第9話 移転
「今日、一旦帰るのか」
こちらの作った目玉焼きとベーコンの朝食を食いながらソウが言う。
「ああ。今月一杯ですぐに引っ越せるようにしとかないといけないからな。まぁ、荷物が少ないからそんなかからないんだけど」
退去には一ヶ月前に不動産屋を通してオーナーに連絡しておかなければならない。引っ越せると決まったのが今月の頭なので、実際には来月分の家賃も払わなければならない。悲しい。
ただ、不動産屋の立ち会い以前に全て運び出しておけば、先に引っ越しを済ませておいても問題はない。というか、それが普通だ。
「お前って割とミニマリストだしな」
「必要ない物は買わないだけだよ」
着替えはスーツと夏冬の二種類を二着ずつ、あとは寝間着程度だ。場所も取らない。というか、前の服は全てぶかぶかになってしまったので、寝間着以外は殆ど処分せざるを得ない。
そもそもワンルームにはそこまで大きな収納が無いので、昔買い集めていた漫画やゲームも、全てダウンロード購入するようになった。ゲーム機はソウの家にすべて揃っているので、自分のものは持ってくる必要はない。データの入ったSSDとアカウントだけで共有できる。中古屋で売ればそれなりの足しにはなるだろう。
あとは個人用端末とスマホ、歯ブラシなんかの日用品だけである。食器も調理器具も全てこのマンションには揃っているので、古臭い自分のものを持ってくる必要もない。処分だ。
「あー、そういえば明日からお前、仕事だっけ、どうしよう、運び込むの、夜にしたほうがいいか?」
そう聞くと、飯を食っていた友人は黙って机の上に置いてあったカードキーをこちらへ寄越した。
「合鍵だ。持っとけ」
「え?いや、でも、これ」
「実家には一枚渡してあるし、予備だよ、予備。なくすなよ」
「なくさねえけど。良いのか?」
「良いも悪いもねえだろ?ここに住むんだから。まさか引きこもるつもりかよ」
確かにそうだ。こいつが戻ってくるまで外出できないというのは不便過ぎる。買い物だってできやしない。
「すまん、助かる」
「当たり前の事なんだし、気にすんな。ごちそうさん」
流しにソウが持ってきた食器を受け取って洗う。システムキッチンは広々としていてシンクも大きく、実に使いやすい。天国か。
一旦帰って引っ越しの準備をするために、数日泊まっていた親友の部屋を出た。こんなに長居したのは初めてだった。
このタワーマンションは駅のすぐ近くにある。歩いて環状線に乗り、ヤマシロ線へと乗り換える。そういえば、定期は払い戻しをしておかなければ勿体ない。だが、本人確認無しで出来るのだろうか。
電車の椅子に座りながら、やっておくべきことをもう一度確認しておく。
まずは弟に連絡し、手の空いている時にソウの家へ弟のクルマで必要なものを運び込むのを手伝ってもらう。それと、転出届と転入届を出すのにも弟の手が必要だ。
住民票の移動も肉親である弟であれば、こちらの委任状があれば問題ない。本人が居なくてもできるというのは本当にありがたい。弟が理解のある人間で助かった。
職場に置きっぱなしになっている荷物は、イヅミ課長に言って郵送で送ってもらう。顔が割れている以上もう市役所に行くわけにはいかないし、首を切るという選択をした以上、会社も嫌な顔はしないだろう。
各種カードやらなんやらの住所変更も必要だ。送られてきた郵便物は一定期間までは転送されるが、あくまで一定期間だけ、である。郵便物が送られてくる可能性のある所には、早めに変更の申請をしておく。
あとは、マツバラ医師にも引っ越すという報告をしなければならない。自分が本来男であると知っているのは会社の上司二人と弟夫婦、ソウを除けば彼女だけだ。
診察にも色々と便宜を図ってもらえたので、彼女には一応、知らせておいた方が良いだろう。自分の血液成分や体力測定などのデータを持っているのも彼女だ。何かあったら再び世話になる事があるかもしれない。
とりあえず、弟に連絡だ。ワイアードを開いて、個人チャットに要件を打ち込む。
『会社、クビになったし自宅周辺にもマスコミがうろついてるから、引っ越すことにした』
休日だったのですぐに既読がつき、返答があった。
『どこに?』
『ソウのとこ。あいつにも話した』
『そっか、わかった。なんか手伝うことある?』
『暇な時でいいから、平日に住民票を移すのを手伝ってくれ。あとは引っ越しに車を出してくれれば助かる』
了解!と、姪のウミが額に手を当てている写真のスタンプが送られてきた。思わず微笑んでしまう。
自分は車の免許を持ってはいるものの、運転する事は殆ど無い。駅の近くに住んでいると、全て電車の移動で必要な所には行けてしまうのだ。
レジャーや旅行に行くなら欲しいだろうが、そもそも独り身である。ソロキャンプなどの趣味は無い。故に、取った当初に乗り回していた中古車はとっくに売ってしまった。ペーパードライバー歴はもう12年である。
今の身体では車を運転するわけにはいかない。身元が確認できないので、無免許運転になってしまう。免許不携帯ではない、無免だ。
小一時間ほど電車に揺られて、地下鉄を乗り継ぎ、漸く元の部屋へと戻ってきた。
少し前の通りで様子を見ていたが、休日のせいか、周囲に記者らしき人間の姿は見えない。小走りで入口に近付き、オートロックのエントランス扉の前で鍵を取り出した。
「失礼、貴女、こちらにお住まいの方ですよね」
後ろから声を掛けられた。振り返って見ると、あまり背の高くない、無精髭を少し生やした四角い顔の男がこちらを見ていた。
一体どこから出てきた?と脇を見て、納得した。こいつは、建物脇にある自転車置き場に隠れていたのだ。身体を隠して人を待っている輩にまともな人間はまずいない。探偵業か、記者か、あるいは警察官か。
「……そうですが、何か?」
無視するというわけにもいかない。一応返事をする。
「このワンルームマンションに、カラスマって人が住んでいるかどうか、知りませんかね?」
知るも知らないも、本人である。
「いえ。基本他の住人の事は知りませんので」
普通、こういった賃貸住宅で近隣の顔と名前を覚えている者は少ない。いつの間にか引っ越していつの間にか入居している事が殆どで、引越しの挨拶なんかもまず無い。不動産屋に騙されて高額な挨拶品を持ってくる学生はたまにいる。
「そうですか?貴女の顔、見たことがあるような気がしますが」
知っていたのなら最初からそう声を掛ければ良い。鎌をかけようが何をしようが、その時点でもうさよならだ。
「そうですか、急ぎますので、失礼」
入口脇にある鍵穴にピンシリンダー錠の鍵を差し込み、捻る。電子錠が開く音がして、エントランスに入る。
「入ったら不法侵入ですよ。警察を呼びます」
続いて付いてこようとした男を止めて、押し返す。力でこちらに勝てるはずがない。外に押し出して、扉を閉めた。オートロックのかかる音がした。
「あの!すみません!お話だけでも!」
郵便受けを覗く。何も入っていない。恐らく、トリモチのようなものか何かで漁られた。数日間留守にしていたのに、ダイレクトメールやチラシの一枚すら入っていないのは不自然すぎる。普通は探偵なら不必要なチラシなんかは戻すものだ。素人か。
尚も何か言っている男を無視して階段を上がる。住所はタニグチのせいで割れているのだが、念の為足音を殺し、扉は静かに開け閉めした。当然、窓に面しているリビングの照明など点けたりはしない。帰って来たのがどの部屋だか一発でバレてしまう。
元々外出時にはカーテンは閉め切っている。薄暗い部屋の中で荷物を下ろすと、やっとの事で一息ついた。
あの動画は、動画サイトのサブウェイではアップロードされる度に消されている。性懲りもなく何度も上げている者がいるのでいたちごっこだが、一応は拡散の防止措置を取られているようだ。
ネットのニュースでもあの災害は全く報道されなくなった。不気味なほどに静まり返っている、まるで報道規制を敷かれているようだ。
SNSの一つであるウィスパーライン、通称wis上では、まだ自分の動画や災害の話題に触れている者は沢山いる。当然だ、人の口に戸は立てられない。しかし、一時期に比べれば明らかに数は減った。ソーシャルネットというのは情報が次々と流れるため、人の興味もどんどん新しい方へと流れていくのである。
データは残り続けるのでスティグマとなりやすいが、忘れられるのもまた、早い。自分が迂闊に顔出しでwisに書き込んだりしない限りは問題ないだろう。
インターホンのチャイムが鳴った。カメラには、先程の男が映っている。
『すみません、カラスマさん。私、『週刊秋藝』の記者で、イグチと申します。少し、お話お聞かせ願えないでしょうか』
男は身分証を取り出して言った。社員証だが、どこまで本物だかわからない。本物だとしても、面白おかしくゴシップ記事を書く週刊誌の取材になど答えるわけがない。大方あの動画を見て、美少女戦士に突撃!みたいな記事でも書こうというつもりだろう。
こちらがこの部屋にいるという事を教える必要もない。そのまま応答ボタンも何も押さずに放置した。時間切れでカメラの映像は切れた。
また鳴った。
『ヤマシロ市役所の事件について調べています。少しで良いので、お話を』
しつこい。答えると思っているのか。そのまま無視してトイレに入った。パンツとショーツを下ろして便座に腰掛ける。
またインターホンが鳴っている。壁の向こうなのでもう何を言っているかは分からない。聞こえるのは便器に当たる自分の小水の音と、回る換気扇の音だけだ。
用を足し終えて、洗面所で手を洗う。鏡を見て、ふと重要な事に気がついた。
しまった、買い物をしてくるのを忘れていた。
冷蔵庫にはもう食材が無い。遠くに出かける時にはきちんと空にしておく習慣が仇になった。飲み物だけは辛うじてあるが、まさか腹を空かせたまま眠るわけにもいかない。
近所のスーパーに出かけたいが、出る時は階段室から裏に飛び降りれば良いとしても、戻ってくる時はそうはいかない。絶対にあの記者に掴まってしまう。
別に無視すれば良いのだが、流石に二度も顔を合わせるのは嫌だ。一体どうしようか。
薄暗いリビングに戻ってくると、またインターホンが鳴った。懲りないものだと画面を見ると、なんと部屋の前の廊下が映っている。今、この男がいるのはこの部屋の扉の向こうだ。一体どうやって入った。
ちょっと考えたが、良く考えれば簡単だ。他の住人が入ろうとする所に、後ろからついて入ったのだ。
自分も言った事だが、住人たちは基本的に住んでいる人間の顔を知らない。自分が入ろうとした時に、同じように入ろうとしている人間がいたとすれば、普通に住人が帰って来たのだと思うだろう。疑問にも思わず一緒に通すに違いない。
最低だ。不法侵入ではないか。共用部でも不法侵入や不退去罪は成立するんだぞ。
流石に我慢できなくなってインターホンの応答ボタンを押した。
「どうやって入ったんですか。不法侵入ですよ。今すぐ、出ていって下さい」
『そう言わずに。少しだけで良いですから』
「警察を呼びますよ。不法侵入に不退去、立派な犯罪です」
『どうぞ、ご自由に。この部屋に居ないはずの貴女が警察を呼んで、面倒くさい事にならないと良いですね』
こいつは。
こっちの事情をある程度把握してきている。確かに、警察に身元を調べられて困るのはこちらだ。あのミズキは一片たりとも信じなかったのだ。痛くない腹を探られるのはもう懲り懲りだ。
「……何が聞きたいんですか」
『入れてくれませんか?外だと他の方に聞かれてしまいますよ』
厚かましい。だが、確かにその通りだ。他の住人にあの動画の人間がここに住んでいるなどとバレてしまえば、瞬く間に情報が拡散してしまう。どんな人間が住んでいるのか分からないのだ。
仕方無く、扉のロックを外して開けた。外に居た男は嬉しそうに部屋の中へと入ってきた。
「お茶は出しませんよ。湯呑もありませんし」
「結構結構。コケコッコー。話だけ聞ければさっさと帰りますんで」
イグチと名乗った男は安物の絨毯の上にそのまま腰を下ろした。仕方無く、自分はベッドの端に座る。
「改めて、私、こういう者です。記者をしておりまして」
名刺を差し出してきたので受け取った。『週刊秋藝 社会部記者 ノリオ・イグチ』。
「それで?週刊誌の記者さんが、私に何の用ですか?私のスリーサイズでも聞きに来たんですか?」
全く笑っていない目でそう言うと、イグチはヘラヘラと笑った。
「出来ればそれもお聞きしたいんですがね、私が大雑把に聞きたいのは一つ。あの動画、本物ですか?」
あれが合成だとしたら相当なAI理解力と編集力を持っているものの仕事だろう。勿論、できないことはないだろうが。
「本物ですよ。あの化け物を殺したのは私です。それだけですか?」
だったら早く帰って欲しい。いくらゴシップ記事だとは言え、余計なことを書かれては気持ちの良いものではない。しかし、無精髭の男はその答えに満面の笑みを浮かべた。
「そうですか!やはり、そうですよね!あの撮影角度からでしたら、カラスマさんの自演という事はありえません。そうか、やはりな。警察も消防も、あるいはもっと上か。隠しているな。ありがとうございます!それで、ついでと言っては何なんですが」
まだ聞きたいのか。この男、どうやらあのミズキと同じように、あの災害の何かを追いかけているのか。
「貴女を庇おうとする人に、心当たりはありませんか?いえ、従兄弟のカラスマさんだとか、彼のお友達の議員の息子さんとかではなく、もっともっと、大きな組織として、です」
そこまで調べているのか。案外と優秀な記者だ。
「心当たりがありませんね。そもそも、なんで」
言おうとして口を止めた。その事を、この記者が知っているかどうかわからない。迂闊に情報を与えるのは危険だ。しかし、イグチは笑った顔のまま、こちらの言葉を継いだ。
「なんで、死骸が消えた、持ち去られたのか、でしょう?」
こいつは、一体どこまで知っているのだ。
「動画に映っているアレ、アレね、恐竜ですよ。専門家に聞いたんで間違いないです。名前は、えー、なんて言ったかな……ああ、あった。エスミオプテリクス・シノス。獣脚類、羽毛が生えていた可能性。いや、これはいいか。兎も角、あれは恐竜なんです。大発見ですよ」
それはそうだろう。遥か大昔に滅んだとされているものが目の前に現れたという事になる。大発見どころか、古生物学会がひっくり返る出来事だ。
「それで、ですね。その恐竜が、人を襲って、死骸が密かに持ち去られた。これは事件ですよ。ただの災害じゃない。絶対に何か裏があるんです。私はそれを調べているんですよ」
成程、確かに彼が興奮する理由も分かる。人文・科学部ではなく社会部が動いているのも、何か陰謀めいたものが動いていると察知したのだろう。
「そうですか、頑張って下さい。残念ながら、私を庇おうとする偉い人に心当たりは無いです。事件を隠そうとしているのは、多分私を庇おうとしているんじゃなくて、単に大騒ぎになると都合が悪いからでしょう」
間違いない。この男の考えている事は概ね正解だろう。ただ、それがパニックを防ぐためなのか、何らかの失敗を隠そうとしているのか、あるいは情報を独り占めしようとしているのかは分からないが。
「全くもって、その通りです。都合が悪いんですよ、嗅ぎ回られちゃ。お陰で県警のパイプを一つ失うところでした、危ない危ない。いや、ありがとうございました!また、何かあったら名刺の携帯に電話下さい。些細な事でも結構ですので!では!」
すぐに帰る、との言葉通り、男はそそくさと帰っていった。週刊誌の社会部の記者らしく、嗅覚は鋭いようだ。世間からひた隠しにされようとしている事を探ろうとしている。
兎も角、あまり自分の事を記事にされるような内容でなくて助かった。安心したら腹が減った。そうだ、買い物。
財布と鍵を握りしめて表へ出た。恐竜だろうが鳥モドキだろうがなんだろうが、どうでもいい。自分に必要なのは、戸籍がなくてもある程度安心して生活のできる所。可能であれば安定した収入があれば尚良し、それだけだ。
引っ越しの準備は然程問題も無く済んだ。住民票を移すのも弟に委任状を渡せば、弟の身分証明はしっかりしているので全く問題はない。
市役所に置いてあった荷物も届いた。ただ、着払いになっていたのだけは腹がたった。そちらの都合で首を切っておいて、輸送費すら出さないのか。
イヅミ課長は荷物を纏めてくれるようにお願いした時、しきりに謝っていた。彼も事実を知っている以上、申し訳ないとは思っているのだろう。だが、会社の決定ならば逆らえない。
持っていく荷物も纏め終えて、捨てる物は捨て、売れるものは売った。部屋の掃除も済ませて、ガランとなったフローリングのリビングには。あとは持ち出すだけのダンボールが二箱、残っているだけだ。
(そうだ、マツバラ先生)
産婦人科の医者に挨拶に行っておく必要があった。事務手続きや引っ越しの事ばかりで、挨拶みたいなものは後回しになっていたのだ。
マツバラ産婦人科は空いていた。受付に診察券を出して程なくして、診察室へと呼ばれた。白衣の女医は相変わらず、美しい顔の中、鋭く収まった瞳に、深淵な知性の色を湛えている。
「実は、カワチ県に引っ越すことになりまして。その、ちょっと顔が知られてしまったというか」
マツバラは、分かっていると言う風に頷いた。
「例の動画ね。市役所という事でまさかとは思ったけど。あれ、本物?」
「本物です。ただ、あんまり言わないほうが良いと思います。隠そうとしている人がいるみたいで」
自分から探っている記者であれば兎も角、この善意の女医に被害が及んでは困る。彼女はただ、自分に巻き込まれただけの医者なのだ。
「そう、心得ておく。それで、引っ越すって。親戚か何かのお家?」
「いえ、子供の頃からの友人です」
マツバラはそう、と頷いて、少し考える仕草を見せた。
「その、お友達って、男性?」
「男性ですよ?」
当然だ。そんなに長く付き合っている女性がいたとしたら、まずそれは友人ではなくなっているだろう。
「……そう。ええと、戸籍の無い人間から産まれた子っていうのは、大変な思いをするって、知ってる?」
「は?はあ、そりゃもう。今、自分で嫌というほど実感していますよ」
大人になった自分でさえこうなのだ。子供の頃からだったとすれば、怖くてそんな事想像も出来ない。社会の恩恵を殆ど受けられずに生きていかねばならないのだ。
「そう、それじゃ、避妊は確実にする事。わかった?」
「……ああ、はい。そういう意味ですか。大丈夫ですよ、あいつとはそういうのじゃないんで」
こちらの尻を見ただけで狼狽えるような童貞に、何が出来るわけでもない。自分もどうこうされるつもりはサラサラ無い。
「相手はそうは思っていないかもしれない。元が男だとは言え、貴女のように若くて美しい女と四六時中暮らしていて、冷静で居られる男なんて殆どいないんだから」
そうだろうか。言われてみればそうかもしれない。自分と置き換えてみると……いや、無いだろう。ソウなのだぞ。
しかし、マツバラの懸念は至極真っ当なものだ。戸籍のない自分から産まれた子供は、無戸籍になってしまう。いや、どうだろう?父親が認知すれば良いのではないだろうか?
「その、父親が認知すれば?」
「それなら平気だけど、子供ができたって言った途端に冷徹になる男って、結構いるからね」
なるほど、あのソウに限ってそれは無いだろうが、それも一般的な話なのかもしれない。そもそも子供を育てるには金も時間もかかる。余程愛がなければ、余裕のある家庭でなければ子育ては辛いのだ。
「わかりました。一応ゴムは買ってあるので大丈夫です」
使うことは無いだろうが、念の為取ってある。あくまでも念の為だ。
「そう、それなら良い。でも、気をつけて。着けてって言っても一時の快楽のために怠る男もまた、多いから。絶対に譲らないこと」
「は、はい。気をつけます」
産婦人科医の言葉は真に迫っており、今までそのような人を沢山見てきたのだろうなという事が伺い知れる。確かにそうだ、自分に限って、あいつに限って、というのは誰もが思う事だろう。金言としてマツバラの言葉を深く胸に刻み込んだ。
「念の為、日付入れてない紹介状を書いておくから。もし、もし本当に産婦人科の受診が必要になったら、それを持っていって」
「はい、何から何まで、ありがとうございます」
そう言うと、マツバラは長い睫毛をわずかに伏せた。
「何もできていない。私が出来ることなんてたかが知れてる。でも、頑張って」
確かに医者としてこの症状には何もできなかっただろう。だが、彼女には大変助けられた。何もできなかったというのは嘘だ。ただの医者としてではなく、専門の知識を持つ相談相手として、物凄く心強かったのだから。
「悪いな、わざわざ有給まで取らせて」
「気にしないでよ。どうせ使い切れなくて捨てちゃってるんだし」
「ああ、お前もか。使い切れないよなぁ」
「買い取ってくれればいいんだけどね」
弟のクルマに段ボールたった二つ分の荷物を乗せて、カワチ県にあるソウのタワーマンションへと向かっている。この程度の荷物は別に持って運べるのだが、見た目華奢な美少女がでかい段ボールを2つも軽々と運んでいては人目を引いてしまう。ただでさえ一部の人間には顔が知られているので、あまり目立つのは良くない。
という事で、わざわざ有給を取ってまで時間を作ってくれた弟の好意に甘えて、高速道路を快適に飛ばしているというわけだ。
弟の愛車は大きなスポーツワゴンタイプのクルマだ。子供が二人産まれたからそのクルマにした、というわけではない。
単に新婚の時に、車屋のディーラーに、家族が増えたら大きいほうが良いですよとそそのかされて買ってしまったのだ。アホである。
車検も車税も高いし、でかいので都市部では取り回しがきつい。弟が住んでいるのが比較的田舎の方だからマシだが、同じヤマシロ県でも中心部だったらロクに身動きが取れないのである。
とはいえ、そのでかいクルマのお陰で、荷物を積んでも快適に移動していられるというわけだ。今この時だけは怪我の功名と言えるだろう。
黒くて大きなクルマはきついカーブの坂道を降り、一般道へと移動する。土地勘がないので自分も弟もカーナビ頼りである。
「それにしても、良かったね。サメガイさんが受け入れてくれて」
「そうだな。まぁ、俺が逆の立場でもそうしただろうけど」
「兄貴のワンルームじゃ二人は無理でしょ」
「逆の立場だったらって言っただろ」
実際、友人は一人で住むには広すぎる部屋なので受け入れてくれたというのもある。自分と同じ、一人用の部屋だったらまず無理だと答えただろう。
クルマは一方通行の多い巨大な幹線道路を、やや渋滞している中、ゆっくりと進む。これだけ車線が多いのに渋滞するのだから、この都市のクルマ事情が一体どうなっているのか想像も付こうというものだ。
カワチ県は狭い。そして、中心部はヒノモト有数の商業都市でもある。
中央市にあるサクラダを中心に、近くのカワチ港、その周辺ほぼ同心円状に高い人口密度が広がっている。
勿論首都周辺のそれには及ばないが、ヒノモト第二位の都市として確立して相応の時間が経っている、世界でも有数の大都市の一つでもあるのだ。
「え?ここ?中心部なのに、マジででっかいな……」
ナビの示すとおりにマンションへと近寄ったトシツグは、予想通りの反応を示した。
来客用の地下駐車場へとクルマを乗り入れ、段ボールを運び出す。といっても、両方とも自分が持っても問題ない。弟が持つと言ったが、自分の荷物なのである。運転で疲れている弟に持たせるわけにはいかない。兄の威厳もある。
エレベーターの前で13階のソウを呼び出し、扉を開けてもらう。直通で13階まで自動で上がり、部屋の前まで到着した。
「おう、来たな。トシツグ君、久しぶり」
扉から見慣れた適当な男が顔を出した。扉を開け放ち、こちらに入るよう手招きする。
「お久しぶりです、サメガイさん。可愛い兄ですが、宜しくお願いします」
「なんだよ可愛い兄って。意味わかんねえし」
「そのまんまの意味じゃねえか?」
段ボールを滞在場所になった和室へと運び込む。ただそれだけで引っ越しが終了してしまった。
「そんじゃ、俺は帰るから。兄貴、サメガイさんに迷惑かけないでよ」
「誰に言ってんだよ」
ソウよりはこちらのほうが余程しっかりしている。迷惑をかけるとすれば……ああ、いや、そう言えば既に暴走警部補のせいで迷惑をかけていたか。
手伝ってくれた気の良い弟を見送って、久しぶりとなる友人の住処へと戻る。今日からここが自分にとっての住処となる。居候なのは少し肩身が狭いが、20年来の親友の家だ。仲良くやっていこう。
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