第30話 加速する休日の騒乱

「「ミサキお姉ちゃん!」」

 それはもう、可愛い甥と姪が抱きついてくる。背景さえ考えなければ何も憂慮することは無い。それはそれは幸せな一時になるはずなのだが。

「ごめん、あに……ミサキさん」

「いいよ、気にしなくて。子供なんだから」

 言うことを聞かなければ学校で言い触らす、と脅された弟夫婦は、どうしようもなくなって週末、土曜日にこちらへとやってきた。不可抗力である。

「ミサキお姉ちゃん、竜を倒すチームのリーダーって、本当?」

 純朴でキラキラとした瞳で見つめられては嘘だとは言えるわけがない。というか、もう顔も名前も何もかもバレているのだ。

「本当だよ、ウミ。でも、これは秘密のヒーローだから、あんまり他の人に言い触らしちゃ駄目だよ?」

「わかった!ミサキお姉ちゃんはリリキュアのキュアレッドなんだね!」

「そう。だから、バレたらブラックモアの軍勢がここに来ちゃうから」

 リリキュアとは、所謂日曜日の朝に放映しているアニメである。古式ゆかしき変身ヒロインアニメであり、敵集団は今はブラックモアというものだそうだ。昨日、一生懸命予習したのである。

 所謂オタク層と言われる夫のソウでも、この女児向けアニメは範囲外である。一般的なオタク層というのは実に範囲が広く、その嗜好は多岐にわたる。彼の場合は所謂ゲオタと言われるものであり、女児向けアニメまで把握しているアニオタとは少し違うのだ。

 無論、アニメも視ることは視る。だが、自分と彼の場合は物語や映像的完成度を楽しむものであって、定番アニメを定点観測するものとはまた毛色が違うのである。

「素敵ですね、おに……ミサキさん。なんかこう、私の子どもの頃視てた、セーラースターズみたいな」

「ミオさん……まぁ、気持ちはわかりますが。ひょっとして、日曜日にウミたちと一緒にアニメ視てるんですか」

 彼女は高校教師だ。基本的に土日は休みであり、休日出勤もあるトシツグとは違って、朝から姪達と一緒にいる事が多い。

「え?あ、あぁ……はい。毎週視ているうちに、なんかちょっと面白いなって」

「まぁ、人気はありますし、制作会社も力を入れていますが……普通、その年代のお母さんってライダーの方が好きになるそうですが」

 そう言うと、ショウがしゃきーん!と言って抱きついてきた。

「ミサキおねえちゃん!ブラストライダー!」

「チェーンジ!オン!」

 乗ってやると大喜びでショウは決めポーズを取った。いつの時代も、子どもの嗜好というのはあまり変わらないものである。というか、物凄く可愛い。堪らなくなって甥を抱き上げて頬ずりした。

「このっ!ブラストライダーめ!こんなにもちもちしたほっぺをしおって!」

 ふくよかなほっぺたをした甥っ子は、こちらに頬ずりをされてきゃあきゃあと喜んでいる。もう、我慢ならない。なんだこの可愛い生物は。

「ショウ!ショウ!お姉ちゃん!あたしも!あたしも!」

「リリウミめー、ゆるさんぞー!このモアエンペラーの手下になるがいい!」

 もう片方の腕で姪を抱き上げて、歓声をあげる姪に頬ずりをする。ダメだこれ。もう、天国じゃないだろうか。天界はここにあった。もう、死んでも良い。

「子供、本当に好きだなぁ」

 弟が漏らす。そりゃあ、好きだ。純粋で可愛くて裏表が少なくて、嫌いなわけがない。

「ミサキさんは?」

 義妹の言葉に微笑みかける。

「流石に今は無理ですよ。もうちょっと後ですね」

 出来るならば今すぐにでも欲しい。だが、それは時勢が許さない。

 子供たち以外が少し微妙な空気になったところで、インターフォンが鳴った。ソウがはいはいと言ってリビングの隅にあるモニターを見ている。

「ウミ、ショウ。リンちゃんが来たよ」

 画面にはキョウカの家族が映っている。予定通りの時間だ。ソウがエントランスのロックを開けて、数分してから再びインターフォンが鳴らされる。

「リンちゃん!」

「ウミちゃん!」

 ふたりはリリキュア、ではない。二人は自分にとっての可愛い姪である。

 年齢としては2つほど離れているが、学年は一つしか違わない。故に嗜好もかなり近く、同年代の友人である事には間違いは無いであろう。今や間柄としては又従姉妹になるのだろうか。

 ソウの姪であるリンは、やはりウミと同じく瞳を輝かせてこちらへ詰め寄ってきた。

「ミサキお姉ちゃん!DDDのリーダー!世界の救世主!」

「ふふふ、それに気がついてしまったか。だが、その秘密は決して表に出してはならぬもの。わかるな?」

「サー!イエッサー!」

 もう、何がなんだかわからない。だが、彼女が承諾してくれた事は良くわかった。

「すみません、カラス……ミサキさん。もう、言う事を聞かなくって」

「度々本当に……」

 キョウカとその夫のテツヤが平謝りに頭を下げる。

「気にしないで下さい。でも、リンちゃんの言動には少し気を配って下さいね。マスコミはほんと、しつこいですから」

「いやいや、マジで」

 隣でソウが合いの手を入れる。本当にわかっているのか。

 とは言え、折角揃って楽しい時間を過ごそうというのだ。大量に準備していた手巻き寿司の材料をどんとテーブルに置いて、少しだけ早い昼食の時間が始まった。


 卵ときゅうりばかりを食べ続ける姪に、刺身とかいわれ大根を入れたものを手渡しつつ、酒が切れたのに気付いてキッチンへと清酒の瓶を取りに戻る。なんだこれ。昼飯のくせにやたらと忙しいぞ。

 義妹の夫であるテツヤと弟の嫁のミオが手伝ってくれるものの、手巻き寿司という子供にとって個別で手間のかかる昼食は極めて忙しい。腹が減っているのに食べる暇があまりない。

「ミサキ、悪い、酒もうちょっと取ってくれ」

「ミサキお姉ちゃん!このお刺身美味しい!もっと食べたい!」

 もう少し、勝手に食べられるものにすべきだった。まだ小学校低学年と小学校にも上がっていない子供たちにとって、適量の酢飯を海苔に取って具材を乗せて巻く、というのは、意外と大変な事だったようだ。

 特に最年少のショウなどは、具材がうまく巻けずに飯と海苔だけで食べようとしている。流石にそれは勿体ない、というかそれは寿司ではない、砂糖と酢の入った握り飯だ。

 手渡したマグロの巻き寿司を美味しそうに頬張っている甥に満足して、冷蔵庫から冷やした酒を取り出す。リビングに持っていくと、具材の一部が残り少なくなっていた。

「イカ、美味しい!」

「エビ、あまーい!」

 甘い具材をより好む小学生の女児二人によって、甘い刺身と一緒に消費される卵が底を尽きかけていた。これは……焼くべきだろうか。かいわれ大根だけが未だに大量に残されている。

「いいから。もう座れよ、ミサキ」

 ソウがこちらに酒の入った猪口と、マグロと胡瓜、かいわれ大根を巻いたものを手渡してきた。

「でも、卵が」

「いいよ、なくなっても。もう、リン達も腹いっぱいだろ」

 確かに、良く見れば二人はコップにいっぱいのオレンジジュースを片手に、リリキュアの話に花を咲かせている。甥のショウだけはまだもりもりと寿司を頬張っているが。

「おつかれさまです、ミサキさん。すいません、一度に押しかけてしまって」

 こちらの猪口に酒を注ぎながら、キョウカの夫、テツヤが申し訳無さそうに言う。真面目な彼は食器だのなんだのを、気がつけば配膳して手伝ってくれていたのだ。

「いえ、気にしないで下さい。普段は二人なので、大勢の食事というのも楽しいですから」

 大勢の食事。もう、ここに来るまでは一生経験する事が無いだろうと思っていた。だが、そう多くないと思っていた自分の周囲の人間が集まるだけで、これだけ賑やかになるのだ。望んでいたものがここにある。ならば、文句を言うのは筋違いだろう。

「いやしかし、驚いたよミサキさん。リンが、『知らないおじさんとミサキお姉ちゃんが動画に出てる!』なんて言うものだから、慌てて見てみたら」

「ああ、うん。後の二人がヒノモト語をマスターしたもんだから、急に公表するって」

 多分、それを決定したのはあの防衛大臣だ。無論首相にも話はしただろうが、基本的に今の首相は、『まぁ、いいんじゃないの』気質の人間である。扱いやすい神輿なので、官僚からは兎も角、有権者からの評判は今ひとつ良くない。

「央華と合衆国の人でしたっけ?二人共、可愛かったですねえ」

 弟の嫁、ミオが二人を思い出したのか、ほんわかとした顔になった。

「そうそう、特にあのちっちゃい方の子!くりくりしたお目々がすっごく可愛くて」

 夫をそっちのけで二人はジェシカとメイユィの話で盛り上がっている。夫二人はというと、やはりというか何というか、酒が入ったせいで仕事の愚痴大会を始めていた。

 子供達はどうしているかというと、リビングにある大きなテレビでソウと一緒になってゲームを始めた。子供でも遊べるアクションゲームで、協力プレイで騒々しく遊んでいる。

 余ったかいわれ大根と刺身を片付けるべく、こちらは本格的に食事を始めた。次からはもう少し余裕のある料理にすべきか。しかし、美味しそうに寿司を頬張る子供達を見ていると、多少忙しくてもまぁ良いかという気分になってくる。

 冷えた酒をきゅっと流し込みながら、騒がしいリビングを見る。

 幸せな光景だ。優しく仲の良い親戚達と、可愛い子供達。

 仮に、情報が漏れたことで野次馬やメディアの人間が彼らの家に押しかけるようなことになれば、もしかしたらこの関係性も壊されてしまうかもしれない。それだけは、どうしても避けたい。避けるべきだろう。

 先日受けた取材の内容が表に出てくるのは、恐らく再来週辺りになる。一般大衆の自分達に対する認知度が更に上がるのは間違いない。有名になればなるほど、周囲が気がかりになってくる。

 リン達に釘は刺したものの、どこまで彼女達が我慢し続けられるかはわからない。遠くない内にバレてしまう事は覚悟しておくべきだろう。

 やはり、ここはオオイに相談するしかなさそうだ。ジェシカやメイユィと違って、外にいる分、自分の周囲が最も情報漏洩の可能性が高い場所になる。自分も言動には十分に気を配らねばならない。

 空になった飯たらいの中に、食べ終わった食器を纏めて入れて、キッチンのシンクへと運び出した。


 夕食を終え、風呂に入ったあと、暫く騒いでいた子供達は流石に疲れたのか、早々に寝入ってしまった。親達も昼間から飲んでいた為か、和室とリビングに別れて布団を敷いて眠っている。

「疲れた」

「お疲れ」

 昼間、ずっと子供の相手をしていたソウは疲労困憊だ。ゲームで遊んだ後はボードゲームを取り出し、その後は録画していたアニメ鑑賞会である。

 子供の世話から開放された弟夫婦と義妹夫婦は、珈琲を飲みながら延々とおしゃべりをしていた。こちらを巻き込みながら。

「明日は遊覧船に乗って、水族館に行くんだと」

「あぁ……まぁ、UAHほどじゃないから多分大丈夫」

 近くにはカワチ港がある。そこから遊覧船で湾内を一周して、近くに水族館のある港で降りる。水槽やイルカショーを見学して、帰りは電車で、というのが世間では一般的な観光プランである。船のチケットを買うと、水族館の入館料が割引になるのだ。

「明日も疲れるんだろうなぁ」

「疲れるだろうね」

 ベッドの上でうんざりとした声を出すソウだが、実の所、そこまで嫌そうにはしていない。この男は割と子供好きなのだ。

 仰向けに寝ていた彼は、こちらに寝返りを打って向き直ると、おもむろに服の上からこちらの胸を触り始めた。

「疲れてるのに、疲れる事するの?」

「別腹、別腹」

「腹じゃないでしょ、もっと下だし」

 むくむくと盛り上がった彼の一物が、下のスウェットを押し上げてテントを張っている。彼はぷちぷちとこちらの寝間着のボタンを外し始めた。

「調べてもらったんだけど、普通に出来るって」

 ぴたりと彼の手が止まった。しかしすぐに動きを再開する。

「そっか。どうする?」

「もうちょっと、後かな」

「そうだな」

 枕元の引き出しから箱を取り出し、パッケージを一つ破った。ほとぼりが冷めるまで、一体どれぐらいかかるだろうか。



「ちょっとソウ、大丈夫?」

「大丈夫、多分」

 船を降り立ち、桟橋を渡って水族館の入口に向かう途中、よろけた適当な男の身体を抱きとめた。

 朝、出かける直前まで寝ていたこいつは、電車で港に到着した後、船に乗る前に、たまたま港で開催されていたビール祭りでかなりの量を飲んでいた。

 朝からあんまり飲むなと言ったのだが、祭りだからノーカウントなどと意味のわからないことを口走った挙げ句、船酔いしてこの様である。呆れて声も出ない。

「だから言ったでしょうに。人の忠告を無視するから」

「いや、湾内なのにここまで揺れるとは思わなかったんだよ」

 桟橋で朝食を全て海にプレゼントしてしまった彼は、青白い顔をしてどうにかこうにか歩いている。子供達は、ソウおじさんがゲロ吐いたと叫んで先に行ってしまった。

「今日の晩飯、酒抜きな」

「そんな」

 朝に相当な量を飲んだのだ。帳尻を合わせるには今日はもう無しである。彼の沈黙の臓器の悲鳴が聞こえる。折角の休日が台無しである。

 水族館の入口につくと、弟夫婦が既に並んで人数分のチケットを買い終わっていた。チケット代を渡そうとしたのだが、こっちが連れ出したんだからと頑なに断られた。

 暗い通路を順路に沿って進み、並んでいる大きな水槽を見て回る。色とりどりの魚から、甲殻類や頭足類、クラゲに節足動物など、ありとあらゆる海の生き物が飼育、展示されている。

 途中にあった深海魚の模型を気味悪そうに眺めていたウミとリンを連れて、少し広くなっているホールへと出た。

 この建物の中央を貫通する、巨大な円筒形の水槽があった。

 蒼く澄んだ水の中、様々な種類の魚たちが群れをなし、あるいは単独で、悠々と泳ぎ回っている。

「でっかぁ〜」

 目の前を横切ったジンベエザメに、ショウが目を丸くしている。

「ショウ、これはジンベエザメだよ。魚の中で一番大きいの」

 全長で15メートル以上はゆうにある。巨大な体躯に対してその性格は大人しく、プランクトンを主食とする軟骨魚類だ。

「くじらは?」

「クジラは哺乳類だね、牛さんとかと同じ」

「きょうりゅうは?」

「恐竜にも魚みたいなのがいるね、魚竜って言うんだけど。それもクジラの仲間かな」

 魚竜は胎生であったという化石証拠があり、完全に水中に適応していたと思われる。今のクジラ、イルカと同じだ。

「あっ!エイ!尻尾長い!」

 隣りにいたウミが大声を上げて、母親のミオが慌ててしーっと言った。周辺の客達は特別気にしてはいないようだが、静かなホールでは割と声が響く。

「エイも大きいね、ミサキお姉ちゃん。ねえ、恐竜とどっちが大きい?」

「恐竜も大きいのから小さいのまでいるからねえ。小さいのとか中くらいのだと、このエイとかサメのほうが大きいね」

 今までに屠ってきた中でも比較的小型のものは、大人よりも少し大きいぐらいのサイズである。ただ、小さいと言っても勿論他の生物よりも遥かに頑健で力も強かったが。

「このサメより大きいのがいるの?」

 全長ではそれぐらいはあっただろうか。このサメよりは大きかったと思う。

「いるね。危ないから、そういうのが出てきたら、すぐに狭い地下に逃げてね」

「うん。でも、出てきたらミサキお姉ちゃんたちがやっつけてくれるんでしょ?」

 そうだ。だが、まずは避難してもらわないと、到着にはどうしてもタイムラグが発生する。

「やっつけるけど、間に合うかどうかわからないからね。まずは、逃げて、隠れる。わかった?」

「わかった!」

 元気よく返事をした姪の頭を撫でた。つややかで細い髪が手のひらに流れる。

「おっ、イルカショーだ。そろそろ時間だって」

 ショウを抱き上げたトシツグが館内案内を見て言った。すぐ先から屋外アリーナへと出られるようだ。促されるままに、肌寒い表へと足を運んだ。


 動物虐待である、と一部の人は言う。

 閉じ込めて飼育し、芸をさせる事でイルカにストレスを与えている、というのが彼らの主張である。

 それは一部としては正しいし、一部としては間違っている。

 健康面から考えれば、飼育下の方が野生のイルカよりも圧倒的に健康であり、寿命も遥かに長い。また、芸をさせるにしてもイルカの主体性を使って、娯楽の一環として行わせるようにしている、という主張もある。

 いや、それがストレスだ、いや、イルカは遊ぶ動物だと、両者の議論は平行線だ。

 どちらがどうだ、というのは、正直どうでも良い。人は本来傲慢な生き物だ。

 生き物を飼育、繁殖させるのも、生き物を自然のままにしておくべきだ、とわざわざ自然に戻すのも、また、生き物は保護すべきだ、と勝手に保護活動をするのも、全て人間のエゴである。

 エゴならエゴで、俺はこうしたいからこうしているんだと開き直れば良いものを、それをあたかも大自然の意思である、これこそ正しいのだと言って憚らないから反感を買う。

 猫をかわいがるのも、犬をしつけるのも、食肉用や乳、毛を取るために家畜を飼うのだって、競走馬を繁殖させて走らせるのだって、人間がしたいからしているのだ。そこに、これが何かのためだという理由など必要ない。

 子供達も、見ている殆どの大人たちも、イルカの華麗なパフォーマンスに歓声を上げている。別に、それで良いのだ。

 かわいそうだと思うのも自由だし、自然に帰してやりたいと思うのも自由だ。思うだけならば。

 自分は恐竜を殺す。多分、一部の愛好家から見れば、折角古代より蘇った生き物なのだから、人間と住み分ければ良いじゃないか、という声だって上がってくるだろう。

 そんな事は知らん。放っておけば人が殺されるし、自分は殺したいから殺す。これは人間のエゴだ。エゴを否定するのならば、面倒くさい理由などつけず、俺は殺すのに反対だから人間が食われる道を選ぶ、とでも開き直れば良い。

 イルカショーは大きな拍手と共に終了を告げた。この寒い中、水をかけられた前の席の人も笑っている。これでいいんじゃないかと自分は思う。

 ショーが終わって、ソウが全員分のゴミを纏めてゴミ箱に捨てに行った。アリーナの観客席、出入口近くで彼を待っていると、すみません、と後ろから声をかけられた。

「あの、ひょっとして、DDDの人、ではないですか?」

 振り返って見ると、20代ぐらいの女性、三人組がこちらを見ていた。あぁ、どうしよう。面倒くさい事になりそうだ。

「はあ、そうですが」

 違うと言っても嘘だとすぐにわかる。いつかこういう日が来るとはわかっていたが、どうすれば良いのだろうか。せめてオオイかサカキが一緒にいれば。

「やっぱり!すごい!動画で見るよりずっと可愛い!ミサキ・カラスマさんですよね!」

 三人はきゃあきゃあと騒いでいる。どうしよう。

「はい、カラスマですが。あの、すみません、今日はその、プライベートなもので」

 そう言うと、三人はあっという顔をした。それでも尚、近寄ってきて手を差し出してくる。

「すみません!でも、握手してもらえませんか?お願いします!」

「はあ、握手ぐらいなら」

 唐突な要望に戸惑ったが、別に手を握るぐらいならどうという事は無い。順番に三人の手を握ると、大喜びで彼女達はお礼を言って頭を下げた。

 彼女達に笑顔で手を振って見送る。良かった、大したこと無くて。

「あの、すみません、僕にも」

「私も!いいですか?」

 騒ぎを聞いていた近くの人間がわらわらと寄ってきた。どうしよう。断れば、さっきの人達にはしたのに、と思われる。断りきれない。

 唐突に始まったアリーナでの握手会。客席の階段に行列ができてしまった。意味がわからない。何事かと近寄ってきた水族館のスタッフも、こちらを見ると何故かその列に加わった。おい、そこは止めさせるのが仕事だろう。

 ゴミを捨てに行ったソウと親戚たちの方を見ると、何とも言えない顔でこちらを眺めている。やめろ、そんな目で私を見るな。

 数十分もかけて列を消化し、やっとの事で彼らの所に戻る。疲れるような事はしていないはずなのに疲労困憊だ。

「ミサキさん、大人気ですねえ」

「なんでこんな所で……」

 ひょっとして、休日にどこかに出かけて正体がバレるたびにこんな事が起こるのだろうか。次からはサングラスでもかけてきた方が良いのだろうか。

「サインの練習もしておいたほうが良いんじゃね」

「うっさい」

 笑って茶化す酔っぱらいのゲロ吐き男の尻を抓って、微妙な気分のままに水族館の残りを消化した。

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