第23話 契約の届出
マンションのエントランス脇、車寄せになっているところに軽自動車を停めて、ハザードランプを点滅させる。こんなものまである辺り、このマンションはやはり富裕層向けなのだなと改めて思った。
一般的にはソウのような一人暮らしの男性が購入して住むような所ではない。やはり頭金等は親に出してもらったのだろうか。
二、三分ほどして、すぐにソウがエントランスから出てきた。仕事で使っているような茶封筒を小脇に抱えている。
「おう、お待たせ」
「待ってねえけどな。文明の利器様々だろ」
ワイアードだろうが電話だろうが、すぐに連絡が取れるというのが当たり前になってしまったが、良く考えればあまりにも便利な事だ。そのお陰で待ち合わせ時間にルーズな人間が生まれたりもするそうだが、一度この便利さを覚えてしまえば、もう戻ることなど出来ないだろう。
人は文明に慣れてしまえば、わざわざ昔の不便な状態に戻ろうなどとは思わない。一体誰が洗濯機も冷蔵庫もスマホも無い生活に戻れようか。
昼間の比較的空いた道路を走る。中央区役所はそう遠くないのだが、駐屯地への帰りも考えるとクルマでの移動でなければ厳しい。区役所の脇にある地下駐車場のスロープを降りて、駐車券を引き出して開いている場所へ駐車した。
「ここはまだゲートの無い方式じゃないんだな」
「設備の導入にも金がかかるし、商業施設でもないんだからそういうのは後回しだよ。それに、役所って色んな奴が来るからな」
店側が追い出せる、出禁にできる商業施設と違って、役所は公共施設故にそういった事が出来ない。ノーゲート精算方式にすれば、これ幸いと近所の用事に乗り込んで金も払わずに出る、という奴も大量に湧くに決まっているのだ。
「そうなのか?ヤマシロ市役所周辺って結構民度良いイメージあったけど」
「殆どの周辺住民はな。でも、クレーマーは毎日来るし、繁華街のすぐ近くだから」
窓口で大声を出したり毎日やってきては受付の女性職員に絡む奴なんかもいた。民度というのは全体を示すものであって、変なやつがいないというわけではないのである。
それに、ヤマシロ市役所はヤマシロ市の繁華街にすぐ隣接した場所にある。市役所にクルマを停めて繁華街で遊び回る、なんて奴はいくらでも出てくるだろう。なので、周辺のコインパーキングも全部歯止め式かカーゲート方式だ。
それ故に市役所の駐車場は関係者か身障者専用のみにしてあり、一般のクルマは入れないようになっている。
「ああいうのってさ、郊外の大規模商業施設とか、大きな立体駐車場を持ってる所がやるもんだよ」
「そうか、言われてみりゃそうだな。便利だと思ってたけど、結構面倒くさい事考えないといけないんだなあ」
利用者の良心を前提とした便利なサービスはいくらでもある。無人販売所もそうだし、飲食店のテーブルに備え付けてある無料のトッピングなんかもそうだ。ただ、一部の不届き者がそれを悪用することで、サービス自体が無くなってしまう事もある。
駐車場の場合はカメラで記録されているのだが、そうであっても踏み倒そうとする奴は後を絶たない。無人販売所のカメラに映った窃盗映像なんてのは、頻繁にネットニュースに上がっている。
降りてきたスロープの脇にある階段室から上がり、小さな風除室を通って区役所の中へと入る。
「えーと、どこに出せば良いんだろ」
案内板を見ると、ずらりと担当課の名称が並んでいる。目が滑って実に困る。
「戸籍課じゃね?住民登録みたいなもんだろうし」
「ああ、なるほど。えーと、二階の階段上がって正面だな」
狭い階段を上ったすぐ正面、沢山ならんだ窓口の一つに二人で近付く。
窓口に居た中年男性は書き物をしていたが、すぐにこちらに気づいて顔を上げた。
「こんにちは。ああ、婚姻届ですね、おめでとうございます。書類を確認致します。身分を証明できるものをお預かりできますか」
書類一式と二人の免許証を渡すと、かけて暫くお待ち下さいと言われたので、すぐ側の椅子に並んで腰掛けた。
「なんか緊張する」
「なんでだよ……」
妙に固くなっている適当な男に呆れた視線を投げる。ただ書類を提出するだけなのだ。何を緊張する必要があろうか。
「だって、初めてだし」
「こっちだって初めてだよ」
立ち上がって廊下に出て、自販機コーナーで冷たい缶コーヒーを二つ買ってきた。
「ほれ」
「サンキュー」
区役所内は冷房が効いていて涼しい。昼食を終えた後という事もあって、少し眠くなってきた。カフェインは摂取してから効果が出るまで十分から数十分程度はかかるので、眠くなってから飲んでもあまり意味はない。仮眠を少し取ると頭も覚めるのだが。
「サメガイさん、お待たせしました」
はっとなって目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。側頭部に感触を感じたので身体を動かすと、隣に座っていたソウが立ち上がった。どうやら彼にもたれ掛かって眠っていたようだ。
「届けは確かに受理致しました、おめでとうございます。免許証、お返ししますね。お幸せに」
免許証を返してもらって、そのまま区役所を出て駐車場へと向かう。
「あれだけ?証明書とかは無いのか?」
わけのわからないことを言い出す適当な男。
「あるよ。頼めば出してもらえるけど、必要無いだろ。婚姻証明書ってのは身分証明みたいなもんだから」
「あぁ、そうなのか。なんか簡単だったな」
「引っ越しとかと同じだよ。ただの事務手続きなんだから」
何も特別なことではないのだ。せいぜい祝福の言葉をかけられるぐらいである。職員だって月に何度も似たようなものを受け付けているであろうし、彼らにとってはただの作業なのだ。
クルマに戻って財布から小銭を取り出す。駐車券を出口の精算機に入れて、200エンを払って外に出た。
「仕事に戻るのか?」
「うん。こっちにはまだ有給なんてもんは無いからな」
表に出ると、道路は少しだけ渋滞していた。まだ慣れていない場所で裏道を通るのも何なので、素直にゆっくりと幹線道路を進む。
「ああ、そうだ。晩飯の買い物ぐらいはしていくか」
「そっか、そうだな」
マンションの前を少しだけ通り過ぎて、いつものスーパーの駐車場へと入る。あまり広いスペースは無いが、昼間という事もあって空いていた。
「何が食いたい?」
カートにカゴを一つ入れて、押しながら店内へと入る。
「なんでもいいぞ」
「だから、それが困るんだって。考えるこっちの身にもなれ。なんかこう、方向性とか無いのかよ」
「うーん、そうだな。暑くなってきたし、なんか冷たいものがいいな。そうめんとか」
そうめんか。あまり夕食としてはどうかとは思うが。
「そんなら冷やし央華はどうだ?あれならビールにも合うぞ」
「おっ!いいな!そんじゃ冷やし央華にしようぜ、簡単そうだし」
「簡単じゃねえよ。錦糸卵とか作ったりしなきゃいけないから、結構手間かかるんだぞ」
こいつの冷やし央華に対する一般的な認識がよく分かる。麺を茹でて冷やして肉や野菜をのっけるだけ、とでも思っているのだろう。
実際にはハムなんかを使わない場合は鶏肉を茹でたり、卵を焼いたりしなければいけないのだ。野菜はまあ、洗って冷やして切るだけだが。
スープだって作ろうと思えば結構面倒くさい。ただの酢醤油で良いというのなら別だが、それだと味がきつくなりすぎる。ちゃんと煮しめて作らないといけないのだ。
流石にそれよりは市販のものを買ったほうが楽だし美味い。便利な世の中になったものである。
野菜やハムなんかをカートに入れて、めんつゆなんかの調味料が並んでいる棚の前に来た。ずらりと並ぶ完成済みの調味料。実に素晴らしい。時短の友。
「あったあった。これな、冷やし央華のつゆ」
一本150エンから200エンほどで、二食分ぐらいの分量がある。念の為二本をカートに入れた。
「あーあ、手抜き?最近の若い奥さんって、旦那さんに美味しいものを食べさせようっていう気持ちが無いのかしらねえ」
声の主を振り返ると、化粧の濃い50かそこらの女性がこちらを見ていた。無視してソウを促して、冷凍食品のケースが並んでいる方へと向かう。明日の弁当に入れるものが少し足りなくなってきているのだ。
「冷凍食品だなんて。身体にも悪いし、旦那さんを殺したいのかしら」
先程の女が一々ついてきてそう宣う。何いってんだこのババア。頭おかしいんじゃないか。冷凍食品が体に悪いとか、一体いつの時代の人間だ。
「体にいいものとか悪いものっていうのは、食べた量によるんです。少なくとも厚労省で認められたものに文句を付ける必要は無いと思いますが」
こちらが反応したことに勢い付いた女は、目を釣り上げて反論してきた。
「冷凍食品や化学調味料が体に悪いなんてのは常識でしょう!そんな事も知らないの?きちんと一から手作りをしないと、身体を悪くするに決まってるでしょ!」
ダメだこいつ。良くある自然主義者か。こういう人間は相手にするだけ無駄だろう。
「あー、すんません。その常識っていつの事ですか?おばさんの生まれた頃はそうだったのかもしれませんけど、今はそんな事ありませんよ。化調が身体に悪いという話も明確に否定されています。扱いは塩なんかと同じですが」
ソウが割って入った。
「嫁が嫁なら旦那も旦那ね。世の中の常識を全然知らないんだから」
「だから、その常識がおばさんのそれは世間の常識と外れているんです。いいですか、世の中の食品には全て人間に対して毒性があります。これが常識です。短期的、長期的にどれだけの量を摂取しても問題ないかという基準が定められていて、例えば塩の場合ですとLD50は3グラム、つまり、体重1キログラムあたり3グラムを一度に摂取すると約半数の実験ラットが死に至る、というものです。私でしたら180グラムですね、そんな量、一度に食べたり飲んだりは普通しません。化調も同じです。水だってそうです」
淀みなくつらつらと述べ立てるソウ。普段は適当だが、スイッチが入るとこうやってやたらと理屈っぽくなる。そのせいでずっと彼女がいなかったのではないかと自分は見ているのだが。
「つまり、悪いものは身体に入れてはならない、というおばさんの考え方だと、水一滴も口にできない事になります」
「そ、そんな自然にあるものは別よ!大体、人工的に作った調味料なんて」
「人工的なものと自然にあるものとの区別は何ですか?化調の主成分はグルタミン酸ナトリウムです。グルタミン酸は自然に存在するもので、昆布の出汁はこれが主成分です。それに、自然にあるものが安全だという根拠は何ですか?フグだってトリカブトだってドクツルタケだってみんな自然のものですよ?公的機関によって、ある程度安全だと認められたものより、野生の動植物のほうが安全だと仰るんですか?」
落ち着いた口調ではあるが、自分にはわかる。こいつは怒っている。
「いいですか、おばさんが自分や自分の家族とそういった妄想を基準に生活するのは勝手にすれば良いです。ですが、科学的根拠のない妄言を他人に押し付けるのはやめてください。それはハラスメントです」
怒涛のようなソウの言葉に女は言い返すことが出来ずに怯んでいる。だがそれでも尚、やられたままでいられるかとばかりに負け惜しみを口にする。
「そう!じゃあ勝手にすれば!死んだって知らないから!死ね!死ね死ね死ね!」
そう言い残してレジを通らずに外へと出て行った。買い物しにきたんじゃねえのかよ。
「死ぬかよ、ばーか」
適当な男は鼻で笑った。やはり怒っていたのだ。
「あー、なんかわりいな。あんなのに反応しちまったせいで」
あの類の人間は最初から完全無視すれば良かったのだ。間違いなく自分が反応したせいで絡まれてしまった。
「ミサキのせいじゃねえだろ。ああいう脳みそが化石になってる奴、たまにいるからな。一度叩き潰されないとわかんねえんだよ」
「そうだけど、ああいう人は何言われても考え方変えないと思うけどなぁ」
化石は化石化しているから化石なのである。それ以上はもう、壊れて風化するぐらいしか変化できないのだ。現代に蘇った恐竜とは違うのである。
「そうかもしれねえけどさ。なんか、腹立って」
「そっか。まぁ、ありがとな」
怒った理由が単に非科学的だから、というだけではないのは分かっている。こちらが絡まれたせいで怒ったのだ。
「なんで礼を言うんだよ、別に……」
口ごもる姿が何だか妙に可愛く思えてきて笑い掛けた。それ以上は何も言わずに、大人しく空いているレジに並んだ。
並んだレジの担当は、若いパートの女性だった。彼女はバーコードを機械に読み取らせながら、小さな声でこちらに囁いた。
「すみません。あのおばさん、いつもああいう事してるんですよ」
「あぁ……そうなんですか、それは」
営業妨害だろう。店の商品を毒だと喚き散らしているのだ。場合によっては警察沙汰である。
「前はね、あたしたち若いパートにああやって説教してたんです。流石にそれは店長が、これ以上やったら通報しますって言ってしなくなったんですけど……今度はお客さんにまで絡み始めて」
とんでもない人間だ。どれだけ自分の考えを他人に押し付けたいのだろうか。
「大丈夫なんですか?それって、営業妨害では」
「そうなんですけどね、店長は気が弱いから……でも、お二人がやり返してくれてスッとしました。ありがとうございます」
店側も迷惑していたのだ。もう出禁で良いのではないだろうか。
会員カード特典で500エン割引された支払いを済ませて外に出た。当然ながら女の姿は影も形もなかった。
「はー、ほんと世の中には変な奴がいるよなぁ」
「まぁな。度合いの問題なんだろうけどさ、こればっかりは」
変わったやつ、というのは、どの程度を許容するかという社会の寛容性によって基準が変わってくる。それは時と場所と場合によって流動的ではあるが、あのように積極的に他人に干渉するタイプは、大体どのような環境であっても概ね嫌われる。
一度拒絶された時点で普通は気付くのだが、気付かないからこそ普通ではない、という事か。
「買ったもん、ちゃんと冷蔵庫入れといてくれよ」
「わかってるって。ミサキも早く帰ってきてくれよ、冷やし央華、楽しみだぜ」
「定時だよ。いつもと変わらないって。それより、蟹玉飯はどうだった」
「めっちゃ美味かったぞ!また作ってくれよな!」
車寄せで彼を下ろして、再び足を駐屯地へと向ける。変なことで時間を食ってしまった。 顔パスで入った駐屯地内の駐車場でクルマを停め、やや小走りでいつもの建物へと戻る。あまりやることが無いとは言え、休み時間を超過してしまった。なんとなく申し訳ない気分になって監視室の前に来ると、丁度オオイがマツバラと一緒に出てきた所だった。
「ああ、カラスマさん、お帰りなさい、丁度良い所に戻って来られました。カラスマさんも一緒に来て下さい」
何かあったのだろうか。切迫した様子ではないのでそれほど大変な事というわけではないだろうが。
「オセアーノでDDDが倒した恐竜の死体が届きました。フェルドマン博士たちは先に行っておられます」
オオイに連れられて訪れたのは、大きなバンカー、
普段は戦闘機が格納されているそこには、巨大なブルーシートが敷かれて、なるほど、自分達が屠った恐竜の遺骸が凍ったままそこに安置されていた。
恐らくダルヴィンで液体窒素か何かで凍結処理され、冷凍コンテナなどで運ばれてきたのだと思われる。この暑い季節にも関わらず、カチコチに凍結した獣脚類だったものからは、まだ白い煙が上がっている。
死体の周辺には既に白衣の研究者達が群がっており、サンプルを採取している者や写真を撮影しているものなど、まるで殺人現場の鑑識の如くといった風情である。
その集団から少し離れた所に、陸上防衛隊の制服を着た男性が一人、佇んでいる。
「司令、来られていたのですか」
オオイが近寄っていく。そう言えば見たことのある顔だ。ネットでこの駐屯地の事を調べていた時にでかでかとバストアップの顔写真が出ていた。陸上防衛隊中部方面航空隊隊長、兼ナナオ駐屯地司令、トオル・アライ一等陸佐だ。
「お初にお目にかかります、アライ司令。DDD所属、ミサキ・カラスマです」
オオイから紹介される前にそう言うと、彼は穏やかな笑みを浮かべて右手を差し出してきた。
「初めまして、カラスマさん。トオル・アライ一等陸佐です。お会いできて光栄です」
この基地、いや、駐屯地のトップである。ここで世話になっている以上、本来ならば先に挨拶しておくべきだったと思うのだが。
「司令、彼女の隣にいるのが本日付で『研究室』に来られた、ヒトミ・マツバラ医師です」
そちらの方に彼は宜しく、と言って握手を求めた。
副司令は近くにはいない。単独で彼がここにいるのは、恐らく興味本位からだろう。
駐屯地司令というのは、余程の変わり者でも無い限りそこら辺をあまりうろうろしたりしない。必要な場所に必要な時だけ現れるものだ。そして、その場合概ね副司令も一緒についてくる。
任期が概ね一、二年という事もあって、下っ端は顔を覚える前に配属が替わってしまう、という事もままあると聞く。わざわざ恐竜の死体を見に来た辺り、物好きな性格なのだろう。
「大きいですね。直で見るのは初めてですが、これを三人で倒したと」
転がっている二体を見回しながらアライが言う。改めて見ても確かに大きい。
実際に動いている時も感じたのだが、横になった全身を見ると、それがより実感として肌で感じられる。バンカーは広くて大きいが故に、その身体の巨大さを認識させてしまう。
「正確にはそちらの首を切断されたものが彼女に、あちらの穴だらけのものがジェシカ・サンダーバードとジュエ・メイユィによって倒されたものです」
駐屯地司令は死体の状態をじっくりと見て頷いた。
「うん。物理的な攻撃で倒せるのか。しかし、サクラダに現れたものは空防のマーヴェリックでも無理だったというし、我が隊のAHの武装ではとても無理だろうな……一体どういった生き物なのだろうか」
「司令……それは」
アライは問題ないだろう、と笑った。
「ここにいるのはこの恐竜、失礼、新古生物の事を知っている者達ばかりだ。機密なんて気にする必要は無いだろう。しかし、興味深い話ではないかね」
彼は視線をこちらに戻して続ける。
「誰もが当然のように考える。剣や槍で倒せるような生き物が、ミサイルや爆弾で倒せないはずがない。だが、実際にはその逆だ」
隣のマツバラがその言葉に応じた。
「はい。それを解明するのが我々の仕事です」
暫くいくつかの仮説を述べていた彼女だったが、概ねこの場での検証の終わったらしきアロン・フェルドマン博士がこちらに近寄ってきた。
『やあミサキ、ご機嫌いかがかな?素晴らしいサンプルをありがとう、きっと我々は将来に繋げる発見が出来る事だろう』
『博士、成果に期待しています。お役に立てたようで何よりです』
彼が言った『サンプル』は、この場では誰もが目の前にある恐竜の事だと思うだろう。だが、オオイと自分に限っては、それが別のものを指しているかもしれないという認識を持っている。
『Mクラスの検体はいくつか見たが、これほど立派なものは初めてだ。見た所、どうにも個体ごとに特性が微妙に違うようだね。兵器が効かないという事だけは共通しているが』
『博士、Gクラスの、私が仕留めた物はご覧になったのですか?』
あの死体はどうなったのだろうか。大勢に目撃されたが、やはり一旦こちらに引っ張ってきたのだろうか。
『ああ、ミサキ。それがね、嘆かわしいことに、中々こちらに寄越してくれないのだよ。何度も何度も急かしているのだが』
彼はちらりとオオイの方を見た。
『申し訳ない。あの死体は余りにも人の目に留まり過ぎたため、公に保管せざるを得ないのです。冷凍保存はしっかりしておりますので、もう暫くお待ち下さい』
『早くしてくれたまえよ。ここ以上にアレを活用できる場所など、まず無いのだからね。それでは、帰って研究に戻るとしよう。ヒトミ、君も来てくれるかな』
痩せこけた老人は新たな研究者を連れて戻っていった。取り残された死体は、作業員の手によって液体窒素を吹き付けられて、再びブルーシートに包まれていく。
「あれはこの後どうなるのですか?」
「世界中で同時進行で研究を進めているので、各国の信頼できる研究施設に運ばれます。進捗があれば、ここの研究室にもすぐに情報が入ってくるようになっています」
確かに、ここだけで独占するようなものでもないだろう。仮に抜け駆けしようという組織が出て、バレでもしたら竜災害の時に救援を頼めなくなってしまう。流石にそこまでのリスクは負わないだろう。この災害は全世界共通の脅威なのだ。
こちらも死体を見て特に思う事も無いので、アライに一礼してからバンカーの外へと出た。
「何か分かれば良いですね」
並んで歩きながらオオイに言う。日差しは強く、暑い。こちらは薄手のブラウスと短めのスカートなので問題はないが、長袖の陸防の制服に身を包んだオオイはとても暑そうだ。顔は平然としているが、帽子の下、額に滲む汗までは隠しきれない。
「そうですね。そういえば、遅くなりましたが、カラスマさん、おめでとうございます。手続きは問題ありませんでしたか?」
「ありがとうございます。はい、大丈夫です。特に何か聞かれることもありませんでしたし」
区役所の職員とて、書類がきっちりと揃っているのなら何も疑問に思わないのだ。ただ、住所も本籍地も同じ二人が結婚する、というのはどうなのだろうとは思ったろうが。
「そうですか、それは良かったです。あ、ええと。今日からサメガイさん、になるのでしたっけ?」
「いや、カラスマでいいですよ。別に呼び方まで変える必要はありませんし」
籍こそ入れたし苗字も公的書類では変わっているが、何も職場での呼び方を変える必要はない。あ、でも。
「すみません、昨日の今日で申し訳ないのですが、免許証が……」
「ああ、問題ありませんよ、変更手続きをしておきました。公安からすぐに新しいものが届きますので、今お持ちのものは返却して下さい」
「え?あ、ありがとうございます。手際が良いですね」
しかし、これで夫婦別姓にしましたと自分が言ったらどうするつもりだったのだろうか。それにしても公的書類の手続きが異様に早い。いくら同じ国の公的機関だとは言え、基本的に省庁は縦割り行政だと散々問題になっていたはずだ。なのにこの手際の良さ。
ひょっとして竜災害のあまりの恐ろしさに、各省庁が纏まって動くようになってしまったのだろうか。良いことだとは思うものの、少しばかり怖い気がする。
地下のトレーニングルームに戻ると、まだ二人は部屋で寝ているようだった。食べて動いて食べて寝る。なんとも健康的な生活である。これで外に出られれば、だが。
自室に戻ってデスクに備え付けの端末を起動した。一応回線は外部と繋がっているものの、接続可能なサイトは極めて制限されている。ゲーム等の遊興系、銀行や株式などの金融系、競馬や競輪、パチンコなどのギャンブル系のサイトにも当然ながら接続出来ない。
一応動画サイトには繋がるので、いつも見ているサブウェイのページを開いた。相変わらずトップにあるのは自分の映っている動画だ。
少し気になったので、検索ワード『恐竜』で動画を絞ってみる。ずらりと並んでトップにくるのは、やはりヤマシロ市役所とサクラダ駅である。
瞬間ページビュー数で大きく引き離されて次に来るのは自然系、科学系の動画だ。マウスオーバーして少しだけ見てみると、美麗なコンピューターグラフィックスを使った恐竜の解説動画である。
連合王国語で語られている、素晴らしく出来の良い知的な動画だ。これが俗っぽい竜殺しの動画に負けているというのは、人間の興味というのは必ずしも知性によるものではないのだな、と少し悲しく思ってしまった。
暫くいくつか眺めていたが、埋もれた下の方に気になるものを見つけた。
『Dinosaurier』、恐竜。ヴァイマールで撮られた動画だ。
画面は暗く、良く見えない。画面の端の方で何かが動いた。鼻面だけが確認できる。トカゲのようなものだ。これだけでは大きさも何も判別できない。動画は1分足らずですぐに終了した。
視認性が悪く、これだけでは何があったのかさっぱりわからない。ヴァイマールでも情報統制がされているだろうが、この動画が残ったのは恐らく、これだけでは竜災害と結びつけることは出来ないと判断しての事だろう。
だが、恐らくこれは本物だ。実際に見たものでしかわからない恐怖が、動画の端々から見て取れた。やはりあちらでも出現している事は間違いない。
あちらはあちらで自分達のような存在がいる。ならば、こちらで気にかけた所で仕方がないだろう。
端末を落としてトレーニングルームへと戻る。何となく分かったのだが、やはり二人は同時に起きてきていた。
「おはようございます、二人共。それじゃ、今日もやっていきましょうか」
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