第8話 熱心な公僕
翌日もあまり急いでも仕方がないだろうという事で、ゆったりとしてまた10時ぐらいになってから出た。目的は昼飯をサクラダ周辺で食って、買い物をして帰るというただそれだけだ。
材料が無かったので朝食は流石に作れなかったが、これからはある程度食材をストックしておく必要があるだろう。菓子パンと牛乳ばかりでは流石に朝食としては腹に貯まらない。ヒノモト人は飯を食うべきだ。
朝、なんとなくキッチンに置いてあるでかい炊飯器を開けようとしたら、蓋のフックが固着していて開けるのに手間がかかった。どんだけ放置していたんだこいつは。
休日の電車に揺られながら、その事をこの適当な友人に聞いてみる。
「ソウ、お前さ、なんで使わないもんを買ってそのまんまにしてあるんだ?」
調理器具も調味料も、炊飯器もそうだ。使わないのになんで買って置いてあるんだ。
「ああ、使うだろうなと思って買うんだけどさ、結局使わなかったりするものって、あるじゃん?」
「ねえよ。普通は必要だから買うもんだろうが。あの炊飯器、5万とかするやつだろ?」
自分が使っている炊飯器は1万5千エンの、それでも奮発して買ったものである。あんなにでかくて機能の沢山ついたものなど、とてもではないが買えない。
「ああ、あれか。偶には飯食うだろうなと思って、なら出来るだけ良いやつを買おうと思ってさ。炊き込みご飯とかパンとかシチューも作れるって言われて、便利じゃん、と思って買ったんだよ。でも、米研いだりするのがどうにも面倒くさくなって」
なんて奴だ。いい加減ここに極まれりである。
「無駄遣い過ぎるだろ……大体なんだよその選び方。お前、パンとかシチューの作り方知ってんのかよ」
「わはは、良く考えたら知らないって、買ってから気付いた。まぁ、いいじゃん。お前がいてくれるんなら、結果的に使うことになったんだし」
結果的には、だ。金があるからといってこんなにルーズにしていては先が思いやられる。もう32歳だというのに計画性ゼロである。
「あー、そういや筋トレやろうと思って買ってた近所のジムのチケットも、今月いっぱいまでだわ。使う?」
「お前なぁ……まぁ使うけど」
丁度良かった。自重トレーニングではもう殆ど効果がなくなってきているのである。荷重トレーニングならもう少し伸ばせる気がする。いや、これ以上鍛えてどうするのかという疑問はあるにはあるのだが。
電車はすぐにカワチ県の中心部へと到着した。定食屋のチェーン店で昼食を済ませて、ソウの言っていた駅の中にあるというスーパーマーケットへと足を運ぶ。
「お前、これ。セレブ御用達のスーパーだろ。無駄にオーガニックとかで矢鱈高いやつ」
友人に連れられてやってきたでかい駅中の商店は、主要都市の中心部にばかり店を構えている高級スーパーマーケットだった。
「そうなのか?実家だといっつもここで買い物してた気がするから」
これだから金持ちは。こんなところで毎日買い物しようものなら、エンゲル係数爆上がりで仕方がないだろうに。
「あのな、ここ、高級路線だけど、だからってモノが全部美味いわけじゃないんだぞ。変に付加価値つけて高くしてあるものが殆どだから」
「え?そうなのか?偶にここで菓子とか買って帰るけど、結構美味いぞ」
「そりゃ菓子はそうだろうがよ。プライベートブランドで滅茶苦茶こだわってんだから、まずかったら怒られるだろ」
品質のわかりやすいものは当然、品質を可能な限り高くする。変にチープにして誤魔化そうとしたら、店の名前に傷がつくのである。だが、それにつられて他の買い物をしてしまうと、そこまで拘っても仕方のないものまで高い金を払って買う事になるのだ。例えば。
「この納豆、3パック入りで360エンだろ?昨日のスーパーなら三分の一の価格だ。どこが違うかってと、有機農法を使った大豆で発酵にも拘ってるって書いてる。で、お前、有機農法と慣行農法で作った野菜の差とか、分かるか?」
「え?分かるわけねえじゃん」
そうだろう。分かるわけがないのだ。
「わかんねえもんに三倍の値段払うかっつう話だよ。菓子みたいにわかりやすいのならいいけどな」
それだって高い。値段相応の価値があるかは怪しい所だ。
「うーん、まぁ、そうだな。まぁでも、食料品だろ?そう大した額でもないし」
「そういうのが積み重なって無駄な出費になってるんだよ、気付け。まぁ、分かりやすいのだけ買って帰ろう」
別に品質が悪いわけではないのだ。モノは大体上等だし、値段不相応なものだけ避ければ良い。それが分かっていてこの店を使うのなら良いが、ソウのような感覚で買い物をしてはいけない。
「なんかお前、主婦みたいだな」
「これが普通なんだよ」
結局野菜の類はあまりにも高すぎたので、調味料と一部の乾物だけ買って店を出た。支払いは勿論ソウのカードである。
あんまり来た意味が無かったなぁと零す友人を、調味料は良いのが買えたからと慰める。実際、珍しい調味料というのは普通のスーパーには置いていない事が多い。乾物も、出汁というのは品質がダイレクトに味に影響する。別にダシの素を使っても十分に美味いのだが。
帰りに昨日寄ったスーパーで大量の食材を買って、マンションへと歩いて帰る。こいつの持っている冷蔵庫もまた、でかくて多機能なのだが、この男は牛乳と酒ぐらいしか入れていない。実に勿体ない。
タワマンのエントランス前に入ってきた所、ダークグレーのスーツを着た女が一人、インターホンの前に立っていた。
そのままだと通れないので、ソウがすみませんと声をかけた。振り向いた女の顔を見て驚愕した。
「……こんな所にまで追いかけてきたんですか。警察って案外ヒマなんですね」
女はあの勘違い警部補だった。名前は確かミズキとか言ったか。
「あらあら、これは予想外の収穫。へぇ、そう。サメガイ議員の御曹司をたらしこんでたんだ。そりゃあ圧力もかかるはずだわ」
相変わらず明後日の方を向いた勘違いをしている。忌々しい女は困惑している友人に向かって手帳を出した。
「ヤマシロ県警のミズキです。ソウ・サメガイさん、あなたのご友人について、少しお話をお伺いしても?」
こいつ、男の頃の交友関係からここに来たのか。しつこすぎる。
「聞く必要ないぞ、ソウ。警察官が一人で捜査をする事は無い。こいつは多分、独断専行で動いてる。断った所でお前に不利益は無い」
この前連れていた若い男がいない。基本的に警察官はネズミ取りでもなんでも、二人で行動するものだ。そうでないとミスがあってはいけない司法の捜査に、個人の見間違いや勘違いでとんでもない失敗や冤罪が生まれる事があるためである。
「不利益はありますよ。断った場合、私はずっとここに立ちます。身元を聞かれても警察官ですから、サメガイさんに話を聞きに来た、と答えます。警察が話を聞きに来たと聞いて、ご近所や管理会社の方は何と思うでしょう?」
最低だ。越権行為の上に脅迫までするつもりか。それでも公僕か?
「別に俺の評判はどうでもいいけど、ずっと立っていられたら近所迷惑なんで。どうぞ」
仕方なく、ソウはカードキーを通して扉を開けた。女は当然のようについてくる。
嫌な人間とエレベーターに乗るというのはここまで気分が悪くなるものなのか。ミズキ警部補はこちらの持っている袋とソウに、交互に視線を動かしている。
何も言わずに13階の部屋へと戻る。流石にもう、お邪魔しますと言葉を発する気にもなれない。黙って部屋に入り、冷蔵庫を開けて買ってきたものを入れていく。
「彼女の手料理?羨ましいですね。警察官は忙しくて、出来合いのもので済ませがちで」
聞いていない。答える意味もない。ソウは黙っていつもの端末がおいてあるデスクの椅子に腰掛けて、足を組んだ。
「それで、ミサキの何が聞きたいんですか」
答える必要は無いが、満足いく答えを得られなかった場合、この女は再びエントランス前に居座るだろう。よりによって、大切な親友に迷惑をかけることになってしまった。
化粧の濃い女は、座れとも言われていないのに、キッチンのカウンター前に置いてあるスツールを引き寄せて座った。
「ご友人の貴方でしたらご存知かと思って参りました。ミサキ・カラスマさんは今、どこにいらっしゃるのでしょうか」
その質問に、ソウはこちらを見て、一瞬で理解したようだった。ため息を吐く。
「そこにいるじゃないですか。彼女がミサキ・カラスマです」
何度聞いても同じ事だ。疑おうが何をしようが、答えは変わらない。
しかし女はその答えに薄笑いを浮かべた。
「そうですか、口裏合わせは終わっているという事ですね。しかし、サメガイさん。そこの女は大量殺人事件の被疑者ですよ?いくら彼女が可愛くても、殺されたくはないでしょう?」
頑なに自分の考えた筋書きを変えようともしない。思い込みというのは実に恐ろしいものだ。そして、それが司法権力を持つものに備わると最悪となる。
「はぁ、あのヤマシロ市役所の災害の事ですか?公的にもあれは災害という事になって終わっているはずですが」
あれ以降殆ど続報が出てこない。一週間も経っていないのに、もう人々は忘れようとしている。圧力がかかったというのはまぁ、可能性としては考えられるが、だとしても、それは決して自分を守ろうとしてかかっているわけではないのである。
一々考えるのが面倒くさくなってきた。チルド室から大根を取り出して頭を切り落とし、輪切りにして皮を剥き始めた。単純作業をしていたほうが気が紛れる。
包丁を使う音に敏感に反応したミズキは、立ち上がってこちらを視界に入れた。包丁で襲いかかるとでも思っているのだろうか。馬鹿らしい。
「表向きにはそうです。ですが、疑わしい所は多々あります。何より、災害だとしたら原因がわかりません」
そんなものがわかるならこっちが教えて欲しい。それを調べるのが警察であり、消防だろうに。
「だからといって、ミサキが関係しているという事は無いでしょう。仮に貴女の言うように彼女が大量殺人者だったとして、その方法は?女の細腕でそんなに大量に人が殺せるものでしょうか?」
力ならあるにはあるが、物理的に不可能だ。そもそも自分が分庁舎に入った時には、もう既に多くの人が亡くなっていたのである。
「それはわかりません。ですが、協力者がいた可能性があります」
「そんな事を言ったら何でも出来てしまうでしょう。市役所には防犯カメラだってあったんでしょう?不審な者がいたらすぐに分かるんじゃないですか?」
そうだ、当然、警察は防犯カメラもチェックしているはずなのだ。映っているに決まっている。あの、鳥モドキが。
「カメラにはですね、映っていませんでした」
「は?」
思わず声が出た。映っていないはずがない。あれだけでかい図体が通ったのだ。南側の出入り口に設置してあるカメラには、絶対に映ったはずだ。割られたガラスの場所もカメラの映す範囲に入っているのだ。
声を発したこちらに、鬱陶しそうに視線を送ってくるミズキ。なんだその反応は。
「映っていなかったんですよ。正確に言えば、事件の起こったと思われる時間だけ、カメラが故障していました」
そんな事があるか。クラッキングじゃないんだぞ。ネットからは完全にオフラインの防犯カメラが、その時だけ壊れてあとから復旧するなんてことがあるものか。
「それで?どうしてそこにミサキが関係してくるんです?」
そうだ。いくら何でも希薄すぎる状況証拠だけで、どうしてこの女はここまで自分を追いかけてくるのだ。わざわざ県をまたいで、ソウの所にまで。
「ミサキさんは、経験豊富な技術者だと聞いています。彼であれば、一時的にカメラを映さなくするような細工ができるのでは?」
出来るか、馬鹿。買いかぶりすぎだ。
「そんな事をしたら細工した証拠が残るでしょう。鑑識はそこまで無能ではないと思いますが?」
「残らない方法があるかもしれません。実際、専門家に聞いたら可能だという話でした」
知らんがな。そんな事を言ったら、可能性可能性でなんだって想定できてしまう。
馬鹿馬鹿しくなって鍋に水を入れて、買ってきた昆布を軽く拭いた後に半分放り込んだ。水を張った別の鍋に米粒を少しと大根を入れて、火にかける。IHのスイッチを入れたピッという音に反応して、ミズキがびくりと身体を竦ませた。いや、警戒し過ぎだろ。
「そうですか。ですが、だとしても俺は男の方のミサキ・カラスマの居場所は知りませんよ。知っていたら教えて欲しいぐらいです。俺も、彼女も」
そうだ。どこか他にミサキ・カラスマがいるのなら教えて欲しい。俺は一体、どこにいったんだ。
「人の身体というのは、隠し通せるものではありません」
唐突に年増の警部補は言った。どういう意味か、わからないこともない。
「いずれ全て明るみに出ます。蜜月がいつまでも続くとは思わない事ですね」
捨て台詞を残して、ミズキは去っていった。勘違いにこれだけ自信が持てるというのもなんというか、羨ましい。いや、自分は決してああなりたくはないが。
「何なんだ、アレ」
憤慨したソウが玄関に走っていって、力任せに金属バーの鍵をかけた。ガタンという音がキッチンにいるこちらまで聞こえてくる。
「すまん、まさか本当にここまで来るとは思わなかった」
家族には探りを入れるだろうと承知していたが、まさか本気で県を跨いでまでこいつの所に押しかけてくるとは思わなかった、完全に誤算だ。
「訳がわからんなぁ。なんであんな突拍子もない事を考えるんだ?ミサキが大量殺人者?ありえねえし。猫見てでれでれしてるような奴が、人間を殺せるわけがないだろうが」
「それは褒められてると受け取って良いのか?」
「褒めても貶してもいねえよ。ただの事実だろうが」
確かにまぁ、その通りだ。猫の事は兎も角として、自分は人を殺そうなどと一度も考えたことは無い。ましてやあんなに沢山の人を。
大根が煮えてきたので箸を一本突き刺した。少しだけ芯が残る程度まで煮えたので、火を止めて笊にあける。
「あの人、俺が俺を殺して入れ替わったと思ってるぞ、絶対。めんどくせえ」
「だろうな。死体はすぐに見つかるとか言いたかったんだろう」
実際、人の死体というのは嵩張るし隠すのは大変だ。バラバラにするのは大変だし、焼いても痕跡が残る。埋めればいつかは表に出てくるし、沈めたって浮いてくる。
昆布の入った方の鍋を火にかける。昆布が浸かっていた鍋の水にはうっすらと色がついている。
「しかしな、俺の身体、一体どうしてこんなんなっちまったんだろうか」
まるで意味がわからない。どう考えてもありえない現象だ。
「常識的な答えを出すとすればだ。まず一つ、お前は最初から女だった」
「却下」
「まぁ、最後まで聞けよ」
聞くけど。どうせ料理をしながらなのだ。
「この場合、周囲の認識が男であったという事に説明がつかない。そもそも、そのでかい胸を隠す事なんて不可能だし、体格や身長だって誤魔化せない」
「当たり前だろ」
この32年間、ずっと男として生きてきたのだ。疑いようがない。
「そう、当たり前だ。それは俺も分かっている。2つ目、お前が精神に混乱をきたしていて、元々女だったのが、今まで男として生活していたと勘違いしている」
答える気にもならない。鍋が沸騰しかけたので、火を止めて昆布を取り出した。即座にがばっと鰹節を放り込む。
「これも、俺や周囲の人間がミサキの事を男と認識していたので却下だ。そもそも戸籍は誤魔化しようがない」
「探偵かよ、お前は」
こちらの突っ込みに嬉しそうに笑うと、友人は三本目の指を立てた。
「3つ目。眠っている間に誰かから脳の移植手術を受けた」
それが一番ありそうで無いパターンだ。
鍋の中の鰹節を余さず網ですくい取って、少し煮詰める。
「だが、残念ながら俺はそんな完璧な脳移植を行える技術があると聞いたことは無いし、そもそも一晩でそんな大手術を行うことは不可能だ」
「まぁな。俺もそう考えたよ」
どう考えたって無理だ。しかもそんな事をして何の得がある。
「4つ目。……脳ではなく、肉体が作り変えられている」
そうとしか考えられない。だが、何故、どのようにという部分が不明なのだ。
少し煮立ってきた所に大根を入れた。冷蔵庫から鶏もも肉を取り出して、刻みもせずにパックから直接どぼどぼと放り込む。
「だが、普通そんな事はありえない。人間の身体ってのは、思ってる以上にファジーで柔軟に対応するが、思ってる以上に繊細で緻密だ。そんな、一晩で性別から細胞全てを変えてしまうなんてのは明らかにおかしい。そもそも、そんなエネルギーをどこからもってきたのか」
「考えても無駄じゃねえかな、医者も同じこと言ってたぞ」
透明なガラスの蓋をして、火を弱火にする。白いIHの板から聞こえていた音が少し小さくなった。
「無駄じゃねえよ。事実を口に出して明らかにしておく事は大切だ。つまりだな」
「つまり?」
「何もわからないという事が分かった」
そうだろう。そんな事は最初から分かっている。
「今の話に何の意味が?」
「いや、暇だったろ?」
「ゲームでもしてろよ……」
ふと思ったが、こいつはいつもやっているブラウザゲームを、自分が来てから一度も起動していない。何故だ。
「あれ、やめたのか?あの、だいぶ前のエロゲーの続編とか言ってたソシャゲ」
はるか昔、という程ではないのだが、スマホがここまで普及する前には個人端末で成人男性向けのゲームが多数販売されていた。一時期隆盛を誇ったが、様々な理由で衰退して久しい。最早同人やダウンロード販売のものに負けて、ショップも殆ど全滅してしまった。
「あー、うん。いや、まだやってるけど」
この男には珍しく、どうにも歯切れが悪い。やってるならやれば良いだろうに。ああいうのは毎日やらないと報酬で損をする事が多いのだ。
「なんだよ、何かあったのか?」
「いや、うん。あれってさ、ホーム画面が結構、アレじゃね?」
アレ?アレとは。たしかにキャラクターは全て露出度の高い服装で、間違ってもスマホで電車の中でやろうとは思えないが。
「だから?」
ここはこいつの自宅だ。何も憚ることなど無いはずだ。自分がいる時だって遠慮せずにこいつは毎朝起動して。
あぁ。
「いや、だからな?ホーム画面がアレじゃん」
「お前なぁ。俺がこの姿になったからって気にしてんのかよ」
アホだこいつは。可愛い美少女にエロいゲーム画面を見せるのが恥ずかしいのだ。どんだけピュアボーイなんだ。32歳のくせに。
酒とみりんと醤油と同量加えて、チューブしょうがを適当に入れた後、冷蔵庫からネギを取り出して斜めにザクザクと刻んで、鍋の中に放り込んだ。
「だってさ、お前、滅茶苦茶可愛いだろ?」
「そうだな」
確かに可愛い。絶世の美少女だ。
「謙遜しろよ」
「いや、お前は俺にどうして欲しいんだよ」
照れて乙女な仕草でも見せろとでも言うのか。アホか。鍋のアクを掬いながら只管に呆れる。
「馬鹿野郎!お前!男心を失っちまったのかよ!美少女の前でエロゲを見せろとか、拷問かよ!」
なんだこいつ。マジで大丈夫か。
「いや、俺は男だから」
「見た目美少女だろうが!」
「そうだけど。まぁいいや、おい、飯出来たから食おうぜ」
妙な拘りにはもう付き合っていられない。ガラスの蓋を開けるとなんとも良い匂いの鶏大根が完成していた。
冷蔵庫から500ミリリットル缶を二つ出してテーブルに置いて、冷凍庫から凍ったグラスも二つ取り出す。
「おい、まだ飲むな」
さっさと缶を開けて飲もうとするソウを咎めて、鶏大根を器によそう。ふんわりとした合わせだしと醤油の香りが漂う。
深めの器を二つテーブルにのせて、こちらもどっかりと腰を下ろす。
「美少女があぐらかくなよ」
「うるせえなあ」
缶から直接ビールを飲もうとするくせに、こちらが椅子の上であぐらをかくことに我慢ができない男ソウ。
黄金色の酒の入ったグラスを軽く打ち合わせて、茶色い大根と鶏肉、緑と白のネギに箸をつけた。
「おほ、うめえ」
ほふほふと熱を逃がしながら、32歳ピュアボーイが大根をうまそうに頬張っている。
「クソ高い出汁だからな、良く味わって食えよ」
別に出汁パックとうま味調味料でも同じような味になるのだ。だが、折角買ってきたのだから使わざるを得ない。出汁を出した昆布と鰹節は、刻んで真空パックに入れて、醤油とにんにくと七味唐辛子漬けにしてある。何も無い時に酒のアテとして出すのだ。
「結構適当そうに作ってるのに美味いよなぁ」
「適当そうに見えて結構手間がかかってるんだぞ」
要はメリハリが大事なのだ。手を抜く所は抜く、凝る所は凝る。今回凝ったのは出汁だが、普段はそこが手を抜く場所だ。多分こいつも自分も、きちんととった出汁とそうじゃないものとの区別はつかない。
しかしながら鶏大根は好評で、鍋一杯に作ったものが瞬く間に空になってしまった。卵も入れればよかった。
「いやあ、美味かった。明日は何作るんだ?」
「もう明日の飯の話かよ」
欲望に忠実な友人を横目に見ながら、畳の方へと移動して肘とつま先で体重を支える体勢を取る。
「……何やってんだ?」
「筋トレ」
「飯食ったすぐ後にか?」
「風呂前にやっとかないと汗かいて気持ち悪いだろ」
普段は帰ってきてからすぐにやっているのだ。その後風呂に入って食事にする。ソウとは順番が違うのでこうならざるを得ないだけである。
「やっぱ負荷が足りないな。ソウ、ちょっと乗ってくれ」
「え?」
「乗ってくれって言ってんだよ」
最早自重では何の負荷にもなっていない。軽すぎて何時間だってこの体勢を維持できてしまう。意味がないのだ。
ピュアボーイは恐る恐る近寄ってくると、遠慮がちにこちらの肩付近に腰掛けた。
「違う。そこじゃない。背中に跨って乗ってくれ」
適当な男は一旦立ち上がってこちらを跨ぐと、そろそろと尻を背中に下ろしてきた。
「もっと体重かけてもいいぞ」
「え?マジで?大丈夫かよ」
友人の足が遠慮がちに浮く。丁度良い負荷だ。腹筋に力が入るのを感じる。
「おっ、いいぞ。やっぱり重りがあると違うな」
この分だとこいつを背負ってスクワットしても良いかもしれない。1人分では流石に限界があるのだ。
「マジかよ……何だお前、美少女筋肉仮面かよ」
「仮面はどっから来たんだよ」
3分程その体勢を維持したあと、ソウに背中を向けて背負った。
「おお、これも良いぞ。こいつはキクぜ」
ひょいひょいと男を背負ったまま膝を曲げたり伸ばしたりする。実にちょうどよい負荷だ。しかし、気になるのはこいつの掴まっている所だ。
「なんでそんなに首にしがみつくんだ。苦しいだろ。苦しくないけど」
「いや、だって……腕を下げたら触っちまうだろ」
やたらと上の方に荷重がかかっているなと思ったら、こいつは胸を触ることに躊躇しているのである。どんだけ紳士なんだ。
「別に触ってもいいって。なんなら揉むか?」
「揉まねえよ!」
遠慮がちな奴である。こいつの好きなエロゲーなら、間違いなくここで直揉みしてエロシーンに突入だ。しないけど。
足腰と腹筋が終わったので、今度は胸と腕の筋肉だ。所謂腕立て伏せの体勢になって、やはりソウを上に乗せる。ぐいぐいと腕を曲げ伸ばしして、大胸筋が張るのを感じる。
「おい、ミサキ。あのな」
「よし、ソウ。次はケツだ。乗れ」
仰向けになって膝を少し開き腕を頭の後ろに回す。でかい胸が邪魔だが、別にこの運動に問題は無い。
「乗れって……」
「腹の上に乗れ」
何故かすごく嫌そうな顔をした親友は、こちらの腹の上に跨った。その状態で腰を上げ下げして、大殿筋を鍛えていく。
上下運動をしているうちに、渋い顔をしていたソウが、徐々に顔を横に向け始めた。
「おい、荷重をずらすな。左右の鍛え方が偏るだろ」
「だ、だってよ……お前……胸が……」
「胸?」
腰を上げ下げすることで、確かにたわわな胸がぷるぷると動いている。
「気にすんな。なんなら動かないように手で押さえとけ」
「押さえられるかッ!」
たまりかねた友人はそう叫ぶと、上から降りてしまった。
「なんだ、ちょっとぐらい我慢してくれよ」
「お前な、恥じらいってもんが無いのか?」
そんなものは市役所に捨ててきた。血まみれになって鳥モドキを屠ってきたのだ。
だが、こいつの言うことも分からないでもない。女に免疫のない男がいきなりこんな事をされては戸惑うだろう。安全な証でもあるので悪いことではないのだ。
「すまん。ちょっと配慮がなさすぎたな。今日はもう終わりにするから、風呂、入ってきていいか?」
「いいよ。はよいけ」
追い払われるように浴室へと押し込められてしまった。仕方なく服を脱いで、浴室へと入る。
ソウの住んでいるマンションは、浴室に全自動湯張り機能がついていて、浴室暖房も完備されている。偏った綺麗好きの友人は便所と風呂の掃除は欠かさないので、浴槽はとても綺麗だ。遠慮なく湯張り機能を使わせてもらって、その間にシャワーで身体と髪を洗う。
髪を洗うのは非常に面倒くさくなった。シャンプーもトリートメントも異常に使うし、洗い流すのも時間がかかる。コストがかかりすぎて仕方がない。
かといって切るか、と言われれば躊躇する。
この長い黒髪はなんとなく自分のものではない気がして、簡単に切ると取り返しのつかない事になるんじゃないかと怯えてしまうのだ。
(これ、石鹸代も負担したほうがいいな)
身体を洗いながら考える。シャンプーとトリートメントもそうだが、ボディソープも男の頃より使う量が多い。なんというか、表面積が大きいのだ。主に胸のせいで。
胸の谷間と下を洗う行動なんて、男の頃にはなかった行動だ。股間は面積が減っていると思いきや、そうでもない。内側を指で洗っていると、そう変わりはないんじゃないかと思えてくる。
シャワーで全身の泡を洗い流した後、髪を上げて適温に張られた湯船に浸かる。シャワーとカランが共通だった自分のワンルームではとても出来ない芸当である。贅沢すぎる。
はっと気がついた。これ、水道代も相応にかかるのではないか。
冬場は良くバスタブに湯を張って使っていたが、冬場だけ水道代が倍ぐらいになるのである。風呂は、金がかかる。
贅沢な設備は相応に金のかかるものだったのだ。快適性に甘えてついやってしまった。
後悔したところでもう遅い。使ってしまったものは戻せない。存分に温まってから、浴室を出た。
(あっ)
バスタオルで身体を拭き終わった所で気が付いた。着替えを持ってくるのを忘れていた。
ソウに無理矢理押し込まれる形で脱衣所に来てしまった為、下着も寝巻きも持ってくるのを忘れてしまったのである。
(まぁ、しかたないか)
別にいいだろう。見えるわけでもなし。
バスタオルで胸から下を隠した状態でリビングに戻る。荷物の置いてある和室にはここを通らないと戻れないのだ。
「お、おまっ!何やってんだ!」
「何って。着替えも持ってないのに浴室に押し込んだのはお前だろ」
こいつのせいなのだ。自分は悪くない。そのまま胸から下を隠したまま、和室に向かう。
「尻!尻が見えてるから!」
「そりゃ見えるだろうさ」
アホか。前が見えないだけ有り難いと思え。いや、残念だと思うんだろうか?
和室に入ってバスタオルを肩に掛け、荷物から着替えを引っ張り出す。洗濯が終わったばかりのあの赤いエロ下着が出てきた。まぁ、別にこれで良い。どうせ寝る時はハーフパンツとだぼだぼシャツなのである。
尻が丸見えのショーツだけを身につける。案外着心地が良いのが腹立たしい。尻だけはちょっと食い込んで気持ちが悪い。
着替えを終えて振り向いて言う。
「おう、出たから入っていいぞ」
ちょっと遅かったかもしれないが、こいつが騒いでいたので言う機会を逃したのだ。
「お前な……そういうの、やめろよ。妹だってそんな事しなかったぞ!」
こいつには妹がいる。もう結婚していて、こいつには既に小学生の姪もいる。
「そりゃお前んとこは上品な家だろ?比べんなよ」
大地主のお家なのである。礼儀や躾にだって厳しいだろう。だからこいつはあちこち適当なくせに妙な所で律儀なのだが。
ソウはちくしょーめと叫んで風呂場に入っていった。なんだか勝った気分がして心地よい。
冷蔵庫から炭酸水を取り出して、ボトルのまま飲んだ。筋トレの後に風呂場で伸ばした筋肉が、異常な速度で回復しているのを感じる。
異常だ。
まるで太くならないのに、力として明らかに蓄積されているのを感じる。超回復なんてもんじゃない。異常回復だ。
この身体になったのが影響しているのは間違いないが、だが、どうして、どのようにといわれると答えようがない。理解の範疇を超えている。
別段剛力になったところで普段の力加減を間違えることはない。ただ、上限が上がっているのだ。
言うなれば、普段生活している時に必要な筋力上限を100%と設定した場合、それ以上を出そうと思えば300%だろうが500%だろうがいくらでも出せる、という、限界突破のような力を感じる。
故に10エン玉を曲げようと思えば力を込めて曲げられるし、卵を料理に使おうと思ったら適切な力で割ることが出来る。加減の加の方がやたらと上がっているのだ。
しかしながら、こんな無駄な力を日常生活で使うことなど滅多にない。反社会的勢力に絡まれればある程度は使うだろうが、全力を出したら多分、皆殺しにしてしまう。怖い。
腕は細い。というか、完全に華奢な女性の体つきだ。一体どこにこんなパワーが隠されているというのか、理解不能である。
ソウが風呂から出てきた。着替え終わって、いつも寝る時のスウェット姿になっている。じっと見ていると、恥ずかしそうに背中を向けた。お前は乙女か。
何となくお互い録画を見る気分でも無くなったので、早々に寝ることにした。リビングから続く和室に入り、ソウにおやすみと声を掛けて、敷いておいた布団に潜った。
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