第7話 親友

 翌日の午後、表にはやはり記者らしき人間が張っていたので、裏の階段から飛び降りた。

 肉体が極端に強化されているので、まるで音を立てることなくアスファルトの地面に降り立った。自分はもう、どう考えても人間ではない。

 フードのついたパーカーを羽織り、マスクを付けて駅へと走り出す。先の流感のせいで、マスクを付けていても違和感がないのがありがたい。

 南北線に乗り換えてヤマシロ駅に行き、HR(ヒノモトレールウェイ)ヤマシロ線に乗って、ソウの住んでいるカワチ県の県庁所在地、サクラダへと向かう。

 移動中、例の動画のせいでこちらの顔に気付かれるのではないかとびくびくしていたのだが、人というのは案外他人の顔に興味がないのか、全く気付かれる事無く目的地へとたどり着いた。

 何度通っても迷いそうになる迷路のような地下は避けて、地上のペデストリアンデッキを移動する。

 再開発が進んだサクラダ駅周辺は、オフィス街兼商業地区となっていて、平日でも非常に人が多い。通貨安も相俟って外国人観光客も多く、背の低くなった自分には別世界のように感じられる。

 目的地の電器量販店のゲーム売り場にたどり着いてほっと息を吐く。あとはソウを待つだけだ。

 ゲーム売り場には常に新作ゲームのプロモーションが流れており、眺めているだけで面白そうで、つい買ってみたくなる。

 ぼんやりとディスプレイを眺めていると、肩を叩かれた。ソウだろうか。

 振り返ると、いかにもチャラい感じの男がこっちを見ていた。

「ねえねえ、君、ヒマ?ヒマならちょっと付き合わない?」

 ナンパか客引きか、見た目からしてホストっぽいので後者のような気がする。

「いえ、結構です。人を待っているので」

 客引きならこれで引き下がる。男付きの女は基本的に引き込めないのだ。

「待たされてんの?かわいそー。じゃあさ、彼が来るまでちょっと遊ぼうよ」

 前者だったようだ。ゲームコーナーに来るような女はちょろいと考えているのだろう。脳内が透けて見える。

 面倒になったのでそのまま無視した。時間はもうすぐだし、あいつが来たらすぐにその場を離れれば良い。

「ねえ、おい。聞いてんの?可愛いからって調子乗んなよ」

 うざい。非常にうざい。

「ウザいんでどっかいけ。邪魔。お前に興味ねえから」

 しっしっと手を振る。こういった手合いは大人しくしているとつけあがるのだ。明確に拒否するに限る。

「なんだとコラ!人が優しくしてりゃ」

 向こうから馴染みの顔が歩いてきた。適当な服に適当な髪型。いい加減が服を着て歩いているような男。すぐにそっちに向かって駆け寄る。

「ソウ、遅いぞ。とっとと行こう」

 腕を取って歩く。面食らった親友は口元でお、おうとかなんとか呟いていたが、一旦無視する。あのホストもどきがうざいのだ。

「まっ、待てよ!まだ話」

 近寄ってきたので素早く足首に蹴りを放った。恐ろしく速い蹴りなので、誰にも見咎められないはずだ。

 デンキテン目ゲームウリバ属ホストモドキはもんどり打って倒れ、顔面をリノリウム貼りの床に強打した。放っておいて親友を引っ張っていく。

「あれ、いいのか?」

「いいんだよ、ナンパだから。ほっとけ」

 丁度やってきた上行きのエレベーターに乗り込んで、ほっと一息ついた。

 他にも人が乗っているので黙っている。レストラン街に着いたところで、ぞろぞろと他の客と一緒に外へ出た。

「何食う?」

「あ、おう。なんでもいいけど」

「お前いっつもなんでもいいだよな」

 取り敢えず周囲を気にしなくても良い個室のある居酒屋に入った。少し割高になるが、時間は少し早かったので、並ぶ必要もなかったのが助かった。

 掘り炬燵のあるヒノモト風居酒屋の個室に入り、やっとのことで息を吐く。パーカーのフードを外し、マスクを取った。

「マジかよ」

「マジだよ」

 露わになったこちらの顔を見て、適当な格好の親友は呆れた。

「TSって、現実でもあるんだな」

「いや、あってたまるかよ。まぁ、実際こうなってるんだけど」

 居酒屋の従業員がとりあえずの飲み物を聞きに来たので、ソウは生ビールを、自分は薄めのハイボールを頼んでおく。

「確かにあの動画の顔だな。いつからだ?」

「今月の上旬だな。やたら関節が痛いなと思って、目が覚めたらこれだ」

 その後の展開をゆっくりと話す。途中で飲み物が来たので一旦黙って、注文用のタッチパネルに目を向ける。

「ありきたりだなぁ」

 どこにでもあるような品しかない。居酒屋なので品数は多いから我慢できるというだけだ。

「こんなもんだろ。チキン南蛮食おう」

「お前揚げ物ほんと好きだよな。取り敢えず刺身盛り食おうぜ」

「お前も魚ばっかだろうがよ。間を取って馬刺しだ」

「野菜も食えよ。シーザーサラダな」

 適当にいつものように注文が終わって、お互いに飲み物を少し飲んでからふうと息を吐く。

「んで?言いたいのはその顔になったからってだけじゃないだろ」

 あっという間に生ビールを飲み干したソウは、お代わりをタッチパネルに入力している。

「まぁ顔だけじゃねえけどな。胸もこれだし、全身そうだよ」

 ハイボールは飲みやすいが、どうにもいつものカクテルの甘さが恋しい。なんとなく、ソウに合わせてシャンディガフを追加注文した。

「んで?全身女の子になっちゃったミサキちゃんは、俺にどうして欲しいわけ」

 突き出しが無いので最初の注文が運ばれてくるまでに時間がある。どうにも間が持たないので、話が最初から目的に迫ってしまう。お互い面倒くさいのは嫌いなのだ。

「……頼む!俺をお前の家に置いてくれ!」

 テーブルに額を押し付けて、一生一度のお願いを申し出る。

「このままだとうちの前に記者は張ってるし、あのクソ女も頻繁にやってくるに決まってる。仕事も辞めなきゃならなくなったし、行くとこが無いんだ!」

 ふすまが叩かれたので慌てて頭を上げる。素知らぬ顔をして、運ばれてきた料理をソウに取り分けた。

「妹さんと弟さんは……まぁ、無理か」

「無理なんだ」

 この適当な男にも、結婚して所帯を持っている妹がいる。気持ちはよく分かるはずだ。

「頼む。お前のローンと共益費は折半するし、なんでもするから」

 ソウは独り身ながら、若くしてカワチ県の中心部にある高層マンションの一室を購入している。勿論まだ十何年も支払いが残っていると聞いているが、住まわせてもらう分は払っていくつもりだ。

「何でもって。お前な、それ、女が男に言って良いセリフじゃねえだろ」

「ダメか?」

「いや、ダメじゃねえけど」

 なら、決まりでいいだろう。

「すまん、恩に着る」

「決定なのかよ。まぁ、いいけどさ」

 渋い顔をしてソウはジョッキを傾けた。実に申し訳ない。

「しかし、アレ、マジなのかよ」

 ソウが言っているのは災害のことだろう。

「ああ。酷い有り様だったよ。うちの人間も二人、殺された。見渡す限り死体の山でさ……いや、すまん。飯食ってる時に言う話じゃないよな」

 シャンディガフをごくりと喉に通した。生姜の独特な香りと甘みがビール特有の苦みを和らげる。

「いやまあ、そっちもそうだけどな。良く倒せたな」

「なんかさ、この身体になってから、筋トレする度に異常に力がつくんだよ」

 腕まくりをしてみたが、細くて柔らかい女の腕だ。あれだけの剛力を発するものとはとても思えない。

「筋トレでどうにかなる問題かよ、あれ。まぁ、お前がそう言うならそうなんだろうけどさ」

 纏めて料理が運ばれてきたので、二人の会話は一旦止まった。サラダを取り分け、刺身をつまむ。

「病院にも行ったんだけど、わかんないって。まぁ、そりゃそうだよな、はは」

「わかんねえだろうなあ。前代未聞だろ」

 分かるわけがないのだ。マツバラだって、男性器を完全に女性器に変える事など不可能だと言っていた。故に戸籍の書き換えは出来ないという話なのだが。

「んでもさ、折半するって言っても、どうやって払うんだよ。仕事できんのか?」

 それだ。それが問題なのだ。

「……どうにかしてでも探すよ。その、身元が確かでなくても雇ってくれるような」

 本末転倒だ。折角ソウの所に転がり込んでも、そうなってしまっては意味がない。

 しかし、カワチ県にはそういった人間を受け入れる日雇い労働斡旋所がある。そこに通って土方仕事をしてでも、今の状態よりはマシだろう。

「やめとけよ。身体を切り売りするようなのは。そういうの俺、嫌いだから」

「でもさ」

 何もかも適当に見えて実は真面目なこの男が、そういった日雇い労働のようなものを嫌うのは分かる。だが、他に稼げる方法も無いのだ。

「まぁ、後で考えようぜ。とりあえず、そういうのはナシな」

「……うん」

 そこからは黙って食事に専念した。特別話す事がなければいつもこうだ。別に間が持たないとかそういう事は無い。お互い、話したい事だけ話す。その空間が心地良いと分かっているから、今まで関係が続いているのである。

 食事を終えて、ソウの自宅へ戻る事にした。スマホを見ると何かが来ていそうで、怖くて見ることが出来ない。ソウのやっているソーシャルゲームについてあれこれ話をしながら、環状線に乗ってサクラダにほど近いタワーマンションの近くまでやってきた。

「コンビニ、寄る?」

「うん」

 大体近くのコンビニエンスストアに寄って、ソウのつまみや次の日の朝食を買って帰るのが定番になっている。明るい店内に入って、お互いカゴを持って分かれる。買うものが少なければ、どちらかのカゴに放り込んで一緒に会計を済ませるのだ。

 あまり無駄遣いは出来ない。朝食用のパンを二つほどカゴに入れて、少し迷っていつもの酒も入れた。レジに行く前に、少し気になって別の棚の前に移動する。

(何でもって言っちまったからな)

 あの男に限ってそれは無いだろうと思うのだが、一応、必要になるかもしれない。悩んだ挙げ句に赤い箱を一つ、カゴに入れた。

 真新しい建物のエントランスロビーを通り過ぎ、5基もあるエレベーターの前に立つ。実に贅沢だと感じてしまう。

「すげえな、マンションでエレベーター5基って」

「お前、ここ来るたび毎回言ってるよな、それ」

「だってそうだし」

 タワマンというのがどういうものなのか、設備をかじったものなら思い知らされる。

 昇降機は増えれば増えるほど管理が大変になり、業者への点検委託費用もかかる。

 毎月必ず一回の点検が必要になるので、止まる時間の告知だって面倒なのだ。

 やってきたペットOKなエレベーターに乗り、ペットを飼っている人がどれぐらいいるのかとか、猫派と犬派どっちが多いかなんて下らない話をしながら、13階に到着する。

 中層よりは上のこの高価な部屋が、この20年来の親友、ソウ・サメガイの居宅である。

 ダブルロックのオートロックにデフォルトの警備装置付き、入口照明は人感センサ―という、別に三路スイッチでいいじゃないのという無駄な高級さである。

 部屋数も多いが、この男は来客用としての和室以外は全て趣味の部屋として使っている。収入も多いが浪費も多いのが、このソウという男の特徴だ。

 いつも使わせて貰っている客用の和室に小さい荷物を置いて、洗面所を借りて手を洗う。友人は早速リビングにある自分のデスクに座り、端末を起動していた。この辺りの行動パターンは自分と全く同じである。

 ソウの買ってきたものと合わせて、冷蔵庫に入れるものは冷蔵庫に入れ、常温のものはキッチンの上に置いておく。勝手知ったる慣れた作業でもある。

「おう、サンキュー」

 ソウの買ってきた酒をグラスと一緒に持っていく。放っておけばこの男は缶から直接飲むので、それでは勿体ないので、気を利かせるのが常となっている。

「うん?ミサキも酒、買ってきたのか。珍しいな」

「ああ。なんかこの身体になって、あんまり酔わなくなったから。今日は特別で」

 実際居酒屋でも、普段なら一杯目のハイボールであとはノンアルコールに移行するのだ。だが、普通にシャンディガフやその他のカクテルも気にせず注文できるようになった。

「そっかそっか。それじゃ、折角だしとっておきのもんも一緒に飲むか?」

「とっておきって。お前、変なもんばっか買ってくるだろ?」

 ハブ酒とかはまだ可愛い方で、どっかのサボテンから出来たものだとか、普通に売っていないようなものを個人輸入してまで買っているのだ。しかも、まずいまずいと言いながら喜んで飲んでいる変態である。

「まあまあ、いいじゃん。酒に強くなったミサキに乾杯だ」

 ソウは流しの下から大きな瓶を取り出した。『山脈のパワー!マカマカ』と書いてある。

「お前な……なんでよりによって今日、そんなもん買ってあるんだよ」

 どう見ても精力剤である。あり得ないだろう。この身体になってから最初にワイアーをした時は、こちらが女だとは言っていないのだ。つまり、完全なる偶然である。

「え?何か変か?飲んだこと無いから買ったんだけど」

 自覚ナシである。まぁ、別にそれなら良いのだが。

 無自覚な友人は二つのグラスになみなみと茶色い酒を注ぐと、自分のデスクに置いてあるリモコンを操作して、でかいテレビをつけた。

「めっちゃ積んでたからなぁ。おっ、これ見ようぜ。『兄貴の終焉』」

「なんだそりゃ。ホモアニメか?大丈夫かよ」

「わはは、そうかもしれん。でも、ネットでは高評価だったぞ」

「マジかよ」

 大量のSSDに詰め込まれたリストから、少し前に録画されたアニメを呼び出している。どうやらこの男には自分の考えていたような事は杞憂だったようだ。

 『兄貴の終焉』は、今まで兄弟と慕っていたはずの兄が、実は血の繋がらない義理の姉だったというラブコメ物語だった。アニメの特徴を活かした心理描写が割と巧みで、面白いと言えば面白かった。

「これ、2クール目いつになるのかな」

「作るのかよ。誰得だよ」

 貰った酒はやはり変な味だった。別にまずいわけではないが、なんとも不思議な味である。甘いとか辛いとかじゃなくて、薬のような香味を感じる、漢方薬みたいだった。

 その後もいくつか録画を見ていたのだが、段々と眠くなってきた。いつもは仕事の為に早寝早起きをしているので、習性のようなものだ。

「悪い、そろそろ風呂借りるわ」

「おう、バスタオルは棚の上な」

 友人の部屋の脱衣所の中、衣服を脱いで下着を外す。何というか、どうにも不思議な感覚がする。

 いつもなら何も感じる事は無いのだが、酒が入ったせいか妙に意識してしまっているようだ。

 考えすぎは良くない、と、いつものようにシャワーだけを借りる。毎日シャワーだけではダメなので、引っ越した後はきちんと身体を洗うためのタオルやボディソープ等も持ち込む必要があるだろう。案外新生活には必要な物が多いのだ。

(新生活)

 普通は就職などの時に使われる言葉だ。だが、それ以外でも使われる事もある。

 ゴキゴキと首を鳴らして頭を振ると、洗い流した肌を棚に入っていたバスタオルで拭いた。近くの洗濯籠に放り込む。

 下着を新しいものに替えて、いつものぶかぶかのシャツとハーフパンツに着替える。寝る時のこの格好だけは以前と全く変わっていない。

 リビングに戻ると、少し胡乱な顔になったソウがこちらを見た。

「お前、それ、かわってないのかよ」

 何がおかしかったのか、ゲラゲラと笑い出す。酒を飲んだせいで笑いやすくなっているのだ。

「別におかしかないだろ。ゆったりしてて逆に楽なんだよ」

 そう、楽なのだ。寝る時のこの開放感は変える必要性を感じない。

「ははは、まぁ、俺も入るわ。適当に敷いて、寝てていいぞ」

「はいよ」

 今日はもうお開きだ。ソウは長期休暇の初日であるし、こっちはもうエブリデイがホリデイ状態になってしまった。別に夜ふかししても問題はない。

 とはいえ、肉体の限界には勝てない。眠くなれば寝る。それは自然の摂理である。

 和室の押入れからマットと掛布を引きずり出して、枕を置いて横になる。照明はつけっぱなしだ。ソウが出てきたら消すだろう。別に、眩しくて寝られないという事はない。

 そのまますうっと、安心感から闇の世界へと落ちていった。



 翌朝、いつもの時間に目が覚めた。照明は落とされており、襖の隙間から差し込む僅かな光が部屋を照らしている。

 起き上がって洗面所で顔を洗ってうがいをして、朝食用に買っておいたパンを持ってリビングの椅子に座る。

 何も無かった。当然だ。あいつは友人だし、理性的な人間である。

 適当な格好を直せば割と見栄えのする顔立ちなのだが、何かあると一々理屈っぽく説明しがちなため、そのせいで未だに年齢=彼女いない歴を続けている。自分の知る限り、童貞だ。

 そんな紳士的な男が、いきなり女になった男に手を出すはずがない。当たり前の話だ。

 もそもそとコンビニのパンを齧りながら、スマホを弄ってニュースを確認する。一面からは例の記事は消えていた。

 人の気は、というより、情報化社会での人の興味は非常に移ろいやすい。一時は騒がれても、他の新しい出来事があれば世間の意識はすぐにそっちへ向く。

 あまり一つの事に拘るよりは健全だと言えなくもないが、果たしてそんなに移り気で問題の対策が出来るのだろうかという不安がある。

 市役所のあの災害だって、何かしら備えができていればもっと被害は防げたはずだ。テレビも新聞も、ネットニュースだって公共情報媒体というのであれば、まずはそちらを啓蒙していくべきだろう。

 なのに、綺麗さっぱり、過去の記事にされる。周年ごとに思い出す程度で風化するような事件は、及びではないという事だろう。過去の経験が活かされて被害が小さくなった場合は、決してそのお陰であると報道されはしない。所謂Good news is Bad newsというやつである。

 コンビニの不味くはないが特別美味くもないパンを食い終わって、テレビでニュースを見ている所にソウが起きてきた。

「あー、おはよー。相変わらずはええな」

「仕事ある日ならもう出てる時間だよ。いつも通りだよ」

「だよなー」

 このやり取りも毎回の事だ。調子に乗って珍しい酒を過ごしたこいつは、いつも寝坊して起きてくる。寝室でアラームが鳴っているのが聞こえるのだが、無意識にスヌーズに変えて何度も鳴ってから起き出してくるのだ。

「今日、どうすんだ?」

 牛乳とパンを交互に口に運びながら、寝起きのいい加減な髪型の男が言う。

「身の回りのもん買いに行こうかなと。連休だし、引っ越すにしても役所開いてないだろ」

 市役所もそうだが、基本的に役所というのは暦通りに休む。引っ越しをしたくとも転出届や転入届を出せないのだ。それに、今いるところを管理している不動産会社だって休暇中である。

「あー、そっか。んじゃ、着替えとか色々いるよな。よし、んじゃ適当にサクラダに出るか」

「おう」

 カワチの中心部はサクラダである。元々商業都市として発展していたカワチ中央区は、オフィス街であるサクラダの周辺に大量の巨大店舗が立ち並んでいる。買い物をするならこの辺りの人間は真っ先にそこに集まる。

 今いるマンションもその中心部の一角で、環状線で二駅移動するだけでサクラダに出られる。居住地としては間違いなく一等地になる。

 全然面白くないテレビ番組をだらだら見ながらツッコミを入れて、10時頃になってからやっとこさ重い腰を上げた。


「はー、やっぱ迷うなサクラダの地下。迷宮かよ」

 それはもう、迷宮だ。中部地方のエビスや首都の地下もひどいが、こっちはもうどこがどこに繋がっているのか全然わからない。

「俺も最初はわかんなかったけどさぁ。目的地決めたらそこを軸に地図が頭ん中に出来るぞ」

「マジかよ。人体の神秘だな」

 迷いなく歩く友人に驚愕しながら後ろをついて歩く。なにせこの地下街は、看板通りに行ったら元の場所に戻ってくるとまで言われるほどの迷宮なのだ。こんなところで営業している店の気が知れない。

 勝手知ったるソウの誘導に従って、直通になっている有名な百貨店のエスカレーターを上る。こいつは時々ここの地下街でスイーツやら酒やらを平気で買っているのだ。

「おい、知ってるだろ。俺、あんまり予算使えねえぞ」

「大丈夫だよ。安い店もあるし」

 安いといっても百貨店である。斜陽産業のこの業態は、客層を絞った高級路線を突き進んだ挙げ句にテナントは完全にハイスペックブランド一色になっているのだ。自分には場違い感甚だしい。

 きらびやかなガラスのショーケースを過ぎる度に不安になる。アクセサリーなんか、小さいネックレス一つで数十万という値札がついている。月給が一発で飛んでしまうのだ。臆病にもなろう。

 五階まで上がって、ソウは大きな売り場を持つ店舗の前で立ち止まった。

「エフフォックスなら一般的だろ。大体なんでもあるし」

「エフフォックスって、お前。ここのはプラチナじゃねえか」

 エフフォックスは幅広い客層を想定している国内ブランドだ。だが、一般向けのそれとは違って、ここにあるのはプラチナブランド。つまり、高級品である。冗談ではない。そんなものを日常的に着ていたら、いくらあっても被服費でひいひい言ってしまう。

「まぁ、だいたい同じだろ。いいから見ようぜ」

 適当すぎる。こいつは格好も適当だが、店選びも適当なのだ。食事ならばまだしも、こと衣料品でこいつに従うのはあまりに危険すぎる。

「いや、あのな。俺にプラチナブランドなんて……」

 ずいずいと進んでいく友人を慌てて追いかけて袖を引っ張るが、こいつは意に介した様子が無い。これだから収入もあるボンボンは。

 頑張って引き留めようとするのだが、この男には全く悪気がない。どうすればいいんだ。こんな所で一式買ってしまえば、一ヶ月の食費どころか他の費用まで丸々飛んでしまうぞ。

「これなんかいいんじゃね。今のお前ちっちゃいし、似合うだろ」

 適当な男はマネキンに着せられている一式を指さした。マネキン買いかよ。

「いやいや、値札見ろよ。セットで7万とかするじゃねーか。俺はいいよ、ユニークとかで」

 今着ているのはその量販店で買ったものだ。これだって街を歩くのに全く問題はない。金ばかりかけたって仕方がないのだ。というか、高すぎる。バカなのか。

「あー、お前いつもそれだもんな。いいじゃん、別に、偶には。えーと、なんだっけ?女性は自分へのご褒美とかするんだろ」

「いや、ねえだろ。というか女性って。俺を何だと思ってんだ」

 ご褒美で手取りの三分の一を飛ばす馬鹿などいない。いたとしたらそいつは筋金入りの馬鹿だ。家賃より高いではないか。

「いらっしゃいませ。こちらをお試しですか?」

 最悪だ。店員が寄ってきた。これはあれだ、試着なさいませんかというやつだ。心の弱い自分に、試着したものを買わないなどという選択肢は無い。絶望的だ。

「あー、そうです。こいつに。サイズ見てもらっていいっすか」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 ああ、もうだめだ。なんでこいつはこうなんだ。もっとその、こちらの経済状況とかいうものへの配慮というのは無いのだろうか。

 言われるがままに試着室へと引きずり込まれ、気がついた時には一式が入った紙袋を持たされていた。

「服はいいよな、じゃあ次に行こうぜ」

「お前な……」

 支払いはソウがカードでしていた。店員は彼氏だか兄が、彼女だか妹にプレゼントしたのだと思いこんでいるのだろうが、こっちはそうではない。奢ってもらうつもりなどサラサラ無いのである。いきなりこの男に借金をしてしまった。

「次、何が必要なんだ?」

 流石に少し意趣返しがしたくなってきた。こうなったら毒皿である。

「下着が足りないな。女性用のランジェリーショップに行くぞ」

 鳥モドキの体液が染み込んだ下着は捨ててしまったので若干足りないのだ。

 下りのエスカレーターに颯爽と乗り込む。女性用の下着売り場は四階だ。すぐ下である。流石にぎょっとしたソウはそわそわとし始めた。ざまあみろ。思う存分、居心地の悪さを体験させてやる。


 四階は思いの外地獄だった。自分一人なら兎も角、隣の何もかも適当な男を連れて歩くには、少々場違い感がひどい。周辺にいる買い物客も、大体は女性同士か、あるいは女性一人だ。

「おい、手っ取り早く頼むぞ」

「お前が必要なとこに行こうって言ったんだろうが」

 カラフルな下着がこれでもかと展示されている店の中に入った。やばい。ここも一着あたりの値段がやばい。

「いらっしゃいませぇ」

 まずいことに入った途端に店員が寄ってくる。高級店なので仕方がないが、それにしてもこの隣の男は場違いだろう。

「どういったものをお探しですか?」

 どういったもの、か。別に普通でいいのだが、ここは普通のものが置いてるとは思えない。ソウの方を見ると、案の定、明後日の方向を見て知らんぷりをしている。

「ソウ。好みを言ったら?」

 嗜虐心が沸き起こって、友人を窮地に立たせる。これは仕置である。高い借金を背負わせた友人への仕返しなのだ。

 案の定、こういった所に免疫の無い男は狼狽えた。みっともなく視線をあちこちへ彷徨わせている。店員はこういうのに慣れているのか、何故か微笑ましそうにこちらを見ている。

「あ、ああいうのでいいんじゃね」

 絶対に何も見ずに決めた。この適当な男は、近くにあったマネキンにつけてある上下セットを指さした。おい。

「あら!お目が高いですね!試着なさいます?あ、サイズはおいくつでしょうか」

 マジか。これを、自分が着けるっていうのか。

 マネキンに着せられていたのは、激しく扇情的な真っ赤な下着であり、ブラはもう乳首部分以外は完全に透けているものだった。ショーツにいたっては尻がTバックになっていて、危ない部分をかろうじて隠しているだけの下着というかこれ、性行為扇情用ではないですかと言いたくなるようなものである。

 いくら見もせずに選んだとはいえ、あまりにもひどすぎる。こいつ、これを俺に着せて何をするつもりなんだ。

 店員に引っ張られて試着室に連れて行かれる。肝心のソウはというと、未だに落ち着き無く視線をあちこちへと彷徨わせている。なんだお前、被害者はこっちだぞ。

 試着室でを身に着けた自分が映った鏡を見て、絶望する。

(痴女だろ、これ)

 もう全裸と変わらない。全裸のほうがマシじゃないかと思える。なんでこんなものを堂々と店で売っているんだ。犯罪じゃないか。

 しかし、着てしまった以上は買うしかない。やっぱりいらないとは小心者の自分に言えるセリフではないのである。

「ありがとうございましたー!」

 恐ろしい事にこの上下だけで5万も取られた。布地の割合に比べて高すぎじゃないだろうか。暴利ではないだろうか。

 先の服に加えて12万以上の出費である。頭がクラクラしてきた。一体どうしてこの男は、日常の買い物にこんなところへと連れてきてしまったのだ。

「ソウ、お前な」

「いや、いい。言うな。昼飯にしようぜ」

 逃げるように親友はエレベーターに乗り込んだ。また地下だ。迷宮へ逆戻りである。

 先程の高級路線とは一変して、地下にある大衆的な蕎麦屋に入り、落ち着いた所で言いたかった事を口にした。

「あのな、ソウ。貯金は一応してあるけど、俺が無職になったってのは知ってるよな」

 そう、収入はほぼ断たれたのである。今月分の給料はまだ出ていないが、来月にそれが支払われてからはノーインカムである。無職である。無収入なのだ。

「ああ、良いよ別に。さっきのは俺持ちだから。元からお前に払わせようとか思ってねえし」

 阿呆か。そういうわけにはいかないだろう。親しき仲にも礼儀あり、である。

「そうはいかねえだろうが。いいよ、払うよ。俺が着るもんなんだし」

「いや、でも、俺が連れて行った所だからな」

「着るのは俺だろうが」

 暫く俺が俺がと押し問答しているところに、注文した蕎麦が運ばれてきた。お互いに二枚も頼んでいたので、どっかりと音を立てて店員のおばちゃんが置いていく。

「仲いいねえ」

 勘違いしたおばちゃんは厨房に戻っていった。なんとなく気まずくなって、押し付け合いをやめて蕎麦を啜る。

「この後、どうする?」

 一旦問題は棚上げだ。後でも良い事は後回し。やることを先にやるのが基本である。

「あー、特に何もないな。同人ショップ覗いて、帰るか」

「うん、まあそれでいいけど。晩飯はどうするんだよ」

 戻ればマンションの近所で済ませるしかない。牛丼やラーメンのチェーン店しか近くには無いのだ。

「ああ、別に牛丼とかでいいだろ。問題ないよな」

 問題は無い。別に牛丼は嫌いではない。寧ろ好きである。しかし、このように安易に外食に走る友人に無性に腹がたった。

「別にいいけどさ。お前、毎日そうやって外食ばっかりで済ませてるわけ?」

 この友人は太ってはいないが、あまり体格は良くない。何事も適当なこいつは、食事も適当に済ませているのだ。

「え?そうだけど?何か問題ある?」

 問題しかない。どう考えても特定の栄養不足だろう。

「あるに決まってんだろ。食い終わったらスーパーに行くぞ。晩飯は俺が作ってやる」

「お?そうか、いやあ、助かるなあ」

 時折飯を作ってやった事は今までにもあった。あまりにも不摂生が過ぎるので、こいつはすぐに体調を崩すのだ。自業自得としか言いようがない。

 大酒を飲んで食事は濃い味の外食中心となれば、それは当然と言える。せめて朝食はまともなものでも摂っていれば良いのだが、だいたいこいつはコンビニパンと牛乳で済ませている。栄養不足も甚だしい。

 意外と蕎麦の香りがする美味いざるそばを二枚食い終えて、蕎麦湯も飲んでから外に出た。駅地下のくせにやたらと本格的である。

 環状線に乗ってソウの自宅付近に戻る。近くにはちゃんとした地元密着型のスーパーマーケットがあった。聞けば、こいつは牛乳やら電子レンジ用のラップを買う時ぐらいにしかここを利用しないというのである。馬鹿である。

 幾つか食材を買って、そこは流石に自分で払って店を出た。昼間の買い物に比べれば恐ろしいほどの少額だ。そもそも、日用品とはこういう買い物をするものなのである。

 スーパーの袋を提げてエレベーターに乗ると、ケージに猫を入れた若い御婦人と一緒になった。ケージを覗き込むと、アメリカンショートヘアの可愛らしい猫ちゃんが中でじっとしていた。

「ふふ、可愛いですね」

 それはもう、可愛い。猫は癒しである。存在するだけで周囲を幸せにする、圧倒的な癒し発生生物なのだ。誰に聞いても異論は無いだろう。

 若い御婦人はこちらの反応が嬉しかったのか、優しげな声でミミちゃん、と呼びかけていたが、緊張した猫は奥に縮こまったままだった。悲しい。出来れば触りたかった。

 先に降りた彼女と猫に手を振って、13階までじっと待つ。

「猫、可愛いよな」

「ああ」

 このマンションはペット可らしい。エレベーターに専用のものが設置されている時点でそれは知っていた。けれど、実際に連れている人と一緒になったのはこれが始めてだった。

「可愛かったなぁ」

 凛々しいお顔に愛らしい瞳。お尻のように分かれたお口に、ふわふわとした毛並み。可愛すぎる。もう、地上に舞い降りた天使ではないだろうか。一体神は何を思ってあのように可愛らしい生物を作ったのであろうか。当然、愛でる為である。

 ほころぶ口元を隠せずにいると、斜め上からソウがこちらを見て変な顔をした。

「……なんだよ」

「いや、その顔で言われると印象違うなって」

 どういう意味だ。自分が猫を愛でてはいけないというのだろうか。心外である。

 エレベーターを降りて、ソウが鍵を開けるのを待つ。そういえば、自分が一人ではここを出入りする事は出来ない。部屋にこいつがいる時はインターフォンで呼べば良いが、仕事に出ている時はどうすれば良いのだろうか。

 マンションは入口にもロックがかかっている。入るには専用のカードキーか、設置してあるインターフォンで部屋の番号を呼び出して遠隔で開けてもらう必要がある。これは自分が今住んでいる所でもそうだ。

 だが、流石に合鍵を寄越せとは言いづらい。ソウは実家の家族に合鍵を渡しているだろうし、余分なものを持っているとは思えないのだ。作るにも金がかかる。

 金、金、金。ヒノモト国民としては別に恥ずかしい事ではない。社会主義的資本主義がこの国のモットーなのである。であるが故に苦しんでいる部分もあるのだが。

 何にしても、このソウ・サメガイという男は金を持っている。親が議員で実家も大地主で太いというのもあるのだが、就職した企業も業界第一位の大手企業だ。

 本人はとうの昔に出世を諦めて技術者として安穏としているものの、それでも給与が他の一般人と比べれば圧倒的に高い事に変わりはない。自分のような地元中小企業の中間管理職とはそもそも桁が違う。年収にして倍以上の差があるのだ。だからこそ、昼間のような齟齬が生まれるのだが……。

「ただいまーっと」

 誰も居ない部屋に向けて、友人は声を放った。育ちが良いので挨拶が当たり前になっているのだ。

「お邪魔します」

 こちらも癖になっている。邪魔するなら帰って!という冗談も最早聞き慣れたものだ。他人の家に上がる時は言わざるを得ない。なのに、先に靴を脱いでいた友人はこちらを振り返って言った。

「もう、邪魔するも何もねえだろ。ここに住むんだし」

「いや、癖で」

 染み付いた癖はなかなか直らない。仕方がない。

 ソウは、まぁそうだよなあと言いつつ奥へと言って端末の電源を入れた。こちらは同じことは出来ないので、キッチンに荷物を置いた後に洗面所で手を洗い、うがいをする。

「よし!じゃあ、バトルするか!」

 ソウは無線式のコントローラーパッドを持ち上げた。

「しねえよ。飯作るから、適当に遊んどけ」

 広いリビングとキッチンは一体化している。所謂システムキッチンというやつで、やたらと広くてスタイリッシュだ。この適当な男にはあまりにも勿体ない設備である。

 悲しそうな瞳をした友人は、ゲーム機を起動してタコのゲームを始めた。墨で領域を確保するという古のバトルシミュレーションゲームである。

 こちらは買ってきた食材を取り出して、夕食の準備をする。買ってきたのは白菜、豚バラ、人参に卵一パックに長ネギである。

 正直なところ、こんな簡単なもので良いのかと悩んだのだが、牛丼で済ませられるよりは余程マシだと思い直した。

 人参の皮を剥き、薄い短冊切りにする。白菜をざくざくと適当な大きさに切って、豚のバラ肉は数センチに均等に切る。

 豚バラに塩コショウを振って、片栗粉をまぶして全体的になじませる。

 IHにフライパンを置き、油を敷く。豚バラをある程度炒めたら、さっき切った野菜をどばっと入れて同じように炒め、少し水を入れた後に蓋をして煮込んでおく。

 まな板を洗ってネギを乗せ、斜めに細く切り刻む。ボウルに卵を4つ割り入れて

溶いて、酒、醤油にダシの素を加えて塩コショウを振る。

 煮込んだ野菜に火が通ったので、オイスターソースと醤油、砂糖にダシの素をぶちこんでかき混ぜ、別のボウルに溶いておいた片栗粉を流し入れてとろみをつける。少し火が通ったらヘラを使って皿にあけて、そのままフライパンに再び油を敷いて先程の卵を流し込む。

 まな板は兎も角、熱するフライパンは一々洗っていては手間がかかるし、水も使うことになる。どうせ自分もソウも味オンチなのだ。適当で良い。

 ざく切りにしたネギをぶちこんで少し加熱したら、すぐに別の皿に移して完成だ。

 豚肉と白菜の煮物にネギと卵の炒め物。名前など無い。普段自分が食っているもので美味いと思って野菜の入っているものを選んだだけだ。

「おい、出来たぞ」

 こいつの部屋にはやたらと調理器具も調味料も揃っているくせに、こいつが料理をした所をまるで見たことがない。宝の持ち腐れである。

 宝があるなら有効に使わせて貰うだけなので別に良いが、一体何をもってこいつはこの調理器具を買おうと思ったのか。意味不明だ。

「おっ!ミサキの手料理は久しぶりだな。ありがてえ」

「感謝して食えよ。ああ、おい。酒は直接じゃなくてグラスを使え」

 目を離せばこいつはすぐに瓶なり缶から直接飲もうとする。料理が皿に乗っているのだから、飲み物だって器から飲むべきだろうに。

 いつもソウが食事している端末のある机ではなく、テーブルの上に料理と酒を並べる。毎日同じようにしていた自分が言えた義理ではないが、折角二人でいるのだから食卓を囲めば良いだろう。

 自分のグラスにも酒を注いで、グラスを軽く打ち合わせる。

「おお、美味い。お前ってホント料理上手いよなぁ」

「趣味みたいなもんだからな」

 自分も豚肉を箸でつまんで口にした。うまい。

 柔らかくて野菜と肉の味がじんわりと滲み出たオイスターソースの味わい。今飲んでいる甘い酒には合わないが、それでも美味いと感じられる。当然だ、まずいものを作る趣味はない。

「卵の方も美味いな!ネギがシャキシャキしてて、いくらでも食えそうだ」

「だろ?ネギを後から入れるだけでこうなるんだよ」

 ひとしきり作った料理を堪能して、空になった食器をキッチンの流しに持ち込んだ。

「なあ、ミサキ」

 食器を洗っているこちらに、ゲーミングチェアの背もたれから仰け反らせた頭部をこちらに向けて、ソウが聞いてくる。

「なんだよ」

「お前、そんだけ料理が上手いんだから、そっちで就職すりゃ良かったんじゃね」

「料理は趣味だよ。趣味を仕事にしたら嫌いになるだろうが」

「ああ、確かにそうだな」

 この友人もゲームが趣味だが、決してそれを仕事にしようとはしない。分かっているのである。趣味は趣味だから楽しいものであると。

「まぁ、それじゃあ趣味で料理作ってくれりゃいいんじゃね」

「は?いや、そりゃ作るけど」

 こいつが嫌だと言っても作るだろう。栄養とかそういう問題ではなくて、そもそも他にやることが無いのである。仕事が受けられない以上、やることは家事ぐらいしかないのだ。

「そっか、じゃあ、頼むわ。家賃は別にいいから」

 何を言っているんだ、こいつは。

「そんな訳にいかないだろ。住まわせて貰う以上は水光熱費だって上がるし」

 人が生きている上でかかるのは食費だけではない。特に住居に至っては何やかやと金のかかるものなのである。

「いいよその辺は、必要経費だし。毎食牛丼に比べりゃ天国と地獄だよ」

「言い過ぎだろ。まぁ、褒め言葉として受け取っとくけどさ」

 しかし、微妙にそれは聞きとがめた。毎食?

「おい、待て。ソウ、お前、昼飯も毎日外食なのか?」

「そうだけど」

 だめだこいつ、はやくなんとかしないと。

「費用対効果が悪すぎるだろうが!せめて社食とか無いのかよ?」

「無いな。本社ビルはそういった無駄を省いてるから」

 無駄か。まぁ、コストを考えれば無駄なんだろうが。

「わかった。おい、仕事出る時は弁当作ってやるから持っていけ。外で食うより安くてマシだろ。味だってある程度は保証してやるから」

 適当な奴だとは思ってはいたが、適当にも程がある。

「マジか!?いいのかよ?でも、弁当って作るの大変なんじゃ?」

「事前に準備しときゃそうでもねえよ。まぁ、前の日に仕込んでおくぐらいはしないといけないけどさ」

 元々自分一人でも作っていたのだ。造作もない。

「そっか、いやぁ、ミサキがいたらQoL上がりまくりだな。もっと早く呼べば良かった」

「QoLという概念を知っていてその生活だったのかよ……」

 クォリティオブライフという言葉をビルメンテナンスの作業員に言っても、不思議そうな顔をされるだけだ。年代もそうだが、知識レベルも自分の職場では大きな開きがあった。セクハラやパワハラを容認しているような所もそうである。

 一方このソウは、自分と同じ年齢でもあるし、ある程度知識のある層を相手にするので、普通に言葉が通じる。20年以上も付き合いがあるのは、そういった知識レベルが一致しているという点もかなり大きい。やはり、価値観の一致というのは友人として重要な要素でもあるのだ。

「明日はどうすんだ?」

 連休である。買い物はもう済ませたし、やることはない。

「家でだらだらしよっかなって。なんかやりたい事ある?」

 無い。自分も連休では特にやること無く動画を観て料理をするだけの生活である事が多い。

「無いな。強いて言えば飯作るぐらいだが」

「おお!そうだな、じゃあ、食材の買い出しに行こうぜ」

「はいよ。今日行ったスーパーか?」

「もっと良いところあるだろ。サクラダ行こうぜ」

 また、こいつは。金があるからと言って、金をかければその分良いものが手に入るわけではないのだ。

 高いものは美味い。それは当たり前だ。だが、安いものは不味いかと言われれば別にそんなことはない。安くても相応に美味いものはいくらでもある。

「別にそんな、高級品なんてあっても俺の料理の味はそんな変わらないぞ」

「良いものがあるならそれに越したことないだろ?いいじゃねえか」

 別に悪いとは言わないが……こいつはこちらが無職だと分かっていて言っているのだろうか。かなり心配になる。

 その日もソウが録り貯めたアニメを観ながらああだこうだと言いつつ、いつの間にか次の日の朝になっていた。

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