第14話 安堵

 何故か誰も居ない地上を線路に沿って走り続け、隣の駅までやってきた。被っていた紙袋はとうの昔に投げ捨てて、服に飛び散った返り血だけが気になったので、駅のトイレでハンカチに水と石鹸を染み込ませて拭いた。手洗い用石鹸を少し染み込ませて拭けば、大分目立たなくなった。

 トイレから出て、改札近くにあった自販機で冷たい缶コーヒーを買った。プルタブを引いて甘ったるい飲み物を喉に通していると、やっと落ち着いてきた。

 鳥モドキの時もそうだったが、あのトカゲの王と戦っている時は何故だか異常な精神の高揚を感じた。

 体温と血圧の上昇、溢れ出す歓喜と怒りの同居した感情。

 全てその感情に身を任せていたかと思えばそうでもない。思考は常に冷静で、どこをどう叩いて殺すか、力の入れ具合は、武器の角度は。そういった事をどこか第三者的な視線で見下ろしていたような感覚だった。

 凪のように落ち着いた今の身体を支配しているのは、安堵感か、虚脱感。また、やってしまったという気持ちが湧いてくる。

 多分、沢山の人に目撃されてしまった。どう見たってあれは人外の動きだろう。

 ビルの五階から飛び降りて、ミサイルですら殺せなかった生き物を無骨な鉄骨だけでぶち殺したのだ。どう考えても人間に可能な所業ではない

 妹は、自分の事を人間なのかと問うた。違うだろう。自分はもう、人間じゃない。

 見た目こそ人のそれを模しているが、中身は完全に化け物だ。そう、あの恐竜達と同じような。何だか無性に腹立たしくなって、飲み終わったコーヒーのスチール缶を片手で握りつぶした。


 小一時間ほど待っただろうか。改札付近では電車が止まった事を駅員が必死に呼びかけており、移動の振替手続きをする人が窓口に列をなしている。構内のアナウンスもサクラダ駅で事故があったと繰り返し伝えており、事情を知らない人たちは不満そうに液晶の掲示板を眺めている。

「カラスマさん!」

 ソウの妹、キョウカの声がしたのでスマホから顔を上げると、三人が揃ってこちらに向かって歩いて来ていた。

「おう、遅かったな。もう疲れたし、今日は帰ろう。電車止まってるし、ミユキもソウのとこに泊まっていくだろ」

 妹はヤマシロ市内にホテルを取っている。電車が動かない以上タクシーで帰る事になるのだが、ここからだと高速鉄道並の料金を取られてしまう。それは流石に馬鹿らしいだろう。

「サメガイさんが良いなら」

「いいよいいよ、ミユキ、気にしないで」

「なんでお前が言うんだよ。まぁ、良いけど」

 どうにも疲れ果てているソウは、もう妹に文句を言う気力も無いと言った感じだ。妹二人にしても疲労感が所作から滲み出ている。もうこれ以上何かする事はできないだろう。

 四人連れ立ってとぼとぼと線路沿いの道を歩く。ミユキは夫のヒロキに、電車が止まったので友達の所に泊まると連絡している。もう普通に全員のスマホは使えるようになっているようだ。

「なあ、ミサキ。あれ、やっぱりお前がやったのか」

 歩きながら友人がぽつりと漏らす。

「俺以外に誰があんな事できるんだよ。そうだよ」

 今頃現場は大騒ぎだ。アレにトドメを刺したところは、周辺の建物から覗いていた沢山の者達に見られている。撮影だってされただろう。紙袋を被っていたとは言え、小柄な人間っぽい女が鉄骨で恐竜を叩きのめしたのだ。それはもう、大騒ぎである。歩きながらスマホを取り出して、SNSアプリであるwisを起動した。

「ああ、やっぱり上がってるな」

 トレンドはそれ一色だ。紙袋女、恐竜、グロ注意。動画も画像も沢山上がっている。これは収集がつきそうにない。

「都会のど真ん中だからな。前は市役所の中だったから、公務員が黙ってりゃそう拡散はしなかったけど」

 ソウはため息をついた。

「どうすんだよ。お前、またマスコミに追っかけられるぞ」

「……すまん。迷惑だったら出ていくから」

「アホか」

 それ以降友人は黙った。代わりに妹のミユキがこちらを咎めてくる。

「何、市役所って。あれもアンタなの?」

「そうだよ。顔、出てただろ」

「合成かと思ってた」

 物事を基本的に斜に構えて見る妹はそう考えていたらしい。ただ、現実だったとしても、例え市役所で起こった事だとは言え、あまり自分の兄とは関係のない事だと思っていたのだろう。こちらからは特に何も言わなかったので仕方がない。

「でも、一体どうやったの。ミサイルどれだけ当てても死ななかったんでしょ」

「別に。マエバシの五階から飛び降りて鉄骨でぶん殴った」

 妹が後ろから頭をはたいてきたのでひょいと首を捻って躱した。

「意味わかんないし。そんな高さから飛び降りて無事でいられるわけないでしょ。しかも、鉄骨って。ミサイルより鉄骨の方が強いっての?」

「知らねえよ。事実こうやって無事だし、トカゲは倒した。それでいいだろ」

「理屈がわかんないし」

「分かるなら俺だって知りたいよ。でも、なんかこう……できると思ったんだよ」

 そう、何故だかできると思った。こうやれば殺せるだろうと、確信めいたものが頭の中に生まれていたのだ。これも理屈では説明しきれない。

 それ以降は誰も何も聞いてこなかった。実際、聞かれても答えようがないので助かった。途中、普通にスーパーに寄って夕食の食材を買い込んで、どうにかこうにかいつもの高層マンションへと帰還できたのだった。


 あまり凝ったものを作る気にはなれず、服を着替えてカレーを作り始める。比較的簡単だし、適当に作っても大体美味い。それにカレーが嫌いなヒノモト人はいないので、どこからも文句が出ないのが素晴らしい。

 手際よく材料を炒めて煮込みが始まると、漸く落ち着いてきたのか、風呂上がりのキョウカが隣に並んだ。

「あっ、カレー?カラスマさんのカレー、食べるの久しぶり!」

「以前食べたのって大分前じゃないかな。それに、俺のカレーというよりも、市販のルー使ってるんだから味は誰が作っても変わらないよ」

 買ってきた固形のカレールーはごく一般的なものだ。二種類を混ぜて使う以外に何も特別な事はしないので、誰が作ってもこの味になる。100点満点のうち誰でも80点を取れるのがこの料理の良いところだ。

「家で作るカレーって特別なの。だから、これはカラスマさんのカレーでいいの」

「そう?まぁ、それじゃそれでいいけど」

 呼ばれたと思ったのか友人がゲーミングチェアからこちらを振り向いた。呼ばれたわけではないとすぐに気が付いたようだが、ついでとばかりに開いている端末の画面を見せる。

「やっぱり大騒ぎになってんぞ。動画ニュースも大量だ」

 言って手元にあったリモコンを操作して、でっかい液晶テレビをつけた。


『ご覧下さい、これは上空からの映像です。この距離からでもはっきりとわかるこの大きさ、紛れもなくこれは恐竜ではないでしょうか。現場には消防と警察がひっきりなしに到着しており、被害の状況を確認するとともに、この生き物を倒した防衛隊からの報告も待っている状況です』


 画面の中、女性アナウンサーが荒れ果てた現地で解説しながら、同時に別画面で映像も流すという離れ業をやってのけている。色々と考えつくものだが、そもそももっと詳細な動画だってSNSや動画サイトには大量に出回っている。インパクトは薄い。

 無論、そんな画像を公共の電波に流すわけにはいかない。あちこちに人だったものが転がっている凄惨な現場なんて流したら、ある種の人からクレームが大量に飛んでくるだろう。

「流石にお前の情報はテレビじゃ流さないな。でも、こっちはさ」

 友人は端末の画面をくいっとこちらに向けて見せる。当然の如くに動画サイトのトップには、先程起こった災害のショート動画がずらずらと並んでいる。

 ミユキがソウのデスクに近寄って、マウスを借りてざっと流し見している。

「一応、袋被ってたから大丈夫みたいではあるけど。以前の市役所のって無許可でしょ?完全に肖像権の侵害だから」

 それはその通りなのだが。

「だからって、身分証明が出来ない俺が訴え出る事なんてできないだろ。目立つだけで余計に好奇の視線に晒されるだけだよ」

「それは……そうだけど。誰でも動画や写真を公開できるようになってから、こういう倫理観や犯罪意識の無いモノが出回りすぎてんの。こっちの仕事があるのはいいけど、正直パンクしそう」

 妹は主としてそういった事を専門として扱っている。今回の休みも無理矢理取ったと言っていた。でないと休む時間が無いのだそうだ。

「自転車乗ってる奴全員に交通ルール守らせようとするようなもんだな。誰でも乗れる手軽な乗り物なのに、軽車両って扱いを知らない奴なんてごまんといるし」

「全くその通り。法整備が追いついてないだけじゃなくて、守らせるための人手が足りないの」

 妹はその守らせる側の人間だ。それこそ猫の手も借りたいだろう。

「こういうのはね、意識の問題なの。社会的にこれはいけないことだって意識が醸成されないといけないから、上からこうだと抑えつけても守らない人が多すぎて取り締まれない。自転車なら国内だけでどうにかすればいいだろうけど、ネットは全世界。無理ゲーすぎる」

 余程普段からストレスが溜まっているのか、妹は珍しく饒舌だ。あんな事があって興奮しているというのもあるだろうが。

「ミユキも風呂、入って来いよ。俺達は後でいいから」

 止まらない妹の不満を聞いてやるのも良いが、まずは落ち着いてもらう事の方が先だ。熱いシャワーでも浴びれば頭もスッキリするだろう。

 妹はそうさせてもらう、と言って浴室に向かった。そういえば、着替えとか持ってきてないんじゃないか。慌てて浴室に追いかける。

「おい、着替えとか持ってきてるのか?」

 妹は脱衣所で下着姿になっていた。こちらを見てちょっとぎょっとしたが、見た目のせいかすぐに安心したように口元を緩める。

「キョウカの貸してもらうから大丈夫。アンタのじゃ合わないでしょ?F65とか」

「あー、まぁ、そうだけど。下ぐらいは貸せるぞ」

「兄の下着を妹に履かせようとする変態さんはここですか」

「お前なあ」

 呆れたが、確かに家族とは言え、元男の下着を履くのは嫌だろう。そこに気付かなかった事に反省した。

「まぁ、いいや。ごゆっくり」

「まるで家主みたいな事言うじゃない」

 うるせえよと捨て台詞を残してキッチンに戻った。シンクの前からリビングの方を見ると、ソウは端末ではなく、スマホの方に視線を落としていた。

 サラダを作っておこうとドでかい冷蔵庫のチルド室からレタスとトマトとキュウリを取り出す。まな板にのっけてレタスを割り、千切ってざるに入れているとソウがぽつんと言った。

「明日、親父がここに来るって」

「お父さんが?まだ会期終わってないんじゃないの?」

 二人の父親、フユヒコ・サメガイはヤマシロ県第三区選出の上院議員、政治家だ。現在は国会の会期中であるため、ムサシ県にいるはずなのだが。

「そうだけど。何も説明無いし、意味わからんな」

 ソウは首を捻っている。自分も彼の父に会ったことはあるが、ごく普通の落ち着いた父親、という感じだった。

 政治家にありがちな高圧的な態度も無いし、黒黒とした髪の豊かな、友達の優しいお父さん、というイメージだ。もっとも最後に会ったのはもう十年近くも前になるので、イメージの中の人とは変わってしまっているかもしれないが。

 彼の父親は入婿で、大地主なのは母親のハルコの実家だ。地元の有望な政治家という事で見合いをして結婚したらしいが、夫婦仲は良好であると聞いている。

「何しに来るんだろ?実家の方じゃなくてここにだよね?」

「うん、サクラダのマンションに行くって」

 ソウはワイアードの画面をキョウカに見せている。

「あっ!そういえば、お母さんがお父さんにカラスマさんの事話したって言ってたよ。ひょっとして、あれじゃないかな。息子の嫁を見に来るんじゃないかな」

「お前なぁ」

 そういえばその可能性もあるのか。別にこいつと結婚するつもりは無いが、世話になっているのだから挨拶はしておいたほうが良いだろう。折角だからあの災害がどのように取り扱われるのか、なんてことも聞けるかもしれない。

 鍋のアクを取りながら煮込み、市販のルーを投入した。たちまち部屋中に食欲を刺激する香りが漂い始める。

「あー!たまらんなこれ。空きっ腹にはヤバいぐらい効く」

 ソウが大袈裟に鼻を動かしてカレーの匂いを吸い込んでいる。

「もうすぐ出来るから、飲みたいならこれで誤魔化しとけ。キョウカちゃんも飲むよね」

 冷蔵庫からビールとグラスを取り出し、中にあったパック詰めの煮玉子を取り出した。

「うん、ありがとう、カラスマさん。あー、あたしもこんなお嫁さんが欲しい!」

「嫁はお前だろうが。見習ってテツさんにも同じことしてあげろよ」

 テツさん、と彼が呼んでいるのは、キョウカの夫でテツヤという人だ。メガネをかけた大人しそうな人で、ソウともとても仲良くしている。

「それはそれ、これはこれ。あたしは育児で忙しいの」

「その育児を親と夫に任せて遊びに来てるんだろうが」

「遊びじゃないよ!義姉あねのお買い物の手伝いだもん!」

 義姉ではないが。もう突っ込むのも馬鹿らしくなってきたので、こちらは曖昧に笑う。こうやって外堀を埋められていくのだろうか。ちょっと怖い。

 手抜きで作った煮玉子でビールを飲みながら、二人はキョウカの家族について他愛もない話をしている。その途中、何故かソウがこちらを見て言った。

「そういや、ミサキ。最近家で筋トレしなくなったな。やめたのか?」

「うん。自重だけじゃ全然効果がなくなったから。それ以外のは暇を見てやってるけど」

 別にやめたわけではないのだが、意味がないのだ。ちょっと力を入れるだけで自分の身体が紙のように軽くなるし、反復運動をしてもまったく疲れなくてキリがない。ジムのチケットはもう無いので、一旦トレーニングはおしまいということにしてある。それでもあのでかい恐竜を叩き殺したのだから、十分と言えば十分だろう。

「ソウが上に乗ってくれるならやるけど」

 多少は重りになるので、無意味というわけではない。バーベルやマシンほどの負荷は無いが、少しは効果があるかもしれない。

「……人の妹の前でなんて話してんの」

 妹が浴室から出てきた。藪睨みの目を殊更細くしてこちらを睨んでいる。

「何か勘違いしてないか、お前」

 妹は無言でキッチンを横切って、リビングのテーブルについた。仕方無く、新しくグラスとビールを持っていく。

「そういうさ、赤裸々な話は二人だけの時にして。私とキョウカがいるってのに」

「あたしは全然構わないよ?というか、ミユキ、筋トレの話だよ、筋トレ」

 キョウカが箸で煮卵を摘んで頬張った。幸せそうな顔をしてビールをごくごくと流し込んでいる。

「筋トレ?セックスが?」

「だから違うって」

 こいつも大概赤裸々だ。もう呆れて何も言う気にもなれずに、サラダを盛り付けていく。

「ミサキ、この煮玉子うめーな、どうやって作ったんだ?」

「半熟のゆで卵をめんつゆに漬けただけだよ。まぁ、にんにくとか入れてあるけど。美味いだろ」

「美味すぎて酒が止まらねえわ」

「お兄ちゃんは何だって酒が止まらないでしょ」

「ほんとだ、美味しい。手抜きのくせに」

 どうにか緩んだ空気が戻ってきた。殺伐とした話なんてそう長々とするものではない。こちらの方が日常なのだ。

 サラダにドレッシングをふりかけて、皿に飯とカレーをよそう。簡単かつスタンダードな夕食の卓を、二組の兄妹がリビングで囲んだ。


「あー!食った食った。もう入らねえ」

 ソウが椅子の上で仰け反り返っている。こいつは都合三杯もでかい皿のカレーを平らげたのだ。食い過ぎである。

「いくら腹が減ってたからって、食い過ぎだろ。気持ち悪くなるぞ」

「しょうがねえだろ、お前のカレーが美味いんだから」

 こう言えばこちらが機嫌を良くすると思っているのである。見え透いていて白々しい。

「メスの顔をしておる」

 酒が入って目の据わった妹がとんでもないことを口にした。

「何言ってんだお前。酔ってんな」

 妹は自分と同じでそこまで酒に強いわけではない。だが、ストレスの溜まる仕事のせいか、割と沢山飲むのである。身体には非常に悪い。

「ほら、やることないならもう歯磨いて寝ろ。今日は疲れただろ」

「さっさと妹を寝かしつけてナニをするつもりなのか」

「アホか。ほら、ソウもいつまでもふんぞり返ってないで風呂に入ってこい。俺は後でいいから」

「甲斐甲斐しい奥さんだなあ」

「キョウカちゃんも。ちょっと飲みすぎじゃないか?」

 こちらがカレーを食べているうちに、彼女たちは次々と冷蔵庫からビールの缶を持ち出して開けていた。テーブルの上には空いた大量の500ミリリットル缶が並んでいる。

 呆れて缶をシンクに運び、洗ってからぐしゃぐしゃと紙のように圧縮して資源ごみの袋に入れる。いくら圧縮してもこれではすぐに一杯になってしまうだろう。

 ソウが風呂に入ったところで、二人は仲良く洗面所を使って歯を磨き、早々に和室へと引っ込んでいった。またか。寝る場所がない。

 余ったカレーを真空パックに小分けにして入れ、少し冷まして冷凍庫に放り込む。大量に炊いた飯は綺麗に無くなってしまったので、こちらは冷凍する必要は無い。朝食の為にタイマーを設定して炊いておかなければならない。

 大量に出た洗い物を片付けているうちに、ソウが風呂から出てきた。性懲りもなく冷蔵庫からビールを取り出している。また飲む気か。

「まだ飲むのか?」

「明日は休みだろ。電車も動く気配ねえし、平気平気」

「出かけるかどうかは兎も角な、ちょっと飲みすぎじゃねえか?」

「まぁ、これ一本にしとくから。今日は勘弁してくれよ、疲れたんだ」

 そう言われるとこちらも黙るしかない。確かに、あれだけ動き回って死ぬような思いだってしたのだ。飲まないとやっていられない、という気持ちもわかる。

「なんならミサキも飲むか?平気だろ?」

「……まぁ、それなら」

 洗い物を終えて、冷蔵庫から缶を取り出してきて卓についた。正面には見慣れた適当な男の顔がある。良く見れば造形は整っていて、見た目は悪くないのだ。こいつは言動と服装、態度と理屈っぽいところで色々と損をしているのである。

 グラスを使わずにプルタブを開けて、缶から直接飲む。洗い物は終わったので、また増やすのは御免だ。普段はこんな事をしないが今日は特別だ。軽い苦味のある炭酸を伴った液体が喉を刺激しつつ消えていく。ホップの爽やかで芳しい香りが鼻から抜けていく。美味い。

「悪かったな、ソウ」

「は?何が?」

 色々、こいつには謝らなければいけない。

「妹のせいでサクラダに連れ出して、そのせいであんなのに遭遇して。服だって金を出させちまったし、俺が暴れたせいでここにもマスコミが来るかもしれない」

 もう、全部自分のせいだ。こいつはただ巻き込まれただけなのだ。

「別にお前のせいじゃないだろ?元々服代ぐらいは出すつもりだったし、連れ出したのはキョウカが企んだ事だ。恐竜なんてそんなもん、一体誰が予測できるんだよ。ていうか、あいつは一体どこから現れたんだよ」

 それだ。鳥モドキもそうだが、あの見るからに凶暴そうな肉食恐竜は、その巨体をどこに隠していたというのか。どこからか逃げ出したというのであれば、その施設の途中が襲われそうなものだ。いきなり街のど真ん中に出現するというのは、正直言って理解不能だ。

「市役所のもそうだったけど、どっから来たんだろうな。というか、なんで俺のいるところに出てくるんだろう。ひょっとして俺のせいだったりするんだろうか」

 あり得る。こんな身体になってしまって、それから二度も遭遇しているのだ。一体どんな天文学的確率でそのような事になったのか。当時ヤマシロ市役所にいて、その後あの日にサクラダ駅周辺にいた者など、自分ぐらいしかいないのではないか。

 となると、自分の周囲にはまた恐竜が出現する可能性がある。今回はなんとかなったからいいが、もし、もしもソウやキョウカ、妹が犠牲になったとしたら。怖くなって身震いがした。

「んなわけねえだろ。偶然に決まってる。大体、ヤマシロ市役所は兎も角、サクラダ駅周辺なんて一体どんだけ人がいると思ってんだ。お前も俺も、その中のたった一人にしか過ぎねえだろ。考え過ぎんな」

「うん……でも、もしもって考えると」

 友人はこちらの顔に手を伸ばして、親指と中指でこちらのこめかみを抑えた。目の前に、彼の手のひらが見える。

「考え過ぎんなって言ったそばからそれかよ。こんな可愛らしい美少女だから、あのトカゲが追いかけてきたってのかよ?自意識過剰じゃねえの?」

 可愛いかどうかは関係ないだろう。そういう意味じゃなくて。でも。

「お前は俺の事、可愛いって思ってんだよな」

「あ?そうだろ?お前も自分で言ってるだろ」

 そう、初めて自分の顔と身体を確認した時にそう思った。今でもそれは変わらない。最初はまるでそれが自分のものではないような気がしていたが、どうも、最近少し馴染んできたように思う。可愛いと言われる事が、自分ではない誰かにではなく、自分に向かって言われているような、そんな感覚。

 なんだか無性に恥ずかしくなってくる。当てられた指から伝わるこいつの熱のせいか、飲んだ酒のアルコールの影響か、身体が火照って顔が熱くなる。

 ソウの手首を掴んでアイアンクローを外して、残ったビールを胃の中へ流し込む。何を考えているんだ。

「飲み終わったら歯磨いて寝ろ。疲れてんだろ。ああ、缶は置いとけ、潰しとくから」

 耳まで熱くなったのを隠すようにぶっきらぼうに言う。友人もこちらの反応に戸惑ったのか、おう、とだけ言って、残ったビールを喉を鳴らして飲んだ。喉仏が上下に蠢いている。

 シンクで飲み終わった缶を二つ、水を入れて洗う。どぽどぽと水が缶の口から出ていく音が、妙に艶めかしく聞こえる。扉一つ隔てた洗面所では、ソウの歯を磨く音が聞こえている。リズミカルに、シャコシャコという歯を毛が擦る音が。

 身体が熱い。妙に腹から下、下半身が疼いて仕方がない。今までに経験したことの無い感覚が、全身を支配している。

 分からないわけではない。気付かない振りをしているだけだ。間違いない、自分は今、あいつに向かって発情している。

 冗談じゃない。そんな事があってたまるかと否定はするものの、どうしてもこの身体の疼きは治まる気配がない。風呂だ。風呂に入ればスッキリするだろう。缶を力任せに握りつぶして、洗面所に続く扉を開けた。

 急に入ってきた自分に驚いたのか、ソウは歯ブラシを咥えたままぎょっとしてこちらを見た。そんな表情に気付かない振りをして、奥にある脱衣所へと入る。

 扉を閉めずにそのまま服を脱ぎ始めた。構わない。見られたところで問題ない。こいつとはもう結構な時間一緒に暮らしているし、尻だって下着姿だって見られている。何も問題はない。むしろ見ろ。見て、興奮して襲ってこい。望むところだ。

「お、おふぃ!とひら、しふぇろ!」

 何を言っているのかさっぱりわからない。口に咥えたものを外してから言えば良いのだ。咥えたモノを。

 気にせず上着を脱いでパンツを下ろす。ブラを外しているところで、勝手に扉が閉められた。遠慮がちな奴だ。別にじっくりと見てもらっても構わないのだ。この美しい身体を。

 とはいえこちらから開けて見せつけるのもそれはそれで違う気がする。少し残念な気もするが、取り敢えずは風呂だ。疲れた。シャワーを浴びたい。

 浴室の扉を閉めて、シャワーの栓を捻る。最初は少しぬるかったが、すぐに温かい湯が顔の上から降り注いでくる。


 身体を大雑把にバスタオルで拭いて、フラフラと浴室を出る。着替えを取ろうとして気がついた。無い。

 下着も何もかも持って来ずに風呂に入った。故に、下着の替えも寝間着も無い。和室の自分の鞄の中だ。汗に汚れた下着など、寝る前に絶対に着けたくない。故に手元にあるこれは洗う。身につけるものがなくなった。

 和室には妹たちが寝ている。行けば起こしてしまう。それは良くない。そう、良くない。だから、これは仕方のない事なのだ。

 下着を洗濯ネットに入れて、昼間着ていたものは洗濯籠に放り込み、バスタオルは広げて籠にかける。こうしないと湿気が籠もって雑菌が繁殖して臭くなってしまうのだ。

 全裸のまま、何も着けないまま、産まれた姿のまま、廊下を歩く。そっとソウの寝室に入り込み、扉を閉めた。

 ソウは壁際に、向こうを向いて眠っている。本当に眠っているのかはわからない。だが、そんな事はどうでもいい。

 緩くエアコンの音がする部屋の中、スプリングの効いたベッドの上へ上がる。そっと、身体を壁際の彼に近づけた。

 寝ていたはずの彼はぴくりと動いた。上がった聴力は、ごくりという彼の唾液を嚥下する音を聞き逃さない。嚥下した。つまり、眠っていない。起きている。嚥下は意識が覚醒している時にしか行わないのだ。

「ソウ」

 呼びかけたが答えない。狸寝入りが有効であると信じて疑わないのだ。愚かしい。この自分にそんなものは通用しない。より身体を寄せて、横向きになって胸を押し当てる。

「起きてるんだろ、なあ」

 まだ答えない。往生際の悪い奴だ。

「身体が熱いんだ。鎮めてくれないか」

 そっと腕を回して抱きついた。より胸を密着させて柔らかな感触を押し付ける。

「寝ろよ。疲れてるだろ」

 やはり起きていた。最初から分かっていたのだ。

「寝られないよ。下着、和室にあるんだけど、妹達が寝てて取りにいけないんだ。だから……今、俺、全裸なんだよ」

 彼の身体が目に見えて硬直した。硬直したのは身体だけか、それとも。

「ソウ、抱いてくれ。でないと、寝られそうにない。身体が火照って、お前が欲しくて、どうしようもないんだ。だから、頼む」

 あられもない露骨な言葉をストレートに浴びせる。だが、彼は未だ身体を固めたまま動こうとしない。何故だ。こんなに魅力的な身体が、欲しい欲しいとお前を求めているというのに。

「言葉遣いが悪いのか?だったら、変えるよ。ねえ、ソウ。私を抱いて。ソウのその硬くなってるもので、私のここを、滅茶苦茶に突いて」

 硬くなっていた彼はぶるぶると震えだした。必死に我慢しているのだ。可愛くて可愛くて堪らない、是が非でも、彼のモノをこの初めての所に欲しい。抱きついたまま、そろそろと彼の下半身に手を伸ばす。やはり、勃っている。

「ガチガチだよ、ソウ。我慢しなくてもいいんだよ。ハルコさんだって言ってたよね、親のお墨付きだって。本人が良いって言ってるんだし、ほら」

 そろそろと彼の寝間着の下を下ろそうとするが、彼はその手を止めた。抵抗している。

「なんで、我慢するの?知ってるよ、最近、私の事を思い出して部屋で抜いてるよね。知ってるんだから。部屋の掃除だってしてるし、耳が良いから声だって聞こえるんだよ」

 彼は最近、お気に入りの同人誌ではなくて私で性欲を処理している。当然だ。こんな美少女がすぐ近くにいて、身体を寄せたり風呂上がりの姿態を見せたりしているのだ。オナペットにしないはずがない。

「やめろ、ミサキ。お前はそんな奴じゃないだろ」

「そんな奴って、どういう奴?こうやって、ソウに迫る事なんてしないって?でも、今こうやってしてるよ」

 より身体を密着させる。彼の背中と腹がくっついて、もう押し付けられた胸は潰れて零れそうだ。限界まで壁際に逃げた彼に、もう行く先は無い。大人しくこちらを向いて、その熱り立ったモノをこっちに向ければ良いのに。

「うるさい、もう寝る。お前も寝ろ。しないからな、絶対にしないからな」

 唐突に悲しくなった。何故ここまで頑なに拒絶するのか。彼は、自分の事が嫌いなのか。身体には反応するが、心がこちらに向いていないのか。

「……わかった。でも、気が変わったらいつでもしていいから。ゴムも、持ってきてない」

 顔を彼の背中にくっつけた。こうしていないと泣き出しそうになる。耐えられなくなって両腕を彼の腹に回して、思い切り抱きついた。どうせできないなら、このまま寝てしまえ。

 背中に顔を埋めたまま、固く目を閉じた。どうか、朝までに彼の気が変わりますようにと。

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