼ貸切状態だ。約一名を除けば快適にも程がある。

「ハルナ、機内食はまだかな?」

「あと30分後ぐらいでしょうか。機内食は機内食なので、あまり期待しないほうが良いですよ」

「そうなの?ワタシ、食べたことないから」

 央華沿岸部からヒノモト西部の空港まではほんの数時間だ。航空会社と時間帯によっては機内食のサービスは無いのかもしれない。

 それでも国際線ならば大体は提供されるのだが、メイユィはその経緯から、もしかしたら軍用機で運ばれてきたのかもしれない。

「メイユィ、機内食は量が少ないです。多分、物足りないと思います」

 ジェシカが少し悲しそうに言った。彼女は旅客機経験者だ。

「そうなの?お腹が減るのはやだなあ。我慢はできるんだけど」

「中継点で乗り換えに暫く時間があるので、空港のレストランで食事をしましょうか。オオイ二佐、経費では」

「落ちますよ、今回の移動は外務省持ちです」

 オオイが嬉しそうに言った。という事は、この旅費の決済をするのは今は酔いつぶれて寝ているサカキの仕事だ。それでオオイもいつもより機嫌が良さそうなのだろう。

 彼女の抱えている事務作業量は膨大だ。一時的とはいえ、それから開放されるのである。機嫌も良くなろうというものだ。

 ヒノモトから直接サイクロプス島に出ている便は無いので、途中、中東にある空港で乗り換えをする必要がある。結構な大都市なので空港も大きいはずだ。

 暫くしてフライトアテンダントが機内食の要望を聞きに来た。自分とオオイ、マツバラは魚を、二人は牛肉を所望した。サカキは寝ているので、彼にも彼女たちと同じものを、と言っておいた。起きるだろうか。

 一枚のプレートに乗せて提供された機内食はそれなりに美味しかったが、やはり量が少ない。オオイやマツバラは満足したものの、自分達の腹には流石に少なすぎる。我慢できないというわけではないのだが、半端に食べてしまったので余計に腹が減った。

 持ってきた菓子を三人で分け合って食べていると、サカキが目を覚まして、いつの間にか目の前に置かれている昼食に驚いていた。


「退屈です」

 外の景色を見飽きたジェシカが呟いた。海原はとっくの昔に消え、眼下は見渡す限り山と荒野ばかりである。航路に大都市は少ないので、高いところからでは見るべき景色もそれほど無い。

 メイユィは早々に持ってきた携帯ゲーム機で遊び始めていた。やはり彼女はRPGがお好みのようで、アニメチックな可愛らしいグラフィックのキャラクターを楽しそうに操作している。

「ジェシカもゲーム機を持ってくれば良かったじゃないですか。それか、サカキさんみたいに寝ていれば。いつもはお昼寝の時間でしょう?」

 サカキは食事を終えると、再び酒を貰って眠ってしまった。こちらもエールを一杯貰ったものの、流石にその程度では酔わない。

「暇つぶしに、ウスイホンを持ってこようとしたら、ハルナに止められました。メイユィのゲームは良いのに、どうして」

「ジェシカ。ヒノモトのウスイホンは多くの国で税関を通れません。取り上げられてしまいますよ」

 二次元でも少女の性的な姿態を描いたものは没収される場合がある。いつだったか、オセアーノのオタクがヒノモトから持ち帰った所、空港で取り上げられて嘆いていたというのがネットニュースに上がっていた。

「なんですって!そんな、ひどい。一体何の権利があってそんなことをするのですか?」

「国には国の方針があるでしょう。なのでウスイホンはダメです。小説とかなら問題ないですよ」

「小説、うーん、嫌いではないのですが、絵があったほうが嬉しいです」

 我儘な金髪美少女に、持ってきたノート型端末を貸した。wifiは繋がるようなので、サブウェイのサブスクでも見ていて下さいと言って自分はリクライニングを倒した。

 昼寝だ。昼寝である。普段はいくらか仕事があるが、今日はその必要は無い。眠っていれば勝手に目的地につくのである。

 移動中に仕事のあるサカキですら眠っているのだから、自分が寝ていても何も問題ない。オオイもマツバラも、背もたれに身を預けて喋らなくなった。


 気持ちよく目が覚めた。眠っていたのはおよそ一時間半程度だろうか。

 隣に座っているサカキはまだ眠っている。その向こうのメイユィは携帯ゲーム機を、ジェシカはこちらが貸した端末で動画を熱心に見ている。先程と何も変わっていない。

 オオイもマツバラも静かだ。恐らく眠っているのだろう。

 太陽に追いかけられるような形で移動しているため、外の明るさは殆ど変化していない。

 自分ももう少し寝ても良いのだが、日中に一度目が覚めるとすぐには眠れない。静かな機内には低い音と空調の音しか聞こえない。

 端末をジェシカに貸しているので、自分はスマホを起動した。

 家を出る時に、暫くヒノモトを離れる為、その間の飯はしっかり食べろとソウ念を押しておいた。

 一応冷凍できる惣菜なんかは作ってあるが、恐らくあの男の事だ。またすぐに外食に走ってしまうだろう。冷凍してあるご飯ぐらいは食べるだろうが、無くなれば自分で炊くという事もしないだろう。

 数日ぐらい栄養状態の偏った食事をしたところで問題は無い。ただ、心配なのは酒だ。

 いつも自分がある程度制限しているので、それがなくなったとき、ついつい飲みすぎてしまうのではないだろうか。そして酒を過ごせば当然、朝起きられなくなる。心配だ。いつもなら遅刻しそうなら自分が起こしているのだが、それがない。大丈夫だろうか。

 ワイアードで彼との個人チャットを開いて、何か打ち込もうと思うのだが、すぐにやめてしまう。まだ一日も経っていないのに、これではあまりに心配性ではないか。

 今、ヒノモトは午後の3時過ぎだ。週の始めなのでソウだけでなく、弟のトシツグ達も仕事中だろう。暇だからといってチャットを送った所で反応があるとは思えない。

 スマホにインストールしてあるソシャゲはない。わざわざ回線の遅い飛行機内でダウンロードしたところで、ぶつぶつ切れて不快なだけだ。思い切ってウィスパーラインを起動してみた。

 普段はあまり見ないようにしている。自分の情報が結構な頻度でトレンドになっているので、見るのが怖いのだ。それでも退屈という人を殺す魔物には勝てず、ずらっと表示された囁きを流し見していく。

 やはり、昨日のアレが話題になっている。ブランディッシュファイトの突発エキシビジョンマッチの事だ。

 その中で一際目につくのが、とある人物の囁きからの引用である。そう、あの暴言プロゲーマーだ。


『ビッチがエロコスで気を引こうとしてるんだけど、こういうのアリ?実質淫売じゃん』


 どうも彼女には自分が”ビッチ”だと見られているようだ。ビッチ、メス犬、ヒノモトでは主に淫売という意味として使う事が多い。

 彼女の囁きには、一部彼女の信者からの賛同の返信がついているものの、その殆どは否定的な返信か引用だ。


『自分も顔で売ってたのに人の事を言うのか』

『ミサキちゃんがビッチならお前は負け犬だな』

『配信では本人は嫌がっていたみたいですが。企業案件でしょ』

『DDDにボコボコにされて顔真っ赤お疲れ様です』


 あまり長い間見ていたいものではない。叩かれても叩かれても囁きをやめないその鋼のメンタルは大したものだが、彼女自らの言動が炎上を誘発しているのは間違いない。これも炎上芸だろうか。

 こういう事をしていると、結局一部の信者やウォッチ、つまり観察目的の人間しか周囲にいなくなる。結果どんどん先鋭化、過激化していく。過激な政治活動団体と同じ様な道である。

 いたたまれない。どうして人はその愚かしさに自分から気がつけないのだろうか。周囲も反応するから彼女も怒りを収められないわけで、どれだけ正論を言ったところで結局は火に油である。こういうのは全員が放置するしかないのだ。

 しかし、ネットの海は広い。多数の人間がその言動を見ている以上、どうしたって口を出したくなる人は減らない。果たしてこのインターネットというのは人類が扱って良いものなのだろうか。便利だし暇つぶしにはもってこいだが、何か一部の人達が、人間としての尊厳を放り投げている気がしてならない。

 サカキがダウンしている以上、こちらからのアクションは何もない。というか、サカキが起きていたとしてもこれは放置するだろう。賢い彼はネットがどのように炎上するのかを学習して知っている。

 とは言っても、彼も時々あてつけのような事をする時がある。直接触れないにしても、ああ、あいつの事だなと分かるように仄めかして注意を促すような内容がそれだ。

 例えばこの囁きと関係ない所でこういった事を囁くだろう。


『こんにちは!外務省DDD担当広報です!ヒノモトは段々と暖かくなってきましたが、皆さんはオーバーヒートなどしないように、クールダウンしていきましょう!ブランディッシュファイト記念イベントの日程は、来週に発表予定です!』


 こんな具合にである。

 BFの話を出して、オーバーヒートしないように、と言えば、当然怒り心頭の誰かさんの事だなと、経緯を知っている人間は誰でもわかる。結果、彼女への叩きは加速するだろう。

 ざまあみろ、と溜飲を下げる人はいるかもしれない。悪を見つけて叩くのはとても気持ちがいい。傍若無人で自己中心的な人間が因果応報でひどい目にあうというのは、分かりやすい勧善懲悪だ。

 だが、こちらとしては攻撃をやめてくれさえすればそれで良いのである。

 叩けば反発する。叩かれた彼女はより一層こちらに憎しみを募らせ、攻撃を継続する。負の連鎖である。

 一番良いのは誰も相手にしない事だ。誰にも相手にされなくなり、見ている人がいないとなれば、いずれ大人しくなっていくものだ。

 だが、ネットではそれができない。一度有名になってしまえば、必ず誰かが見ていて、必ず誰かがツッコミを入れる。一種の集団監視状態のようなものだ。

 ネットは怖い。怖いものだと分かっていない人が、迂闊な事を言ってしまう。自分がウィスパーラインでは殆どROM専、見ているだけの利用に留めているのはそのせいだ。

「ミサキ、猫が好きなのですか?」

 唐突にジェシカがこちらを見て言った。起きたのに今気がついたようだ。恐らくサブウェイに表示されるおすすめ動画に猫のものが多いと気がついたのだろう。

「ええ、猫は好きですよ。というか、可愛いものは大体好きです。ウサギとか、ペンギンとか……最近だとシマエナガが好きですね、ふわふわでつぶらな瞳で」

 真っ白でふわふわとした鳥はとても愛らしい。もう、動いているのを見ているだけで鼻血が出てきそうになる。

「シマエナガ?何ですかそれは?」

「北国に住んでいる小さい鳥ですよ。ほら、私のお気に入り動画にあるでしょう?」

「どれですか?あっ、これ。本当ですね!ふわふわでカワイイです!」

「何?どれ?あっ!カワイイ!本当だ!ねえジェシカ、もっと無いの」

「待って下さい、メイユィ。検索してみますから」

 こちらは平和な事だ。ネットの触り方はこの程度で良いのではないだろうか。勿論、可愛い動画に潜ませたメッセージ性には気を付けなければいけないが。

 通りがかったフライトアテンダントに珈琲をお願いして、幸せそうに真っ白な鳥を見ている二人を観察するのだった。


「……本当によく食べるね」

「大丈夫かな。と、通るよね流石に。DDDは沢山食べるって知られてるし」

 マツバラが半ば呆れて、サカキは経費申請が通るか不安そうに会計を済ませた。通るに決まっている。何故なら毎回出動の際にはこれぐらい現地で食べているのだ。

「大丈夫ですよサカキさん、防衛省では毎回通っていますから。それにしても、いつも思いますが一体どこに入るんでしょうか。マツバラ先生、生物学的にこれは」

「わかりませんよ。いや、エネルギーの行き先は分かってきてるんだけど」

 飛行機の中継地点であるイラブ首長国連邦、その二番目に大きい大都市にある空港。その中にあった多国籍料理の店で、昼の機内食では足りなかった分を取り返すかの如く、三人で様々な料理をたらふく腹に詰め込んだのだ。

 特に美味かったのは専用の窯で焼かれたらしいピッツァだ。ジェシカはやや物足りなそうにしていたが、フレッシュなトマトと香草、チーズの高品質でシンプルな味わいが素晴らしく、一人で三枚も食べてしまった。

 ジェシカはやはり肉が気に入ったらしく、いかにも高級そうなローストされた肉の盛り合わせのものを何皿も平らげていた。あれはかなり高価な部類に入るはずだ。

 メイユィはデザートが気に入ったようだ。最近はヒノモトで見かけなくなったティラミスをいくつも食べ、炭酸のノンアルコールカクテルもこれでもかとお代わりしていた。

「流石に素晴らしい料理でした。サカキさん、ごちそうさまです」

「え、ああ、うん。いや、僕が払うわけじゃなくて外務省持ちだけどね、税金だし」

 その通りである。我々は税金で美食に耽っているのだ。ああ、何と罪深い事であろうか。

「毎日沢山食べてるのは知ってたけど、目の当たりにするとすごいな……消化器官、どうなってるんだろ」

「普通に胃に入ってるんじゃないですか。食べた分、お腹は膨れますし」

 食事直後はやはり少し腹が張る。今は大丈夫だが、戦闘服のままだとちょっと格好悪い。ただ、すぐに引っ込んでしまうのだが。

「消化酵素が違うのかな……吸収効率も違うし、消化速度が」

「食後に胃カメラとかは飲みませんよ」

「わ、わかってるって。気になっただけ」

 実際、こちらの消化がどうなっているのか調べたところで、何か役に立つ知見が得られるかどうかは怪しい。勿論全て調べたいというのが科学者の本音だろうが、それよりも優先して解明しなければならないことが山程あるはずだ。消化速度なんてのは枝葉末節である。

 美味しい食事で満腹になって、機嫌よく搭乗口から次の旅客機へと向かう。サカキだけはまた嫌そうな顔をしているが、ここからはあと数時間だ、我慢してほしい。

 先程と同じ航空会社の旅客機に乗り込み、こちらもファーストクラスの広々とした座席に着席する。こんな贅沢をして良いのだろうか。夢のようである。

「どうせなら競馬も見て行きたかったですねえ」

「競馬?ミサキ、ここって競馬で有名なの?」

「そうですよ。賞金の大きなGⅠレースがあることで有名な競馬場があるのです。まぁ、今日は開催していないみたいですが」

 あまり賭ける事はしないが、競馬自体を眺める事は好きだ。物凄いスピードで馬たちが走る姿を見るのは、中々に爽快感がある。

「意外ですね。ミサキさんは経済動物は嫌いなのかと思っていましたが」

 オオイは何か勘違いしている。基本的に自分が嫌いな動物はいない。

「そんな事はないですよ。馬は馬で好きです。サラブレッドの扱いに色々と考えのある人はいるでしょうが、私は構わないという立場ですから。大体動物愛護なんて事を言い出したら、愛玩動物だって飼えませんし家畜から肉を取ることだってできません」

「ま、その通りね。扱いはどうかわからないけど、ブラッドスポーツでもある競馬は私も嫌いじゃない。ああ、闘牛なんかとは別の意味のブラッドスポーツね」

 マツバラは主に遺伝と動物細胞を研究している。そういった観点からも、サラブレッドという極端な血統重視の生き物には興味があるのだろう。

「ワタシは難しい事はよくわからないけど、ホンハイでも競馬はよく見たよ。馬ってまつげが長くてやさしい顔してるよね」

「私も牧場では良く馬の世話をしました!競走馬ではありませんが、力が強くて賢くて良い子達でした」

 ホンハイにも世界的に有名な競馬場がある。ヒノモトの中央競馬からも頻繁に出走しているし、レース賞金も高い。マフィアに所属していたのなら、当然競馬場にも足を運んだ事があるだろう。

 ジェシカは家畜のいる農場にいたので、馬も牛も見慣れているはずだ。良く考えれば我々全員が経済動物とされる馬に近しい立場にいる。

「あっ、それじゃあ、HRAとコラボして、あのソーシャルゲームのコスプレを」

「しません。その発想は仕舞って下さい」

 格闘ゲームと同じ発想を持ち出したサカキを黙らせる。コスプレは一度で十分だ。そもそも日々の戦闘だって、エロコスみたいな格好をしているのである。

 しゅんとなったサカキは、飛行機が動き出すとまた顔面蒼白になった。これが世にいうがっかりイケメンなのか、と今初めて気がついた。


 およそ四時間のフライトを経て、サイクロプス島南東部にある空港に到着した。

 時刻は現地時間の午後8時。あちらと会うのは翌日の予定である為、今日はこの街にホテルを取っているのだという。しかし、到着してすぐに問題が一つ発生してしまった。

『荷物が来ていない?どういう事だ。乗り換えたのは同じ航空会社の便だろう』

 何故かオオイの荷物だけが空港に届いていないのだ。着替えや書類といった嵩張るものはスーツケースにいれて預けたのであるが、それが空港の荷物受け取り場所に届いていないのだという。

 自分たちのものは全てあった。それなのに、何故かオオイのものだけが届いていないのだと空港職員は言う。

『もう一度良く調べ直してくれ。オオイだ。ハルナ・オオイ』

 何度も職員に要請しているのだが、職員は無いと突っぱねる。全員が同じ便で来たのであるから、無いという事はないと思うのだが。

 押し問答しているうちに、職員が呼んだのか武装した警備員がやってきた。驚いたことに旧式のアサルトライフルを肩から下げている。

 しかしオオイだって軍人である。そんな事で怯んだりはしない。やってきた警備員に、私はヒノモトの軍人だ、荷物には大切な書類が入っている、そちらの不手際で無くなれば国際問題に発展しかねないぞと連合王国語で強気に出ている。

 警備員とて丸腰の女性にむやみに銃を向けることができず、困った様にグリース系の男性職員の方を見る。職員は職員で知らぬ存ぜぬだ。

 流石に見かねたサカキが仲裁に入った。

「オオイ二佐、その辺で。大事な荷物なのですから、ここは大使館から空港に連絡を入れましょう。幸い面会は明日ですから、まだ間に合う可能性は十分にあります。良いですね」

「……わかりました。では、そのようにお願いします」

 サカキはその直後、厳しい顔をしてグリース語で空港職員に早口で何か言っている。こちらに視線をやって急激に顔色を変えた職員は、慌てて奥に引っ込んでいった。

「行きましょう。ホテルは教えてありますので、見つかれば届くはずです」

 言われるがまま、各々の荷物を転がして外で待っていたホテルの送迎バスの中に乗り込む。座席についたところで、前に座ったサカキに話しかけた。

「サカキさん、グリース語ができるんですか。何を言ったんです?」

「大した事じゃありませんよ。我々の身分を明かして、政治的にその荷物がどれだけ大切なものか教えてやっただけです」

 なるほど、ヒノモトの軍人だとオオイが言ってもまるで効いていなかったが、彼が外務省職員である事とDDDパシフィックを連れている事を持ち出したのだ。この島にはDDDアトランティックがいる。彼女たちがこの島の情勢にとってどれだけ重要な立場にあるかという事がわかっていれば、流石に顔色を変えようというものだ。

「シュウトさん、かっこいい」

「グリース語ができるなんて、シュウトは凄いですね!能あるタカはツメを隠すというやつですね!」

 サカキは二人に褒められて、若干情けなく顔を緩ませて照れた。先程の空港職員に対する態度とは雲泥の差である。

 それにしても、彼は一体何か国語を習得しているのだろうか。央華語もできるので、外務省職員としてはかなり優秀な部類ではなかろうか。

 言動の如才のなさを考えると、朝の弱さと高所恐怖症がなければ、間違いなくトップエリートかと思われる。普通に重要国の大使館勤務を経て、相当上までいけるはずだ。

 バスの窓から風景を眺める。海沿いのこの街は観光都市としても有名で、地中海の穏やかな風が海から緩やかに街の空気を揺らしている。

 小さなバスは自分たちだけを乗せて海沿いの大きな道を北上し、大きなロータリー式交差点を超えてすぐのホテルの前で停まった。

「メディソン・ブルー・ホテル?随分と良さそうなホテルですが」

 真っ白で四角い大きな外観は、周辺の建物と比べてもはっきりと目立つ。車寄せからエントランスに入ると、従業員達が次々とこちらの荷物を受け取って台車に乗せていった。

「シュウト、チェックインは?」

「済ませてありますよ。部屋の鍵も既にフロントから貰っています」

 おい、大丈夫か。どんな高級ホテルだって大体チェックインでフロントには寄るぞ。完全スルーとかどんなVIP待遇だ。

 サカキからカードキーを受け取って、エレベーター前で待ち受けていた従業員に恭しく部屋へと案内される。最上階の部屋だ。

「部屋は、ミサキさんがこちら。ジェシカさんとジュエさんがこちら。マツバラ先生とオオイ二佐がこちらです」

「え?私だけ一人ですか?」

 良く見れば他は二人で一部屋だ。何故自分だけ。

「僕が下のフロアの部屋なので、人数的にこれが妥当かなと。勿論、皆さんで滞在する部屋は自由に移動して構いませんよ。夕食の時間は過ぎているので、何か食べたい場合は僕に言って下さい。ルームサービスを届けさせます」

 サカキは自分の部屋の番号を言って、用があればそこに部屋の内線でかけるように、と言い、エレベーターで降りていった。

「メイユィ!ルームサービスだそうです!何か食べましょう!」

「そうだね。ねぇミサキ、後でミサキの部屋に遊びに行くね」

「え、ええ。それは勿論構いませんが。先生、二佐」

 呼ばれた二人も鍵を渡されて戸惑っている。同年代の女性同士なので同室というのは全く問題ないだろうが。

「まぁ、サカキ君が折角手配してくれたんだし、ゆっくりしようか」

「そうですね、こんな高級ホテル、泊まったことありませんが……」

 二人はカードキーに記されている部屋へと入っていった。ジェシカとメイユィも揃って、何があるかなと騒ぎながら消えていく。仕方なく、こちらも渡された部屋のリーダーにカードを通して、扉を開けた。

「な、なんだ、これ」

 入った瞬間、煌めく街の明かりが目の前に広がった。なんと居室の一部がガラス張りになっていて、港町の夜景がワイドビューで一望できる。

「いや、やり過ぎでしょ……どうみてもこれ、VIPルームだし」

 しかも一人部屋ではない。ベッドが3つもある。これなら別にジェシカやメイユィと一緒でも良かったではないか。一人で泊まるには勿体なすぎる。

 どうしたものか、と困惑していると、ベルボーイが部屋に荷物を運んできてくれた。ありがとうと言ってチップを渡そうとすると、サービス料に入っていますのでと断られた。どうにも、初めて来た国では勝手がわからない。

 そもそも海外で宿泊した事など、一、二度合衆国に行った程度なのだ。右も左もわからない。

 こんなことなら事前にネットで調べておけばよかった。前日にゲームで大騒ぎしていたので、すっかりと頭から抜け落ちていたのだ。移動の時も端末をジェシカに貸していたので、調べる暇がなかった。

「風呂、入ろう」

 まずはそれだろう。早めに寝るにしても何にしても、風呂には入っておかねばならない。ヒノモト人の嗜みである。

 何故か壁面ガラス張りで床が大理の広い浴室に戸惑いながら、長い飛行機旅の汗を流したのだった。


「ミサキー!開けて下さい!」

 風呂から上がるとどんどんとジェシカが扉を叩いているので、急いで下着姿のまま、はいはいと言って扉を開けた。こんな高級ホテルで恥ずかしい真似をしないで欲しい。

「ミサキ、一緒に……あっ!エッチな下着着てる!ソウさんいないのに!」

「メイユィ、あんまり大声で言わないで下さい」

 慌てて彼女達を招き入れ、扉を閉めて音を遮断する。微妙にテンションの上がっている彼女達は非常に騒々しい。もっとこう、こういう場所では静かにするものではないのか。

「うわぁ、この部屋もすごいですね!私達の部屋よりも街がはっきり見えます!」

 ジェシカが窓辺、というか壁一面がガラス張りなので壁に近づいて歓声を上げる。まぁ、最初に見れば誰もがそう思うだろう。

「どうしたんですか?二人共。ルームサービスを頼むんじゃなかったんですか」

「うん、それなんだけどね、ミサキも食べるでしょ?だから、こっちに持ってきてもらうようにシュウトさんにお願いしたの」

 なるほど、こちらに気を使ってくれたのだ。実に良い子達である。抱きしめたい。

「それじゃ、そうしましょうか。とりあえず寝間着を着てきます」

 スーツケースからスウェットを引っ張り出して足を通し、頭から被った。だぼシャツとハーパンは二人に不評だったので、主に冬場に着るこちらを持ってきたのだ。

「うーん、ミサキ。一昨日のよりはマシだけど、もっとカワイイのないの?」

「可愛いのと言われても。寝るだけなのに必要ないでしょう」

 そう言うと、何故かメイユィは大きな目を釣り上げて怒った。怒った顔も可愛い。

「必要だよ!カワイイ服じゃないと寝ようって気にならないでしょ!」

「いや、寝るのにそういうのは必要ないです」

「私も必要ないと思います!」

 ジェシカが寝る時は大体下着姿だ。格好はまるで気にしていない。ただ、彼女達の部屋には一応監視カメラがついているので、できれば寝間着ぐらいは着て欲しい。

「もー!ダメ!ダメなの!二人共カワイイのにカワイイ服じゃないとダメなの!」

 まるで駄々っ子である。ぷりぷりと怒っている姿があまりに可愛いので、思わず彼女を抱きしめて頭をなでなでした。なんとも小動物じみていて愛らしい。

「そうやって!おっぱい押し付けて!喧嘩売ってるの!?」

「違いますよ。メイユィがあまりにも可愛いものだから、つい」

 かわいいかわいいと言いながらじゃれていると、部屋のインターフォンが鳴った。扉を開けると、大きなワゴンに皿に満載のサンドウィッチを乗せた従業員が入ってきた。

 彼は丸いテーブルの上に皿を置くと、どうぞごゆっくりと言って下がっていった。インターフォンがあるのなら、ジェシカは扉を叩く必要などなかったのではないだろうか。

「美味しそうです!二人共、早く食べましょう!」

「まったくもう!そうだ!明日、時間があったら買い物に行こうよ!ミサキとジェシカのパジャマを買わないと」

「時間、ありますかねえ。まぁ、彼女達のいる基地はすぐ近くですが」

 このサイクロプス島には、ヴィクトリアの海外領土扱いになっている大きな基地がある。歴史的にはこの島はヴィクトリア連合王国の植民地であった時代があり、独立する際にも戦略的要衝であるため、基地だけは残されたのだ。

「そういえば、どうしてこの島なのですか?確か、最初はロマーナにするという話ではありませんでしたか?」

 そう、移動に便利というのであれば、地中海に突き出した半島国家のロマーナで構わない。なので、最初はそちらに居たそうなのだ。ここに移動したのには政治的な意味がある。

「この国は、南北に分かれているのです。コリョのように主義主張で分かれているのではなく、民族によるものですね。それで、統一したい勢力が、国際協調の象徴であるDDDをここに送り込んだのです。丁度緩衝地帯にある連合王国の基地に」

 主に北側の背後にいる国家が、欧州連合に加入の条件としてここの解決を迫られている。南はグリース、北はティルキエだ。民族と宗教によって分断された島は、それぞれの民族の母国とされている国々の思惑によって動こうとしている。DDDアトランティックはそのカンフル剤といった所だろう。

 空港にいたグリース系の職員が慌てていたのも、そういった政治的背景があるからに他ならない。DDDとは、アース全体の協力の象徴なのだ。それが南北に分かれて対立している場所の中間にいる、という事が、どれほどの意味を持つか。

 彼女達の出身国は、ヴィクトリア連合王国、ヴァイマール連邦共和国、サウスサハラ共和国である。

 ヴァイマールは東西が統一されてから完全に西側国家になっており、サウスサハラは元ヴィクトリアの植民地、つまり、この島と同じだ。どうにかして欧州連合に入りたいティルキエは、彼女達がここにいる事を理由に、その決断を島の北側に強く迫っている。と、そういう形だ。

 どの国も植民地時代の事や東西分断の経験がある故に、この件に関しては極めて積極的かつ神経質になっている。

「へぇ、色々と考えるものなんだね。というか、ミサキは良くそんな事知ってたね」

「世界中で領土問題や紛争地域はありますからね。ヒノモトの近くでも形は違いますが同じような所があるでしょう?解決手段を探るには、他の例も知っておかないといけないのですよ」

 ここやコリョだけではない。すぐ近くには欧州の火薬庫と呼ばれる地域があるし、欧州各国にだって独立問題を抱えている地域はある。国家と人の思惑がある限り、そういった対立というものは避けられないものなのだ。

「私には良くわかりません。……あっ!飲み物を頼むのを忘れていました!」

「飲み物は冷蔵庫に入っていますよ。好きなものを飲んで下さい」

 ジェシカは本当ですか!と叫んで、近くにあるペルチェ式冷蔵庫に駆け寄った。中からカラフルな色の瓶を一つ取り出して、すぐにスクリューキャップを開けて中身をごくごくと飲んだ。

「ジェシカ……それ、お酒ですよ。少しは確認してください」

 オレンジのリキュールだ。甘くて飲みやすいが、一応アルコールが入っている。

「お酒?そうなのですか?甘くて美味しいですよ」

「甘いの!?ジェシカ、ワタシも飲む!」

「あっ!ダメですよメイユィ!メイユィはまだ未成年でしょう?」

「ちょっとぐらい大丈夫だよ。ジェシカも飲んでるし」

「ジェシカは19歳です。この国では18歳以上から飲めるので……ああ……もう」

 メイユィも中から同じものを取り出して蓋を開け、くんくんと匂いを嗅いだ後すぐに口をつけた。

「ほんとだ!甘くて美味しい!お酒って苦いって聞いてたのに!」

「メイユィ、それ一本にしておきなさい。アルコールの入っていない飲み物もたくさん入っているでしょう?」

 多分酔ったり二日酔いになるという事は無いだろう。彼女達も自分と同じく代謝や解毒能力が高いはずである。ただ、法は法である。ご自由にどうぞ、とは流石に言えない。

「他のは炭酸水とかばっかりだもん。ジュースは無いし、これでサンドウィッチ食べる」

 二人は皿の上のものを片手に持ったまま、細めの瓶を傾けてはパンの料理を齧っている。本当に仕方のない子達だ。

 自分も中から缶ビールとグラスを取り出して、テーブルの上に置いて注いだ。別に一本ぐらいは構わないだろう。

 青いツートンカラーの初めて見るビールは、飲んでみると比較的味の濃いラガービールだ。ヒノモトのものと良く似ている。美味い。

「ミサキ、それ、ビアですか?良くそんな苦いものを飲めますね」

「大人になるとこの苦さが美味しいと感じるようになるんですよ。ジェシカはまだまだ子供ですね」

「大人!どんな味!?」

 妙にテンションの上がったメイユィが、稲妻のような速度でテーブルに置いてあったグラスを奪い取った。止める間もなく、ごくごくと飲んでいる。

「ちょっと、メイユィ」

「うっ……苦い……まずい……」

「だから言ったのに」

 メイユィは顔をくしゃくしゃにして、空になったグラスを元の場所に戻した。苦笑しながらそこに再び黄金色の泡立つ液体を注ぐ。

「ミサキ、なんでそんなもの飲むの?」

「一つは料理に合うからですね。特に肉料理や塩味の強いものには良く合います。それに、暑い日にお風呂から上がった時の一杯目のビールは格別ですよ。たまりません」

 暑い夏、風呂から出るまで我慢して、下着姿のまま喉に流し込むと、まるで天に召されるかのような快感が訪れる。あれはビールでなければ味わえない快楽だ。

 皿から一つサンドウィッチをつまんで齧る。中身は魚のオイル焼きだった。しょっぱい味付けがほのかに甘いパンに良く合う。すかさずビールを流し込んだ。

 塩味で乾いた喉が癒やされ、魚の濃い味と僅かな臭みがすっきりと洗い流される。これだ、これなのだ。

 美味そうにビールを飲んでいるこちらを見て、メイユィとジェシカは何故か嫌そうな顔をしている。

「ワタシはこっちのでいいや。甘くて美味しいし」

「私もです。ビアの美味しさはわからなくてもいいです」

「子供舌ですねえ。まぁ、競合がいないのは助かりますが」

 メイユィにかなりの量を飲まれてしまったので、少し物足りなくなってもう一本取り出した。次に齧ったサンドウィッチにはチーズとサラミが挟まれていた。これも塩味が強くてビールによく合う。いくらでも食べて飲める。

 結局止める事もできず、皿の上が空になるまで彼女達は存分に甘い酒を飲んでいった。別段酔っ払った風でもなかったので大丈夫だろう。自分もさっさと歯を磨いて寝る事にした。



「なんというか、これは」

「やりすぎ?」

 若い三人と違ってそこそこ落ち着いた年齢の医者と軍人は、目の前に広がった光景にひねり出す言葉を苦心して選んでいた。

 眼下に広がるのは地中海。時間が時間だけに海は黒く見えているが、少し遠くに見える港から、停泊している船の光がホタルのように水面を照らしている。幻想的な風景に、二人は思わず同時に情けなく息を吐き出した。

「我々には分不相応な気がしますが」

 軍人が医者の方を向くと、半眼になって呆れていた医者も頷いた。

「ここまでする意味、ある?どう見てもこれは最高グレードの部屋だけど」

 彼女達は謂わばDDDの付き添いである。部屋ならもっと安い所でも良いだろうと思うのは当然の理屈だ。それこそそこいらのシティホテルだって喜んで旅の疲れを癒やした事だろう。あまりにも過剰である。

「サカキ君、一体何考えてるんだろ。こんな部屋、お金持ちの男女が泊まるところでしょうに」

「本当ですね。いくら自分の財布ではないとは言え」

 しかしながら今更部屋を変えろというわけにもいかない。マツバラだけが既に部屋に運び込まれていたスーツケースの上に小さな手荷物を置き、近くのソファに腰掛けた。

「オオイさん、先にお風呂入る?」

「いえ、その、着替えが……」

「ああ、そうか。私の使います?」

「流石にそれは……マツバラ先生、お先にどうぞ。私は売店でも探して買ってきますので」

 マツバラは、それもそうか、とスーツケースから着替えを取り出し、お先にと言って脱衣所へと消えていった。

 早速やることの無くなったオオイは、何となく窓辺に寄る。別段重要人物でもないので、窓が大きかろうがどこからか狙撃されるという事もない。

 彼女は要人警護の訓練も一通り受けていたが、これはわざわざ警察庁に出向して受けてきたものだ。実際にはDDDの面子は明らかに彼女よりも強く、勘が鋭い。警護の必要など一欠片もなかった。

 皮肉げに彼女が苦笑したと同時に、部屋の内線が鳴る。訝しげに形の良い眉を顰めた彼女は、近寄って受話器を手に取った。

「もしもし」

『オオイ二佐ですか?荷物、届きましたよ。今からベルの人がそちらに持っていきます』

「え……早いですね。どこにあったんですか?」

『やはりというか何というか、空港の荷物置き場に紛れていたそうです。当然ですよね、同じ便で来たわけですから。名前のタグが、oiって書いてあったから短すぎてわからなかったと。ふざけてますよね』

「……意味がわかりません。名前が短いと分からないものなのですか?」

『二文字ってのは中々ないそうですよ。数字の01と読み間違えて、業務用のものの略称と勘違いしたとか。まぁ、他の情報も書き込んであるのに探さなかった空港職員の怠慢ですね』

 そんな事があるのか、と彼女は呟いたが、物が戻ってくるのであれば問題はないと思い直し、有能な外務省の人間にありがとうございますと言って受話器を置いた。

 すぐにインターフォンが鳴り、白い制服の従業員が笑顔で荷物を運び込んでくる。

 早速中身を確認し、問題がないことが分かると、彼女はほっと胸を撫で下ろした。安心して喉が乾いたのか、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出してキャップを捻った。

 凛々しい顔の軍人はやることがなくなったのかテレビを付けたが、放送されている番組はグリース語やイラブ語ばかりで、彼女には何を言っているのかさっぱりわからない。それでもニュース映像を見れば何を報道しているのかはわかるので、ちびちびと味のない刺激を喉に通しながら液晶画面を眺めていた。

「おまたせー。うん?荷物、見つかったんだ、良かったね」

 豊満な肉体を白いレースの下着に包んだマツバラが、腋を見せつけるような格好で髪を拭きながら脱衣所から出てきた。

「ええ。何か、名前が短すぎて気付かなかったとか」

「何、それ。そんな事あるの?」

「実際にありました。数字の01と勘違いしたとかで」

 事実は小説より奇なり、とは言うものの、そのような事例があった事に二人は驚き、そして呆れた。

「オオイさんって、ooiじゃないんだ、oiなんだ」

「いえ、私も自分で書く時はそう書きますよ。ただ、タグを書いたのはカワチ国際空港の職員ですから」

「確かに、連合王国語じゃooiだとうーいになっちゃうからねえ。母音しかないのが悪かったのか」

「生まれてこの方、自分の名前でこんなに困惑した事はありませんよ。ヒノモトじゃありふれた名前なのに」

 オオイはペットボトルを傾けて、空になっていたのに気がついて、ゴミ箱にそれを放り込んだ。

「そういえば、陸上防衛隊に配属になった時にも、名前で一つ言われたことがありました。ハルナ・オオイなのに海防じゃなくて陸防なのかと」

「なにそれ?意味わかんないんだけど」

「……旧海軍の艦船の名前です。既に除籍されましたが、ハルナという船は海防にもありました」

「あー、オオイさん、お父さんとお爺さんも防衛隊だっけ?なるほどね」

 マツバラは珍しくケラケラと笑った。凛々しい軍人は少しだけ眉尻を下げると、お風呂に入りますと言って着替えを持って奥の扉に消えた。

「それにしても、色気の無い話だわ」

 つけっぱなしになっているテレビを見ながらマツバラは呟く。

「折角のスイートなのに、同室が同年代の女とか。まぁ、もう諦めたけど」

 彼女は少しだけ外務省の人間を頭に思い浮かべたが、ないわーと苦笑して、テレビを消し、3つ並んだうちの端のベッドに潜り込んだ。



 翌日の準備は万端だ。

 明朝、9時にホテルに連合王国軍所属の輸送車が迎えに来るので、全員でそれに乗り込み、このサイクロプス島に二箇所ある連合王国軍基地のうち、東側、デカリア基地へと向かう。

 基地の敷地内にある施設で面会を済ませ、今後の協力体制を確認する。出席者はDDDの6人と自分たち三人、相手側の関係者は連合王国の外務省及び国防省の担当者二人。こちらで言えば自分とオオイがそれに該当する。

 あちらに専属医はいないようで、基地の軍医が彼女たちの健康面を担当しているようだ。もっとも、彼女たちは常に健康体を維持しているので、余程の怪我でもしない限りは医者の出る幕は無い。

 こちらの医師はどちらかと言えばメンタルヘルスを重点的に見ているようで、細やかな気配りのできる研究者兼医者という優れた存在だ。あちら側にもメンタルヘルスに関しては何か進言すべきかと思われる。

 何しろ彼女たちの機嫌如何でこの世界は危機に曝されてしまうのだ。何よりも大切なのは、竜を倒すことのできる女神たちを万全の状態に保つ事である。

 その為ならば、自分も休日だろうが何だろうが、身を粉にして働く覚悟ができている。日曜日の格闘ゲームの件もその一環だ。

 メイユィもジェシカもヒノモトのサブカルチャーや可愛い事に非常に敏感だ。いかに竜災害現場でのストレスを低減させるかは、彼女たちの余暇の過ごし方にかかっているのである。

 ミサキはあまり乗り気ではなかったものの、コスプレに関しては二人はとても喜んでくれた。ブランディッシュファイターの制作、運営をしている企業はこちらとも多少繋がりがあり、連絡を取ってみれば二つ返事で快諾を得られた。持つべきものはコネクションである。

 明日の出席者に、各国の重鎮などは訪れたりはしない。今回は現場での相互確認のようなもので、実際に動くのはそれぞれの実務者であり、上はそれを承認するだけだ。

 故に気楽なもので、あちらの女神たちにこちらの女神を引き合わせ、和やかに会食を楽しんだ後、サイクロプス島を観光して帰る、という、ある意味旅行に近いようなものだ。

 かけて良い費用は青天井だ。当然である。我が国も合衆国も央華も、被災国からそれはもう高額の災害鎮圧費用をもぎ取っている。あくどいと言うなかれ、これは世界を救う彼女たちの為に使われる金なのだ。

 それ故、今回は奮発してこの地でも最高級とされる5つ星ホテルを取った。流石に自分の部屋は豪華にするわけにはいかないものの、女性陣には思い切りこの滞在を楽しんで欲しい。望まれればもう一泊する事だって可能なのだ。

 ただ、途中での食事には少し肝を冷やした。間食とも言える時間に、あれだけの量を食べる必要があるのかと誰だって思ってしまうだろう。話には聞いていて知ってはいたものの、実際にあんな量を食べるのを目の当たりにしたのは初めてだ。

 三人は食べている姿も可愛い。ミサキはまだ上品に食べるが、ジェシカは豪快に、メイユィは可愛らしく、そして三人とも笑顔で口を動かしている。

 麗人は何をしても様になるというが、正しくその通り。食事だってあの三人がすれば、そこは華やかで明るい、まるで芸術的な絵画の中のような世界に変貌してしまうのだ。

 最初にこの仕事に回された時は、厄介払いの閑職かと落胆したものだが、今は違う。彼女たちの世話こそが今や自分の生きる意味となっている。例え命を賭したとしても彼女たちに尽くすのだ。

 一本だけ度数の低いカクテルを飲み、風呂に入り歯を磨き、早めの時間にベッドに入る。自分が朝が弱いのは自覚している。この仕事で失敗するわけにはいかないのだ。

 枕元のリモコンで部屋の電気を消し、寝心地の良いベッドの中で目を瞑った。直後に、インターフォンが鳴る。何だ。

 下の客室にインターフォンのカメラはついていない。オートロックのドアを開ける。途端に胸の中に何かが飛び込んできた。

「え?じゅ、ジュエさん?どうしたんですか、こんな時間に」

 部屋の入り口でこちらに抱きついているのは、三人の女神のうちの一人、ジュエ・メイユィだった。最年少で最も可憐な少女が、淡い色の寝間着姿で自分に抱きついている。

「シュウトさん、お願い」

「え、な、何ですか?とりあえず、中へどうぞ」

 心臓が急激に跳ねて動揺する。お願いって、何だ。何だ。まさか、そんなはずは。

 みっともなく狼狽えながらも、彼女を部屋に招き入れてテーブルに着かせる。

「何か飲みますか」

 彼女は黙って首を振った。下を向き、揃えた足の上、いや、股の上に両手を重ねて置いている。

「どうしたんですか、ジュエさん。お部屋が気に入りませんでしたか?」

「ううん、違うの。お部屋はとっても綺麗だし、眺めも凄く良いよ。シュウトさんが注文してくれたサンドウィッチもとっても美味しかった」

「では、一体……」

 彼女は黙って立ち上がり、ベッドに腰掛けていたこちらに再び抱きついてきた。少女とは思えぬ力に、抗うことができずに押し倒される。

「シュウトさん、ワタシ、大人になりたいの。手伝ってくれる?」

「え……」

 大人に。待て、ダメだ、それはいけない。彼女は触れてはいけない女神であり、自分のような者が手を出すなど以ての外だ。

「ミサキは、大人だよね?」

「それは、そうですね。彼女は立派な大人です」

 成人もしているし、結婚もしている。酒だって飲むし、何より精神が成熟している。

「ビール、美味しくなかった。ワタシ、大人じゃないのかな?でも、シュウトさんと一緒に寝たら、大人になれるよね。だから」

 彼女はずりずりとこちらをベッドの中央に押し出し、胸から下に覆いかぶさってきた。

「シュウトさん、ワタシを、大人に、して?」

 ダメだ、それはダメだ。絶対にダメだ。確かに彼女は可愛い。それはもう、この世の全ての美と比べたとしても彼女のほうが上だと断言できる。だが、だからこそ、それは触れてはならぬものなのだ。ましてや、彼女の初めてを自分が、などと。

「じゅ、ジュエさん。落ち着いて下さい。そういうのは、もっと、大切な人ができてから」

「メイユィって呼んで。シュウトさんは、ワタシの事、嫌い?」

 そんなわけがない。大好きだ。小さくて愛らしくて可憐でこの世の誰よりも大好きだ。だが、だが。

 硬直する。彼女の柔らかい身体がこちらを抱きしめている。腹のあたりに当たっている慎ましやかなふくらみを感じて、その部分だけが物凄い熱を発しているように錯覚してしまう。

 このまま、してしまうのか。世界を救う女神の一人と、自分が。

 固められたまま、長い時間が経った。いや、恐らく数十秒程度だと思うのだが、彼女の身体を衣服越しに感じていたせいか、それは永遠の時間とも感じられた。

「……ジュエ、さん?」

 彼女は自分の上で、小さく可愛らしい寝息をたてていた。眠っている。安堵感と少し残念な気持ちから、彼女を起こさないように静かに、大きく息を吐いた。

 彼女の吐息から少しだけ酒の匂いがしている。ビールを飲んだとも言っていたし、部屋の冷蔵庫にあるものを飲んだのだろう。もしかしたら、甘い酒をジュースと勘違いして飲んだのかもしれない。

 酔っ払って錯乱し、こちらの部屋にまで押しかけてきたのだ、と思うしかない。酒は本音を晒すと言うが、これは気の迷いだ。そうに違いない。

 彼女を部屋に運ばなければ、と思って、起き上がろうとした。できなかった。

 寝ぼけているのか何なのか、しっかりと固められた身体は起き上がろうとしても言うことを聞かない。彼女の身体は軽いはずなのに、びくともしない。

(あれ?ええと、これ、これは、相当にまずいのでは?)

 何も手を出していないとは言え、酔った少女をホテルの部屋に連れ込んで一晩明かした、となると、これはどう考えても懲戒処分を食らう程の大問題だ。ましてや世界のDDD6人のうちの一人と……。

 彼女が部屋を出る様子やこの階を歩く姿は防犯カメラに映っているだろうし、何よりこのまま朝を迎えれば、他の同行者達に間違いなく気付かれる。

 ミサキとオオイ、マツバラの軽蔑した視線がありありと想像できて、ぶるりと動かないはずの背中が震えた。

(まずい、まずいぞ。なんとかしなければ)

 一番良いのは彼女を起こして部屋に帰らせる事だ。だが、目が覚めた彼女がしらふに戻っているという可能性はどれぐらいだろうか。

 最悪、目覚めた彼女は最後までしようとこちらに襲いかかり、その想いを遂げてしまうかもしれない。いくら同意の上だとは言え、流石にそれはまずい。

「……おじいちゃん」

 彼女が小さく寝言を呟いた。

 そうだ、彼女は家族を一度に亡くしているのだ。

 例えそれが武装マフィアであったとしても、記憶喪失からある程度の期間、大事にされて一緒に生活していた家族を一度に。人肌が恋しくなるのも仕方のない事だろう。

 急に心の中が温かくなった。いつもはおだんごに結い上げてあるが、今は下ろした彼女の髪を撫でると、言いようのない慈しみが湧いてくる。

「おやすみ、ジュエさん……メイユィ」

 今は、彼女の家族として、一緒に眠ってあげよう。恐らくそれも自分の仕事のうちなのだろうから。

 彼女の体温を感じているうちに、いつしかこちらの意識もすっと閉じていった。

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