第11話 友人の家族

 翌日も弁当をソウに渡して見送ると、あちこち細かい所も掃除してジムへと出かけた。回数券はまだ4枚残っているので、出来るだけあのジムにあるマシンや重りを使って鍛えておくつもりだ。

 別段鍛えても使い道は無いが、あの恐竜だか鳥だかのようなものが出てきた時には鍛えていた事が幸いした。流石にあんなものがポコポコ出てくるわけがないと思うが、普通に制御出来るのであれば鍛えておいても損ではない。回数券も勿体ないし。

 近くのビルの二階で受付を済ませ、中に入る。相変わらず空いていた。昨日のトレーナーはいないようなので、勝手に昨日と同じ最大重量のバーベルを使って適度な負荷を感じておいた。やばい、もうかなり軽くなり始めている。

 脚の裏側を鍛えたくなったので、奥にある階段で上の階に登り、該当のマシンのある場所を目指す。今日は老人だけではなく、珍しく何名か若者もいた。

 名前は知らないが抵抗を最大にしたマシンに座って膝を曲げ伸ばししていると、その若者が数人、こちらに向かってやってきた。

「こんにちは!お嬢さん、初めて見る顔ですね!」

 いかにも爽やかそうな笑顔とはちきれんばかりの上半身をした男が三名、こちらを見下ろしている。

「あ、はい。回数券を貰ったので、昨日から少し」

 面倒くさいのでどっか行って欲しい。効果的なトレーニング法は昨日既にトレーナーから聞いているのだ。しかし爽やかな笑顔の三人は、その肉体さながらの暑苦しいお節介さを発揮してきた。

「そうですか!どうですか?良ければ効率的な鍛え方などを」

「いえ、昨日トレーナーさんから聞いたので大丈夫です。ありがとうございます」

 黙って膝を曲げたり伸ばしたりする。このマシンも少し抵抗が軽くなってきた。

 今度は同じマシンにぶら下がっている紐を足首に取り付けて、立ち上がってゆっくりと足を横後方に引く。これは尻を鍛える動きだ。

「下半身のトレーニングですね!どこを重点的に鍛えたいかとかはありますか?」

「全身ですね。それも聞いているので、大丈夫です」

 右側が終わったので左側も同じ様に動作する。ぐいぐいと引くことで尻が鍛えられているのがわかる。しかし、終わった後に触ってみても尻は柔らかいままだ。意味不明である。

「なるほど!全身ですか!初心者が良く陥りがちな罠ですね!あまり欲張ると筋肉痛で動けなくなりますよ!」

 うるさいな。知ってるよ。

「はあ、そうですね。でも、今の所その心配は無いので、大丈夫です」

 さっきから三回も大丈夫ですと言った。なのに男たちはこちらを囲んだまま動かない。

「もう少し動作をゆっくりにしたほうがいいですね!勢いをつけると効果が薄れますので!」

「勢いはつけていませんよ。軽いから早く見えるだけで」

 左側も終わったので次のマシンに移動する。男たちはぞろぞろと後ろについてくる。

 上からバーがぶら下がっているマシンの前に来た。やはり重さを最大にして、長さを調節してシートに座る。

「おっ!ラットプルダウンですね!背中ですか?フォームはわかりますか?」

 聞いていると言っているのに。実にうるさい。流石に応えるのも面倒になってきたので、無言でバーを握った。まずは順手で胸を張って、ぐいっと胸の前に下ろす。

「いいよ!キレてるよ!その調子!」

「素晴らしいフォームだ!広背筋が喜んでるよ!」

「まだいける!もう一回!更にもう一回!」

 うるさすぎる。何なんだこの三人は。応援マシンか何かだろうか。反応してもしなくてもうるさいとか、これはもう応援を通り越して騒音マシンではないだろうか。

 その後もこの三人は自分に付き纏ってまわり、一通りこなすまで延々とこの手の応援を聞くハメになったのだった。

 流石に女子更衣室までは追いかけてこなかったので、早々に着替えを終わらせてビルを出た。何なんだあれは。

 しかし、もう既にマシンでも抵抗を感じにくくなってきた。一体この肉体はどこまで負荷に適応するのだろうか。ちょっと怖くなってきた。

 そそくさとジムの入っているビルを離れて、近くのスーパーへ移動する。晩飯は何にしようかと考えたが、昨日は魚介だったので今日は肉のほうが良いだろう。肉じゃがである。安易だ。

 手順さえ守れば簡単に美味しく、しかも沢山作っても大丈夫という優れた料理である。材料を買い込んでさっさとマンションに戻った。動画の件もあるので、自分はあまり外をうろついていても良い事が起こらないような気がするのだ。

 部屋に戻ってエプロンをつけ、新妻さながらに早めに夕食の支度を始める。仮にあいつに晩飯の必要がなくなったとしても、肉じゃがは朝食に食べても良い。一晩経って肉の旨味が染み込んで玉ねぎの溶けた肉じゃがも、それはそれで美味である。飯が進む。

 仕込みが終わってぐつぐつと弱火で煮込む段階になった。蓋をしておけばもう少し経ったら火を止めれば良い。火といってもIHだ。安全装置もついているので火事の心配はほぼ無い。文明の利器である。

 程よく煮込めた所で一旦火をとめる、もといインダクション・ヒーティングのスイッチを切ると、玄関の方で扉の開く音がした。早いな。今日はもう帰ってきたのか。

 丁度出来たところなのでナイスタイミングでもある。エプロンをつけたまま玄関に続く廊下の扉を開けて言った。

「おかえり。今日は早かった……な……」

 玄関の扉を開けて入ってきたのはソウではなかった。彼の母親と妹が、唖然とした顔でこちらを見ている。ひどく懐かしい。

「あっ、おばさん!キョウカちゃんも!お久しぶりです。ソウはまだ仕事で帰ってませんが」

 あいつの家に遊びに行った時は、良くこの二人とも顔を合わせた。ソウの部屋でゲームをしているとおばさんは手作りのお菓子を持ってきてくれたし、彼の妹のキョウカは可愛らしい室内犬を抱いて良く部屋に遊びに来た。ただ、なぜかソウには当たりがきつかったのを覚えている。年の近い兄妹とはそのようなものなのだろう。何事にも冷めているうちの妹とはえらい違いだ。

「え……どちら様?」

 あぁ。

 しまった。今はこの姿だったのだ。どうしよう。

「あぁ、ええと……お久しぶりです、カラスマです。ミサキ」

 玄関で靴も脱がないまま、友人の母と妹は固まっている。思考が追いつかないのだ。

「と、とりあえず、立ったままでは何なので、中でお話を」

 二人ははっと我に返ると、黙って靴を脱いでリビングに入ってきた。

「お茶でいいですか?」

「あっ、はい」

 戸棚から煎茶を出して淹れる準備をする。テーブルについた二人はこちらをじっと見ながらひそひそと内緒話をしている。耳が良くなったので丸聞こえだ。

『ミサキって、あのミサキ君?』

『いや、ないでしょ。お兄ちゃん、あんな美少女を連れ込んで』

『でも、アンタの事知ってるみたいだったけど』

『写真見せたんじゃないの?』

 普通はそう思うだろう。自分が同じ立場だったとしてもそう考える。

 茶を淹れて盆に乗せ、出した後二人の向かいに座る。

「えー……色々ありまして」

 どこから話せば良いのだろうか。最初から?しかしそれでは長くなってしまう。

「あ、ええと、その。キョウカちゃん、リンちゃんは元気かな?今年から二年生だっけ」

 リンちゃんとは、彼女の娘でソウの姪だ。時々ここにも顔を出したことがあったので覚えている。小柄で元気な可愛らしい女の子である。

「あ、はい。兄から聞いてるんですか?」

 そうじゃない。会ったこともあるのだ。

「いや、その……おばさん、時々来て掃除してるんですね。あいつにしちゃ時々しまい込んだ掃除機使ってるみたいだったのでおかしいなと思ったんですが」

 道理で収納の中の掃除機が取り出しやすい場所にあったわけだ。母親が時折訪れてソウの寝室を掃除していたのである。

「え、えぇ……良くご存知で」

 まだ固い。というか、完全に別人だと思われている。当然だろうが。

「その、ですね。俺、ミサキ・カラスマです。こんなナリになっちゃってますが……」

 信じてくれるだろうか。いや、無理だろ、常識的に考えて。

「いや、無理がありますよ。お嬢さん、どなたですか?カラスマさんはもっとこう、大人な感じの男性で」

 キョウカが視線を彷徨わせながら落ち着き無く言う。当然の反応だ。

「えーと、どうしたら信じてくれますかね?昔のエピソード、は、あいつから聞いたって言えば説明できちゃいますか。えぇ、難しいな」

 直接の接点が少ない相手だと、課長や部長にしたような本人しか知らない話なんかを持ち出すことは出来ない。何か、何かあっただろうか。

「あっ!そうだ!子どもの頃飼ってた豆柴のマルちゃん!俺が一階のトイレから出た時、ガブって噛みついてきたよね!靴下に穴があいちゃったけど、子犬のやったことだからって。あれ、確かソウにも言ってないや」

 恐ろしく昔の話を持ち出すと、二人は勢いよく仰け反った。

「え、えぇ!?本当に、カラスマさん!?」

「ミサキ、くん?えっえっ、なんで?なんでそんなに可愛くなっちゃったの?」

 どうにか信じてくれたようだ。あの出来事は自分とこの二人ぐらいしか知らない。怪我をしたけれど、すぐに下で二人に応急処置をしてもらったのだ。

「いやあ、なんか知らないけどちょっと前、朝起きたらこうなってまして……男としての戸籍も失うし、仕事もクビになっちゃって。どうにかソウに泣きついて、ここに住まわせて貰ってる次第で」

 理屈は何もわかっていない。しかし、現実としてそうなっているのだから仕方がない。

「えぇ……意味わかんないんですけど。でも……」

「不思議な事もあるものねえ。でも、言われてみれば子供の頃のミサキ君に少し面影があるし、物腰もそれっぽいわ」

 面影は……僅かだろうが、物腰は変わっていないはずだ。ソウの母、ハルコの直感は正しい。

「まぁ、そんなわけでして。あぁ、二人共、ご飯まだですよね?肉じゃが作ったんですが、食べます?」

 明日の朝も食べられるように量は十分に作ってある。二人分増えたところでどうということはない。

「あっ!カラスマさん、お料理得意ですもんね!」

「いいのかしら?頂いても」

「勿論ですよ。どうぞどうぞ。ソウの分は残しておきますので」

 予定は狂ったが少し早い夕食にする事にした。冷蔵庫から大量に買い込んであったビールを取り出して、グラスを持ってくる。

「お酒にします?ご飯がいいですか?」

「あ、ビールがあれば」

「私も」

 この家系の特徴なのか、サメガイ家は酒に強い。予想通りになった展開に、自分もビールを飲んで楽しむことにした。


「それでね?お兄ちゃんってば、リリキュアのキャラを間違えて買ってきちゃって」

「リンったらもう、これちがう!って泣いちゃってねえ」

「あはは……流石に成人男性にリリキュアのキャラの判別は」

 三人でビールを飲みながら、肉じゃがをつつきつつ最近の話になってしまった。まるで違和感なく受け入れているこの母娘がちょっと怖い。ありがたいんだけど。

「それでね、ミサキ君。あの子ったら、また写真も見ずに見合いはしねえって。ひどいと思わない?」

「いやあ……それは……」

「カラスマさん!うちのダンナがね、料理はもっと勉強してからにしろって言うんです!こっちだって色々忙しいのに!」

「それは、大変ですね。あっ、俺でよかったら簡単なの教えましょうか」

「ほんと!?助かるぅ!」

 酒も入って緊張もほぐれ、なぜか昔なじみの友人同士のような会話になってしまっている。一体どうなっているのだろうか。

 だが、理解者が一度に二人も増えたと思えば悪い気はしない。持つべきものは共通認識という事だろうか。

「ただいまーっと、あぁ、疲れた。ミサキ、晩飯なんだ?」

 玄関の扉が開いてソウが帰ってきた。廊下からリビングへの扉を開けて入ってきた友人が、こちらの様子を見て硬直した。

「あっ、お兄ちゃんお帰りー。先にやってるよ」

「ソウ、あなた、家事全部ミサキ君にやらせてるの?ダメじゃないの」

 凄まじく渋い顔になった親友は、首をぎりぎりと動かしてこちらを見た。

「ミサキ、何、これ?」

 何と言われても困る。見た通りなのだから。


「で?なんでワイアーも入れずに勝手に来たんだよ」

 ソウは若干不機嫌だ。鍋から大皿に肉じゃがを追加して持ってくると、すぐに冷蔵庫からビールを持ってきてグラスと共に脇においた。ちょっとうれしそうになった。ちょろい。

「別にいいでしょ?家族なんだし」

「そうよ。だいたいあなた、来るって言ったら一々有給とって待ち構えてるじゃない。別にそういうのがしたいわけじゃないの」

 大体普段の行動が想像できるのが面白い。こいつは、家族には良いところを見せたい質なのだ。いい加減なのはバレているのに。

「それに、どうしてこんな大切な事黙ってたの?ミサキ君がこんなに可愛らしくなって、甲斐甲斐しく家事までしてくれてるのに」

「そうだよお兄ちゃん。なんで教えてくれなかったの!?」

 流石に言いにくいだろうし、信じてももらえないだろう。それは無茶な要求だ。

「いや、言っても信じねえだろ。つうか、別に教える程の事じゃないし」

 ソウがそう言うと、二人は立ち上がって激しく憤った。

「何言ってるのお兄ちゃん!馬鹿なの!?こんな重大事、話さないとかある!?」

「そうよ!女っ気がまるでないあなたに、やっと春が来たのよ!?なんで教えてくれないの!」

 春って。

「わけわかんねえよ!?何だよ春って!?」

 全く同感である。意味がわからない。

 春と言ったハルコは、ソウを連れて廊下の方へと引っ込んでいった。キョウカも一緒についていったので、自分だけがリビングに取り残される。

『いい?ソウ。あなた、ミサキ君と結婚しちゃいなさい』

『は!?出来るわけねえだろ!あいつは男だぞ!』

『お兄ちゃん、戸籍なんてどうにでもなるよ。ていうか、あんな美少女を家に置いといて何も無いって事はないでしょ』

『そうよね。もうやったんでしょ。何回ぐらいしたの?いっそのこと、孕ませちゃって既成事実を作りなさい。戸籍なんて、お父さんに頼めばどうにでもなるから』

『アホか。そんなこと出来るわけがないだろ』

『出来るよ?戸籍なんてただのデータじゃん』

『出来るわよ。所詮人が管理してるものなんだから』

 耳が良くなったので全て丸聞こえである。非常に居心地が悪い。自分はそういうつもりでここに来たわけではないのだ。無論、ここにいる理由としてソウが望めば仕方がないとは思うが……本人にその気は全く無いのである。

『何もしてねえよ!大体、親友相手にそんな事出来るわけがねえだろうが!』

『嘘ね。お兄ちゃん、さっきチラチラカラスマさんの胸、見てたでしょ』

『そうよねえ。ミサキ君、凄く可愛らしいもの。スタイルだってあんなに』

『お前らに理性というものはないのか……』

 ソウの嘆きが聞こえる。あいつが一人暮らしを始めた理由がなんとなくわかってしまった。少しかわいそうになってきた。

「あの、それぐらいにして。おばさんとキョウカちゃん、泊まっていくんですか?」

 流石に見かねて助け舟を出した。ソウはほっとした様子でこちらを見ている。

「あら、そうね。うーん、でも、私達が泊まったら部屋が」

「お母さん!……そうだね、もう遅いし。泊まっていくよ。和室、借りるね」

「あっ……そうね!もう遅いし。泊まっていくわ!」

 和室。自分が寝泊まりしている所だ。つまり、この母娘は自分とソウを同じ寝室に押し込めたいと思っているのだろう。いや、それは流石に……。

「ソウ、布団の予備あるか?俺、リビングで寝るから」

 そう言うと親友はあからさまにほっとした顔を見せた。

「そ、そうだな。すまんな、急にこいつらが来て……」

「こいつらって何よ!」

「そうよ。全く、寝室の掃除もロクに出来ないくせに……ミサキ君、リビングなんかで寝なくていいのよ、ソウのベッドに潜り込んじゃえばいいんだから」

 露骨である。流石にそれは出来ない。いや、ゴムは買ってあるので大丈夫なのだが。

「はぁ、まぁ、外聞もありますので」

「外聞なんてどうにでもなるから!ね!お願い!年寄りを助けると思って!」

「カラスマさん!大丈夫ですよ!お兄ちゃんのベッド、大きいので、多少暴れても問題ありませんし!」

 いや、意味がわからない。おばさんは別に年寄りという程の歳ではないし、ソウのベッドで暴れるって。自分が本気で暴れたらソウは死んでしまう。

「あー!もう!お前らは黙って寝ろ!俺は風呂に入る!」

 ソウは着替えを持って風呂に消えていった。即座に二人がこちらへ駆け寄ってくる。

「ね、カラスマさん。助けると思って!お兄ちゃん、まだ童貞なんです!」

 いや、それは知っているが。

「ミサキ君、さっきも言ったけど、戸籍はどうとでもなるのよ。大丈夫、反社会勢力的なアレじゃなくて、ちょっと弄るだけだから。何も問題にはならないわ」

 それはそれで怖い。バレたらどうなってしまうのだろうか。

「はあ、まぁ、戸籍がどうにかなるのならとてもありがたいんですが」

 実際身分の証明が出来ないとこの国では殆ど何も出来ない。働くことはおろか、住む場所も公共サービスも何もかも得られないのだ。

「そう、なら、決まりね。書き換えておいてもらうから。今日からミサキ君はミサキ・サメガイね」

「え?いや、それはちょっと」

「ああ、やっとお兄ちゃんに相手が……これでうちのリンに世継の重圧を与えなくて済むよぉ」

 ちょっと、色々とヤバい方向へと進んでいる気がする。これはまずい。どうにかしないと。

「いやその、戸籍はちょっと待ってもらっていいですか?その、もしかしたら男に戻れるかもしれないんで」

 まだ完全に不可能と決まったわけじゃない。可能性は恐ろしく低いが、ないわけではないのだ。

「何言ってるんですか!そんな可愛い女性になって、戻りたい人なんているわけがありません!」

 いや、そうなのか?一般的にはそうなのだろうが。

「待ちなさい、キョウカ。ミサキ君にも心の準備は必要でしょう?わかりました、ミサキ君。書き換えは少し待ちます。でも」

 でも?

「今日はソウの寝室で寝なさい。わかった?」

 いや、それが交換条件かよ。しかし、この目力。断れる雰囲気ではない。

「はあ、わかりました」

 そう答えると二人は顔を見合わせてガッツポーズをした。どうやらソウの自制心を全く信じていないようだ。

「やったわ、キョウカ。家事万能の嫁、ゲット!」

「早く甥か姪の顔が見たいよ!カラスマさん、頑張って!」

 何を頑張るというのか。なんというか、この家族は一体どういう感性をしているのか、理解に苦しむ。

「おう、出たぞ。もう俺は寝るから、あとは好きにしてくれ」

 ソウは早々に寝室へと引っ込んでいった。明日も仕事なのだから早く寝るに越したことはない。良いことだ。

「おばさんとキョウカちゃんはお風呂、入ります?お先にどうぞ」

「いやいやいや!あたし達は入ってきたから!ね!お母さん!」

「そうね!ミサキ君、先に入ってきて!こっちはもう寝る準備するから!」

「はぁ……そうですか?では、お先に失礼して」

 和室から寝巻き用のシャツとハーフパンツ、それからショーツを取り出して脱衣所へ入る。どうにも変な事になってしまった。大丈夫か?

 一応念入りに身体と髪を洗って風呂場を出る。裸で歯を磨いた後、脱衣所でドライヤーを使って髪を乾かした。

 乾かさずに寝るとそれはもう、朝がかなり酷いことになるのを経験したのだ。故に、面倒でもブローをしてから布団に入るようになった。まだ髪を切る勇気は出ない。

 着替えた上でそういえば、と思い出して、和室の襖をノックする。二人が同時にどうぞ、と言ったので遠慮なくあけると、二つ敷かれた布団の上で、ソウの母と妹は意味深にニヤニヤとこちらを見ていた。

「……どうかしました?」

「いえ、別に。荷物ですか?」

「はあ」

 鞄の中から彼女たちに見えないように赤い箱を取り出した。もしかしたらこれを使う時が来たのかもしれない。シャツの裏にそれを隠して、和室を後にした。

 ソウはまだ起きている。寝室の明かりはついていて、暗い廊下にそれが漏れ出している。ノックして、返事を待たずに開けた。

「……なんだよ」

「布団、取られちゃって。ここで寝ろって」

「マジかよ」

 ソウの寝室を見渡した。ベッドの他には書棚とフィギュアを置いてある棚ばかりで、床は一応絨毯を敷いてある。多少背中が痛くなるかもしれないが、ここで寝ても構わない。黙って床に転がった。

「……いや、おい。そこで寝んのかよ」

「他に選択肢があるのか?」

 あるといえばある。ソウのベッドは大きめなので、横に潜り込めば寝ることは可能だ。余程酷い寝相でもなければ落っこちることもない。

「いいよ。だったら俺が床で寝るから」

「家主を床で寝させる居候がどこにいるんだよ。アホか」

「アホじゃねえよ!?だったら、女を床で寝させて自分だけベッドで寝てる男がどこにいるんだよ!?」

「別にここにいてもいいんじゃねえか?」

 押し問答になる。どうしてもここは譲れないのだ。そうこうしているうちに、ソウが折れた。

「はぁ……いいよ。来いよ」

 思いっきり壁の方に寄って、ソウが背中を向ける。彼なりの譲歩なのだろう。

「ああ、わかった。サンキュー」

 ここまでさせて床で寝るというわけにもいかない。ベッドの上に上がり、こちらは落ちないギリギリの場所に寝転がって反対側を向いた。

「電気、消すぞ」

「おう」

 ソウがスマホを操作すると部屋の照明が落ちた。所謂スマート家電というやつだ。初めて見た。

 友人はスマホを頭の上にある板の上に置くと、再び壁の方を向いて黙った。こちらも何も言う事はないので、扉の方を向いて黙る。

 自分は何も思わない。隣にいるのは男だし、心が男である以上何も感じない。友人が隣で寝ているだけだ。だが、ソウの方は違うだろう。

 横にいるのは長年付き合ってきた友人でありながら、身体は恐ろしく魅力的な美少女だ。それはもう、できるならやってしまいたいと思うだろう。童貞だろうが奥手だろうが、同じベッドの上で抵抗なく寝ている以上はそう考える、はずだ。

「なあ、ソウ」

「なんだよ」

 眠れないのだ。眠れるはずがないだろう。

「一応さ、ゴム持ってきてあるんだが」

「アホか!?いつの間にそんなもん買ったんだよ!?」

 ここに来ることになった初日である。マツバラからもつけるようには言われている。

「まぁ、だから、お前がやりたくなったら別にいいぞ」

「するかよ!?俺はホモじゃねえし!」

「いや、これはホモになるのか?」

 正確に言えばゲイだろう。いや、こっちの身体が女なのだからそれも違う、ノーマルだろう。少なくとも、行為的には。

「知らねえよ。寝ろよ」

「うん」

 まぁ、しないというのならそれで良い。その方がこちらもありがたい。破瓜がどれほど痛いのかも知らないし、それを経験しなくても良いというのであれば。

 暗闇の中でこっそりと持ってきた箱をあけた。

(なんでパッケージ開いてるんだ?)

 開けるための破線部分は既に破り取られていた。まさか、と思って中を探ると、カサっと一枚、紙が出てきた。闇の中でも見える目を使って見ると、こう書いてあった。

『カラスマさん、ゴムは無しでお願いします』

 キョウカだ。あの子、自分の荷物を漁ってコンドームを排除したのだ。小賢しい。風呂に入っている間にやられたのだ。

「ソウ」

「なんだよ!?」

 半狂乱になって反応してくる。やはり眠れないのだ。

「すまん、ゴム、取り上げられた」

「だから、使わねえよ!?」

「生でするのか?」

「しねえって言ってんだろ!」

 まぁ、そうなるな。しないというのなら寝てしまおう。こいつの気が変わってどうにかなったとしても、戸籍がどうにでもなるというのであればもうどうでもいい。

 この国はそんなに適当な国だったのか……。そっちが結構ショックだった。



「あー、いいにおいー」

 朝食の準備をしていると、ソウの妹のキョウカが和室から出てきた。

「おはよう、キョウカちゃん。朝ご飯作ってるから、テーブルに座って」

「ありがとー、カラスマさん。ふぁ~」

 吸い込まれそうな大あくびをして、彼女は大きく伸びをした。

 軽く焼いたソーセージとポーチドエッグ、レタスとトマトのサラダにドレッシングを振って、トースターで焦げ目が軽くついたロールパンを二つ皿に乗せ、彼女の前に置いた。

「あっ、ありがとうございます!すごい、普通の朝食だ!」

「普通だね」

 普通である。ポーチドエッグだけはちょっとだけ凝っているが、他は何の変哲もない定番のものである。

「いやあ、お兄ちゃんの朝食ってさ、普通じゃないでしょ?普通のってすごい、当たり前だけどありがたいんですよ。あたしもね、子供出来てから気づいたんですけどー」

「まぁ、そうだね。普通の朝ご飯って意外とハードル高いし」

「だよねだよね!もう、ダンナはそれがわかってなくてさー」

 軽く彼女の愚痴が始まったので、笑いながら聞き流す。これはこういうものなのだ。

 そうこうしているうちに彼女の母親も起きてきたので、同じものをテーブルに出した。何故か感激したソウの母、ハルコは、涙を滲ませて感じ入っている。

「嬉しいわ、やっとソウにもこんなにちゃんとしたお嫁さんが来てくれて……もう、あの子、ずっと女っ気がないからひょっとして男色家なんじゃないかと不安で……」

「いや、嫁じゃないですけど……」

「もう嫁みたいなものでしょう!?同じ家に住んでいて、家事全般やってくれて!」

 そう言われてみればそうである。やっていることは嫁っぽいが、別に家政婦みたいなものだ。結婚していなくとも金を払えば出来る事である。そもそも嫁が家事をしなければならないという法はないし、現代は別にそうなっていない。自分はヒマだからやれることをやっているだけだ。

「ごちそうさま~。カラスマさん、美味しかったです!この卵、どうやって作るんですか?」

「お粗末様。これね、お湯入れた鍋に酢と塩を入れて、ぐるぐる渦を作ってから卵入れて作るんだよ」

「へぇー、とろっとろで美味しかったし、やってみようかなあ……で、カラスマさん」

 食器をキッチンのシンクに持ってきたキョウカは、隣に来てにんまりと笑みを浮かべた。

「どうだった?お兄ちゃん、上手く出来た?」

 答えようがなくて曖昧に笑って、受け取った食器を洗い始める。

「何その反応!ダメだったの!?くそ、あのイ◯ポ野郎!」

 ひどい言い草である。鉄の意志を持って我慢した兄に向かって。

「いや、キョウカちゃん、ダメだよそんな言い方しちゃ。というか、勝手に人の荷物漁っちゃダメでしょうが」

 よりによってコンドームの中身を抜くとか、場合によっては許されざる所業ではないだろうか。ソウが手を出してこなかったから良いようなものの。

「だって。あたしも早く甥か姪が欲しいなーって」

「だからって、それは本人たちの判断に委ねるものだよね。ダメだよ」

「……はーい」

 これでも小学生の子を持つ母なのだ。精神性が昔に戻ってしまっているのだろうか。

「何?ソウ、出来なかったの?」

 ロールパンを頬張っていたハルコがこちらをすごい目で見た。怖い。

「いや、出来なかったというか、手を出さなかったというか」

 そう答えると、ハルコは嘆かわしい、とばかりに額に手を当てて天を仰いだ。

「どうしてあの子はこうなんでしょう。こんなに魅力的な子が隣で寝ていても手を出さないなんて……ひょっとして、病気なのかしら」

「いや、それは無いと思いますよ。必死で我慢してたみたいですし。多分、理性が強いんですよ。いい奴なんです。褒めてやって下さい」

 実際寝不足になってまだ起きてこない。アラームは何度か鳴っているが、スヌーズに切り替えているのかまだ起きてこない。いつも通りではある。

「なんで我慢する必要があるの!?親のお墨付きでしょうに!こんなに可愛くてスタイルも良くて気立ての良いミサキ君に、何の不満があるの!?」

「いやあ、多分最後のそれじゃないですかねえ」

 どれだけ見た目が良かろうが、中身は長年付き合っている友人なのである。そりゃあ手を出しにくいだろう。自分が同じ立場であってもそうなるに決まっている。

「ねえねえ、それよりカラスマさん、それ、ご家族も知ってるんでしょ?ミユキも知ってるの?」

 キョウカがこちらの胸を指さして言った。

「一応ワイアードでは言ってあるけど、どうだろうね。多分冗談だと思ってるんじゃないかな」

 妹のミユキは彼女と同級生だ。結婚してムサシ県に引っ越してからはやや疎遠になったようだが、それでも時々チャットやSNSで連絡を取り合っていると聞いたことはある。

「あー、まぁ、実物見ないと信じられないよねえ。あっ、そうだ!私からもワイアーしておくね、情報源が二つなら信じるっしょ」

「いやまぁ、信じてないなら信じてないで別にいいんだけどね」

 妹はあちらで幸せに暮らしている。子供を作る気はないようだが、向こうのご家族まで一々こちらの騒動に巻き込む必要はあるまい。

「はーい、カラスマさん、いちたすいちはー?」

「え?に?」

 カシャリと合成のシャッター音が聞こえた。「に」と発音して口角を上げたところを撮られたのだ。つまり、この写真を妹に送るという事だろう。別にまぁ、構わないが。

 アラームが寝室の方から聞こえた。すぐにまた止まっている。だが、ソウは起きてこない。そろそろ起きないと朝食を食べる時間が無くなってしまう。起こさなければ。

 洗い物を一旦止めて、昨夜自分も寝ていた寝室へと向かう。

「おい、ソウ。そろそろ起きないと飯食う時間なくなるぞ」

 扉を押して中に入ると、何故かソウはパンツを履き替えていたところだった。

「ああ、わりい。飯出来てるから、さっさと着替えて来いよな」

 後ろ向きで動きが止まった友人は、おうと言って着替えを再開した。扉を閉めて戻る。

 キッチンに戻ってきて洗い物を再開しようとすると、スマホに通知が出ていた。ワイアードだ。


『なにコレ。マジなの?』


 さっきキョウカが送った写真の事だろう。やはり信じていなかったようだ。


『マジだよ。だから生理の事聞いたじゃねえか』

『彼女でもできて看病してるのかと思った』


 なるほど、そういう考え方もあるのか。

 それっきり、妹からのワイアーは止まった。妹も弁護士事務所で働いているので朝は忙しいのだ。また暇になったら連絡をしてくるだろう。返信はすぐにできる。こちらはもういつでも暇なのだ。

「あぁーねみい」

 ソウが大あくびをしながらリビングに入ってきた。仕草が妹のキョウカにそっくりだ。

「座ってろよ。すぐ持っていくから」

「ああ、すまん」

 トースターが焼き上がりの音を出す。彼の母と妹に出したのと同じものを前に置き、自分の分も用意して隣に座った。向かいにはハルコとキョウカが、自分の淹れた珈琲を前にして、まだ並んで座っている。

 温かく少しだけ焦げ目のついたロールパンを千切って口へ運ぶ。ほんのり甘くてしっとりとして柔らかい。何も付けなくてもおかずがあればこれだけでも十分に美味い。

 黙々と朝食を平らげていると、向かいの二人がじっと隣のソウに視線を向けているのが気になった。

「……何だよ」

 流石に気付いた友人が食事の手を止めずに二人に問い返す。

「別に」「何でも」

 二人は視線を外さないまま珈琲を啜っている。微妙に居心地が悪い。

「コーンポタージュでもあったほうが良かったかな。よく考えたら汁気がたりないよな」

 何となく、思っていた事を口に出した。

「そんな事ないよカラスマさん。どれも美味しかったし、珈琲まで淹れてくれて」

「そうよ、ミサキ君。朝からあんまり欲張ると大変だからね」

 欲張る、という程の事でもないが、まぁ、彼女たちがそう言うのであれば不満は無かったのだろう。しかし、次からは何かスープを用意しておこう。飯の時は当たり前のように味噌汁を用意するのだが、パンの時のスープを考えるのを忘れていたのだ。

「ごちそうさん。もう時間ねえから、行くわ」

「あ、おい。弁当弁当。忘れんなよ」

 慌ててキッチンに用意しておいた弁当を持たせる。折角作ったのに置いていかれては困る。

「暖かくなってきたから保冷剤、入れてあるから。給湯室に電子レンジあるなら500ワットで一分温めてから食え。耐熱容器だから大丈夫」

「おう、サンキュー。じゃあ、行ってくるわ」

 友人は鞄を持って慌ただしく、まるで逃げるように部屋を出て行った。扉の閉まる音の少し後に、オートロックのかかる音が聞こえた。

 テーブルに戻って残った朝食を食べようと席につくと、二人が今度はこちらをじっと見ている。

「ミサキ君、ソウにお弁当も作ってくれてるの?」

「え?はい。あいつ、昼も外食ばっかりだって言うもんですから、流石に経済的にも栄養学的にも悪いかなと思って」

 ハルコはそれを聞くと何故か泣きそうな顔になった。

「そう、ありがとうね。あの子ったら本当にもう」

「おかしくない?あたしが男だったらこんな人絶対に捕まえて逃さないのに!」

 キョウカが珈琲の残り少なくなったカップを握ってわなわなと震えている。

「いや、まぁ。俺も暫くここで厄介になるんで、逃げないんで大丈夫だよ」

 そもそも逃げる場所が無かったからソウに泣きついたのだ。ここを追い出されてはもう行く場所が無い。

 二人はひとしきりこちらに手を出さなかったソウの不甲斐なさを嘆き悲しみ、また来るからと言って昼前に帰っていった。

 我が道を行く友人には、彼女たちのような価値観の家族の相手をするのが辛いのだろう。彼は趣味に生きている人間なのだ。多分そこに、人生の伴侶が必要だと思ったことは無いのだろうから。

 それでもあの母親と妹の気持ちも分からないでもない。30も越えていつまでも良家のご子息が独身を謳歌している、というのも、嘆きたくなるというのは分かる。見合いぐらいは受けてやっても良いのではと、平凡な一般家庭に育った自分ですらそう思うのだ。

 食器を片付けて掃除を済ませ、弁当の残り物で軽く腹を満たしてから、ジムで鍛えるために誰もいない部屋を後にした。

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