第12話 適当な男の苦悩
(はぁ、面倒くせえ連中に知られちまった)
満員の通勤電車の中、いい加減な男、ソウ・サメガイは疲れた目でぼんやりと窓の外を眺めている。
電車の中は誰も彼も、彼と同じような目をして俯いたり、スマホを眺めている。人には何かしら、一人一人それぞれに悩み事があるものなのだ。このいい加減な男は、本日にして初めてその気分を自らの身で思い知っていた。
(まぁ、会社に行けば忘れられるだろ。帰ったらもうあの二人はいないだろうし、またミサキの美味い晩飯が食えるし)
それだけでこの男の心の中は少し浮き立ってくる。毎日美味い手料理が待っているというのは、これほどまでに嬉しいものだったのかと。
(今日は絶対に定時で帰ろう。昨日は何か食ってる気がしなかったからな。折角の肉じゃがだったってのに)
気力を取り戻した男は、張り切って会社の最寄り駅に降り立った。その後も厄難が待ち受けているとも知らずに。
「おはよーっす」
いつものように適当な挨拶をして、時間ギリギリにオフィスへと入ってきたソウは、微妙な雰囲気の変化を感じ取った。なんだか、周囲がよそよそしい。
気のせいだろうと自分のデスクに着き、隣に座っていた後輩のモリヤに声をかけた。
「おう、モリヤ。昨日はゆっくり休めたか?」
「え、あ、は、はい。お陰様で。急に休んですいません」
この後輩は昨日、体調が悪いと言って休んでいたのだ。穴埋めには多少手がかかったが、そもそも彼の仕事はそこまで大層なものではないので、特に仕事に穴が開く、というような事は無かったのだ。
ややぎこちない態度にも適当な男は特に気にする事も無く、自分の端末を立ち上げてメールのチェックから始めた。
午前中の仕事が一段落したので、珈琲でも飲もうとソウは事務所の隣にある給湯室を訪れた。インスタントコーヒーだが、会社の備え付けのものなので、部署ごとにいくらでも飲んで良いという事になっている。味は兎も角、休憩するには十分なので、彼は日に二回程ここを訪れている。
「あっ、サメガイさん、お疲れ様です。休憩ですか?」
同じ課の女性社員が彼女自身のカップを洗っていた所だった。
「うん、ちょっとブレイク。ここの珈琲、もうちっと良いのに変えてくれないかなあ」
インスタントコーヒーである。香りなんて殆どしないし、ただ苦くて目が覚めるだけの黒い水である。
「あー、そうですねえ。そりゃあ、ご自宅で彼女が淹れてくれたものにはかなわないでしょうけど」
「うん?」
女性社員はそれじゃ、と言って戻っていった。釈然としないものを抱えたまま、ソウは黒い目覚ましを自分のカップに淹れて席へと戻った。
昼休み、ソウは弁当を持って給湯室へやってきた。40人程度の人間がいる事務所の近くで電子レンジがあるのはここだけなので、事前にコンビニ弁当を買ってきている者等は、良くここで行列を作っている。幸い時間が早かったので、中にいたのはごく少数の人間だけだった。
「あっ、サメガイさん!やっぱり弁当なんですか!」
「やっぱり?いや、うん。最近は友達が作ってくれるから」
同じ課の社員は、ソウの手に持っている弁当箱を見て呻いた。
「裏切り者!サメガイさんだけは抜け駆けしないと思っていたのに!」
「あっ!おい!」
叫んだ彼は温め終わったコンビニ弁当を取り出すと、事務所へと駆け戻っていった。どうせすぐに顔を合わせるのに何だあいつ、と小さく呟くと、弁当を電子レンジに入れた。
周囲の反応に戸惑いながら席に戻ったソウは、隣にいるモリヤがカップ麺を前にしているのを見た。ひょっとして、こいつが元凶ではないだろうかと。
とはいえ、証拠がないのでなんとも言えない。彼は友人の作ってくれた非常に凝った弁当の蓋を開けて、その出来栄えに微笑みを漏らした。
(品数も多いし、全部美味そうだ。流石はミサキだな)
緩んだ頬のまま、いただきますと心の中で呟いて箸を付けたその時、後ろから声がかかった。
「あっ、サメガイさん。愛妻弁当ですか。いやあ、最初聞いたときは嘘じゃないかと思ったんですけど、やっと身を固める気になったんですねえ」
彼の後ろから声をかけてきたのは、この課の課長、ヤマモトだった。
「課長、愛妻弁当ではないです。というか、誰に聞いたんですか」
ソウが首をひねると、黒髪をオールバックになでつけた壮年の男性が見下ろしている。
「誰って。もうここの全員が知っていますよ?サメガイさんに彼女が出来たって」
「……情報の出どころはどこですか、というのも野暮ですか。おい、モリヤ」
カップ麺の蓋を開けた直後の後輩に、適当な男は渋い視線を向けた。
「え、いや。だって、サメガイさん。カラスマさんってどうみてもその」
「どうみても、じゃねえよ。あいつは俺の親友なの!なんだよ!妻って!話飛躍しすぎだろ!」
彼が大声を上げたせいで、昼休みに事務所で昼食をとっている全員がぞろぞろと寄ってきた。
「あっ、サメガイさん、おめでとうございます!式はいつですか?」
「サメガイ君、ダメだよそんな事言っちゃ。折角出来た嫁さんなんだろう?」
「なんで!どうして!サメガイさんだけは裏切らないと思ってたのに!」
既に事務所内に完全に誤解が広まっている事に、適当な男も流石に目眩を感じたのか、こめかみに手をやった。
「あのな、一緒に住んでるミサキはな、俺の友達なの。別に結婚とかそういうのは無いの。わかった?じゃ、解散」
しっしっと手を振るソウに、隣に座っていたモリヤが異論を放った。
「いや、無理がありますよサメガイさん。駅まで迎えに来て、着くと同時に抱きついて来るような人が友達ですか?家に帰るまでの間も、ずっとサメガイさんと腕組んでひそひそ話してたじゃないですか。しかも、弁当もそうだし手の込んだ手料理まで……」
見られていた事実に間違いはない。が、故にソウは口ごもった。
「いや、あれは……」
まさか襲撃を警戒してずっと近くで護衛のつもりでいた、などと説明出来るはずもない。言葉に詰まったところで、周囲の誤解は加速する。
「ひゃーっ!やっぱりそうなんだ!モリヤ君の事だから勘違いだと思ってたんだけど、おめでとうございます!サメガイさん!」
「くそっ!くそっ!なんでだ!なんで俺の所にはそんな人が来ないんだ!」
「サメガイ君、慶事は有給になるからちゃんと申請してね。あっ、式は結構大掛かりになるよね?サメガイ君の家だから」
もう、周囲は好き勝手に言いたい放題である。
「ね、ね、モリヤ君。サメガイさんの彼女、どんな人だったの?」
「めっちゃ可愛い人ですよ。しかも、スタイルもこうボーン!って感じで」
「ああああ!やめろやめろやめろ!聞きたくない!サメガイさんに限ってそんな事は!」
「育休は早めに申請してね、繁忙期は大変だからさ」
美味いはずの弁当に味を感じられなくなったソウ・サメガイは、虚ろな目でそれからの時間を通り過ぎたのだった。
「お帰りー。……なんだ?ソウ、何かあったのか?」
「いや、なんでもねえ」
明らかにテンションの下がっている友人。なんでもねえわけがない。絶対に何かあったのだ。放置しておくわけにはいかない。家主が病んでしまえばこちらはどうしようもなくなってしまうのである。
「なんでもねえわけがねえだろうが。どうしたんだ?」
「いや……大丈夫だよ。風呂、入るから」
飯より先に風呂とか、頭がどうかしてしまったのかこいつは。いつも飯が先だったろうに。
「ソウ、待てよ。会社で何かあったのか?ハラスメントか?よし、妹に連絡して訴訟の準備をしてやる。いくら一流企業とは言え、お前みたいな適当な奴の精神に影響があるなんて、ロクな事じゃないだろ。安心しろ、妹は有能だ」
妹は基本的にネットに関する事を主とする訴訟を専門としているが、労務関連にもきちんとした知識がある。なので安心しても良い。
「いや、違うから。大袈裟にすんな。何でもねえって言ってんだろ。風呂、上がったら飯食うから」
いつもと違うこいつの行動パターンに焦燥感が募る。本当に、一体何があったんだ。
今日はじっくりと煮込んだビーフシチューを用意してある。リビングには実に美味そうな匂いが漂っているはずだ。しかし、全くそれに反応しないあいつのあの様子は明らかにおかしい。絶対に会社で何かあったのだ。何を隠している?まさか、あの勘違い年増女がソウの職場にまで押しかけたのか?
いや、そうであればあいつはちゃんと説明する。あの女の事については共通認識なのだから、寧ろまだ生きていたのか、と積極的に話題に出してくるはずだ。
ハラスメントではないと言っていた。どこまで本当だかわからないが、そうだとすると何だろうか。仕事で大きな失敗をしただとか、そのせいでこっぴどく上司に叱られただとかだろうか。
シチューを温め直しながら考えるが、考えた所でどうにかなるわけでもない。本人から聞くしかないのだ。酒でも飲ませれば口もゆるくなるだろう。そっと戸棚の下から、料理に使ったものとは格の違うヴィンテージワインを取り出した。
こってりとしたビーフシチューに上物のワインを出すと、ソウの機嫌はすぐに直った。我が親友ながら単純で少し情けなくなる。ある程度酒が入ったなと見えたところで、少し迂回して話題を切り出した。
「なあ、ひょっとしておばさん達に知られたこと、引きずってんのか?」
「んあ?何が?」
ごろっとした柔らかい肉を美味そうに咀嚼していたソウは、飲み込んで不思議そうにこちらを見た。
「いや、帰って来た時落ち込んでたみたいだったからさ」
「ああ、いや、違う」
「そうか」
一端言葉を切った。煮込まれて柔らかくなった芋が、口の中で崩れて溶けていく。肉と野菜の味が溶け込んだ、濃厚なソースの味わいが絡んでたまらない。ワイングラスからくいっと赤紫の酒を喉の奥に入れた。
「結構良く出来てるだろ、煮込むのに時間がかかるから、一人だとあんまり作らないんだけどな」
ある程度の大きさの鍋で作らないとこの味が出ないのだ。一人だと余ってしまうので、中々作る気になれないのである。
「ああ、すげー美味い。ワインとも良く合うなあ」
敢えてもうこちらから聞く事はしない。多分、こいつは放っておけば、あとは自分から話し出す。こっちが話を振って、話したくないなら別にいいぞと話題を変えたのだ。間違いなく律儀なこいつは頃合いを見て自分から口にする。
「そのな、会社にさ」
「うん」
一呼吸置いて、ソウは続けた。
「お前がここにいるのがバレて、結婚するのかと勘違いされた」
なるほど、それで。
「弄られたのか。うーん、なんかそれは。申し訳ない」
要は母と妹から逃げたと思ったら、会社でも似たような事があったというわけだ。逃げたと思ったら逃げた先にも同じことが待っていたとなれば、それはきついだろう。それもこれも、自分がここに転がり込んだせいなのだ。
「いや、別にお前が謝る事じゃねえよ。勝手に勘違いしてる奴が悪いんだから。でもな、ちょっと居心地が悪くて」
それは、そうだろう。周囲からいつ結婚するんだなんて迫られて気持ちの良い奴などいるわけがない。ほっとけ、と言いたくなるに決まっている。
「俺が会社に行って説明するとか」
「いや、やめろ。もっと勘違いされるから」
「なんでだよ」
「自覚ねえのかよ……」
どういう意味だ。まるでわけがわからない。誤解を解けば済む話ではないのだろうか。
「あのな、お前って今、美少女じゃん」
「そうだな」
「そんなのと一緒に住んでるのに、目の前に連れて行って説明したところで、誰が友達だって信じるんだよ」
「あ……そうか、すまん」
誰もが振り返る美少女と同棲していて友達です、は流石に無いだろう。悪くすればソウの性癖が疑われるハメになる。それはそれでかわいそうだ。
「それに、その誤解を解くためだけに会社に部外者を連れて行くとか」
「ああ、無いな……そんならさ、もう開き直っちゃえよ」
簡単な話だ。受け流せば良いのである。
「開き直ってって、お前な」
何が不満なのか、友人は眉根に皺を寄せた。
「言わせとけば良いんだよ。なんなら羨ましいかお前らみたいな態度でも取っとけば。結婚とかどうとか言われたら、式はしませんで済ませとけばいいだろ、お前が狼狽えるから興味を持たれるんだって」
日常になってしまえば忙しい日々にスルーされるだけだ。人の興味は移ろいやすい。今回の事件の経過を見ていると、改めてそれを強く認識してしまう。
「うーん、そうか?まぁ、言われてみれば確かに」
「だろ?どーんと構えときゃ良いんだよ。お代わり、いるか?」
少し気が楽になったのか、ソウはうんと言って皿を差し出した。自分の分も持って、でかい鍋から具をバランス良くよそう。ワインも注いでやって食事を再開すると、大分気分が良くなったのか、いつも通りのソウに戻った。適当な男なのだから、適当にしていれば良いのだ。それがこいつの良い所でもあるのだから。
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