第34話 捕獲と死角
自分よりも二回りは大きい爬虫類、いや、獣脚類と睨み合っている。
鋭い鉤爪を備えた前脚がカチカチと音を立て、目の前には鋭い牙が並んだ涎まみれの口腔。何度もこちらの頭に噛みつこうとその顎を閉じたり開いたり忙しない。
前脚を内側から押し込むような形で抑えつけ、歯の届かないギリギリの位置でどうにかこうにか押し留めている。
「ジェシカ!早く!」
体高2メートル程の竜の背後、太い尻尾の先付近にはメイユィが組み付き、竜がそれ以上頭をこちらに近づけないように必死で引っ張っている。もしもこいつが普通の蜥蜴と同じように尻尾を任意で切り離せたとしたら、一瞬でこちらの頭はこいつの胃袋の中だ。想像して冷や汗がにじみ出てくる。
『任せろ!オラ!』
ジェシカがその跳躍力を活かして竜の背に飛び乗り、その顔面に黒革のベルトを巻き付けて縛り上げた。怒った竜はどうにかしてジェシカを振り落とそうとするが、前後左右、巧みに体重を移動させるジェシカはロデオを続けている。
歯の脅威が無くなったのを確認した上で、ジェシカから受け取った帯の片方を持ち、瞬時に上半身を縛り上げる。腕を胴体に巻きつけるような形に通し、思い切りベルトを引っ張った。
上半身の制御が利かなくなった事を悟った竜は、尻尾を振り回して暴れようとする。しかし、メイユィがこれまた足を踏ん張ってその動きを封じている。
『良いぞ!メイユィ!クソファッキン!大人しくしやがれ!』
背中から帯の一端を持ったジェシカが、そのまま背後に飛び降り、竜の左後ろ脚を縛り上げた。こちらも余った帯を反対側の脚に巻き付け、全力で引っ張り上げる。
全身を拘束された竜はバランスを崩し、横向きにどうと倒れ込む。キィキィと妙に甲高い鳴き声を上げつつ、まだ自由な尻尾をばたばたと暴れさせている。活きが良い事この上ない。
捕獲作戦である。
研究者の無理難題に応えるべく、次に竜災害の発生した現場には、この高価な拘束ベルトを持ち込んできた。
現場にいたのは小型の竜、7体。最後の一匹まではいつもの通り屠って、さあ捕獲しよう、と思ったのだが、これがまたなんとも大変だ。
生き物なのだ。当然、暴れる。しかもこちらに敵意を持ち、殺そうとしてくる相手をあまり傷付けずに生け捕りにする必要があるのだ。正直言ってかなり苦戦した。
「なんとかなりましたか……しかし、こんな作戦はもう懲り懲りです」
至近距離で竜と組み合っていたせいで、涎が体中に滴ってべとべとだ。変な臭いもしているし、非常に気持ちが悪い。
「ミサキ、服、破れてるよ。おっぱいが見えちゃってる」
そう、動きを止めようと組み合っているうちに、鋭い鉤爪で上半身を引っかかれたのだ。
怪我はすぐに治るのだが、破れた戦闘服は当然、そのままだ。溢れた右乳がまともに見えてしまっている。
「早く着替えないと体裁が悪いですね。シャワーも浴びたいです」
作戦終了の報告を入れて、未だにバタバタと暴れている竜を見下ろす。
小型だ。スタンダードクラス。体高およそ2メートルと少し、全長約4メートル。緑と茶色が混ざったような迷彩色の体色に、長い尻尾と短い前脚、この形状にしてはそう太くない後ろ脚。
顔面は比較的小さいものの、鋭い歯の並ぶ顎は相応に大きく、力の強さを考慮すれば、人間の頭ぐらいなら簡単にかじりついて食いちぎってしまうだろう。小さいとはいってもツキノワグマ並の猛獣だ。
周辺を見渡す。両側をハイウェイに囲まれた窪地にある工業地で、南西諸島の国らしく、工場とハイウェイの間には、鮮やかな緑の木々が生い茂っている。
位置としては北半球に属するものの、赤道に近いせいか季節の割に蒸し暑い。いっそ雨でも降ってくれればこの気持ちの悪い体液も洗い流せるというのに、中天の太陽は忌々しくもこちらに熱と光を降り注いでいる。
「来ましたよ、ミサキ。おっぱいを隠して下さい」
「ああ、はいはい」
言われて左手で右胸を押さえる。ハイウェイに軍用トラックが次々と到着し、こちらに向かってこの国、フェリペ共和国の国軍が向かってくる。上空にはヘリが旋回し、着陸地点を探しているようだ。
迷彩服に身を包んだ兵士は、こちらの近くで暴れている竜を見ると、慌てて背中のアサルトライフルを構えて竜に向けた。
『通用しませんので、銃は仕舞って下さい。拘束してあるので近寄らなければ危険はありません』
連合王国語で呼びかけると、彼らは戸惑いながらも銃を下ろした。遅れて駆け付けてきた指揮官らしき軍人が、こちらに駆け寄ってくる。
『DDDの皆さんですね。任務、ご苦労様です』
『お疲れ様です、コマンダー。DDD所属のミサキ・カラスマです。我々は、本作戦の一つとして、捕獲作戦を実行しました。新古生物は一体を残して殲滅済みです』
周辺には自分達が殺した恐竜の死骸が転がっている。生きて動いているのは近くにいるこいつだけだ。それにしてもこの竜、未だに元気に動き回っている。少し諦めたらどうだ。
『了解しました。ありがとうございます、ミズ・カラスマ。しかし、お怪我を?』
『問題ありません。ただ、奥さんか恋人がいらっしゃるなら、あまり凝視されない方がよろしいかと』
軽く肩を竦めて笑うと、彼も頬を緩めて緊張を解いた。すぐに兵士達に指示を出し、死骸の回収を進めていく。こちらは彼の近くにいた士官に案内されて、軍用トラックの中へと乗り込んだ。
「大丈夫?ミサキ」
「大丈夫ですよ、メイユィ。ただ、ちょっと……臭いが」
「きついですね。乾いて余計に臭いです」
強い日差しで乾燥したことで、唾液の中に入っていた細菌が臭いを放っているのか鼻がまがりそうだ。しかも、乾いたといっても何故か粘度の高い唾液は白くこびりつくような跡を残している。非常に不快だ。
自分たちはまだ先程から嗅いでいるので鼻が慣れてきているが、同乗している士官や兵士達はたまったものではないだろう。実際、中にいた兵士はこちらに席を譲ると離れた場所に移動して、遠巻きにこちらを見ている。
「レディに対して、失礼ですね」
ジェシカが少し眉間に皺を寄せる。しかし、臭いはきついがこちらの肌は見たいという彼らの感覚はわからないでもない。というか、今のこの格好、色々と問題がある。
乾いて体中に白くこびりついた液状の跡が、何というか、男性の体液を彷彿とさせるのだ。その上に上半身の下着のような服が大きく破れ、こちらはどうにか手で隠しているような状態である。健全な男性であれば臭かろうと視線を向けたくなるような格好だろう。
「仕方がありません。基地は近くなので、そこでシャワーを借ります。多分、合衆国の海軍もいるでしょうから、その後で空港に送って貰いましょう」
現場はフェリペ海軍基地のすぐ近くだったが、そこには合衆国海軍の艦船も駐留している。この国も他の周辺諸国と同じく、央華の脅威に晒される地にあるため、合衆国の軍が基地を持っていたのだ。
一時期は撤退したこともあったが、央華が再び勢力を強めてきたので、再び海軍と海兵隊を置くようになったのである。
トラックはハイウェイから脇道に入り、軍の施設内へと入り込んでいく。麻痺した鼻に、僅かに潮の匂いが紛れ込んできた。
「やれやれ、散々な目に遭いました」
二人にクレジットカードを渡して軍の購買でシャツを買ってきて貰い、軍の施設内でシャワーを借りて、やっとの事でひと心地ついた気分になった。
「うーん、まだ何か、臭いが残っている気がします」
腕をすんすんと嗅いでみる。なんとなくあの生臭い臭いが残っているような気がしてならない。
「気のせいだよ、もう臭わないよ、ミサキ」
「そうですね、大丈夫です」
二人に言われて漸くそうか、と納得した。嗅覚はすぐに麻痺するが、復帰も早い。買い物に外に出ていた彼女達がそう言うのであれば大丈夫だろう。
「ところで、サカキさんはまだでしょうか。結構時間が経っていますが」
今回は自分達三人の出身国では無い為、移動には相応の時間がかかるものだと思われる。それでもヘリであれば割とすぐに迎えに来られるはずなのであるが。
「遅いね。ねえ、ミサキ。先にお昼ご飯にしようよ。お腹減っちゃった」
「ああ、そうですね。隣はマーケットですし、何か買ってきて食べましょうか」
この格好ではレストランには入れない。自分は買ってきてもらったシャツを上に着ているものの、それでも下はこのぴっちりした黒いレギンスのみだ。二人に至っては言わずもがなである。
軍港を出て、隣のマーケットですぐに食べられるものを幾つか、いや、結構大量に買ってきて、海を見ながら昼食にする事にした。
「このマントウ、変わってるね。茹で卵がまるごと入ってる」
どう見ても肉まんの外見のそれにかぶりついたメイユィが、驚いて声を上げた。ちらりと見ると、ひき肉の中央部分にごろっとゆで卵が入っている。なるほど、個性的な肉まんだ。
「お肉は美味しいですよ、メイユィ。でも、少し酸っぱいです」
ジェシカが頬張っているのは豚の角煮のような料理だ。見た目、普通の肉の煮込み料理に見えるが、どうやら酢を使っているようだ。肉汁と酢の食欲をそそる香りがこちらにまで漂ってくる。
「焼きそばはあんまりヒノモトと変わりませんね。ソースじゃなくてこれは、ナンプラーでしょうか」
比較的濃い味なのにさっぱりしていて癖がなく、いくらでも食べられそうだ。美味しい。
他にもフェリペ風ちまきやガーリックライスのおむすびなどを堪能し、腹を満たしていく。全体的に肉と米を使った料理が多いが、どれも個性的ではあるものの美味しかった。
食後に酸っぱいジュースで喉を潤していると、ヘッドセットに通信が入った。
『DDDの皆さん、聞こえますか。直ちに現場へ引き返して下さい。3分後、ヘリが到着します』
現場へ……どういう事だ。竜は動けないように縛ったし、他には。
「しまった!迂闊でした!二人共、戻りますよ!」
なんて事だ、竜はあれで全てとは限らなかったのだ。
いつもなら見落とすことなど絶対にない。だが、今回だけは少し勝手が違った。
そう、竜を生きたまま捕獲してあったのだ。当然ながらセンサーとなるこちらの血圧や体温の上昇は収まらず、周辺に隠れている竜がいたとしてもその縛った竜のせいだと勘違いして、気が付かなかった。これはこちらの落ち度である。
広い敷地に合衆国の輸送ヘリが到着する。とるものもとりあえず、重たい武器を抱えたままそれに乗り込んだ。
現場は酷い有り様だった。縛られた竜を助けようとしたのか、隠れていた竜が現れ、近くで作業をしていた兵士達を文字通り、血祭りにあげていた。
到着した時には既に彼らは物言わぬ死体と化しており、周辺には生臭い血と排泄物の匂いが漂い、散らばった臓物や四肢が転がっている。抵抗した痕跡の残る銃身の折れたアサルトライフルが、硝煙の匂いを放ったまま、現場の全滅を象徴していた。
ヘリから飛び降りると、自分達が捕縛した竜の近くで、生き残りがその拘束を解こうとうろうろとしている状態だった。
「ふっ」
迅雷の如く近付き、大太刀を一閃する。一瞬で首を飛ばされた小型の竜は、倒れたその身体を暫くぴくぴくとさせていたものの、すぐに動かなくなった。
雑魚だ。自分一人でも、一体ならものの数秒で終わってしまう。なのに、なのに。
辺り一面は血の海だ。竜のものも混じっているが、その殆どは、この国の軍の、兵士達のもの。武装した人間であっても、こんな雑魚にさえまるで歯が立たない。
自分のせいだ。見えているものだけで全てだと勘違いし、作戦終了を宣言した自分の責任だ。言い訳はできない。
「ミサキ……」
「二人共、残党がいないか周囲を捜索します。小型なら一人でいけますね?ジェシカは東側、私は西側。メイユィはここに残って、こいつを助けようと現れた竜がいれば殺して下さい」
流石に疲れたのか、縛られた竜はその動きを小さくしている。時折こちらを見てはばたんばたんと尻尾を動かしているが、その勢いは最初と比べて随分大人しい。
二度の失敗は許されない。隅から隅まで、狩り尽くしてやらねば。
結局、その隠れていた一匹以外に恐竜は見当たらなかった。後詰でやってきた合衆国の海兵隊が、大型の輸送ヘリで生きた竜を運んでいく。念の為その場に残っていた自分達は、生きた竜が遠ざかった事で漸くその体内センサーが収まったことを確認した。
「すみません、サカキさん、二人共。私の責任です。もっと慎重に、隅々まで捜索すべきでした」
海兵隊の垂直離着陸機の中、謝罪した。本来なら、この謝罪は亡くなった兵士達の遺族に向けるべきだ。だが、今の段階ではまだそれはかなわない。
自分の軽率な行動で、大切な人の命が大量に奪われてしまった。終わったと勘違いし、呑気に現地のグルメを楽しんでいた自分を殴り飛ばしたい。
「いや、仕方が無い、と言っては怒られるかもしれないけど、これは捕獲作戦という特殊な環境だったせいだよ。カラスマさん一人の責任じゃない。作戦を推し進めた我々の責任でもある」
「サカキさんはただの広報でしょう。関係ありません」
「それは……」
思わず言葉に棘が出る。やってしまった。
「すみません。慰めてくれていたのに。しかし、そういった特殊な状況であれば、当然このような事態は想定しておくべきでした。指揮官としての私の落ち度なのは間違いはありません」
言い訳のしようもない。きっと帰ったら自分は問責されるだろう。そして、それだけで終わるだろうということも分かっている。
自分達の代わりはいない。だからこそ、どのような失敗があろうと、首にしたり、責任を取らせて投獄するような事も出来ない。それが分かっているからこそ、尚更やるせない。
誰も自分達を裁けない。これはある意味特権階級だと言えるだろう。だからといって、この罪悪感が消えるだろうか。そんな訳がない。
それ以降、サカキも黙った。ジェシカとメイユィの二人も、俯いたままなにも言わない。自分のせいで、彼女達にも罪の意識を植え付けてしまったかもしれない。胸が強く締め付けられた。
自分の口頭での報告を、オオイは黙って聞いていた。全て説明し終わった後も、彼女は暫く考え込んでいる。どうすべきか悩んでいるのだろう。
「良く分かりました。文書での報告は明日以降で結構です。今日はもう、帰って休んで下さい。お疲れでしょう」
「オオイ二佐、しかし」
まだ定時にもなっていない。
「作戦は成功です。竜の、新古生物の生体捕獲という極めて難しい任務を、三人は見事に達成しました。以上です」
「二佐」
「ではこう言いましょう。帰宅は命令です」
「……了解しました」
お疲れ様でしたと言って、クルマに戻ってシートに身体を預けた。
精神が肉体を蝕んでいる。肉体自体はすこぶる健康だ。だが、活動するための気力が湧いてこない。イグニッションキーを捻って、鬱々とした気分のまま帰途についた。
料理をする気分にはとてもなれなかったので、いつものスーパーで冷凍のチャーハンとインスタントのわかめスープを買って帰った。時間帯でシフトが違うのか、レジにいたのはいつもの若い女性ではなく、中年の男性だった。今は微笑んで返事をすることが苦痛なので、その点では助かった。
ソウが帰ってくるにはまだ時間がある。冷食と湯を注ぐだけのものなら5分もあればできてしまうので、急いで作る必要は無い。先に風呂に入る事にした。
自動湯張りでバスタブに湯を張っている間、同時にシャワーを浴びて髪を洗う。
臭い。まだ臭いがついている気がする。
ジェシカ達はもう臭わないと言っていたが、まだ鼻につく気がする。いつもよりシャンプーを多めに手のひらに乗せ、念入りに頭皮を揉みながら髪を梳く。
トリートメントを髪全体になじませてから軽く濯ぐ。ヘアターバンで長い髪を留めた後、ナイロンタオルにボディソープを含ませて思い切り泡立てて、身体に擦り付けた。
臭い。皮膚が赤くなる程に擦る。例え血が滲んだとしても、この身体はすぐに治してしまう。まるで呪いだ。血と臓物を撒き散らす死神の肉体の呪い。
思えば竜だって生き物だ。斬れば血が出て、死ぬ。いくら兵器が効かず、頑健な肉体をしていようとも、自分達の武器で思い切り殴りつければ、突き刺せば、斬り刻めば死ぬ。
そうやって何匹も何匹も殺してきた。自分達は竜達にとっての死神だろう。この臭いは、この血と臓物の臭いは、本当に竜のものだろうか。
そうだ、この臭い、この臭いは人間の死体の臭い。そう、あそこで、自分のせいで死んだ兵士たちの。自分が殺した兵士達の血と臓物の臭い。
痛みを感じて我に返った。いつの間にか右の掌が左腕を握りしめている。立てた爪が皮膚を抉り、血が滲んでいた。
どうかしている。たった一度の失敗でここまで追い詰められるなんて。
大きく深呼吸をして、目を閉じたまま落ちてくる湯を見上げた。顔面に温かい液体が流れ、身体を滑り落ちていく。すぐに嫌なものを連想して目を開けた。大丈夫だ、これはシャワーの湯であり、人の、竜の血ではない。
少し長めに湯に浸かってから浴室を出た。もう臭いはしない。
腕の傷は既に綺麗に治ってしまった。内面がどうあれ、この身体は自分に傷をつけることを許してくれはしない。
キッチンのカウンターに置いてあったスマホに呼びかけて時間を確認すると、まだ時間はある。だが、料理をする気にはなれない。今包丁を握ったら、うっかり自分の腹にそれを突き立ててしまいそうだ。
何となく、テーブルに置いてあったリモコンでテレビを付けた。ゲーム用の入力を切り替えて、民法を、HHKを映す。
どれも下らない番組や番組宣伝ばかりで面白くない。入力を戻した。ふと、気を紛らわせたくてゲームをやってみたくなった。最近発売された、高難度のアクションロールプレイングゲームを始めてみることにした。
久々なので少し操作に手間取ったが、5分程で慣れ、画面の中のキャラクターを自由自在に動かせるようになった。
簡単だ。
敵の攻撃をパリイングで弾き、反撃の一撃で即死させる。ボスの攻撃も見てから回避して、余裕のあるだけザクザクと剣で切り刻む。思わず頬が緩んだ。
弱すぎる。現実の竜と比べれば、なんとも遅い動きだ。こちらの体力も無尽蔵ではないものの、動くためのスタミナ管理も簡単である。多分、レベルを上げずとも初期ステータスで全て攻略できてしまうだろう。
当たり前だ。これはゲームである。ゲームである以上、人間がプレイしてクリアできなければ、それはクソゲーである。
最近はいくら難易度の高いゲームだろうと、きちんとクリアできるように作られているのだ。反射神経の高まった自分であれば余裕この上ない。
アラームがなったので一旦止めて立ち上がった。もうすぐソウが帰ってくる。一応前掛けを付けて、フライパンに油を敷いて温める。
冷凍チャーハンは電子レンジでも作れる。そっちのほうが簡単だし、洗い物も少ない。ただ、ラップをかけて電子レンジ調理だと、どうにも水分が飛ばずにべたっとなりがちだ。それでも十分に美味いことは美味い。昨今の冷凍食品というのは進化が凄まじく、どれをとっても店で食べるのとそう変わらない程の味になっている。
ただ、それはそこら辺の安い居酒屋チェーンで出しても問題ない、程度の美味さである。流石に中華料理の専門店と比べると、多少見劣りするのは仕方が無い。
温まったフライパンに袋から凍ったチャーハンをどばっと入れる。暫く軽く炒めた後、チューブにんにくを少し入れ、良くかき混ぜた後に香り付けのごま油と、溶いた卵を入れる。良く混ぜて炒めて刻みネギを散らし、酒と塩コショウで味を整えて出来上がり。簡単だ。
かなり多めの二人前が完成した所で、ソウが帰ってきた。
「チャーハンか?晩飯としては珍しいな」
キッチンから漂う油の匂いに、適当な男は鼻をひくつかせている。
夕食にこういった物を出す事は滅多にない。炭水化物中心の食事は、大体休日の昼食に作る事が多いのだ。
「ああ、まぁな。すぐに食うか?」
「うん」
背広の上着を受け取ってハンガーラックに掛ける。ネクタイを外しているのを横目に見ながら、チャーハンとわかめスープを食卓に運んだ。
冷凍チャーハンであるとは露ほども思わず、ソウはビール片手にうまいうまいと黄金色の飯を頬張っている。その様子を見ていると、なんだか割とどうでも良くなってきて勝手に頬が緩んできた。
「お前、本当に美味そうに食うな」
「美味いんだから仕方ねえだろ」
まぁ、実際美味い。既に完成された味に、更に一手間加えてあるのだ。れんげで掬って口に入れると、香ばしいごま油と仄かなにんにくの香りが漂う。ふわふわとした細かい卵と、油でパラパラになった飯との相性が堪らない。
スープは完全にインスタントのそれだが、力強い味のチャーハンにはこの程度のスープで何も問題ない。
早々に食べ終わってキッチンで洗い物をしていると、テレビの前のコントローラーパッドを見つけたソウがこちらを向いた。
「珍しいな、ゲームやってたのか?」
「ああ。ブラッドソウル2な。結構面白いぞ」
操作性も良く、爽快感がある。美麗なグラフィックで表現されたどこか退廃的な世界観と、断片的に示されるストーリーが物語に深みを与えている。
「ネットだとめっちゃ難しいって聞いてたから、まだ触ってなかったんだよな。今週末にやろうと思ってたんだけど」
高難度ではあるのだ。普通の人間にとっては。
「まぁ、難しいよ。俺にとってはそうでもないけど」
「へぇ、そうか。風呂入ってくるからさ、寝るまでちょっと遊ぼうぜ」
言うなりソウはさっさと浴室へ消えていった。洗い物はすぐに終わったので、前掛けを外してテレビの前のソファに座った。
さっきの続きから始めてみる。恐らくステージ2のボスを倒し終わって、中世の街のようなフィールドから暗い森のステージへと移行した。このシリーズのパターンからして、広い森からはあちこちのフィールドに分岐しているはずだ。
暫く探索をしていたところ、ソウが風呂から上がってきたので一端戻って記録した。
「どこまで行ったんだ?」
「多分3番目のマップだな。ちょっと歩いてみたけど、広くてどこに行けば良いか分かりにくかった」
自由度が高い、というのは、目的地を自分で決めねばならないという事だ。適当に進んでもいつかはたどり着くが、他の目的地を探すには自分の通って来た道を覚えておかねばならない。
「そっか。どうする、続けるか?」
「いや、ソウがやってくれ。俺は見てるから」
一応このゲームは、ネットでの協力や対戦プレイもできる筈だ。ただ、今まで進んできた中ではそれ専用のアイテムは入手できていない。それに、協力ができたとしてもそれには別のゲーム機か端末と、モニターが必要になる。テレビもゲーム機も一台しかない。
風呂上がりの男はよっしゃと言って、先程までこちらが握っていたコントローラを持った。こいつも中々のゲーマーではあるが、果たしてこの嫌らしい敵配置を攻略する事ができるだろうか。
キャラクターを本当に適当に決めて、ソウはゲームを開始した。キャラメイクなんかなんでも良い、と言わんばかりの決定速度である。
開始直後、当然のようにチュートリアルの中ボスで死んだ。お約束である。
「うへ、前作もそうだったけど、これ死にイベントだよな?」
「ちょっと時間はかかるけど一応倒せたぞ。全部避けて殴り続ければ」
「いや、それ絶対普通のプレイじゃねえだろ」
死んで移動した先で装備を受け取り、ソウの作った適当なキャラクターはスタート地点に移動した。ちなみにボスを倒せた場合、そのまま進めば同じ場所に出るようになっている。装備はセーブポイントから戻れば貰えるようになっていた。
「おお、最初から結構行けそうな場所多いな。どっちだ?」
「右が正規ルートかな。左はサブイベントのNPCとかがいた」
よし、じゃあ速攻だ、と言ってソウは右のルートを選んだ。できれば隅々まで見たい自分とは別のプレイスタイルである。
前作の経験もあるので、ざくざくと敵を切り刻みながら調子良く進んでいく。調子に乗って進んでいた所で、物陰から出てきた敵に不意打ちを食らって即死した。ゲーム制作者の狙い通りである。
「ああーっ!なんだこれ!卑怯すぎるだろ!」
「ふっ、ふふっ、それな、クルマの運転と同じだろ。物陰から子供が飛び出してくるかもしれませんよ?っていう、教習所のアレ」
「なんだよそれ!くそっ、でも覚えたからな、次は食らわねえから」
リポップ地点から再会した彼は、今度は危なげなく不意打ちを誘って敵を撃破した。分かっていればどうという事はないのだ。特にこのゲームには、こういった初見殺しの面が多々あるのである。
自分は単純に出てくるのを見てから、攻撃をパリイングで弾き返して撃退したが、普通の人間には反応できる速度ではない。所見の場所では常に警戒を強いられるという、なんとも緊張感のあるゲームに違いない。
その後もソウは制作者の思い通りに、広間に突っ込んでは集団に囲まれて殺され、死体に偽装していた敵に後ろから襲われては死亡し、目の前の敵に集中していたところを上空からカラスに襲われて、対処できなくなっては死んでいた。
「ふふふ、お前、面白いぐらいに引っかかるな。制作者もしてやったりって感じだぞ、それ」
「
そうなのである。初見殺しはその時は理不尽に感じるものの、二度目は分かっているのでどうにでも対処のしようがある。失敗したとしても、その答えはすぐに自分で見つけられるのだ。
だから、次はいける、と思ってその通りに進み、進んだ先でまた引っかかって死ぬを繰り返す。そのため、中々止め時が見つからない。何もかも反応できて完璧に進めていた自分の遊び方がおかしいのだ。
ゲームなので、いくら死んだって構わない。戻されて経験値が減ったとしても、元の所に戻ってくれば回収できる。無理だと思えばレベルを上げてステータスを上げ、新しい強い装備を作っていけば良いのである。
現実は中々そうはいかない。一度犯した過ちはずっとついて回るし、死ねば二度は無い。死ねばそれで終わりだ。
次から気をつけます、で済まされるような失敗ならば問題はないが、それでは許されない過ちもある。人の生き死にというのはそういうレベルの話だ。
だから、そうならないように竜を狩る。自分がやっている仕事はゲームではない。現実だ。故に失敗は許されない。そこに賭けられているのは経験値やゲームの通貨ではなく、人の命や財産である。
ソウは一面のボスに到達した。おどろおどろしいBGMと効果音。異形に変身した人間だったものが、巨大化してプレイヤーキャラに襲いかかってくる。
「うおっ!これ、ちょ、おい、やめ、あっ!無理だろ!これ!」
素早い連続攻撃をソウは避けきれず、下がって回復しようとした所を飛びかかられてあえなくやられてしまった。再びセーブポイントに戻される。
「その連続攻撃な、二段目にパリイングポイントがあるんだよ。避けるなら、バックステップの後、前転二回で後ろに回れるからそこをスタッブだ」
「マジか。そんなん、気づくもんなのかよ」
こちらのアドバイスが功を奏したのか、今度は上手く敵の攻撃を躱して連続攻撃を叩き込む。暫く調子良くダメージを与えていたが、ボスの体力が半分になったところでムービーが入った。
「え……一面のボスだろ、これ。変形すんのかよ」
「するよ。動きが速くなるから気をつけ……あっ」
忠告した所で、回復しようと下がった所を飛びかかられて食いちぎられた。またやり直しである。
「無理だろこれ!本当に一面のボスかよ!?」
面白い。本当に予想通りの反応をしてくれるのだ。
「多分正攻法はあれだ、飛びかかりを前転で避けて攻撃するのと、至近距離の叩きつけをパリイングだと思う。回復は基本的にしないか、ダウンした時に急いでするぐらいかな」
自分はすべて取れそうな反撃を取り、取れなそうな攻撃は避けていただけだ。見てから回避なので攻略法もクソもない。
「よーし、見てろよ。次は倒してやるからな」
再度チャレンジしたソウは、危なげなく変形後まではいけた。けれど、結局二度程攻撃を食らって、先程の忠告を忘れて回復剤を使った所で、再び飛びかかられて死亡した。
「あー!しまった!熱中してるとどうしても忘れるんだよなぁ」
「あるある」
熱中すると覚えていたはずの事を忘れて、勝手に手が動く事があるのだ。これは反射に近いものであり、制御する為には割と反復練習が必要になる。
「はぁ、今日はここまでにしとくわ。週末にガッツリやるからな、覚えてろよ」
ふと気づけば、結構な時間が経っていた。あとは寝るだけだったとは言え、意外とこちらもプレイを見るのに熱中してしまっていたようだ。
「久しぶりにやるとゲームも面白いな」
「学生の頃はずっとやってたよなぁ」
社会人になると、どうしても時間が取りにくくなるのだ。次の日の事も考えて夜は早めに寝てしまうし、休日も意識しないと腰を据えてプレイする事はできない。呼吸をするように、家に帰ったらゲーム機を起動するような生活をしていた頃とは雲泥の差だ。
順番に歯を磨いてから、同じベッドに潜り込む。当たり前のように寝間着を脱いで抱き付くと、彼はすぐに抱き返してきた。
「仕事で何か、あったんだろ」
「何で?」
何故分かった。態度はまるで変えていない。普通だったはずだ。
「わかるに決まってんだろ。何年付き合ってると思ってるんだ。ゲームやるぐらい時間あったのに冷凍チャーハンとか、気付かないとでも思ったのか?」
「……バレてたのか」
かなり手を加えていたし、彼にはわからないと思っていた。
「風呂に入る前に、資源ごみの中に袋があったのを見た。頭隠して尻隠さずだ」
迂闊だった。とは言え、そこまで見ているとは思わなかったのだが。彼を侮っていた。しかし。
「尻を揉みながらそれを言うのはどうなの」
下着の隙間から手を突っ込んで、こちらの尻をぐにぐにと揉みしだいている。クールな探偵役のはずが、行動で台無しである。
「出ていて触って良い尻なら触らないのは失礼にあたる」
「まぁ、いいけど」
なんだか悩んでいたのがバカバカしくなってしまった。適当男ここに極まれりである。
するするとショーツを脱がされ、ブラも取り払われて全裸になる。お互いが一糸纏わぬ姿のまま、身体を強く密着させて抱き合っている。
「何があっても、俺はミサキの味方だから」
「ガチガチにおっ立ててなかったら格好良かったのに」
「それは仕方が無い。不可抗力だ」
結局のところ、こいつのこういう所が好きで安心するんだろう。何となく、明日からも頑張れる気がした。
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