第35話 占有領域
時間というのは容赦なく日常を突きつけてくる。逃れようのない忙しい朝の流れに追われ、悲しむ暇も落ち込む隙も与えられないまま、弁当を作って朝食を済ませ、洗濯物や洗い物を片付けてから立体駐車場へと向かう。
部屋番号の札が車止めについているいつもの場所に向かうと、借り物の白い軽の前で、一人の女性がこちらのクルマをじろじろと眺め回していた。
歳はかなり上だ。60か、70がらみだろうか。皺の寄った顔を濃い化粧で隠しているものの、重ねた年齢は残酷で、その姿を覆い隠すには至っていない。
「あの、私のクルマに何か?」
彼女の顔に見覚えは無い。相手は一方的にこちらの顔を知っている可能性はあるかもしれないが。
女性はこちらを振り向いた。少し機嫌が悪そうな、つり上がった目をしている。
「この駐車場、ずっとクルマ停まってなかったと思うんだけど」
それはそうだろう。クルマを買わずに駐車場代だけを、あの適当な男はずっと払い続けていたのだ。ここに置き始めたのは割と最近、半年前ぐらいからである。
「はあ、最近乗るようになったものですから。それが、何か?」
聞き返したが、老婆はこちらの質問には答えずに、鼻をからふんと息を吐き出した。嘲笑の仕草である。
「随分安っぽいクルマね?あなた、本当にここの住人?どう見てもこのマンションに似つかわしくないんだけれど?」
「それはまあ、借り物ですので。ナンバーを見ればわかると思いますが」
防衛隊の特殊な六桁ナンバーである。一般の四桁のものとは明らかに違う。
「借り物?じゃあこれ、あなたのものじゃないって事ね?」
「正確に言えばそうですね」
忙しい朝の時間に何を言っているのだこの婆さんは。いいからどいてくれないとクルマを出せないではないか。
「他人のクルマをマンションの駐車場に駐めてるの?問題じゃないかしら?」
どこに問題があるというのか。駐車場は占有スペースである。金を払っているのにそんな事を言われる筋合いは無い。
「どうしてですか?うちが契約している駐車スペースですが。確かにクルマは貸与品ですが、それをうちがここに駐めるのは自由のはずですよ」
全くわけの分からない理屈だ。一体どういう発想でそんな事を言うのか、意味がまるで分からない。
「だとしても、このクルマはここには似つかわしくないわねえ。国産の軽でしょう」
「それ、関係ありますか?お金があるからって外車を乗り回さなきゃいけないというわけでもないでしょう」
何と無駄で無意味な難癖をつけてくるのか。それを言いたいが為にここをウロウロしていたのか?だとしたら、何か脳の病気でもあるんじゃないだろうか。難癖つけたい病である。
「関係あるわよ。例えば、うちの息子はガルボに乗ってるんだけどね」
そんな事知るか。どうでも良い。ヴァイマール製のクルマだろうがロマーナ製のクルマだろうが、大きさ以外で駐車するのに制限があるなど聞いたことがない。バカバカしい。
「はあ、そうですか。あの、仕事に行きたいのでどいてもらえます?」
息子の自慢話を始めた老人は、クルマの前に陣取っている。このままでは出せない。
「それでね、そういったクルマの方がここには似つかわしいと思わない?若いあなたには分からないかしら」
分かるかそんなもん。分かるやつがいたとしたらそいつは相当な権威主義者だろう。付き合いたいとも思わない。
「わからないので、そのお話は旦那さんか息子さんにしてあげてください。どいていただけませんか」
しかし老婆は動かない。何だこいつ。一体何が言いたいんだ。
「あなたが分からなくてもいいの。貧乏くさいクルマに乗ってるような人なんだから。でもね、世の中というのはそういう風になっているの。それでね、今日、息子が来るんだけど」
だからなんだ。お前の息子が来ようが来まいがこちらには関係ない。なんで出勤の邪魔をするんだ。遅刻するではないか。
「そうですか、どいていただけますか?」
「ええ、ええ。だからね、その駐めるに相応しいガルボを、ここに駐めた方が良いんじゃないかしらって」
アホか。つまり、それを言いたいが為にここに陣取っていたという事か。
マンションの住人専用の駐車場は、契約した世帯専用だ。住人の来客用に使うのは構わないが、それはあくまでも契約している世帯がその場所のみを使用するに限って、という事である。それを、この老婆は、他人の駐車場をやってくる息子に使わせろ、と、そう言っているのである。馬鹿も休み休み言え。
「ここは契約しているうちの占有スペースです。息子さんのクルマは来客用の地下か、近所のコインパーキングに駐めてもらって下さい」
図々しいにも程があるだろう。せめて最初からお願いしますと頼み込んでくるようなら、ソウと相談して一時的に許可する事もできるだろうが、貧乏くさいだのなんだの、難癖つけた上でそんな事を言う神経が信じられない。
「仕事に行くんでしょう?お金の無いご家庭は大変ね。だから、その空いている時間を有効に使うぐらいは良いでしょう?」
「どうしてもと言うのなら、夫と相談してから決めます。ですが、今日は駄目です」
何故そこで許されると思うのか。社会的常識以前の問題だ。他人と対等の付き合いをしたことがないのかこのババアは。
「ふーん、そう。貧乏だと心までケチになるのかしら。使っていない時間すら貸すのが嫌だなんて」
これ以上馬鹿に付き合っている暇は無い。黙ってクルマに乗り込み、キーを捻った。
老人は暫くこちらを睨みつけていたが、こちらが何も言わずに見返しているのを見て、渋々エレベーターのある方へと歩いていった。
住人にも様々な人がいるが、ああいうタイプは初めて見た。資産や収入と品性や良識の有無は、完全に比例するというわけではなさそうだ。
朝から少し嫌な気分になったものの、些細なことだ。ただ、変に時間を食ってしまったせいで、駐屯地に到着したのはいつもよりも遅い時間になってしまった。遅刻こそしていないものの、オオイのいる監視室の前には、いつもは自分よりも後に来るサカキの方が先に到着していた。
「あっ、カラスマさん、おはようございます。遅いので少し心配しましたよ」
確かに昨日の出動でかなり落ち込む事はあったが、それが原因で仕事に遅刻するような事はない。日常は待ってはくれないのである。
「おはようございます、サカキさん、マツバラ先生。いえ、ちょっとうちの駐車場で変な人に絡まれまして」
「変な人?ストーカーとかじゃないでしょうね?」
マツバラ医師が眉間に皺を寄せてこちらに聞き返した。
「いやいや……そうではないんですが。まぁ、ちょっと図々しい人がいただけで」
こちらが来た事を察知したオオイが監視室から出てきた。彼女は変わらず、いつも通りに凛々しい美人である。
「おはようございます、ミサキさん。体調は大丈夫ですか?」
「おはようございます、オオイ二佐。はい、問題ありません」
今朝の出来事でちょっとテンションは下がったが、昨日の事はもう一区切りついた。適当な男に抱かれて眠っただけで、今は割と冷静に、客観的に事実を見られている気がする。
そうですかと言った彼女と一緒に、四人で階段を降りる。何も変わらない。
「そういえば、図々しい人って何だったんですか?」
サカキが今朝の話を聞きたがった。あまり思い出すのも嫌なのだが、誰かに話して同意を貰えればスッキリするかもしれない。
「それがですね、呆れた話なんですが」
掻い摘んで家を出たときの話をすると、三者三様の反応を示した。
「何、それ。認知能力が落ちてきてるのかな。加齢の影響かも」
マツバラは医者としての立場から、老婆の客観的認知能力を疑い始めた。あの長い前振りがなければ自分だってそう思ったに違いない。
「図々しいにも程がありますね!大体、駐車場の契約料金を払ってるのはカラスマさん達でしょう?頼み込んでお願いするなら兎も角、そんな失礼な事を」
サカキは単純に怒っている。世間一般的には彼のような反応が当然なのである。
「ミサキさんに貸与しているクルマは防衛隊の公用車です。コストと耐久性の面からその車種を選出していますので、高級車にする意味がありません。その老婆は、ナンバーを見なかったのですか?」
「はあ、多分、ナンバーを見てもそれが何を意味しているのかも知らないと思いますよ」
あの歳でありながら、かなりの世間知らずのようだった。国産の軽自動車という事にばかり言及していたので、当然、六桁のナンバーすら目に入っていなかったのではないだろうか。
「まぁ、断ったので大丈夫です。すみません、朝から不快な話をお聞かせして」
話したことで少しすっきりした。思っていた事を他人が代弁してくれるというのは、これは中々メンタルに落ち着きをもたらしてくれるものだ。代わりに怒ってくれる人がいると、自分まで怒る必要は無いか、と思えてくるものである。
「いえ、それは問題ありません。ただ、ミサキさん。その件は多分、解決していないと思いますよ」
オオイは頑丈な扉の前でこちらを振り返って言った。
「はぁ……ですが、解決する手段なんてあるんでしょうか」
「当人が駄目なら、周囲から変えさせるしか無いでしょうね」
言って彼女はハンドルを回して重たい扉を引き開けた。薄暗い階段と明るい室内の明暗差に、瞳孔が急速に反応する。
「ハイ!ハルナ!マシン、もう更新しないと、効果が薄いです!」
大きな胸をぶるんぶるんと揺らしながら、ジェシカが近寄ってきた。左の奥でペダルを漕いでいたメイユィも、動きを止めてこちらに歩み寄ってくる。彼女の場合、ぷるんぷるんと揺れているのは頭の後ろのおだんごである。可愛い。
「おはよう、ミサキ、ハルナ、ヒトミ。シュウトさん、何かあったの?」
少し怒りが残っていたサカキに気付いたメイユィが、汗を拭きながら不思議そうに聞いてくる。
「大した事ではありませんよ、ジュエさん。おはようございます」
すぐに笑顔に戻ったサカキは、メイユィに優しげに語りかけた。彼はどうにも、彼女に対しては随分と柔らかく接する。最年少で可愛らしいので仕方がないと言えば仕方がない。メイユィは、出自は兎も角、なんとも保護欲をそそる見た目と性格をしているのだ。
いつものようにミーティングを始めたオオイだったが、昨日の事には極力触れないようにしているようだった。通り一遍の訓示を垂れて、その場をマツバラに譲る。
マツバラもいつものように問診だけかと思ったが、終わり際にこちらに向かって一つ、付け加えた。
「この後、一人ずつ個別に時間を作って貰えるかな。少し、健康面について聞きたい事があるから」
個別の面談、ということは、やはり昨日の事が気になっているのだろう。自分は大丈夫だが、二人が何か気を病んでいないかは、こちらとしても心配だ。
サカキが二人に必要なものを聞いている間に、マツバラはこちらの手をとって、こちらの部屋へと連れ込んだ。殺風景な自室のベッドに腰掛けさせられ、その前に椅子を引っ張ってきたマツバラが座る。
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
聞きたいことは分かる。自責の念が残っているのは間違いないが、今は落ち着いている。
「聞き方が悪かったかな。昨日のこと、まだ自分のせいだと思ってる?」
自分のせいかどうか、と言われれば、間違いなくその通りだろう。現場での指揮官は自分なのだし、判断を下した責任というのは間違いなく存在する。
「責任は自分にあることは自覚しています。ただ、その事で落ち込むような事はありません」
そう答えたのだが、マツバラは何故か難しい顔をして頭を掻いた。
「根本的に勘違いしてる。あの作戦は、あなた達に無理矢理押し付けたこっちの、研究者側の責任だし、あなた達には何の責任も無いの。実際、首尾よく新古生物の生体を手に入れはしたものの、フェリペ共和国への謝罪と賠償は、研究者とそれを許可した国家全体で行う事になってるから。あなた達は、ただ言われたままに任務をこなしただけ」
そう言われればそうなのだろうが、危険予知は怠るべきではない。自分は何もできない子供ではなく、金を貰って働いているプロフェッショナルなのだ。
「責任の所在はわかりました。今後の教訓としたいと思います。午後から報告書をオオイ二佐に提出するので、その際に顛末書と改善案を」
「だから、もう。調子狂うわ。貴女って前からそうだったの?ちょっとワーカーホリックというか、職業的サラリーマンというか……まぁ、いい。メンタルに不調が無いのならそれで。だいぶ落ち込んでたってオオイ二佐から聞いてたから、ちょっと心配してたんだけど」
ワーカーホリックという事は無いだろう。休めるのなら休みたいし、有休制度があるなら活用したい。彼女は少し勘違いをしているようだ。ただ、心配してくれていたというのはありがたいことである。流石は元産婦人科医、精神が不安定になる妊娠中や出産直後の女性に、メンタルケアをしていただけの事はある。
「ありがとうございます。何というか、一晩寝たらある程度落ち着いたというか」
そう言うと、彼女は無表情な目でじっとこちらを見つめた。数秒ぐらいだろうか。すぐに頷くと、抱えていたファイルに何事か書き込んだ。
「そう。良かった。今朝の事もそうだけど、何か不快に思うことや不安ができたら、私か、彼にきちんと話す事」
「彼?サカキさんですか?」
途端にマツバラは軽く軽蔑するような目でこちらを見た。
「なんでサカキ君なの。彼は彼、あなたの夫、配偶者」
「あ、あぁ。はい、それは、勿論」
嫌でも話さざるを得ない。というか、今回は気づかれたのだ。
ただ、確かにソウに話すことで気が楽になったのは確かだ。
昨夜、行為の後で彼に現場であったことを話したのだが、彼は否定するでもなく肯定するでもなく、ただ、あった事実のみを聞いて、次からこうすればいいんじゃね、とそれだけ言ってきた。
それは確かにそうだ。呆れるほどに当たり前の事である。だから、報告書をきちんと書こうと思ったのである。
世間一般の女性にはその対処は、多分、間違っている。というか、女性に限らず殆どの人は、あったことに対して同調して欲しいか慰めて欲しいと思うものだろう。あの適当な男は、そういった事がかなり苦手だ。だからこそ、今まで彼女の一人も作ることができなかったわけだが。
ただ、彼の価値観は自分のそれと妙にぴったり合う。何というか、起こったこと、起こしてしまった事は仕方がない。次からは気をつけりゃいいじゃん、という、極めて現実的な考え方なのである。
無論、自分とて今朝起こった事のように理不尽な出来事であれば、怒りや困惑を共有したいとは思う。それは、自分が原因となるものではなく、理不尽で非常識な他人に起因する出来事だからだ。
ただ、昨日の失敗は身から出た錆である。であれば、その錆を落とすには何が必要なのか、それを自分も実は良く分かっていたのだ。その事を彼は単純に指摘しただけに過ぎない。
払った代償はあまりにも大きかった。失われた命はもう戻らない。
それは自分には弁済が不可能な大きな被害であるし、思い悩んだ所で被害者や遺族が許してくれるわけではない。それに寧ろ、この事でメンタルを病んで次の作戦に影響が出れば、また同じように被害者が増えるかもしれないのだ。それはまずい。
やるべき事が見えているのなら、それをするだけだ。何も問題はない。この歳まで生きてきて、もうそれに気付かないわけにはいかないのだ。
「取り敢えず問題なさそうで良かった。それじゃ、次はジェシカの部屋に行くから。トレーニング、するんでしょう?」
「はい。ありがとうございました」
自分の周囲には頼りになる仲間と、数々の専門家がいる。何も一人で抱え込む事は無い。人間は社会性動物であり、お互いに助け合って生きているのだ。任せられることは任せてしまおう。
食事の後、昼寝をした彼女達を尻目に報告書を書き上げて、貨物用のエレベーターで上に送った。別に帰りに手渡しても良いのだが、こういうのは早いほうが良いだろう。
内線でオオイに報告書を上げる旨を伝えて部屋に戻る。あのエレベーターは、監視室のすぐ横にある給湯室に繋がっているらしい。自分が来るまでは出前なんかを監視室で受け取って、そこから下に下ろしていたそうだ。二人とも食事は結構な量なので、オオイがせっせとエレベーターに食事を乗せている光景を想像すると少し笑えてきた。
上に送ったエレベーターを確認し、給湯室から戻ろうとすると、後ろで再びエレベーターの動く音が聞こえた。
チンという音がして、スライドドアが開く。中にはコーヒーメーカーと豆にミル、それと一枚の名刺が入っていた。
給湯室の内線が鳴ったので受話器を取る。こちらの様子は監視カメラで見られているので、どこに居るかは一目瞭然なのだ。
『ミサキさん、珈琲がお好きだと聞きましたので、給湯室か談話室にそれを。砂糖とクリーミングパウダーは棚に入っています』
「ありがとうございます、オオイ二佐。しかし、この名刺は?弁護士の方ですか?」
『部隊の常駐弁護士です。ヤメ検ですが民事にも明るい方なので、何か問題があればそちらに連絡して下さい』
部隊の常駐弁護士、この駐屯地の業務部隊に属する法律の専門家だろう。『ヤメ検』というのは検察官から弁護士に転向した人の事で、主に刑事事件に詳しい事が多い。ネガティブなイメージで使われる事の多い略称ではあるが、検事から弁護士に転向する理由は様々であり、必ずしも悪徳弁護士、というわけではない。
何故ヤメ検が問題視されるかと言えば、検事時代の人脈を使って裁判の落とし所を見つけようとする傾向がある為だ。そのため刑事事件では少し気をつける必要があるものの、民事においてはまずその限りではない。
防衛省管轄の駐屯地は公的施設であるので、元公務員のヤメ検としても具合が良いのだろうか。
貰った名刺を財布の中に仕舞い込み、早速豆を挽いて珈琲を淹れ始める。少し古いタイプのコーヒーメーカーであり、フィルターと粉をセットして水を入れておけば完成する、というものである。
出来上がるまで少し時間がかかるので、棚の中にあったお菓子を準備して、談話室に置きっぱなしになっていたファッション誌をめくる。パラパラと見ていたが、あまり興味が無いのですぐに飽きてきた。
これは恐らくメイユィがサカキに買ってこさせたものだ。最近の彼女は割と服装に拘りがあり、寝間着ですら彼女によく似合う、可愛らしいものを着込んでいる。
マガジンラックにファッション誌を戻し、代わりに月刊の漫画雑誌を持ち上げた。
分厚い月刊誌の目次を開くと、いくつか目にしたことのある漫画のタイトルが目に入ってくる。途中から読むとネタバレになるかなと無用な心配をしつつ、適当にコマ割りを目で追っていく。
物語の途中からばかりであるので、話の前後関係がさっぱりわからない。可愛い絵だなとか上手な絵だなとかいうのはは分かるし、キャラクターも魅力的だなとは思うのだが、どうにもシナリオがわからないと感情移入し辛い。諦めて雑誌を閉じたところで、ごぼごぼと空気を吸う音が聞こえて珈琲の完成を知らせてくれた。
「おはよー、ミサキ。なんか良い香りがするー」
メイユィが昼寝から起きてきた。明るい緑色の寝間着であり、あちこちについた丸いポンポンがとても可愛らしい。
「おはようございます、メイユィ。珈琲、飲みますか?お菓子もありますよ」
「お菓子!うん、食べる」
飲むではなく食べるという所が、お菓子メインになっていてメイユィらしい。
珈琲をカップに入れて出すと、彼女は角砂糖を二つ放り込み、クリーミングパウダーを一匙ばさっと入れた。
お菓子は砂糖のまぶしてあるビスケットであり、これだけ甘いのだから飲み物は甘くなくても良いだろうと思うのだが、彼女には関係ないらしい。ビスケットを齧り、甘くなった珈琲を嬉しそうに啜っている。
自分はクリーミングパウダーを匙の半分だけ入れて良くかき混ぜ、一口含んだ。
やや口当たりがまろやかになった珈琲の、芳ばしい良い香りが鼻腔から抜けていく。高級な豆というわけではないが、程よい酸味と苦味に特有の香りで満足感がある。休憩時に飲むのであれば十分に上等な部類だろう。
以前の仕事をしている時は、自前でインスタントコーヒーを用意していたものの、香りは殆ど無く、目が覚めるだけの苦い湯、という感じだった。インスタントだと、どうしても香りで劣ってしまうのは仕方がない。
「それでね、ミサキ。昨日の事、ヒトミに聞かれたんだけど」
「ああ。ごめんなさい、メイユィ。嫌な思いをさせてしまったかもしれません」
「ううん、ワタシは別にいいの。だってね、ワタシ、人を殺す仕事してたんだよ。今更目の前で何人死んでても、別に何とも思わないし」
「そうですか。でも、死んだ彼らはメイユィの標的ではないですよ」
「そうだけど、慣れてるって事」
慣れる、か。自分ももう、現場に到着した時に人の死体がある事を特に何とも思わなくなった。痛ましいとは思うし、遺族の事を考えれば陰鬱な気分になるのは変わらない。だが、何度も何度もそういった現場を見ているうち、感覚は少しずつ麻痺してきている。
竜が出現すれば、近くに居た人間はまず間違いなく犠牲になる。走って逃げられるような相手ではないし、都合よく隠れられる場所があるわけではないのだ。開けた場所で、人が多ければ多い程被害が拡大する。これはある意味運だ。
「私も少し慣れてきてしまいました。竜災害とは、その名の通り災害です。突発的に発生して、避けようがありません。普通の人間は、あいつらに遭遇した時点でまず、死にますから」
彼女は砂糖のついた指を舐めながら聞く。
「慣れるのはいけないことなの?」
あまり慣れたいものではない。人死にが当たり前の環境など、決して良い環境だとは言えないだろう。メイユィの生い立ちは特殊だが、違う場所にいればまた違った人生を歩んでいたはずなのだ。
「慣れというのは順応です。それ自体は正常な反応です。精神に異常をきたさないための、脳の防衛反応でもあるのですが」
「それ、ヒトミも言ってたよ。だけど、慣れすぎるのは良くないとも言ってた」
慣れというのは即ち感覚の麻痺だ。食肉の解体や魚を捌く事など、やっているうちに作業として慣れてくる。だが、同種の、人間の死体を見て何とも思わないというのはまた、少し違うような気がする。
「そうですね。メイユィは、私が竜に殺されたら怒りますか?」
「そりゃ、怒るよ。おじいちゃん達が殺された時だって、怒って何がなんだかわからなくなったし。ミサキやジェシカ、シュウトさん達、ここの人達が殺されても同じになると思う」
親しい人間が理不尽に殺されれば怒るか悲しむかするだろう。それはごく自然な反応だ。
「人が死ぬのに完全に慣れてしまうと、その怒るという事もなくなるそうです。戦場で、毎日のように戦友が死んでいく所にいると、ただ単に、明日は我が身か、とだけ感じるようになるそうです。それは、正常でしょうか」
「それは――」
無い、と、彼女は言い切らなかった。あり得るかもしれない。そうなるかもしれない。少し想像すれば、簡単にその境地にたどり着くだろうという事はすぐに理解できてしまう。
「何も敏感な方が良い、というのではありません。ただ、竜に殺された人達にも家族や恋人や友達がいて、残された人達はきっと、怒ったり悲しんだりしているだろうな、というのは忘れたくないんです」
「そっか。そうだね。ワタシ達は竜にやり返せるけど、殆どの人はそれができないもんね」
やり返せるのは自分達だけだ。竜に殺された人は、果たして自分達が竜を殺す事で少しでも溜飲を下げているか、救われているのだろうか。
同僚のマエダとハシノが殺された時、自分は激しく憤った。力任せに竜を屠り、それで溜飲が下がったか、と言われれば……どうだろうか。
竜は竜だ。人ではない。ただ本能的に人を殺し、食らっている。どういった行動原理なのかは未だよく分かっていないが、そうしたある種の機械的な存在に、仕返しという概念を当て嵌めても仕方がないような気がする。
例えば、竜巻に巻き込まれて友人が死んだとしよう。では、その竜巻に爆弾をぶつけて散らした所で、スッキリするだろうか。
大半の人間は、そんな事をしたところで何にもならない。どうせ竜巻はまた発生する、と思ってしまうのではないだろうか。自分の今の感覚はそれに近い。
無論、放置しておけば竜は人を殺す。なので、放っておけば消える竜巻とはまた違う話なのはわかっている。だが、得体の知れない獣に怒りの感情を向けるのは即ち、その獣を擬人化して見ているに等しい行為なのではないだろうか。
エゾでは毎年のようにヒグマの犠牲者が出る。人々はそのヒグマを憎み、さっさと殺せと憤る。獣なのだ。銃弾を撃ち込めば殺せることは殺せる。
では、憎んで殺した所で、中世の罪人のように、首を切り取って河原に晒したりするだろうか。そんな事はしないだろう。精々熊鍋にして供養だと言って喰らうとか、剥製にして博物館に展示するとか、その程度だろう。
竜も同じだ。殺しはするものの、竜に大切な人を殺された人達が、竜の首をよこせと言ってきた事など一度もない。それは、竜は獣と同じ、人ではないと理解しているからだ。
つまり、この怒りや悲しみというのは、やり場のない、どうしようもない感情であると言える。自分達にできるのは、その感情を無くす事ではなく、可能な限り発生しないようにする事だけだ。
だから、慣れてはいけない。慣れるべきではない。と、自分はそう思う。でなければ……今回のように、杜撰な対応を取りかねない。かかっているのは人の命だ。
「あっ!二人だけでお茶するのはずるいです!私にも下さい!」
談話室にジェシカが入ってきた。ノーブラのタンクトップに、太股が全て見えるほどに短く切り取ったデニムを履いている。
「はいはい。珈琲を淹れるので座って下さい。あと、ジェシカ。その格好でうろつくのはちょっと」
大きな胸がシャツに収まりきらずに、ともすれば見えてしまいそうになっている。少し腋をつつけばはみ出してしまいそうだ。
「どうせここには二人しかいないでしょう?」
「それは……それでもです」
彼女達は、自分達が監視されているという事を知らない。教えるべきでもない。なので、それとなく身だしなみに注意するよう促す事しかできないのだ。
珈琲を淹れて、箱に入っていたビスケットを皿に追加する。メイユィは喜んで珈琲のおかわりを所望した。
「ミサキはどうなのですか?家で」
「……私はちゃんとしていますよ」
言えない。着替えを脱衣所に持っていくのを忘れて、時折半裸でソウの目の前をうろついていた事など。
「でも、夜は裸になるのでしょう?終わってから服を着るわけではないですよね?」
またこの話である。どうして彼女はこちらの夜の生活の事を聞きたがるのか。
「ちゃんと着ますよ。夏は兎も角、冬場は風邪を引くじゃないですか」
「フム、そうですか?カレシに抱かれてあったかい♡とか言っているんじゃないのですか?」
「ジェシカは本当にそういう話が好きですね」
少々創作物に毒されすぎではないだろうか。夢見がちな乙女、というには随分と生々しすぎる。一体何の影響だ。
「でも、わかるよ。ワタシもミサキがどうしてるのか、聞きたいなあ」
「却下です。普通ですから、普通」
「普通?普通ってどうやるのですか?教えて下さい!」
「そうだよ!普通のエッチってどんなの?教えて、ミサキ」
ああ、もう。何なのだ一体。大人しくお菓子と珈琲を楽しんでくれれば良いのに、どうして雑談になるとこうなってしまうのか。結局あれやこれやとはぐらかしつつ、詳しいことが知りたいならマツバラに聞いてくれと言って逃げたのだった。
スーパーで鶏肉とネギ、その他諸々を買って、クルマの助手席足元に、大きな手提げとビニール袋を置く。鍋は冬場の癒やしであるので、今季最後の楽しみにしようと思わず買い込んでしまった。
クルマだと多少買いすぎても大丈夫なのがありがたい。手でも持ち運びは可能だが、あまり重たいものを入れすぎると、運んでいるうちにビニール袋の持ち手が千切れてしまうのだ。
材料を切ってぶちこんで煮るだけという単純明快な料理であるくせに、そこそこのクォリティが保証されている所が素晴らしい。ぬる燗にした清酒で今夜はしっぽりと、という楽しみを実行するべく、クルマをマンションの駐車場に乗り入れる。
「……いや、なんでだよ」
いつもの自分の駐車スペースには、巨大なヴァイマール製の外車が停まっていた。駄目だと言ったのにあのババア、無視して勝手に駐めやがった。
これはどうすれば良いのだろうか。あの歳の親の子、というからには、その息子とやらもそこそこ良い歳だろう。車止めに別の部屋の番号が書かれているのに、駐めるのに何も躊躇は無かったのだろうか。
どうすべきか。今夜だけ地下の来客用に駐める、という手はある。だが、これを許しては今後もまた同じことをされる可能性が高い。あのタイプの人間は、味を占めたら違法行為だろうと何度だって繰り返す。
張り紙は却下だ。テープの跡が残ったら器物損壊だなんだと難癖をつけられる。一般の私有地なら出られないようにしてしまうという手もあるが、ここはマンションの駐車場だ。そのような小細工はできそうにない。
警察を呼んでも無駄だ。民事不介入である。犯罪に使われているクルマの可能性があると言えば一応は来てくれるが、精々持ち主に注意するだけで終わってしまうだろう。
あの老婆の部屋番号は知らない。なので、直接苦情を持っていくわけにもいかない。ならばもう、民事なら民事で解決するしか無いではないか。
「ホスト、ソウに電話をかけて」
『ソウ・サメガイさんに電話をかけます』
スピーカーにしたスマホから呼び出し音が聞こえている。クルマの帰宅ラッシュはこれからだ。あまり長居していては他の住人にも迷惑がかかる。
『もしもし?どした?』
「ソウ?なんか、うちの駐車場にでかい外車が停まってるんだけど、どうすればいい?」
一応家主は適当な男であり、そちらに説明しておく必要がある。
『は?うちの駐車場に?どこのクルマかはわかんのか?』
「なんか今朝、70歳ぐらいのおばあさんに難癖つけられて、ここに息子の外車を駐めさせろとか言われたんだけど。当然断ったし、許可なんかしてないのに」
『なんだそりゃ。とりあえずクルマは地下に駐めといてくれ。帰ったら俺も見に行くから』
とりあえずはそうするしか無いだろう。もうじき住人の帰宅ラッシュが始まるし、駐車場の通路をこのクルマで塞いでおくわけにもいかない。仕方なくクルマを地下に移動させ、地下からエレベーターで13階に上がる。鍋の準備はすぐにできるので、ある程度温め終わったところでヒーターの温度を下げ、ソウの帰宅を待った。
いつもの時間きっかりに帰って来た彼と二人で、問題の駐車場に出向く。やはりそこには、少し通路と隣のスペースにはみ出して駐められている外車がそのまま残っている。
「とりあえず写真撮っとくか」
「そうだな」
何にしても証拠だ。時間表示をオンにして、いくつかの角度から証拠を残しておく。周辺は帰宅ラッシュを迎えて、次々と駐車場が埋まっていく。と、隣にいつも停まっている黒の乗用車が帰って来た。クルマに乗っているのは40代ぐらいの男性である。
「あれ?なんだこれ。はみ出てるな」
彼はサイドウィンドウから顔を出して、停まっている外車を見た。その後、近くにいるこちらに顔を向ける。
「すいません、このクルマは?1309号室の方?」
「いえ、私達のクルマは白い軽ですので」
「ですよね?いつもここに停まってましたし。じゃあこれ、何なんでしょう」
はみ出しているので、隣の駐車場の持ち主も駐めるに駐められない。彼のクルマも比較的大きい方なのだ。
「帰って来たらこうだったんですよ。勝手に駐められてて……」
「なんだそりゃ、ひどいな。それに、駐め方もひどい。これじゃあこっちだって駐められないし」
こちらだけではなく、隣にまで迷惑をかけている。どうするべきか。
「理事会に言ってもすぐには動かせないだろうし……警察、呼びます?」
「警察を呼んでも多分、民事不介入ですよ。この場合は弁護士ですかね」
一応占有区画なので、不法侵入や不退去罪が成立するといえばする。だが、実際に駐車場の場合は往々にして何もしてくれない場合が多いのだ。家屋や庭なら兎も角、剥き出しの駐車場に警察の反応は薄い。
「ミユキちゃん、弁護士だよな」
「いや、流石に遠いよ。しょうがない。オオイ二佐はこれを見越してたのか」
妹は確かに弁護士だが、わざわざムサシ県から呼び寄せるわけにもいかない。貰った名刺を財布から取り出して、書かれている番号にかけた。定時は過ぎているにも関わらず、三回ほどコール音がしてすぐに繋がった。
『はい、ミズモトです』
名刺にある名前は、トオル・ミズモトと書いてある。
「ミズモト先生ですか?オオイ二佐から名刺を頂いたんですが、ミサキ・カラスマと申します」
こちらがスマホに話しかけている声を聞いて、乗用車から顔を覗かせていた男がぎょっとした。名前から気付いたようだ。
『ああ!カラスマさん!どうされました?面倒事ですか?』
「ええ、下らないことで申し訳ないのですが……住んでいるマンションの駐車場に、他人のクルマが勝手に駐められているんです。はみ出して駐めているので、お隣の方も駐めるに駐められず……警察は対応してくれないと思ったので」
『そうですね、基本的に警察は民事不介入ですから。わかりました、すぐに伺います。できれば先に、時間の入った証拠写真を撮っておいて貰えますか?』
「はい、既に撮影済みです。住所は――」
住所と駐車場の階層、番号を教えて一旦通話を切った。20分程で来られるという事なので、意外と近くに住んでいるのだろう。とりあえずその場で震えているのも何なので、一旦部屋に戻ったほうが良いだろうか。
「ミサキ・カラスマさん……DDDの人ですか!?そういえば、その顔」
「はい。あの、あまり他の方には……」
「あ、勿論です。いや、しかしまさか同じマンションにお住まいだったとは」
彼はこちらとソウを交互に見た。バレてしまったが仕方がない。この場合は不可抗力だろう。
「一旦弁護士が来るまで部屋にもどりますが、ええと、906号室の方でよろしいのですよね?おクルマ、どうされます?」
「ああ、はい、そうです。カラスマさんはどうされたんです?」
「私は一旦地下の来客用に入れてきましたが」
答えると、彼も今日はしょうがないか、と言って地下に向かうために降りていった。全く、はた迷惑な無断駐車だ。
部屋に戻って暫くリビングで待っていると、ミズモトから着信があり、今地下の駐車場に着いたところだという。部屋のインターフォンを呼び出してもらってロックをあけると、再び立体駐車場の方へと出向いた。
「ははあ、こりゃあまた、堂々と。マナーの悪い駐車の仕方ですな」
やってきた弁護士は、黒縁の眼鏡をかけた、背の高い真面目そうな男だった。元検事だという話だが、あまりそうは見えない。
「それで、朝に断ったにも関わらず駐めたと。まぁ、ほぼ確定ですが、一応開示請求をしておきますね」
ミズモトは手慣れた調子で黒革のカバンから紙を取り出すと、ワイパーの間に挟んだ。その上で更に写真を一枚撮影している。
「地方運輸局に問い合わせれば、まぁ盗難車でない限りはすぐに持ち主を特定できます。で、盗難車の可能性もないことはないので、一旦こちらからも警察に連絡しておきますね」
「警察にですか?民事不介入なのでは?」
眼鏡の弁護士は頷いて、そうなのですが、と続ける。
「一応、刑事的なものがないかどうかも確認する必要があるんですね。一度問い合わせた、というのは公的な証拠になりますので、後に訴訟する場合でも有利に働くことが多いのです。実際、私有地であるのなら建造物か住居侵入ですし、退去しないなら不退去です。有料駐車場なんかだと威力業務妨害ですね。まぁ、手続きのようなものですよ」
このような場所ではあまり意味もないですがね、と眼鏡の弁護士は乾いた笑いを漏らした。それにしても慣れている。
「ミズモト先生はこういった事の対応を結構されているんですか?随分手慣れていますね」
ヤメ検の割にやたらと民事訴訟に詳しい。妹もそうだが、あれは民間の弁護士事務所にいるからだ。いくらでも案件は回ってくるのである。
「そうなんですよ。防衛隊って結構宿舎を持ってるでしょう?で、当然駐車場もある。公的機関だから大丈夫だろうと、ナメて無断駐車する輩が非常に多いんですね」
「は、はぁ。そうなんですか。しかし、防衛隊の宿舎に無断駐車って。私だったら絶対にしませんが」
武装している軍隊の宿舎なのだ。ナメるって。
「ま、その手の団体の方が多いんですがね、それは。どうせ手出しが出来ないだろうとか、逆にネタにしてやろうとかいう人が多いんです。だから、法的にガチガチに固めてから訴訟するんですよ」
なるほど。要は防衛隊に良いイメージを持っていないか敵視している団体が、ネタを作ろうとしてマッチポンプをしているという事だろう。それでヤメ検の弁護士が駐屯地にいる、と。なんとも世知辛いというか、労力の無駄遣いというか。
「私だったら武装している国の軍隊に手を出そうとは思いませんけどね。法的にどうであれ、そんな、危機感のない」
彼はまた乾いた笑いを出した。今度はミズモトだけでなく、ソウも苦笑している。
「防衛隊を軍隊だと認識しているカラスマさんの方が珍しいかもしれませんね。旦那さんはわかっておられるようですが」
ソウは皮肉げな笑いを引っ込めずに言った。
「要は、ティエンアンの再現を狙ってるんだろ。軍隊が市民に手を出した!ってな。やってる連中はあれを肯定してるにも関わらず」
「……逆の立場の人間が逆に利用しようと?何というか、それは」
独裁者の弾圧を批判しない連中が、それと同じことをやらせようとしているのだ。人を守る立場の人たちに。
「ま、政治的な主張は色々あるだろうよ。今は、こっちの話だ。先生、とりあえず俺らはどうすればいいんですか?」
そうだ、そんな事はどうでも良い。とりあえずこの邪魔な外車をどうにかしたいのである。
「警察への連絡は私がします。カワチ県警の上層部には知り合いも多いので、こちらはスムーズでしょう。警告の張り紙もしましたし、あとは内容証明を開示請求で得た連絡先に送りつけて様子見、ですね。反応がなければ告訴です。内容証明を送りつけた相手は概ねビビってごめんなさいしてきますから、大抵は示談が多いですね」
ビビってごめんなさい、か。どうも、あの社会的常識が欠如した老婆にそのイメージは湧かない。躊躇なくこの場にバカでかい外車をはみ出して止めた息子とやらもそうだ。あまり普通の常識を持ち合わせているようには思えない。
「示談の可能性は薄そうです。あと、先生。お隣の駐車場を利用している906号室の方も迷惑を被っているんですが、これは」
彼はうーんと唸って言った。
「はみ出しているだけでは、難しいかもしれませんね。ただ、連日止められていた場合はやはり利用不可だったということで、法的に訴訟案件が成立します。ま、この先次第ですねえ」
あの老婆の息子とやらがどれだけ居座るか、という事だろう。これも写真を撮って証拠を残す必要がある。結構面倒くさい。
「取り敢えず、明日も来ますね。状態を見て、どう対処するかも変わってきますから」
「そうですか、ありがとうございます。やはり専門家がいると安心ですね」
懇切丁寧に説明してくれた経験豊富な弁護士に頭を下げる。やはり餅は餅屋、という事だろう。自分やソウの持ち合わせていた知識ではどうにもならなかった。
「いえいえ、私も天下のカラスマさんのお役に立てて光栄ですよ。で、ですね」
「はい?」
彼は革鞄をごそごそと探り、一枚の正方形の厚紙を取り出した。
「その、申し訳ありません。私の娘が、あなたの大ファンでして……よろしければ、サインなど」
隣にいたソウが堪えきれずに爆笑した。
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