第10話 鍛錬
「おい、起きろ。遅刻するぞ」
翌日が平日なのに自分が来たことでいつもの調子で酒を過ごしたソウは、案の定アラームが鳴ってもスヌーズに切り替える事すら出来ずに寝過ごそうとしていた。
「うぅ、無理。休む。有給取る」
「そんなら自分で連絡しろ。朝飯と弁当、出来てるからさっさと起きろ」
業界第一位の優良企業に勤めるこいつは、きちんと有給を全消化しているらしい。羨ましくて涙が出てくる。だが、何も無いのにただの二日酔いで休みを取るのは勿体ないだろう。弁当だって折角作ったのだ。仕事に行って貰わねば困る。いや、自分は別に困らないが、こいつの同僚が困るだろう。
二日酔いのくせにしじみの味噌汁と卵かけご飯とししゃもの丸干しを綺麗に平らげたソウは、微妙に元気になって出ていった。酒に強い奴は朝飯をしっかり食うというが、それでもあまり飲み過ぎるのは良くないだろう。これは、こちらで多少制限すべきかもしれない。
部屋や廊下の掃除は基本的にロボットがやってくれる。勝手に動き回る丸い掃除機を見ていると、猫が上に乗っている動画を思い出して勝手に顔がにやけてきた。あれは実に可愛い。良いものだ。
この勝手にやってくれる掃除機でも掃除が出来ない場所がある。基本的に扉が閉まっている場所には入れないのだ。当然だが。故に、ハンディタイプの掃除機を持ってあちこち回る。部屋数が多いので結構大変だ。
というか、こいつの家には本当になんでもある。とりあえず必要だと思いついたモノはなんでも買っているんじゃないだろうか。順番が逆だ。
普通はここにこれが欲しいな、と思ってから買うのである。ソウは無駄に頭が良い為、必要な状況を想定して先に買うのだが、結局使うのは彼自身であるため放置する、という、頭が良いのだか悪いのだか全く分からないムーヴをかましている。
しかしそのお陰で、こちらは何をするにも大きな物入れを漁るだけですぐに必要な物が見つかる。意味がわからない。猫型ロボットかよ。
便所と洗面所を掃除して、あいつが書斎と称している書棚まみれの部屋を掃除する。暫く掃除していなかったのか、掃除機のゴミ入れがいっぱいになったので一旦捨てた。
書棚にあるのはあいつが買い集めた漫画や小説、そして殆どが同人誌だ。毎年即売会に参加していると言っていたが、俺にはもうあの熱気は無理だ。死ぬ。そもそも仕事で行けない。
ジャンルごとに並んでいる薄い本を見て、フフッと笑う。こいつは全然変わっていない。
だが、個人の趣味をあまり眺めているのは良いことではない。人には人の趣味があるのだ。尊重しなければならない。
部屋の扉を閉めて、最後にソウの寝室に入る。寝室というのは布団があるせいでホコリが堆積しやすく、頻繁に掃除するべき場所だ。案の定、分厚い絨毯の中には細かいホコリが溜まりつつあった。急いで掃除機をかける。
この溜まり具合から見て、二週間近く掃除をしていない。ハウスダストでアレルギー症状が出るぞ。
しかし、少し不思議に思った。全く掃除をしていないわけではない。時々は行っているようだ。このハンディ掃除機も取り出しやすい所にあったし、偶には思い出して使っているのだろうか。
妙に綺麗好きな所があるくせに、見えない所には全く気を使わないあいつにしては珍しい。もっと放置しそうなイメージがあった。
いずれにしても午前中にやろうと思っていたことは終わった。フィギュアの並ぶ寝室を閉めて、掃除機の中身を捨て、風呂場でフィルターを綺麗に洗ってからリビングへと戻った。
早々にやることが無くなった。昼飯は弁当の残りで良いので作る必要は無い。あとはだらだらとしていても誰にも怒られない。
仕事を探す必要はあるのだが、身元不詳で雇ってくれるまともな所を探す労力を考えると億劫になる。あいつも飯を作ってくれればそれで良いと言っていたので、若干それに甘えたくなる気分もある。
自室である和室に入って、ノート型の端末を起動した。回線は男の頃から契約済みのwifiである。
例の事件の動画を探してみる。動画サイトであるサブウェイには、相変わらず出たり消えたりでしつこく残っているものがいくつかある。ニュースサイトからは全く消えてしまっている。影も形もない。
トップニュースは合衆国でまた銃乱射事件があったという話だ。今回の死亡者数は40名以上という事で、結構な大事件だ。銃社会は怖い。
お隣の社会共和国でも大きな事件があったらしい。ただ、あっちの当局の規制があるのかあまり詳しい事は分かっていないようだ。通信社のページに残されているのは、マフィア間の抗争らしいという事だけだった。
飽きて後ろに転がった。大の字になって間接照明に照らされた天井を見る。
仕事が無いとこうもヒマだったのか。今更ソシャゲをやる気力も無いし、据え置き機も起動するのに億劫だ。やりたい事と言えばそう、料理ぐらいしかない。
昼飯は作らなくて良い。なら、晩飯を凝ったものにするというのはどうだろうか。そうだ、それだ。素晴らしい。
膝を立てて足と腹筋だけで起き上がると、早速財布とカードキーを持って出かけることにした。照明を消し、セキュリティ装置にカードを通す。部屋を出ると、勝手に扉にダブルロックがかかった。やりすぎだろ。
エレベーターを降りてクソ広いエントランスから外に出る。先日の可愛い猫ちゃんを連れていた女性とすれ違ったので、こんにちはと笑顔で挨拶して外へ出た。
近所のスーパーは歩いて5分程度の場所にある。もう覚えた。意気揚々と歩き出し、カートを持って店内を物色する。
品質は割と良い。魚介も鮮度は良いし、野菜も全て新鮮だ。こんな都会のど真ん中なのに、流通業界と小売業界の努力をひしひしと感じる。
ソウは基本、ビールが好きだ。ならばビールに合うものを作るべきだろう。あれもいい、これもいいなと色々と構想を練りつつ買い物をしていると、結構な量になってしまった。
「5875エンです。二番でお会計お願いします」
半セルフの会計システムで金を払う。一時の流感のせいでこの方式はかなり増えた。どこまで効果があるかどうかは疑問だ。多分、そう変わりはない。
結構買ってしまった。一人の時であればこんなに沢山は買わない。ビール6本が効いている。自分も飲むので問題は多分、無いだろう。
(おせえな)
夕食の支度は終わって、定時の帰宅時間ならそろそろ、という時間を二時間過ぎてもソウは帰ってこなかった。
(まさか、どっかであの変態警部補に捕まってるとかじゃねえだろうな)
可能性としては有り得る。あの女はとにかく自分のやりたい事を持っている権力を行使してやれるだけやっている。ソウの職場を探り当てて、出待ちするという事だって可能と言えば可能だ。
ワイアードは送ったが既読はついていない。ひょっとして、仕事が忙しすぎて見るヒマがないのか。ソウの働いている業界には結構大変な時期があると聞いた。まさかそれか。それともやはりあの年増に捕まっているのか。
まさか、交通事故に巻き込まれたという事はあるまい。ソウは電車通勤だ。電車で大きな事故があったとはニュースになっていない。しかし、降りてからならどうか。
徒歩で移動する区間は、こちら側は兎も角会社側にはあるのかもしれない。まさか、そんなことは……だが、事故が起こった場合に連絡が行くのはあいつの実家の方だろう。電話帳に友人としてしか登録されていないであろう自分の所に連絡が来る事はない。まさか、まさかな。
落ち着かなくなってリビングをウロウロとしてしまう。しかし、自分に出来ることはない。
ソウの実家の電話番号は知っているが、今この声でかけても誰だお前と言われるだけだ。カラスマですと言っても絶対に信用されない。父と同じく詐欺だろうと思われるのが関の山だ。
心配だ。せめて連絡の一つでもあれば……。
「たっだいまー」
玄関の鍵を開ける音が聞こえて、問題の奴が帰ってきた。
「お帰り。なんだ、随分遅かったじゃねえか」
ソウを見ると、明らかに酒が入っている。こいつ。
「ああ、帰り、飲んできたから。飯いらねえよ。風呂、入るわ」
なんだこいつ。なんだこいつ。
「おいコラ。飯食ってくるなら先に言えや。めっちゃ準備して待ってたんだぞ!」
普通、あんだけ二日酔いしてそのまま仕事にいって、帰りに飲んでくるだなんて想像出来るだろうか?しかも、待っている人間がいて、連絡も寄越さずに。
「え?あ……えー……」
ソウはキッチンにおいてあるフライパンに乗ったアヒージョやらラップをかけてあるカルパッチョの皿を見て固まった。一応、何があったのかは理解できているようだ。
「もういいよ。さっさと風呂、入れ。これは俺が食う」
一人で食うには多すぎる。だが、仕方がない。勿体ない。冷蔵庫には苦心して作った焼豚だって入っているのだ。もういい。全部自分で食う。
ソウは風呂にも入らず立ち尽くしている。何だ、まだなにか言う事があるのか。何も言わないのでこちらが言いたい事を言っておく。
「あのな、返事ぐらい寄越せや。事故にでもあったんじゃないかってめっちゃ心配したんだぞ。俺がどんだけ……いや、もういい」
こいつはずっと一人で暮らしていたのだ。ならば、待っている者がいる事に慣れていないのだ。だったらいつも通りにふらっと寄ってメシを済ませてきても仕方がない。今までそうやって生きてきたのだろうから、それは仕方がない。
「……すまん」
「気にしなくていいぞ。ほら、風呂、入れよ。俺は後でいいからさ」
親友は浴室へと消えていった。冷蔵庫からビールを持ち出してプルタブを引き、缶のままごくごくと飲んだ。
キッチンに置いてあるそのままのフライパンに直接匙を突っ込んで、少し冷えた油煮の貝とタコを一度に口に入れる。美味い。こんなに美味い。こんなに美味いものを放置して、あいつは適当な店で食事を済ませてきたのだ。ざまあみろ。これは俺が全部食ってやる。
立ったまま、カルパッチョにフォークを突き刺して纏めて掬い、口に入れて頬張る。オリーブオイルの塩気と旨味、ワインビネガーの酸味が程良い。いくらでも食える。
食って飲んでしているうちに缶が空になった。中を水で洗って、缶の頭と尻に両手を合わせて押しつぶす。ぺっちゃんこの紙みたいになった。これは良い。空き缶を出す有料袋の節約になるぞ。
脇に置いてあった空き缶入れを見ると、ソウが飲み捨てた缶が大量に入っている。丁度良い。これを全て圧縮してやる。なんならアルミブロックみたいに固めてやってもいいだろう。
ぐしゃぐしゃと缶を紙切れに変えていると、腰にバスタオルを巻いたソウが出てきてうおっと声を上げた。なんだ。
「なんだ?人には裸で出てくるなっつっといて、お前もそうじゃねえか」
「いや、男と女じゃ違うだろ……いや、ごめん」
すごすごとクローゼットのある部屋に向かっていくソウ。まぁ、別にあいつのチ◯ポを見たところで何も思わない。一緒に旅行に行って、一緒に風呂に入った事だってあるのだ。今更である。
ぐしゃぐしゃと軽金属だか鉄だか判別できないものを圧縮していると、寝間着のスウェットに着替えた友人がリビングに戻ってきた。
「ああ、えーと、ミサキ」
「なんだ?」
構わずぐしゃりとつぶす。これはスチールだったか。柔らかくて区別がつかない。
「すまん!許してくれ!つい、独り身の感覚で!」
両手を合わせて思い切り頭を下げている。何を言うかと思ったら、そんな事か。
「許すも何も。別にいいって。次からは晩飯いらないときは連絡くれよな、それだけだ」
箱の中にあった缶が空になった。リサイクル用のゴミ箱は、綺麗に五分の一ほどの量に圧縮されていた。
フライパンと皿の上には半分ほどまだ残っている。手元の飲みかけのビールを一気に喉の奥に流し込むと、水洗いの後に片手でぐしゃりとつぶして、同じ様に紙にして箱の中へとポイと捨てた。
「ひいっ!」
なんだ、ひいって。
「ご、ごめん!俺が悪かった!」
何言ってんだこいつ。それはさっき聞いた。
「だから、別にいいって言ってるだろ?何をそんなに怯えてるんだよ。俺が酒を飲むのがそんなに怖いのか?」
「いや、だって……怒ってるんだろ?」
怒って……いないこともないが、別にそこまでではない。
「怒ってねえよ。そんなヒステリックな人間じゃねえし。ほら、寝るならもう寝ろよ。飲んできたんだろ?また明日、俺に叩き起こされたいのか?」
「いや……うん。でも、寝る前にそれ、食ってもいいか?」
なんだこいつ。まだ食うのか。仕方のないやつだ。
「食いたいなら食えよ。ビールも買ってあるから、飲みたいなら勝手にしろ」
ソウは嬉しそうに冷蔵庫に駆け寄った。本当にこいつはしょうがない酒飲みだ。また明日、有給取るだなんて呻くんじゃないだろうな。
適当な友人はフライパンに乗っていた匙を使ってアヒージョを掬って食った。すぐに笑顔になって、ビールを缶のままごくごくと喉を鳴らして呷る。
「うめえな。なんだよこれ。店の料理じゃん」
「そりゃそうだろ、そこら辺の店と同じレシピなんだから」
同じ様に作れば同じような味になる。当たり前だ。だが、うまそうに自分の作った料理を食って、ビールに喉を鳴らすこいつを見ていると割とどうでも良くなった。
「食ったら寝る前に歯、磨けよ。俺は風呂に入るから」
「分かってるって、ガキじゃないんだから」
風呂から上がると、ソウはシンクで鉄製のフライパンを洗っていた。食器用洗剤で。
全く、本当にアホか、こいつは。
そういえば、弁当箱を受け取っていない。やはり馬鹿だ。こいつ。
(ここか)
昼間は少しヒマだと言ったら、ソウから例のジムの回数券を渡された。
マンションのすぐ近くにあるビルの中で、二階から四階までがトレーニングジムとなっているようだった。
来る前にある程度、どのようなトレーニングが有効なのか、ネットで調べてきた。実に便利な世の中である。
入口で回数券を渡して、寝間着にも使っているシャツとハーフパンツに着替えて中へと入った。
「おお、いっぱい器具があるなぁ」
ランニング用のだとか、サイクル用のだとかは当然として、特定の部位を鍛えるための、ネットで見て学習したマシンが沢山並んでいる。自重では限界だったので、これは使えそうだ。
とりあえず学習して一番有効そうだと思ったバーベルへと近づく。時間が時間だけに人は殆どおらず、なんだかムキムキのマッチョマンが少し離れた所で黙々とバーを持ち上げているだけだ。
(デッドリフトだったか)
放置されていたバーベルに近づいて、腰を落として両手で掴む。胸を張った状態で膝まで持ち上げる、だったか。
ひょい、と持ち上げた。軽すぎる。これではトレーニングにならない。ちょっとバーについている重りを見ると30キログラムだった。両方で60キログラム。これでは軽すぎる。
きょろきょろと周囲を見渡すと、重りのおいてある場所があった。近づいてみると、一つ20キログラムの重りが沢山置いてある。これだよ、これこれ。
とりあえず6つひょいと持ち上げてバーベルの所へと戻る。これ、どうやってつけるんだろう。
うんうん唸りながら観察していると、離れた所でトレーニングしていたマッチョマンがこちらに近づいてきた。
「やあ!お嬢さん!バーベル運動かな?何がしたいんです?」
どうやらトレーナーだったらしい。これは頼もしい。
「ええ、デッドリフトをしていたんですけれど、60キロじゃ軽すぎて。とりあえずこれ、つけようと思ったんですけど、どうやってつければいいのかと」
これをつけたら合計で180キロだ。それなりのトレーニングにはなるだろう。
「……お嬢さん、冗談を言ってはいけません。見た感じ、お嬢さんは体重にしても50キロ程度でしょう?そんなもの、持ち上げたら腰が壊れてしまいますよ」
そんなわけがない。そもそもこれでは軽すぎるのだ。
「でも、これじゃ軽すぎるんです。トレーニングになりません」
60キログラムのバーベルを片手で持ち上げる。ほら、こんなに軽い。
「お、おお!?そ、そうですか。いや、いやいや。どこにそんな筋肉が?ちょ、ちょっとまって。これ、60キロですよね?」
そうだ。そう書いてあるではないか。トレーナーが何を言っているのだ。
「わかりました。私が見ていますので、順番に重さを上げていってください。いいですね?」
「はあ、わかりました」
ムキムキのトレーナーはバーベルの端についていたナットのようなものをくるくると外して、重り、プレートというらしいものをバーに取り付けた。
「あっ、そうやるんですね。ありがとうございます」
「……今で100キロですよ?大丈夫ですか?デッドリフト、ですよね?」
「はい!フォームがおかしくないか、見ていて下さい」
足を広げ、ぐいっとバーベルを持ち上げた。まだ軽い。
「まだ軽いですね。もっと重くして下さい」
トレーナーは黙って再びプレートを加えた。締め終えたのを確認して、もう一度持ち上げた。
「うーん、これ、本当に重量増えてます?あと4つぐらいつけてください。負荷にならないです」
再びトレーナーはプレートを、今度は両側に2つずつ取り付けた。これで180キロだ。
ぐいっと持ち上げると、ほんのり筋肉に負荷がかかるのを感じた。
「あっ、これなら多少いいですね。でも、まだちょっと足りないです。あと2つ」
「ええ……いや、ちょっとまって下さい、これ以上は無理ですよ。お嬢さん、機械かなにかですか?」
失礼なことを言う。この豊満な肉体のどこに機械的要素があるというのか。
「このジムにはこれしかないんですか?折角来たのに……」
ソウが買った回数券が無駄になってしまう。来てもトレーニングにならないのでは全く意味がない。
「わかりました、こちらへどうぞ」
マッチョマンは先程彼がいた場所へと自分を案内した。そこに置いてあったバーベルを見て、ほっとする。
「なんだ、あるじゃないですか」
しかし、トレーナーらしきマッチョマンは筋肉を震わせて言った。
「これはかなり鍛えた、大会に出るような人が使うバーです。デッドリフトは兎も角、ベンチやスクワットは……」
「ああ、バーベルの運動のひとつですね。やってみてもいいですか?」
何もデッドリフトに拘る必要はない。他にもバーベルを使った運動はいくつもあるのだ。折角トレーナーがいるのだから試してみよう。
「はあ、構いませんが。……え?いや、いきなり300キロは……ああ、ええっ!?」
担いでぐいっと持ち上げると、これは良い。自重トレーニングでは決して得られない負荷が身体にかかる。これはキくぞ。いいぞ、もっと、もっとだ。
ぐいぐいと屈伸運動をする。程よい負荷が尻と太ももにかかる。これは効果的だ。
「ふう、なかなかいいですね!それじゃ、次はベンチプレスでしたっけ?ええと」
「あっ!危ないので最初は」
寝台のような所に横たわって、かかっていた同じ重量のものをひょいと持ち上げる。胸まで引き下げてから、ぐいっと上げる。
「おっ!これもいいですね。胸と腕の外側が鍛えられている気がします。いやあ、自重トレーニングではこうはいきません」
ぐいぐいと何度も持ち上げて、満足したところでフックに戻した。
「良いジムですね!もっと他の、鍛えたい所に合わせたマシンとか教えてもらえますか?」
他に自分以外のトレーニーはいない。暇そうな彼に出来るだけ教えてもらって、使えるだけ使い倒してしまおう。
沢山のマシンで身体のあちこちを満遍なく鍛え、満足して家路につく。流石はトレーニングジムだ、足りないと思った所全てを鍛えることが出来る。
しかし、あと数日も続けてしまえばもうあそこでは物足りなくなってしまうだろう。
だが、それでも十分だ。これ以上鍛えた所で使い道は無いし、せいぜい使わなくなったフライパンを折り曲げて金属ゴミを小さくする程度の事ぐらいしかできないだろう。
それにしても、ソウのあのフライパンの扱いには呆れた。テフロン加工のステンレスではないのだぞ。鉄だぞ、鉄。
帰りに夕食の買い物を済ませてから、マンションのエントランス前へと入る。
「……また来たんですか。今度は何ですか?」
あの女が待っていた。呼び出したばかりなのか、ソウの部屋番号が液晶画面に表示されている。
「タニグチとかいう男を逮捕した」
「はあ?」
今更、辞めた職場のセクハラ男がどうなろうとどうでもいい。一体何を言いに来たのか。
「お前を探っているうち、タニグチのスマホからお前の盗撮映像が見つかった。恐らくロッカーで撮影されたものだ。私が追いかけているのとは全くの別件だが、昨年から施行された性的な姿態を撮影する行為等の処罰に関する法律に則って裁かれる」
「盗撮……あっ」
そういえば、タニグチのロッカーが少し開いたままになっていた事があった。あれか。しかし、盗撮……。
「心当たりがあるのか。まぁ、いい。卑劣な犯罪である事は確かだ。今日来たのは、それを伝えるためだ。じゃあな」
去っていこうとするミズキ。いや、待て。それだけなのか。
「それって、親告罪じゃないんですか?罪状はわかりましたが、裁判とかは」
鬱陶しそうに振り返ったミズキは、手を振って言った。
「三年以下の拘禁もしくは300万エン以下の罰金。非親告罪だ。お前が何かする必要は無い。証拠は明白だし、略式起訴は絶対。多分、会社も懲戒解雇だろう」
「そうですか」
どうやら本当にそれだけだったらしい。年増の女はスタスタと出て行ってしまった。映像がどうなるのかは少し気になったが、まぁ、多分警察で処分されるのだろう。
カードキーを使って中に入り、エレベーターに乗る。盗撮。
あの女は、それだけを伝えるためにここまでやってきたのか。
単に自分に不快感を与えるだけとも考えられるが、どちらかといえば事務的な口調だった。そして、卑劣な犯罪だとも。
彼女は普通に世の中の悪が許せないのだろう。だから、警察官になり、勘違いをしてでも自分を追いかけ、卑劣な犯罪の行く末をこちらに知らせてきたのだ。
別段あのタニグチがどうなろうとも構わない。下着姿の動画を撮られようが、個人的にはどうでもいい。ネットにばらまかれさえしなければ。
待て。
動画を、ネットにばらまく。
あの、鳥モドキ、いや、恐竜との戦いをネットにばら撒いたのは誰だ?
素直に考えれば、あの時三階で助けた職員その他の中の誰かだというのはわかる。最後の一匹を路上で仕留めた時の映像も入っていたのだ。
誰だ?警察ならすぐに特定出来るだろう。だが、ミズキは一言もその件について触れていなかった。
中に入って玄関の鍵を掛けて、靴を脱いでキッチンの中にある冷蔵庫に食材を入れる。すぐに荷物を漁って、あの記者に貰った名刺を取り出した。
あの男なら、恐らく誰が撮影したかは突き止めているはずだ。スマホを通話モードにして、タッチパネルから番号を呼び出す。
呼び出し音が鳴っている。5秒。10秒。出ない。取込み中か。暫く経ってから、待受の留守番電話サービスモードへと移行した。
「イグチさん、あの動画を撮影したのは誰ですか?ばら撒いたのは誰ですか?気がついたら連絡を下さい」
そう言ってから通話を切った。
気にも留めなかった。撮影した人間がどうであれ、好奇心旺盛な誰かだろうと思っていた。だが、今になって考えればおかしい。
事実を公表しようとしたにしろ、何故動画サイトにアップしたのだ?
普通なら、そんなことをする前に警察にそれを見せる。職員であったのならなおさらだ。公僕である。警察とは仲間のようなものなのだ。
不届きな職員が稀にいるというのは理解している。だが、誰が撮影したのかすぐにバレるような動画を不特定多数に向けて公開するなど、バレたら懲戒免職だ。わざわざそんな危険を犯してまでするような事か?
スマホが震える。着信だ。イグチの番号が表示されている。
待て。
待て待て待て。
ぞわぞわと鳥肌が立つ。これは、本当に、あのイグチか?
通話表示をタップして、耳に当てる。何も聞こえない。
相手はこちらが誰か承知している。もしイグチなら、何か声を発するはずだ。だが、繋がっているイグチのスマホの向こうにいる人間は、何一つ、言葉を発するどころか呼吸音さえ聞こえない。
今更ながら、迂闊に留守番サービスに声を残してしまった事に後悔する。この電話を掛けてきた相手は、こちらの声を聞いて掛け直してきたのだ。
イグチの知っていることをどれだけ知っているか、確認するために。
向こう側の音は何も聞こえない。背景音すら聞こえない。
じっとしたまま、時間が経つ。こちらから声は出せない。これは、恐怖だ。得体の知れない相手がイグチのスマホを使っている。それはつまり、そのイグチ自身の身に何かが起こったという事だ。最悪、いや、多分、殺されている。
唐突にぶつりと通話が切れた。ツーツーという電子音が聞こえている。
こちらも通話を切ってスマホの画面を見た。通話時間57秒。およそ1分。
電話番号でこちらの存在場所が明らかになるか?答えは否だ。ただの番号だけではそれは不可能だ。
スマホの画面をスワイプして、位置情報がオンになっている事を確認して、一応切った。
ハッキングの可能性は低い。それ以上の、例えばGPSを使って位置を特定されるような事があれば、電源が入っているだけでアウトだ。スマホの設定で操作できる位置情報のオンオフは関係ない。
だが、それが出来るのは司法などの特定権力だけだ。ミズキがここにいるこちらを見て驚いた以上、警察は流石にそこまでしているわけではないようだ。
ミズキ自体は異端だ。他の警察官がこちらを全く無視している以上、他の誰かが自分を追いかけているとも思えない。
大丈夫だ、ここは安全だ。引っ越した事になっているのは女の自分ではなく、男のミサキ・カラスマという事になっている。声であの動画、というだけで特定される事は無いだろう。
だが、待てよ。
イグチからこちらの情報を吐かせていた場合はどうなる?
サイオウジのあの部屋にいたのは女のカラスマ、そして男のカラスマはその後、このマンションに移動。住民票なんてのは小細工をすれば結構簡単に他人でも見れてしまうのだ。
やばい、どういうことだ。悪い方に考えれば考えるだけ、不安が増してくる。
すぐにソウに電話をかける。呼び出し音が鳴る。二回、三回、早く出ろ、早く出ろ、頼む、出てくれ。
『もしもし?どうした?』
出た。生きている。ほっとしたが、すぐに要件を伝える。
「帰って来る時、誰かに付けられていないか気をつけろ。出来るだけ人通りの多い所を移動しろ。それと……寄り道はするな」
『なんだ?わかったよ』
通話は切れた。大丈夫か。
イグチはソウの情報も得ていた。そこからこの場所が漏れていたら?もし、待ち伏せされたら?
怖くなった。ダメだ、どうしよう。ソウが殺されたら、俺は一体どうすればいい?ダメだ、絶対にそれはダメだ。
スマホとカードキーを握りしめて、急いで階下へと降りる。そうだ、簡単じゃないか。これだけ鍛えているんだから、俺がソウを守ればいい。なんで気が付かなかったんだ。
この力さえあれば、何が相手であろうとも捻り潰してみせる。この力はその為にあるのだ。そう、今ここで分かった。これは、誰かを守るための力であると。
駅の入場券を買って、親友が電車を降りてくるのを待つ。いくつか本数を見送って、改札近くの車両からソウが降りてくるのが見えた。相変わらず適当な格好だが生きている。
安堵感から駆け出した。思わずその細い腰にしがみつく。
「ソウ!良かった!不安で不安で、どうしようかと」
しがみついた状態で、上から声が降ってきた。
「おい、ミサキ。やめろ、こんなとこで」
そうだ、人目がある中で目立ってしまうのは良くない。もしかしたら自分の顔を知っている人間がいるかもしれないのだ。
「あ、ああ、ごめん。……ええと」
友人の後ろに、スーツ姿の男性が呆気にとられたような顔で立ち尽くしている。誰だ?
「後輩の、モリヤ。悪い、晩飯一人分増やしてくれるか?」
なんだ、そりゃあ。
友人より少し背の低い丸顔の男は、申し訳無さそうに頭を下げた。
「サメガイさん、食事に行きません……あれ?弁当っすか?」
高層ビルの一角、開放的なオフィス内のデスクで、時計が12時を指した瞬間に、ソウ・サメガイは居候の友人が作ってくれた弁当を目の前に置いていた。
「そうだよ。外食ばっかりすんなって、友達が」
「それ、その人の手作りっすか?めっちゃ凝ってますね」
丸顔の後輩であるモリヤが、ソウの開いた弁当箱を覗き込んだ。
「ああ、料理上手いからな。晩飯も手作りだし、すげー助かってる」
「へー、いいっすね。友達って、なんでまた」
「ちょっと理由があってな、うちにいるんだ」
ソウは弁当に入っていた白いふわふわしたおかずを一つ、箸で摘んで口に入れた。
「うん、うまい。どんな料理かわからんが、牛丼なんかよりよっぽどいいな」
黙々と弁当を平らげている適当な男に、後輩は物欲しそうな目線を向けている。
「いいなあ。あっ、俺、外に食いに行ってきますね」
「おう、いってらっしゃい」
オフィスを出て行った後輩を見送って、男は再び弁当に向き直った。
忙しない時間を通り過ぎ、残った仕事をゆったりと片付けていたソウは、デスクの上で振動したスマホを持ち上げた。隣では後輩のモリヤが大した事のない仕事に四苦八苦している。
「もしもし?どうした?」
『帰って来る時、誰かに付けられていないか気をつけろ。出来るだけ人通りの多い所を移動しろ。それと……寄り道はするな』
「なんだ?わかったよ」
良く分からない友人からの忠告に、男は怪訝な表情でスマホを眺めている。
「こないだの事、怒ってんのかな」
呟きが聞こえたのか、隣のモリヤが手を止めた。
「なんすか?サメガイさん。例の料理上手のお友達からっすか?」
「ああ、なんか、寄り道せずに帰ってこいって」
「なんすか、それ。奥さんみたいっすね」
「うるせえよ」
スマホを置いて端末に向き直ったソウは、先程の言葉の意味を反芻していた。
(付けられていないか、人通りの多い所を、って、俺は若い女かよ)
まるでストーカー被害を恐れるか弱い乙女のようだ。しかし、あの友人が言うのだから何か意味があるのだろう、と、ソウは思い直した。
「わりい、今日、まっすぐ帰るわ」
「え?飲みに行かないんすか?」
「こないだ連絡せずに遅くなったらこっぴどく叱られてな。なんで、帰る」
いつまでも終わらない作業を適当に切り上げて、ソウは端末の電源を落とした。
「あっ、まっ、待って下さい。そんなら、サメガイさんのとこ、お邪魔してもいいっすか?」
「はぁ?なんでそうなるんだよ」
迷惑そうな顔を向けた先輩にも、丸顔の後輩は怯まない。
「いいじゃないっすか。ご友人にもご挨拶したいんで」
「必要ねえだろ。なんでお前が挨拶に来るんだよ」
「まあまあ、こないだ連れ回したお詫びってことで。俺が連れ回してすいませんって言えば、そのご友人も矛を収めるでしょ?」
「そりゃあ、まぁ、そうだけど」
大層な夕食を用意してくれていた友人に、彼はどうにも後ろめたい気持ちを捨てきれずにいた。何となく、少しでも罪悪感を分散させるにはその方が良いのかもしれない、と思い直した。
「分かったよ。でも、泊めないからな。客用の部屋は今そいつが使ってるんだから」
「勿論っす!お邪魔します!」
調子の良い奴だな、とソウは言いながら、ミサキの電話番号を呼び出してかけた。便所に行っているのか、外で気付いていないのか、着信音は鳴っているがミサキは出ない。
(まぁ、いいか。気付いたら折り返して来るだろ)
タイムカード代わりの社員証を入口の端末にきっちりと定時で通して、他の同僚におつかれさん、と言いながら、先輩と後輩は駅に直結しているビルのエレベーターに乗り込んだ。
「あー、電話したんだけど、出なかったろ?知らせようとはしたんだけど」
スマホを見ると、たしかに着信が入っていた。電車の音で気が付かなかったのか。
「そっか。まぁ、いいけど。どうせ二人分も三人分もそう変わらないし」
後輩のモリヤという男は、こちらを見てやたらと緊張している。
「あー、えっと、モリヤさん?私、カラスマと言います。ソウがいつもお世話に」
「世話してんのは俺だよ、俺」
「分かってるよ。定型句だろうが」
適当なのだからその辺も適当にしてくれれば良いものを、妙にこだわる所があるのだ、こいつは。
「あ、あの、は、初めまして。先輩の後輩のモリヤっす。よ、よろしく」
ソウが先輩なのだから彼が後輩なのは当たり前だ。意味のわからない言い回しに曖昧に微笑んで、ソウの隣に寄り添って歩く。
「おい、近いぞ」
「いいから」
マンションの中であればそう滅多なことは無い。だが、帰り道で車に拉致されたり、物陰からいきなり襲いかかって来られては対応が遅れる。
『なんだよ、どうしたんだよ』
『後で話す。どうにもヤバい感じがする』
ささやき返した後、後ろからこちらを見ていたモリヤににっこりと微笑み返す。まさかこの男が、という事は無いだろうが。
見た目は普通のサラリーマンだし、鍛えているようにも見えない。まさかずっとソウを監視していたということはないだろうから、この男はシロだと見ても良いだろう。
ずっと隣に寄り添ったままマンションでカードキーを通し、中に入って流石にほっとした。ある程度セキュリティの高いこの中にまでは入ってこない、とは100%言い切れないが、一つの山を越えたことは間違いない。
ほっとして少しソウから離れて歩く。とはいえ、マンションの廊下はそう広くないのであんまり変わらないのだが。
部屋に入り、ダブルロックがかかった所で漸く身体の力を抜いた。もう大丈夫だ。
「すぐ支度するから」
夕食の準備は既に出来ているので、あとは少し火を通すだけで終わる。冷蔵庫から500ミリリットルのビールとグラスを二本ずつ取り出してテーブルに置くと、チルド室に入れておいた、鰹節と昆布とちりめんじゃこを和えて、山椒をふりかけたものを小鉢に入れて出した。突き出しである。
ソウと後輩君の上着を預かってハンガーにかけ、ハンガーラックにかける。放って置くとこいつはそこら辺に脱ぎ捨てるので皺になるのだ。
「ごゆっくり」
学生の頃に居酒屋バイトで覚えた営業スマイルで二人に微笑みかけると、鍋にかけていたラップを外してIHのスイッチを入れた。
暫く二人は大人しく突き出しを箸でつついていたが、後輩のモリヤが突然立ち上がってこちらに腰を折った。なんだ、いきなり。
「あ、あの!すいません!こないだ先輩をいきなり飲みに誘ったの、俺なんす!それで、サメガイさんが帰宅遅くなったから叱られたって聞いて」
ああ、あの時はこの後輩君と飲んでいたのか。もう別に何とも思っていないので問題は無い。わざわざ謝りに来てくれたのか、律儀な男である。
「気にしないで下さい。連絡を怠ったソウが悪いんですから」
彼はこちらが夕食を用意しているなどと知る由もなかっただろう。知っていたのはソウだけだ。故に、こいつが悪い。
後輩君はああとかううとか言った後に再び座り込んだ。この程度の事をあまり気にされても困る。本当に大したことではないのだ。
すぐに鍋の中のものは温まったので、大ぶりの鉢に入れて二人の前に出した。
「イカと里芋の煮物です。好みで七味を振って召し上がって下さい」
じっくり煮込んでいたので味は滲みているはずだ。自分もキッチンで鍋から小皿に取って、缶からグラスにビールを注いだ。
今日は何ともなかったが、明日も同じとは限らない。どうしたものだろうか。
毎日自分が会社まで送り迎えをするべきだろうか。しかし、それでは電車代が……いやいや、大切な友人の身の安全には代えられない。そうすべきだろう。
「ソウ、あのさ」
会社まで一緒に行く、と言いかけて、後輩君がいたのを思い出した。
「ん?なんだ?」
「……いや、後で話す」
女が会社までついていくなんてのを後輩に聞かせるわけにもいかないだろう。こいつにだって先輩の威厳というものがあるはずだ。例えそれがソウの命に関わることだとしても、第三者はそんな事全く知らないのである。軟弱な男だと思われては流石にソウが可哀想だ。
小一時間ほど、料理を食って酒を飲んだ後輩君は、どこか慌てて帰っていった。多分、元々は謝りたいだけだったのだろう。
「で?どうしたんだよ」
「ああ、ちょっとな」
ワンルームの部屋に戻った時にあのイグチとかいう男に会った後の話をした。
「ふむ、それで、そのイグチって奴のスマホからお前にかかってきたと」
「そうだ。多分、イグチは……」
言うまでもないだろう。県警の警部補が目を血走らせて追いかけている程の権力者か何かにどうにかされたのだ。一番分かりやすく言えば、始末された。
「考えすぎじゃねえか?トシツグ君とか、会社の人は無事なんだろ?」
「え?……ああ、そうだな」
自分の事を知っている弟も課長も部長も、何かあったとは聞いていない。
「それに、あの事件でお前の知ってる事って、大体生き残った庁舎の人も知ってるんだよな?俺を口封じするぐらいなら、まずはそっちに行くんじゃないか?俺の知ってる事ってのもその人達と大差ないはずだし」
「……そうだな」
「イグチが例え殺されたとしても、それは探ろうとしたからだろ?俺達が大っぴらにそういう事しない限りは、別に問題ないんじゃねえかな」
言われてみればその通りだ。あの時は気が動転していたせいで思い込んでしまっていたが、冷静に考えればソウの言う通りである。
「すまん、ちょっと過敏に反応しちまったみたいだ」
ソウよりも危ない人は沢山いる。誰かがあの災害……事故を隠そうとしたいのなら、目撃者全ての口を封じる必要がある。そんなことをすれば、恐竜以上の大殺戮になってしまう。
「いいって。そんな事があったんなら俺だって気が動転しちまうと思うし。わざわざ心配して迎えに来てくれたんだろ?サンキューな」
気を使って礼を言う友人に、どこかほっとした。そうだ、少し気にし過ぎだったようだ。
「そうなると次に危険なのはあの警部補だな」
思ったことを口に出す。事件を穏便に収めずに追いかけているのは、あの年増の女も同じだ。警察に属している以上は圧力で黙らされて終わりというのが普通だろうが、それに従わないとなるとどうなるか……。
「そっちも考えたって仕方ねえだろう。大体、あの女の連絡先も知らないし、警告だってできないからな」
「それもそうだな」
別段あの女がどうにかなろうとそれは知ったことではない。タニグチが逮捕されたという事をわざわざ伝えてくれた以上、正義感と責任感の強い人であるというのは分かるが、勘違いでこちらを敵視しているというのは明白だ。まぁ、勝手に死なれては寝覚めが悪いと言えば寝覚めが悪いが。
「風呂、入ってこいよ。こっちは洗い物がまだあるからさ」
「そうか?そんじゃお先して」
友人は下着を持って風呂場に入っていった。こちらはスポンジを泡立てて、鍋と食器のお掃除だ。新品同様の鍋と食器は、軽く擦るだけで簡単に汚れが落ちる。自宅にあった全て鉄の調理器具とはえらい違いである。あれはあれで良い所もあるのだが。
鉄のフライパンは今日は使っていないので、瞬く間に食器の洗浄は終わり、シンクも綺麗に拭いて後片付けは完了した。そういえば、なんでも買う割にはソウはキッチンに食器洗浄機を置いていない。出来合いのものばかりで食器自体をあまり使うことが無かったのだろう。
あまり効果の無いと思われる自重トレーニングをやっているうちに、パンツ一丁でバスタオルを首からかけた友人は出てきた。
「おう、上がったぞ。って、また筋トレしてんのか」
身体から湯気を上げながら呆れたように言ってくる。
「あんまり効果無いと思うんだけどな、まぁ、習慣みたいなもんだし」
最早プランクをしようが身体のどこにも負荷がかかっている感じがしない。鍛えすぎた。
「そういや、ジムには行ったのか?どうだった?」
「ああ、良かったぞ。数日は通ってみようと思う」
あの重り、最大分が抵抗なくなるぐらいまでは効果があると思う。今のペースから行けば4日間ぐらいだろうか?
「そっか、回数券が無駄にならなくて良かったよ。あー、でもな」
畳んでおいてあったスウェットに袖を通しながらソウが言葉を濁した。
「なんだよ」
「いや、ああいうジムってさ、結構教えたがりがいるじゃん?」
「うん?そうなのか?俺が行った時はトレーナーさんの他には老人ばっかりだったが」
時間帯にもよるのだろうが、暇な年寄りが数名、ランニングマシンでゆっくり走っているだけだった。
「あぁ、昼間は大丈夫なのかな。いや、若い女の子が一人でいると、男が寄ってくるだろ。ジムに限らずさ、打ちっぱなしだとかボウリングだとか」
「あー、そういうの、良く聞くな」
余計な教えたがりはどこにでもいる。特に若い女一人だと余計にそうだろう。
「まぁ、大丈夫だよ。少なくとも俺がトレーニングしてて寄ってくる男なんていないだろうし」
「……そうか?そうでもないような気がするが」
何を懸念しているのだか、首をひねりながらもソウは心配そうにしている。
「なんだお前、俺がナンパされるのが心配なのか?」
「……アホか。んなわけねえだろ。お前がカッとなってやりすぎないか心配なだけだよ。ほれ、風呂空いたんだしとっとと入れよ」
「はいはい。自制は利くから大丈夫ですよっと」
襖で仕切られた和室の中、大きな鞄の中から着替えを取り出す。いつもの寝間着と下着だ。
風呂に入ろうとリビングを横切る自分を、何故かソウはじっと見ている。
「なんだ?」
「いや。いっつも鞄から服取り出してるなって思って」
そりゃあそうだろう。そこに入っているのだから当然だ。
「それが、何か?」
「普通、着替えってクローゼットか箪笥から取り出すもんじゃねえの?」
言われて立ち止まり、少し考える。確かにそうだ。
「まぁ、そうだけど。でも別に服の数も多くないし、不便じゃないぞ」
皺にさえ気をつければ別段問題があるわけではない。寝巻きのシャツとハーフパンツは朝になったら洗濯して干して取り込んで、また夜になったら着るだけだ。昼間はいつもの量産店で買った服だし、アイロンがけの必要もない。
「服、買わねえの?」
「必要あるか?」
ない。外面など気にするだけ無駄だ。ドレスコードのある店に行くわけでもないのだ。
仕事をしていればスーツが必要だが、もう自分には無意味なものだ。そういった服を着てするような仕事には二度と就けない。悲しいことだが仕方がない。
「まぁ、そうなんだが……ミサキって、ミサキのまんまだよな」
「そりゃそうだろ。俺は俺だ」
姿形が変わろうが、自分が自分であることに変わりはない。いくら見た目が美少女になろうが、そうそう中身が変わってたまるものか。
「勿体ない気がするけどな。まぁいいや、俺はもう寝るから。おやすみ」
「おう、おやすみなさい」
寝室に向かった友人を見送って、脱衣室に入る。服を脱いで下着を外し、浴室へと入る。
(勿体ない、か)
それは最初にそう思った。これだけ可愛いのに、勿体ないと。
あまりにもダサい下着は流石に気になったが、普段の服装についてはもうそこまで気にならない。そもそも街を歩いていたって、同じような格好の女性はいくらでもいる。量産店で買った服であろうと、顔やスタイルが良ければ妙にファッショナブルに見えてしまうのだ。悲しい現実である。
自分は化粧さえしていない。そんなものをしなくても肌は綺麗だし、睫毛も長いし造形は非常に整っている。天然モノの美しさなのだ。
仕事でもするようになればそれは必要になるだろうが、何度も考えているように、今の自分にそれはもう必要ないものだ。
浴室の姿見を見る。
まるで筋肉が付いていないような身体は肌もぷるぷると瑞々しく、柔らかい。女性らしく丸みを帯びたラインに、大きな胸とくびれた腰、膨らんだお尻にすらりと細長い脚。どうみても華奢な女性そのものだ。
軽く拳を握って、鏡の前で軽くジャブからストレートを放ってみる。凄まじい速さで繰り出された拳は、明らかにこの肉体には似つかわしくない鋭さだった。
(不自然すぎるんだよなあ)
視覚的に華奢な身体に対して、発揮される暴力が釣り合っていない。まるでこの世界の力学の範囲外にいるような、そんな感覚。
マツバラは、異常だと言った。その通りである。
異常も異常、異常というよりも異質と言ったほうがしっくりくるかもしれない。まるで、この世界の人間ではないような。別の種族のような。
(はぁ、馬鹿馬鹿しい)
妄想は自由だ。だが、本気にするには自分は現実世界に親しみすぎている。夢を見る気にはなれない。いっそ夢なら醒めて欲しい。
髪と身体を洗って風呂を出て、拭いたバスタオルを広げて洗濯かごにかける。夜中に洗濯機を回してはご近所迷惑だろう。まぁ、このマンションは防音がしっかりしているので問題はないだろうが。
どうせ日中は暇なのだ。洗濯も掃除も、いくらでもやる時間はある。冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注いで飲むと、歯を磨いてリビングに戻った。玄関へ続く廊下の途中、ソウはまだ起きているようだ。暗い廊下の中、寝室の扉からこぼれ出た部屋の光がうっすらと廊下に筋を作っている。
明日も仕事だろうに、同人誌でも読み耽っているのだろうか。さっさと寝ないと辛いぞと声をかけようと、部屋に近寄った。
「……」
中から聞こえている物音を察して、黙って踵を返した。リビングの照明を消して、和室の襖を閉める。すぐに敷いてあった布団に潜り込んで、リモコンで照明を消した。
聴覚も鋭くなっているせいで、扉越しにもソウが何をしていたのかが分かってしまった。女の身体になってしまった自分には恐らく必要の無い事だ。
きつく目を閉じて、意識的に、無理矢理に眠った。
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