第13話 再害
大きな問題も無く、日常は過ぎていく。僅かな数しか無かったジムのチケットは使い果たし、凝った料理を作るだけでは段々間が持たなくなってきた。仕事をしていないと時間が余るのである。
何も鍛えるのは肉体だけである必要は無いとばかりに、動画を見ながら外国語の勉強まで始めてしまった。興味があったせいなのか、何故かどんどん習得していく。
義務教育でやった連合王国語はさっぱり身につかなかったのに、今になって勉強しなおしてみると、全てがすっと頭の中に入ってくる。単語も中古書店で安い辞書を買ってきてなんとなく眺めていると、勝手に頭の中に定着していくようだった。
調子に乗って央華語やヴァイマール語にまで手を出したが、一度覚えてしまえばどれもそう難しくないように感じてしまう。ひょっとして、この身体は脳みそまで強化されているのだろうか。
「お前、最近変なもん読んでるよな」
食事が終わって風呂にも入り、寝る前にリビングで寛いでいると、ソウがこっちの読んでいるスマホの画面を覗き込んで言った。
「変なもんじゃねえけど。海外にも青空文庫みたいなもんがあるんで、古典とか読んでるんだよ。結構面白いぞ」
どっちかというと青空文庫がその後追いのようなものだったらしい。権利フリーの作品を無料で読めるようにする、というものの歴史としては、海外の方が古いようだ。
「へー、すげえな。俺はもう、仕事で使う分だけで精一杯だよ。ヒノモト語以外は見たくもねえ」
「あー、まぁ、そっちのほうが一般的な感性だろうな」
それが普通だろう。複数言語をこの国で日常的に使う人間なんて、一部の多国籍企業か通訳の人間ぐらいではなかろうか。
「翻訳のバイトとかあったらやってみてもいいんだけど、あれ、見たらなんかめっちゃ搾取されてる気がするんだよな。あんまり安売りすると他の翻訳者に迷惑だろうし」
「マジかよ。ていうかお前、そんなに外国語得意だったか?
学生時代、なんとなく一般教養の単位を取るために第二外語として選んでみたのだが、当時はあまり興味が無かったためか随分苦労した。今になって思い返せば、なんでこんな簡単な事が出来なかったのだろうと思えてしまうのだが。
「暇だからやってたら、なんか覚えちゃったんだよ。多分興味のある無しで覚えやすいかどうかもあるんだろうなあ」
「そっか。まぁ、色々話せて悪い事は無いからな。サクラダにも観光客めっちゃ多いし、道案内ぐらいはできるかもな」
「いや、逆に俺は道案内のほうが無理だよ。言葉は問題じゃねえ」
「普通、逆だろ。おかしな奴だなぁ」
ソウはそう言って笑った。だが、本気で教えて欲しい。どうやってあんな迷路みたいな地下街を平気で歩く事ができるのかと。
「サクラダと言えばさ、明日、妹が来るって。買い物するから案内しろってさ」
「キョウカちゃんが?ふーん、二人で行くのか?」
女の子の買い物とかは正直さっぱり分からない。それはソウも同じだろうから、ついて行った所で引っ張り回されるだけになりそうだ。
「いや、ミサキも一緒にってさ。うーん、何か嫌な予感がするんだよな」
「気の所為じゃね?まぁ、女性の買い物は長いから大変そうだけど」
今は自分も女なのだが、買い物はごくシンプルだ。必要なものを必要な場所にいって買ってくるだけなので、売り場に行ったら二秒で決まる。すぐに終わる。
「うん、長いよ。なんで、お前も道連れだ」
「面倒くせえなあ。まぁ、いいけど」
ソウとキョウカを二人にすると、また自分の事でこいつが色々と言われるに決まっているのだ。間に自分が入って適当に宥めたほうが、この適当な男の精神衛生上もよろしいであろう。明日は休みだからと酒を飲み続けている友人に、明日は出るんだから程々にしろと酒を取り上げて脱衣所に蹴り出した。
翌日、午前10時に待ち合わせ場所であるサクラダ駅のHR中央改札口前、大きな時計のある場所にやってきた。
ソウはいつも通りの適当な格好で、こちらも量販店で買った適当な格好だ。女性と会うと聞けば色気の有りそうな話だが、会うのはこいつの妹である。何ら気負う必要など何も無いのだ。
「あー!お兄ちゃん!カラスマさん!おはよー!」
一児の母、キョウカ・サメガイが非常に若々しい格好でこちらに近寄ってきた。化粧のせいもあるのだろうが、とても小学生の子供がいる年齢とは思えない。年齢としては5つか6つほど若く見える。
そしてその彼女の後ろには、よくよく見知った顔、というか、どこか自分に似ている女が一人、落ち着いた色合いの格好でついてきている。
「……ミユキ、こっち帰ってたのか」
少し髪の色素が薄いストレートのロングヘアーに、目が悪いくせにメガネはいやだと言って用がなければまずかけない、藪睨みの視線。妹だ。何も聞いていなかったので流石に驚いた。声をかけると、いつもは落ち着いた感じの妹が珍しく驚いた表情を見せた。
「うわ、ほんとだ。なにこれ、めっちゃ美少女になってるし」
妹は2つ下で、5つ下のトシツグの姉になる。何事にも冷めたように見えるせいで冷たく見られがちだが、実は心優しい良い子なのだ。口にすると照れて怒るので敢えて言わないが。
「ね、ね、ミユキ、言った通りでしょ?あたしたちより若いよ、これ」
「なんかムカつくな……」
自分の力ではどうしようもないのに理不尽な怒りを向けられる。
「おい、キョウカ。ミユキちゃんが来るなら教えとけよ。何も土産とか用意してねえぞ」
「ああ、サメガイさん、お気遣いなく。こっちは兄を見物に来ただけですので」
見物って。自分は見世物か。しかし、この妹が一人でこちらに来るというわけはないだろう。旦那も一緒に来ているはずだが。
「ヒロキさんは?」
「旦那は人混みが嫌だってホテルでペンタブ握ってる。いつも通り」
「……そうか」
弁護士の妹と結婚したのは、自称イラストレーターのヒロキ・クスノキだ。妹とはネットで知り合ってオフで会い、そのまま結婚したというなんとも妹らしい決断である。
当然、古い考え方を持つ父は激怒して、ムサシ県で行われたささやかな結婚式にも顔を出さなかった。一応は向こうの家族にこちらで挨拶はしたものの、父は妹と絶対に連絡を取ろうとしていない。ほぼ勘当扱いである。
孫でも産まれれば態度は変わるかと思ったが、そもそも妹は子供を作る気がない。今でも堂々と避妊していると自分達には豪語している。自分から見ても妹は結構変わった人間だ。
「そんじゃ、いきましょー!まずはカラスマさんの服からね!」
「は?なんで?」
買い物をするというから、キョウカの服やら何やらを買いに来るのかと思ったのだ。ヤマシロ県よりはこちらのほうが店も多いので、彼女は良くこちらに遊びに来る。なので、いつも通りだと思っていたのだが。
「なんでって。それ、ユニークでしょ」
妹がごく当然と言った風にこちらを指さす。
「そうだけど?」
「アホか。そんな美少女が適当な格好してて良いと思ってんの?」
良いに決まってるだろう。
「美少女なんだから何着たっていいんだよ。何着ても様になるんだから」
「うわ、マジでムカつく。キョウカ、ほら、言ったでしょ」
「あはは、ほんとだー。中身カラスマさんのまんまじゃん」
当たり前だ。変わってたまるか。そうそう人間の性格や考え方というものは変わらないのである。無論、社会に合わせて変えていくことには吝かではないが。
「ダメですよカラスマさん、美少女は美少女らしく美少女を維持する努力が必要なんです。そうじゃないと、美少女じゃない人に怒られてしまいます」
「意味がわかんないんだけど。そもそも俺は今無職で金が」
「金なら私が出すから」
いや、待て。妹に被服費を出してもらう兄とかダメ人間まっしぐらじゃないか。
「妹に服代を出させる兄がどこにいるんだよ」
「あっそうだね!じゃあ、お兄ちゃん、カラスマさんの服代、よろしくね」
これか、女の買い物にソウを連れ出してきた理由は。流れるような論理展開に寒気がする。自分ならこう言うだろうと完全に見透かされているのだ。きっとミユキの入れ知恵に違いない。
「ミユキ、お前……」
「気付いた?でももう遅いから」
財布を当てにされたソウはと言えば、なんとも呑気に頭の後ろに手をやっている。
「ああ、別にいいぞ。元々ミサキの服代ぐらいは出すつもりだったからな」
「いや、お前な、ブランド物の服がいくらすると」
待てよ、そういえば、最初にこいつに買ってもらった服があった。しまった、あれを着てくれば回避できたのかこれは!迂闊な自分の行動に歯噛みする。こんな罠があろうとは。
妹は眉間に右手の中指を当てると勝ち誇ったように言った。
「まずはラクアに行こう。その後は百貨店を」
午前中一杯を連れ回され、あれやこれやと着せ替え人形にされたあと、精根尽き果ててロマーナ料理店のテーブルに突っ伏していた。
「お前ら、手加減しろよ」
あれこれと試着をした挙げ句にまた後で来ますと言ってその場を去るという、神をも恐れぬ所業を立て続けにやらされて、精神的疲労は最早限界に達しつつあった。もう、無理だ。
「カラスマさん、可愛いから何でも似合うね、羨ましい」
「ほんと腹立つし。でも、私も妹が欲しかったからちょっと楽しいかも」
なんて事を言うんだこの妹は。兄が妹になれるわけがないだろうに。
「なぁ、まだ回るのか?俺もう疲れたんだけど」
ソウが不満を漏らす。同感だ。もっと言え。
「あと6件ぐらい回ろっか。チェックしてたの全部は無理だけど」
「今までだと一番似合ってたのはアレかな、ゴスっぽいやつ」
「あっ!わかる!でも、流石に普段着とはしてはねえ。やっぱ清楚なワンピが一番だって」
「確かに。これから夏だし、それがいいかも。でも、放っといたらこの人達の事だから絶対秋冬も同じの着るよ、キョウカ」
「あぁっ!それはダメだね!そうだ、先も見据えて考えなきゃ」
勘弁して欲しい。一体何故自分がこのような苦行を負わねばならないのか。一体自分がどんな悪いことをしたというのか、誰か教えて欲しい。
運ばれてきたパスタにキョウカは歓声を上げ、ミユキは黙々と食べ始める。店員にソウの所と間違えそうになられて、自分の所に来たのは超大盛りのペペロンチーノである。フォークを取り上げ、値段不相応な、金のない学生の頃に良く作ったパスタを出来るだけ上品に食べ始めた。
「ねえ、そんなに沢山食べたっけ?」
ミユキがこちらの皿を見て言う。
「ああ、この身体になってから食欲が増してるんだ。酒も多く飲めるようになった」
「ふぅん」
頭の良い妹は何かを考え込んでいるが、こうなったら何を言っても答えない。元々自分もソウも食い始めたらそんなに喋る質ではないので、一人あれこれ喋っているキョウカに相槌を打つ程度で食事を終わらせた。
目的の店を概ね回りきった所で、急にミユキがこちらの胸を指さして言った。
「それ、サイズは?」
「え?F65だけど」
唐突に妹はこちらの頭を叩いた。
「いたっ!なんだよ!?いきなり何すんだよ!?」
「いや、なんかムカついたから」
理不尽過ぎる。一体何だというのか。
「めっちゃ食べてたじゃない。それで65?」
「そうだよ、何か文句あんのかよ」
再び叩かれそうになったので、紙一重で避けた。二度も同じ手は食わない。
「不自然過ぎる。こんな事があるわけがない」
そりゃそうだろう。自分の身体は不自然の塊なのだ。急に女になった事もそうだが、異常に発達した各種能力もそうだ。妹の手刀だって、実は見てから避けるのは造作もない事だ。
「あるわけがないって言われても、実際そうなんだから仕方ないだろ」
「そう、それは仕方がない。でも、なんかムカつく」
「お前そればっかだなぁ」
実際には、妹はこちらの事を心配して様子を見に来てくれたのだ。口ではこんな事を言っているが、兄想いの可愛い妹なのである。それが分かっているが故に怒る気にもなれない。
「なぁ、もういいのか?流石に疲れちまったよ。もう帰ろうぜ」
ソウが音を上げた。朝からずっと歩き通しな上に、こいつは妹達がこちらを着せ替え人形にして大騒ぎしている間、じっと待ちぼうけなのである。精神疲労ここに極まれりといったところだ。
それどころか支払いは全てこの男持ちなのだ。理不尽にも程があると思わないでもない。申し訳なくて思わず縮こまってしまいそうになる。
「まだ見てないのがあるでしょ、化粧品」
いや、それは。
「あ、明日にしよう、な、今日はもうソウが疲れちゃってるし。ミユキもまだ明日はいるんだろ?」
「いるけど。明日はこっちの買い物がしたいし」
「そのついででいいだろ、ほら、金を出してもらったのにこれ以上連れ回したら、流石にソウに悪いって」
妹どもは兄に全く容赦が無い。こちらはまだ体力的に余裕があるが、運動不足のソウは最早倒れる寸前だ。休日なのに疲れて一体どうするというのだ。休日は休むから休日と書くのである。
尚も渋る女二人を強引に押して、店の外に出る。エレベーターに乗ってペデストリアンデッキの上に上がった。
人通りの多い休日の空中廊下を渡っていると、目の前が渋滞していた。何だ。
「おい、あれ、なんだ?」
ソウが人混みの向こうを指差すが、背の足りない自分には何も見えない。そうこうしているうちに、ざわざわと人混みが逆流してきた。
「何だ?何だよ」
血相を変えてこちらの脇を通り過ぎていく人々は、口々に怪獣、恐竜だの口にしている。おい、まさか、またか。
雪崩のように押し寄せてくる人の波は中々絶えず、ソウや妹達とはぐれそうになる。慌てて妹の手を掴んで引き寄せた。
「おい、ミユキ。逃げるぞ!ソウも、ソウ?おい!どこだ!」
ミユキとキョウカは比較的近くにいた。だが、疲れていた友人は人の波に押されてそちらの方へ流されてしまったのだろうか。
「何、あれ……」
まばらになった人混みの隙間からそれは見えた。
大きな交差点の中心、一台の乗用車を踏みつけて立っている爬虫類。いや、それは、どう見ても『恐竜』だった。
今自分が立っているペデストリアンデッキの高さは、地上から5メートルほどの高さにある。交差点に屹立しているそいつの体高は、丁度こちらの目の高さほど。
その大きさ相応に発達した図太い下半身と太い尻尾。肉食と疑いようのない歯の並ぶ頭部は分不相応に大きく、現存するこの地上のどの生き物とも似ても似つかない。紛うことなき、博物館や映画館で見たことのある姿。
「またかよ」
ミユキと、隣にいたキョウカの手を引いて引き返す。
「電器屋から地下に逃げる。あの図体なら地下には入って来れないだろ」
まだ距離がある。あれだけ大きいので他の人間もすぐさま逃げ出しているし、今自分が無理して戦う必要など無い。どうせすぐに防衛隊がやってくるのだ。文明の利器さえあればあの程度の生き物、一撃で終わるだろう。
二人を強引に引っ張って電器店の中に飛び込む。ソウに連絡を取ろうとスマホを取り出した。
「……なんだこりゃ。おい、ミユキ。お前のスマホでソウに連絡を」
二人共同じことを考えていたのか、スマホを取り出して変な顔をしている。まさか。
「え?なにコレ、画面が」
「どういう事?ジャミングか何か?エミッション?」
妹の手元を覗き込むと、こちらと同じ。電源は入っているのに画面が斑の幾何学模様になったまま、固まっている。
「おい、二人共。地下に降りてそこで待ってろ。俺はソウを探しに行く」
買った服が入っていた袋から中身を取り出して別の袋に強引に押し込み、空の袋に穴を開けて尻ポケットに突っ込んだ。
「悪い、持ってて。いいか、絶対に上に上がってくんなよ。行け!」
こちらの荷物を受け取った妹達は、慌ててエスカレーターに走っていった。
店内の他の客は何が起きているのか今ひとつ理解できていないようで、こちらに向かって出てこようとする。
「おい!外に出るな!危ないから、店の中か地下に――」
何かを引き裂くよな、擦れるような、壊れるような激しい音が外から聞こえた。振り向くと、ガラス扉の向こう、ペデストリアンデッキの先が無くなっていた。
(マジかよ)
鉄骨構造だ。そんな簡単に壊れるようなもんじゃない。大体、人が何百人乗って歩いても平気な建造物なのだ。少々の事で無くなるほど破壊されるなんてことはあり得ない。
しかし、ガラスの自動ドアの向こう、見えている光景はその常識を圧倒的に否定している。現実感が伴わない。
「あっ!おい!出るなって」
様子を見ようと数人の男女が自動ドアから外に出た。壊れたデッキを見て写真を撮ろうとしたのかスマホを取り出して、画面を見て変な顔をしている。その直後、血飛沫が舞った。
自動ドアに赤黒い斑点が描かれ、その先に、人間だったものの足が転がっている。一瞬だったが、動体視力の強化されている自分には見えた。伸び上がってきた頭部が、横薙ぎに立っていた者達に纏めて噛みつき、消えていったのを。
非常識だ。あんな動きがあり得るのか。確かにあの巨体であれば、ここの入口には頭部が届く。だが、あんなに素早く、障害物だってあったのに、それを吹き飛ばした挙げ句に噛み付いただけで人間の身体を、慣性によって足だけ残すみたいな食いちぎり方が出来るようなものなのか?
「外に恐竜がいる!出るな!落ち着いて、地下に逃げろ!」
必死で叫ぶが、店の中にいる連中は立ち止まりこそするものの、あるものは笑い、あるものは怪訝そうな顔をして去っていく。一部、こちらの後ろにある扉を見たものだけが慌てて逃げていった。危機感が無い。当然か。
こんな都会のど真ん中に恐竜が現れたと言って、一体誰が信じるというのだろうか。自分だって信じない。だが、現実は現実、覆す事など出来ない。
埒が明かないので、近くにいた警備員を捕まえた。
「警備員さん!お客さんを全員、地下に逃して下さい!早く!防災センターに連絡を入れて、館内放送を!」
青い制服を着た壮年の警備員は、やはり怪訝そうな顔をした。しかし、自分が指さしている自動ドアの外に広がる光景を見て縮み上がった。慌てて無線を取り出す。
「こちら二階売り場、ヤマシタ。緊急事態です。店外に正体不明の猛獣。すぐに避難指示を――」
警備員は顔を顰めてイヤホンを外して見た。聞こえていないのか。
「ダメだ、なんだ、こんな時に、無線が」
外から爆発音が聞こえた。黒い煙が少し離れた所に上がっている。どこかで潰された車のガソリンに引火でもしたのか。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。警察だ。だが、ダメだ。警察ではダメだ。殺されるだけだ。
あの比較的小さな――当時は巨体だと思ったあのサイズのものが、今は可愛い大きさに思える――鳥モドキでさえ、銃を持った警察官を纏めて二人も殺している。ましてや、あの大きさ。一般的に警官に配備されている、命中率の悪い古臭い拳銃がどこまで役に立つのか怪しい。
発砲音が聞こえる。慌てて扉の外へと躍り出た。
電器店の外、広い道路が混じり合う交差点は、控えめに言って地獄だった。
建物を繋げるペデストリアンデッキは無惨にあちこちで分断され、残骸らしきものが道路に横たわっている。
道を塞がれて通れなくなったクルマは乗り捨てられたのか、殆どがひしゃげてその動きを止めている。一部のクルマからは、見たくもない血痕がアスファルトの地面に流れ出ている。
逃げ遅れたのか、踏み潰された人や四肢の一部を残して消えている人、上半身を失った人やその逆の人、人、人だったものがそこら中に転がっている。
交差点の奥では潰れたクルマが爆発炎上しており、もうもうと黒い煙をあげている。その煙の奥、緑と褐色の混じった巨体が、集まってきた白と黒のクルマに向かって大口を開けて威嚇している。
こんなに大惨事であるのにパトカーの数は少ない。通報があったわけではなく、近隣を巡回中だったのだろう。近くにいる者達を寄せ集めただけのそれは、体高5メートル、全長で20メートルはあろうかという巨体の前には甚だ心許ない。
その白黒のバリケードの後ろに、拳銃を構えている警察官が4人。一人が叫んで、一斉に発砲した。
距離が遠い。あれでは殺傷するには至らない。
案の定、弾は殆ど当たらなかったようだ。それでも数発は命中したようだが、暴悪な竜にはまるで効いた様子も無い。
「くそっ」
ペデストリアンデッキから飛び降りて地面に着地する。このまま放置すればあの警察官達は間違いなくあの鋭い顎の餌食だ。広い道路の周辺には隠れる所も逃げ込める所もない。
しかし、あの巨体に自分が素手で殴りかかったところでどうにかなるとは思えない。近くにあったコンクリートの重しが付いたバス停を掴み、一度ぐるりと振り回して遠心力のままに、思い切り竜の頭部に目掛けて投げつけた。
重量が下部に偏っているためか、バス停は殆ど回転せずに真っ直ぐに飛び、狙い違わず恐竜の頭部に命中した。ぼごんとタイヤを強く叩いた時のような音がして、恐竜の頭は軽くのけぞった。
「逃げろ!そんな豆鉄砲じゃ通用しないのは分かってるだろ!防衛隊を呼べ!」
もう一つ、隣にあったバス停を放り投げる。しかし、恐竜は二度目の投擲物を身体を小さく動かして器用に避けた。
警察官たちはそれでも逃げない。職務に忠実なのは結構だが、殉職するのは仕事じゃない。いい加減にして欲しい。
恐竜はこちらと警察官、どちらを標的にするべきか少し迷っているようだ。ならば、こちらの方が脅威だと思い知らせてやる。
急激に体温が上昇し、力が漲ってくる。尻ポケットから先程の袋を出して頭に被った。脱げないように首元を絞る。
近くに転がっていたひしゃげたペデストリアンデッキの残骸を掴み、無造作に持ち上げる。重いには重いが、振り回すのに支障は無い。長さ3メートルはあろうかと思われるそれを肩の上に担ぎ、突進した。
全力で残骸を振り下ろす。当然の如く下がって避けた緑褐色の暴竜が、こちらに食いつこうと頭を振りかざす。力任せにそれを打ち払うが、これも避けられた。でかい図体のくせに異様に素早い。
「おい!聞いてんのか!さっさと応援を、防衛隊を呼べ!」
近寄った事で警察官はこちらの声に反応した。
「ぼ、防衛隊は警察では」
「そんな事言ってる場合か!」
迫りくる死の刃が並んだ頭部を打ち返しながら叫ぶ。さっさと呼べ、そして逃げろ。自分だってこんな奴、倒せるなんて思っていない。ただの時間稼ぎだ。
流石に近くで鉄骨を振り回されて恐怖を感じたのか、慌てて四人は道路を走っていく。逃げる姿に反応したのか、恐竜の頭部がそちらへ向く。
「てめえの相手はこっちだ!」
動き出そうとした後ろ脚を、力任せに薙ぎ払う。べぎんと音がして、鉄骨が折れ曲がった。なんて強度をしてやがる。
しかしその攻撃は効果的だったのか、警察官を追いかけようとしていた竜はこちらに大口を開けて威嚇した。食事を邪魔されて怒ったか、トカゲの王様が。
こちらの事を脅威と見て取ったのか、でかい頭の獣脚類は喉の奥で小さくクルクルと鳴き声を響かせている。
折れ曲がった鉄骨で、どこまで注意を引けるかはわからない。だが、この隙に避難が終わって防衛隊が到着すれば、被害は出たもののこれ以上は死者は出ないはずだ。
構えた巨大な鈍器を持ったまま、じりじりと対峙する。こちらの力を知ったのか、相手は迂闊に動かない、と、思われたが。
急速にそいつは踵を返すと、明後日の方向に駆け出した。おい、待て。なんで逃げるんだ。それに、そっちは。
恐竜が走っていく方向には、先程買い物をしていた百貨店。二階部分に――。
「馬鹿野郎!なんで逃げてねえんだよ!」
残ったデッキの上に、大量の人間が並んでスマホを構えている。動画だか写真を撮っているのだ。馬鹿か、死ぬかどうかの瀬戸際で、ちっぽけなバズりが欲しいのかよ。てめえらの命というのはそんなに軽いものなのか。
慌てて竜を追って駆け出すが、歩幅が違いすぎる。当然の如く、間に合わなかった。
小さく跳躍した竜が、大きく開いた死の
横薙ぎに繰り出された上顎が、纏めてデッキに立っていた者達を血煙に変える。スマホを構えていた者達は、慌てて店内に逃げ込んだ一部の人間以外、殆どが恐竜の腹の中に消え、残りはその場に物言わぬ残骸となって転がった。
デッキの構成材すらその腹の中に収めた竜は、こちらを無視して次の獲物を探している。脅威といっても殺す力は無いと認識したのだろう。それは正しい。トカゲのくせに頭が回る。
人が喰われて我に帰ったのか、周辺の建物から次々と悲鳴が上がる。遅い。今まで何をしてたんだこいつらは。しかし、それにも関わらず、見渡すとまだまだスマホを構えている馬鹿があちこちにいる。馬鹿は死ななきゃ治らないってか。
巨大な竜はこちらを無視して、目につく人間をつぎつぎと喰らっていく。そんなに喰わなくてももう腹はいっぱいだろう。容量どうなってんだ。物理法則を無視してんじゃねえ。
いくら追いかけてもキリがない。走る速さは圧倒的に違うし、あいつがこちらに注意を向けない以上、自分がいくら戦おうとしても無駄だ。腹が立って近くにあったコンクリートの残骸を掴み上げ、投げつけた。胴体にぼこんと命中したものの、トカゲはこちらを一瞥したあと、再び食事を再開する。ダメだ、逃げない馬鹿がいる以上、被害は拡大するばかりだ。
どいつもこいつも、自分だけは大丈夫だとでも思っているのか。どれだけ平和ボケしてるんだ。
地震や津波と同じなんだぞ。これは災害なんだぞ。ヤマシロ市役所で起こったあれと同じなんだぞ。
いや、この暴竜のそれはその規模を遥かに越えている。もう、ざっと見た感じで100名近くは踏み潰され、引きちぎられ、喰われて死んでいる。一体何なんだ。なんでこんな化け物が、こんな都会のど真ん中に現れるんだ。
高空から甲高い音が聞こえた。日を遮って大きな影が上空を横切る。来た、しかし随分と早い。
灰色の機体が三機、編隊を組んで身を翻し、機首をこちらへ向ける。あっ、おい、ちょっと待て、まずい。
慌てて逃げ出す。航空防衛隊に配備されている先程の戦闘機の空対地ミサイルは赤外線誘導式で、弾頭は130キログラム以上の榴弾炸薬だ。命中精度は良いとは言え、近くにいればこちらも吹き飛んでしまう。慌てて地下への入口を探して走り出す。
「ミサキ!こっちだ!」
聞き飽きた声が近くから聞こえる。デッキの残骸で死角となった場所に入口があったのか、ソウがこちらに向かって手を上げている。慌てて方向転換して、狭い隙間に身体をねじ込んだ。
背後から凄まじい轟音が追いかけてきた。振動で重なった瓦礫がバラバラと振動し、破片が地下に降り注ぐ。崩れて下敷きになってはかなわないので、ソウと一緒に転がるようにして階段を駆け下りた。
「やべえ、危うくこっちまで吹き飛ばされる所だった」
「なんだよ、今の」
肩で息を切らせているソウは曖昧な疑問を発している。何だと言われても、こっちも何だと聞きたい。あの恐竜もそうだし、異様に早くやってきた戦闘機もそうだ。
「おい、ミサキ。二人はどこだ?」
「二人共、マエバシの地下にいるはずだ。そこで待てって言っておいたから」
「そうか」
友人はほっとした表情を見せた。あの混乱の中では何がどうなったのか分からず、こちらの安否を相当気にしていたのだろう。
周辺を見渡すと、自分達と同じ様に地上から逃げ込んだ者達でごった返していた。流石に今の状況で地上に上がろうと思う者はおらず、繋がりにくい電話を避けてSNSやチャットソフトで外部に連絡を取っているようだ。
こちらもスマホを起動してみると、元の画面に戻っていた。先程のは一体何だったのだろうか。
「参ったぜ、スマホはぶっ壊れたみたいになっちまうし、お前らとは逸れるしさ」
少し落ち着いて息が整ったソウが、背をぐっと反らして肩を回した。
「それよりお前、それ、何だよ」
頭に被っていた紙袋をばさっと引っ張り上げられた。近寄ってそっと小声で話す。
「いや、前みたいに動画撮られて晒されたら困るだろ」
そう言うと、ソウはあからさまに呆れた顔をした。
「お前、また戦ったのかよ、アレと。良く生きてたな」
「逃げられたんだよ。相手にならなくて完全に無視された」
「いや、食われなかったのがおかしいって言ってんの。まぁいいや、お前が無事で良かった。マエバシだろ?地下から行こうぜ」
ソウは人混みの中歩き出した。こちらもすぐ後ろについて行く。人が多すぎてはぐれては困るので、近くに寄って腕を掴んだ。
友人はちょっと身じろぎしたが、何も言わずにそのまま歩みを進めていく。
サクラダの地下は迷路のようだ。こいつと逸れたらどこに行けば良いのかさっぱり分からない。地上に上がれば方角の見当はつくが、今も断続的に地上から振動が伝わってくる。まだ攻撃は続いているようだ。
(……続いている?)
「なぁ、おい、ソウ」
「なんだよ」
急いでいるので友人は歩く速度を緩めない。
「普通、空対地ミサイルとか食らって生きてる生物なんていないよな」
「いるわけないだろ。クマムシじゃねえんだから」
「だよな。なら、なんでまだ攻撃が続いてるんだ?」
「……は?あれ、あの攻撃ってミサイルなのか?」
ソウは気付いていなかったようだ。確かに、自分が走っている時にこっちを見ていたようだが、上空に目をやっている様子はなかった。
「航空防衛隊の戦闘機だよ。この目で見たから間違いない」
「なんだそりゃ?もう出動したってのか!?いくらなんでも早すぎるだろ。アレが現れて、まだ30分も経ってないぞ?」
その通りだ。どんなに早くても、通報がいって出動要請がなされて漸く出てくるのだ。警察だって周辺にいた少数しか来ていなかったのに、いくらなんでも早すぎる。
「早いのもそうだけど、迷いなくミサイルを撃ってきたのもおかしい。都市部だぞ?周辺にビルも沢山あるし、民間人だっているかもしれないのに」
普通は避難指示を出してから撃つだろう。いや、確かにのっぴきならない状況だったため、あれで間違いなく選択肢としては正解なのだが、法で雁字搦めになったこの国の防衛隊にしては随分と思い切った行動だ。
あの恐竜は放っておけばいくらでも人を殺す。故に、多少巻き添えが出ようとも速戦即決してしまうというのは間違いではない。最善手だと言える。武力攻撃によって周辺に被害が出たとしても、その他大勢の命が助かったのだからという名分は立つ。ただ、責任者は処罰されるだろうが。
「なんかおかしいな。意味がわかんねえ。でも、まぁいいや。お前らが無事なら取り敢えずそれで良い。おい、急ごうぜ」
「うん」
ソウは更に歩調を速めた。体力的には自分の方が上なので特に問題はない。ただ、人が多すぎてこいつの腕を掴んでいないとすぐに逸れてしまいそうだ。
(ミサイルで死なない生物……)
普通に考えればありえない。生物どころか、堅牢な建造物や巨大な艦船だって命中すれば一撃で破壊してしまうのだ。クマムシみたいに小さな緩歩動物や単細胞生物ならば兎も角、地上を練り歩くトカゲの王様がそんな耐久力を持っているはずがない。
確かに鉄骨で殴った感触は中々に硬かった。あの鳥モドキであれば簡単に吹き飛ばせたような一撃でも、多少のダメージはあったものの鉄骨が折れ曲がってしまう程の頑丈さだった。
だが、ミサイルの破壊力に比べれば、自分の一撃なんて100分の一にもならないのではないか。バス停や鉄骨でダメージがあったのに、ミサイルが効かないなんてそんな馬鹿な話があるはずがない。130キロ弾頭なのだ。直撃すれば木っ端微塵になるはずである。
しかし、現実にまだ地上からは爆発音が聞こえてくる。戦闘機に搭載してあるあのミサイルは、一機あたり三から六発程度だろうか。もしかしたらあの三機の後詰が来ているのかもしれない。
どこに行っても人だらけの地下を歩き回り、やっとの事で見慣れた場所に辿り着いた。上に上がるエスカレーターの前で、妹とキョウカが身を寄せ合って立っているのが見えた。
「二人共!無事だったか」
ソウと一緒に駆け寄ると、二人はこちらに気付いて泣きそうな顔をした。
「お兄ちゃん!良かった、無事で。カラスマさんも、別の所から地下に降りたの?」
「うん、走って逃げてたらソウが見つけてくれて」
「地上を走って!?良く生きてたな」
妹が疑惑の目をこちらに向けている。だが、こちらが無事だった事にはほっとしているようだった。
「もう、帰ろうよ。なんかいっぱい人死んだって周りの人が言ってるし。何なの、恐竜って。意味わかんない」
キョウカが頭を抱えている。彼女よりは多少落ち着いている妹のミユキは、キョウカの肩に手を置いてこちらに言った。
「電車は止まってる。当然だけど。帰るなら一旦地上に出て、バスかタクシーでないと。でも、地上は」
「無理だろ。電車が動くまで待つしかないんじゃないか」
ソウが首を振った。あの恐竜に見つかったら逃げる術は無い。強化されている自分の筋力でも追いつけなかったのだ。友人や妹たちでは逃げ切る事など絶対に無理だ。クルマだって全速力で走った所で怪しいだろう。
「防衛隊が攻撃している間は動かないだろうな。この振動だし、動かしてるところに天井や高架が崩れたら大惨事になっちまう」
そもそも線路が無事かどうかすらわからないのだ。地上が落ち着いたところで動く保証は無い。ソウのマンションはここから環状線で二駅程度だ。歩いていけないこともないので、電車が止まっていたとしても地上さえ移動できればどうにでもなる。
「しかし、何だってんだ?あの恐竜……恐竜、でいいんだよな?対地ミサイルで攻撃してんだろ?なんで終わらねえんだよ」
「聞かれてもわかんねえよ。俺が殴った感じじゃ、ミサイルまで防げるような感じはしなかったけど」
硬いのは硬い。だが、もう少し勢いをつけて殴ればどうにかなりそうな感触はあった。
「殴った!?」
「殴ったよ、鉄骨で」
「鉄骨で!?」
いちいちうるさい妹だ。
「この身体になってから異常に筋力が上がってるんだよ。それぐらい出来るよ」
「ありえないし。アンタほんとに人間?」
それは分からない。いや、多分もう人間じゃない気がする。
「わかんねえよ。大体、女になってる時点でもう人間の範疇を超えちまってるだろうに。それに、兄に向かってアンタとはなんだ。昔みたいにお兄ちゃんと呼べ」
「
「キョウカちゃんはソウの事、そう呼んでるじゃないか」
「キョウカはキョウカだしいいの。それに、もう兄じゃないし。妹だし」
「妹じゃねえよ!?」
なんて事を言い出すのだこの妹は。この大変な時に。
「ちょっと、二人共。こんな時にする話じゃないでしょ?どうにかして帰らないと」
それはそうなのだが、帰るには上にいるトカゲをどうにかしないといけない。そういえば、さっきから音が止んでいるが、終わったのだろうか。
「静かになったな。終わったのか?」
ソウが上を見た、その時。エスカレーターの上から人が転がり落ちてきた。いや、人じゃない。人だったもの、正確にいえば、引きちぎられた中年男性の上半身。
絶叫が周辺を支配した所で、その上から恐怖の元凶が姿を見せる。エスカレーターのある場所、地上への出入り口から、獰猛な魔獣が顔面を突っ込んで吠え立てる。
ぐりぐりと、自分の頑強さに任せて地下へと身体を押し込もうとしている。馬鹿な、入るわけがない。入った所で動き回ることなんてできやしないだろうに、馬鹿なのかこいつは。いや、トカゲなのだからそんな事は考えないのだろう。
獲物が沢山いる所を探して顔を突っ込んでいるだけだ。多少賢かろうがそこいらの獣と変わりはしない。
しかし周辺は明らかにパニックになった。人の波が一斉に奥へと逃げ出し、転ぶ人や踏まれる人で怪我人が続出している。どこか冷静に、こっちもこっちで馬鹿だなと冷めた目で見てしまう。
「おい!ミサキ!何してんだ!お前も来い!」
奥へ逃げようとしている三人に目をやる。
「慌てなくても大丈夫だ。そう簡単に入っては来れねえよ。二次災害でお前らが怪我する方が怖い。しかし、あれだ。ミサイル、効かなかったか」
トカゲの王はピンピンしている。元気に涎を撒き散らして、どうにかしてこちらに入ってこようと鼻息荒く地下への入口を押し広げている。少しずつ入っては来ているようだ。
「何落ち着いてるんだよ!早くしろよ!」
三人を眺めて、仕方ない、と、言葉を発する。
「お前らは先に逃げてろ。終わったら追いかけるから、逸れた場合はテンマ駅の改札で待ってろ」
「おま、何言って――」
最後まで聞かずに、近くの階段に飛び込んだ。猛ダッシュでマエバシカメラの階層を駆け上がる。
一旦一階から表に出ると、トカゲの王は顔面を地下に突っ込んでもがいている所だった。近くに落ちていた2メートル程度の鉄骨を一本、拾う。
今これでぶっ叩いた所で致命傷を負わせる事はできない。なら、もっと強い力でぶっ叩けば良い。建物内の階段に戻って、上階へと駆け上がる。
どれぐらいの高さまで行けるだろうか。マエバシカメラは地上五階建てなので、そう高いわけではない。ならば、五階だ。
息切れも筋肉疲労もまるで感じず、二段飛ばしで階段をまたたく間に駆け上がり、五階の店舗に出る。客はまだ沢山残っていたので、ソウから奪い返しておいた紙袋を被った。
鉄骨を担いで歩く紙袋の女に、周囲はぎょっとした様子で身体を引く。歩きやすくて丁度良い。まっすぐに壁際にかけよって、非常用出口の鍵を割って表に出る。
外部にむき出しの非常階段に出ると、強い風が店舗内に吹き込んできた。周辺には沢山高層建築物があるため、常にビル風が吹いているのだ。風の抵抗の小さい身体だとは言え、ある程度は計算する必要がある。
階段から乗り出して下を眺めると、相変わらずあの馬鹿は地下に顔面を突っ込んでいる。急所は頭なので頭を狙いたいが、隠れているのであれば仕方がない。どこだって良い。ぶっ叩いてぶち転がして、それから脳天を砕いてやれば良いのだ。
ざわざわと全身の血が騒ぐ。殺す。これだけ人を喰らったのだ。自分が殺される覚悟だって出来ているだろう。鉄骨を担ぎ上げ、大上段に振りかぶって階段から身を投げた。
浮遊感と共に全身を強烈な風が叩く。当然ながら位置の修正は出来ない。落ちながら叩く場所を調節するしかない。
時間にしてわずか数秒、あるかないかの時間。ゆっくりと流れていく周辺の景色に恍惚としながら、両腕を思い切り振り下ろし、そいつの首元目掛けて全力で鉄骨を叩きつけた。
今までに聞いたことの無い音がした。
ぼぐりともぐずりとも、なんとも形容のできない鈍い音と共に、鉄骨が奴の身体にめり込む。インパクトの瞬間、肉を裂き、骨を折る感触が鉄骨から伝わってきた。ぞくりと身震いする。
頭を地下に突っ込んでいたトカゲは、耐え難い絶叫と共に身体を仰け反らせて頭を引き抜いた。痛みに悶えて立ち上がろうとしようとしては転がり、周辺の構造物を破壊している。こちらに転がってきたので、鉄骨でゴルフのスイングの様に首の反対側、内側を打ち返した。
硬い鱗のついた皮膚が裂け、肉が割れ、血が飛び散る。こいつも赤い血をしている。
動きを鈍くして転がっているそいつに思い切り跳躍して、折れ曲がった鉄骨を反対に向け、頭部に向かって叩きつけた。
くの字型になっていた建築資材の先端が、奴の眼球に突き刺さる、再び聞くに耐えない咆哮を撒き散らして、トカゲはびくんびくんと全身を震わせる。ぞくぞくと押し寄せる快感に身悶えしながら、眼球から鉄骨を引き抜き、今度はきちんと頭部を打ち据えた。
ちゃんと殺してやらないと。これだけの人を殺したんだ。きちんと、俺がこの手でトドメを刺してやる。文句はあるまい。弱肉強食の世界から来たのだろう。なら、この世界の強者にひれ伏すが良い。
眼球と血と肉片のこびりついた鉄骨でガンガンと何度も叩きつけて、頭蓋を割り、脳髄を掻き出す。反射反応すらしなくなって完全に動かなくなるまで、延々とそのトカゲの頭を叩き続けた。
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