第6話 悪化を続ける周辺環境
引きこもり生活が始まった。
ゆっくり寝ていても良いのだが、染み付いた習性が既定の時間に勝手に脳と肉体を起こしてしまう。変に寝ていても疲れるだけなので、いつも通りに起き上がって朝食の支度をする。
時間はあるのだ。この際、簡単なものでも少し手間をかけて作ってやろう。
いつもは目玉焼きだが、今日は久しぶりにだし巻きを焼くことにした。あまり使っていない専用の焼き器を取り出して、油を塗る。
くるくると焼いた卵を返しているうち、陰鬱な気分が少しマシになってきた。日常の動作というのは、平穏を取り戻す力があるのかもしれない。
納豆ご飯と卵焼き、味噌汁を持って端末の前に座る。ニュースサイトは例の災害の続報ばかりだが、未だ詳細は発表されていない。ふと気になって、殆どつけないテレビの電源を入れた。
『次は、衝撃の映像です。番組では、ヤマシロ市役所の災害と思われる現場の映像を入手しました』
おい、いくらなんでも酷いだろう。入手したってことは、サブウェイかwisか、どっちかで投稿者から買い取ったという事だ。それはつまり、投稿した人間が自分の事を売ったという事に他ならない。一瞬、テレビ局に苦情の電話を入れてやろうかと思った。
なんとかそれは思い留まって、朝の下らないニュースを続けて見る。映像にはぼかしがかかっているが、例の動画なのは明白だ。テレビ局はネットの後追いをして恥ずかしくないのだろうか。
『どうでしょうか、コメンテーターのヤシロさん』
『ちょっとこれ、どうなんでしょうね?人間の動きとは思えませんし、合成なんじゃないですか?』
『いや、でも、流石に生々しすぎませんか?』
『いやね、最近はAIでこういった動画が作れたりするものですからね』
全く専門外の肩書を持っているコメンテーターが、動画は偽物だろうと匂わせている。だが、誰だって最初はそう思うだろう。
しかし、事は人の生き死にだ。遊び半分でそんな動画を作ろうものなら袋叩きにあう。実際、合成を疑うコメントも元動画にはあったものの、大半が真実だと受け取っているようだった。
番組はそのまま地域のグルメとかいうコーナーに移ったので、電源を落とした。いつ見てもこういったバラエティじみたニュース番組というのは面白くない。
改めて動画サイトのサブウェイを見る。昨日の動画は消されていたが、すぐに別の人間がアップし直しているようだ。広告収入のある媒体故に、どうにかして視聴数を稼ごうとする人間は後を断たない。
あまり立ち上げないウィスパーライン、通称wisを立ち上げた。トレンドには当然の如く『#美少女vs化け物』『#怪力美少女』なんかが並んでいる。美少女美少女ってお前ら、そこにしか食いつかないのかと呆れる。
しかしまぁ、自分が男のままであったらと思うと、当然そのタグには気を引かれるだろう。所詮他人事なのである。興味のあるものには飛びつくし、ただのエンタメとして消費してしまう。
自分がその対象になってその醜悪さが良く分かった。大衆というのはつまるところ、大衆そのものなのだ。
集団になると祭りは盛り上がる。ただそれだけの事だ。昔は一部の人間が使っている匿名掲示板がその主な場だったのが、一般人が気軽に情報を発信できるようになった事で、その範囲が極端に広がった。
もう、ネットのどこを見ても自分の事が書かれている気がして、疲れて端末を落とした。暇つぶしで疲れてしまっては意味がない。せっかくだから普段あんまりしないところの掃除でもしようか。
閉じっぱなしのカーテンを少し開けてベランダを見る。室外機の置いてあるベランダには物干し台以外には何もなく、シーツを干す時にしか使わない。床面を少し、水洗いしたほうが良いだろうか。
ふと、ベランダの向こうをひょいと覗くと、仰々しいカメラを持った人間を引き連れた者が二、三人、建物の前でウロウロしている。なんだ、あれ。
どうみても素人の持っているビデオカメラではない。人数からして、地方局だろうか。一体どこからここの情報を得たのだ。
本社が自分の住所を漏らすわけがない。そこは信頼している。となれば、現場に居る誰かから聞いたのか。
自分の住所は緊急連絡先として、事業所共通のパスワードをかけた共有ファイルの中に入れてある。自分の担当現場の人間であれば誰でも閲覧可能だ。しかし、そんな事をする人間に心当たりが……。
あった。
まさか、そこまでするとは思えないが、でも、他にはちょっと思い浮かばない。
困った。これでは買い出しもままならない。外に出た瞬間、マイクとカメラを突きつけられるに決まっている。奴らの辞書にプライバシーへの配慮などという言葉は無いのだ。
そっとカーテンを再び閉じる。ベランダの掃除も無しだ。本格的にやることがない。
据え置きゲーム機でも引っ張り出そうかと思ったところで、スマホが鳴った。通話だ。知らない番号だ。そっと着信拒否に設定した。
住所が割れた以上、電話番号も割れているに決まっている。緊急連絡先にしっかりと記載してあるのだ。住所を漏らしたタニグチがその情報を売らないはずがない。
自分と登録してある係長は別人だと言ってある。だが、あの男は自分と男の自分が結婚しているのだと思い込んでいる。係長は美少女と一緒に暮らしている、とすら言ったかもしれない。
一体何だというのだ。周囲が寄って集って自分を追い詰めようとしている。
辛うじて本社では食い止めていてくれるものの、タニグチという蟻の一穴から全てが台無しになってしまった。あの男は何か自分に恨みでもあるのだろうか。
一気に気分が萎えた。どれだけ肉体が強靭であろうとも、精神は鍛えられていない。
無理だろう。ネットに晒されて好奇の目線を注がれ、自宅の住所や電話番号まで知られてしまった。
外には出られないし、カーテンすら開けられない。地獄である。
腹立ち紛れに筋力トレーニングを行う。最早自重だけでは負荷にすらなっていない。
汗ひとつかかずにベッドに横になった。やることがない。
誰でもいい、助けてくれ。この閉塞された状況から。
翌日も同じ時間に目が覚めた。気分が落ち込んでいようが、肉体はすこぶる快調である。逆にこの健康さが憎らしい。
せめて酒でもあれば気も紛れようが、普段からあまり沢山飲まないので買い込んでもいない。
落ち込んでいても腹は減る。朝食の準備をしようかと思ったところで、インターフォンが鳴った。
警戒しながらモニターを見る。一人のやや年増な女性と、事件の日に事務所にやってきた若い方の警官だ。
「はい」
『県警のミズキと言います。お話を』
後ろにいるのが警官だと分かっていたので応対した。手帳も開いて見せてくれたので、間違いない。警官のふりをしたり手帳の偽装は犯罪だ。いくらマスコミの取材がひどかろうと、そこまではしないだろう。
手元のボタンを押してロックを解除する。二人はガラスのドアを開けて建物の中へと入ってきた。
扉を開けてすぐに警察官を二人、招き入れると、座布団を渡して自分はベッドに座った。
「すみません、来客を想定していないものですから、お茶も用意できなくて」
ミズキと名乗った年増の警察官は、鋭い目で周辺を眺め回している。
「いえ、お構いなく。カラスマさん、ですよね。下のお名前は?」
黙った。ミサキですと答えるのは簡単だ。女性の名前としても違和感は無いし、子供の頃は割とその事でからかわれたりもした。
黙っていると、女の目は険しくなっていく。
「言えない理由があるのですか?失礼ですが、何か身分を証明するものをお持ちでしょうか」
無い。いや、あるにはあるのだが、これは前の自分のものだ。
答えられない。どうしろと言うのだ。言えば、彼女は信用してくれるだろうか。
「貴女、本当にカラスマという苗字なのですか?ひょっとして、偽名ではありませんか?」
「いえ……偽名ではないのですが」
これ以上疑われてもしょうがない。黙って運転免許証を差し出した。
「ミサキ・カラスマさん。これは、あなたのものでは無いですよね」
「いえ、私のものです」
その言葉に苛ついたのか、ミズキと名乗った警察官は目を吊り上げて言い放つ。
「公文書偽造ですか?重犯罪ですよ?それとも、なんですか。貴女はこの、32歳の男性だとでも言うのですか?」
「……そう、言っています。少し前、起きたらこの姿になっていて」
当然ながらミズキは信じなかった。この件については言っても無駄だと判断したのか、別の話題を切り出す。
「そうですか、カラスマさん。先日の事件の事、もう一度お伺いしても宜しいでしょうか」
名前に妙な強調をつけて、年増の警官はこちらに言った。何度聞かれても同じ事しか言えない。再び警部に言ったことを繰り返す。齟齬は無いはずだ。
「その、鳥モドキ、ですか?それを、貴女が打ち殺したと」
また同じ疑問だ。もう10エン玉は曲げない。一応通貨を破損させることは犯罪にもなるのである。
「あの、警部補。それは多分、彼女なら出来ると思いますよ。僕も目の前で」
後ろに居た警官が口を挟んだが、ミズキ――階級は警部補だった――はじろりと後ろを睨んで黙らせた。
「警察官が詐欺の手口に引っかかってどうするんですか。警部も警部です。被疑者に全くウラも取らずに」
被疑者?今、被疑者と言ったのか?
「あの、すみません。今、私のことを被疑者と?そういえば先程も、先日の災害ではなく事件と……あれは、事件性のあるものなんですか?」
どうみても災害か、あるいは事故だろう。どこかから逃げ出したにせよ、意図的に人を殺したわけがない。
しかしミズキは再び目を吊り上げた。
「事件性?あるに決まってるじゃないですか。一体何人殺されたと思っているんです?」
何を言っているんだこの女は。そんな事は分かっている。あの鳥モドキに殺されたのだ。それとも何か、あの怪物を逮捕して罪を負わせるとでも言うのか。
「あの、亡くなられた方は残念ですが、あの化け物は誰かが放ったものなんですか?」
事件性、というのであれば、これしか考えられない。誰かが意図的にあいつらを放って、近隣の住人や警官も含めて殺させたというのであれば、災害ではなく殺人事件だろう。
「化け物、化け物ね。みなさんそうおっしゃいますが、その化け物とは、どこにいるのですか?」
「どこって……死体だって残っていたでしょう?北庁舎の工事現場に一体、分庁舎に三体、表の道路に一体」
おかしな話だ。何一つ、この女の言っていることが自分の想像と噛み合っていない。
「無いですよ、そんなもの。我々が踏み込んだ時には影も形も」
何だ。何を言っている?無かった?あの馬鹿でかい生き物の死体が?
「ちょっと待って下さい。私は確かにアレを五体、殺しました。脳天をぶっ叩いて、頭蓋骨が割れて中身が」
ミズキは眉間に皺を寄せた。濃い化粧が陰影を強くする。
「そうですか、脳天を。被害者の多くもその一撃が原因で死んでいました。貴女、カラスマさん、ひょっとして、人間が化け物に見えたりしたんじゃないんですか?」
何を。
そんな事が。
「何を、言っているんですか?私が、あの鉄パイプで、人を殺したと、そう、言っているんですか?」
馬鹿な。ありえない。どう考えてもあれは化け物で、人間じゃない。実際に目撃者だっていくらでもいるし、そもそも脳天の一撃は爪によるものだ。裂傷と打撃では傷跡が全然違うだろうに。
「仮定の話です。私とて、貴女のような華奢な人があれだけの人数、全員を殺戮できたなどとは思っていません。単独犯ならね」
何を言っている。何一つ、この女の言っていることはわからない。
「ちょっと、ちょっとまって下さい。話が飛躍しすぎていませんか?大体、私がなんでそんな事をする必要があるんですか?それに、共犯って」
意味がわからない。いくらなんでも無理矢理過ぎる。論理として破綻している。そもそも。
「そもそも、沢山目撃者がいるじゃないですか。私が最初に避難させた女性だって、三階で立てこもっていた人達だって、同じように化け物が入ってきたって言っていたでしょう?」
全員が嘘をついているとでも言うのか。無茶苦茶だ。
「ええ、ですからみなさんそうおっしゃっています。鳥のような化け物が入ってきたと。けれど、人ではない、とはどなたも仰っておりません」
馬鹿な。一々そんな注釈を付けるわけがないだろう。言葉遊びをしているほど警察というのは暇なのか?
「はあ、それじゃあ、みんながみんな、人を化け物と勘違いして、立てこもって、バリケードを攻撃されて、私が助け出して逃げたというのですか」
「助けたと勘違いされたのかもしれませんね」
何を言っても無駄だ。完全に思い込んでしまっている。
「……警察は先入観で捜査をするものだったのですか。失礼ですが、貴女の言っている事は仮定ばかりで、何一つ事実が含まれていませんよ」
「先入観を持っているのは、目撃者と私、果たしてどちらでしょうね?」
埒が明かない。
「動画が出回っているようですが」
「合成でしょうね」
言うと思った。いくらでも言いようがある。それは偽物です、それは合成です。
「それで、私が身の潔白を証明するにはどうすれば良いのですか?」
教えて欲しい。どうしたらこの馬鹿女の目が覚めるのか。
「ありのままを教えて下さい。あなたの身元も、いなくなったカラスマさんの行方も」
「最初からありのまま、全てお話しています。私から言える事はこれだけです」
何もかも言った。自分がミサキ・カラスマである事も、あの災害の一部始終も。
ミズキ警部補は立ち上がった。これ以上は無駄だと判断したような顔である。その顔はこっちがしたい。
「また来ます。いくら圧力をかけようが、私はこの事件を諦めるつもりはありませんから。でないと、殺された大勢の人が浮かばれません」
「圧力?よく分かりませんが。お好きにどうぞ。逮捕状が取れるならどうぞ、とってきてください。逮捕したところで検察は絶対に不起訴にするでしょうけどね」
こんな不確かな証拠だけで人を犯罪者に仕立て上げられるわけがない。しかしその言葉にミズキはより闘志を燃やしたようだ。
「あんたみたいな悪女に、いいようにはさせない。警察を舐めるなよ」
捨て台詞を残して出て行った。後ろについていた若い警官は、すみませんと言って彼女を追いかけていった。何なのだ、あれは。
本当に、何なのだ。次から次へと。
素顔が晒されて住所や電話番号が漏れたかと思えば、人を犯罪者扱いする年増女のお出ましだ。一体全体、何が起こっているというのだろうか。
しかし、気になることはある。
あのミズキとかいう警部補は、踏み込んだ時にはもうあの化け物の死体がなかったと言っていた。
あの死体があれば動かぬ証拠となるはずなのに、それが無いが故に彼女は妄想たくましく自分の事を被疑者、寧ろ犯人そのものだと思い込んでいるのだ。
まさか、煙のように消えてしまったという事はあるまい。であれば、誰かが持ち去ったのか。
警察よりも先に入ったものといえば、消防か、あるいは防衛隊か。どちらにせよ公僕だ。そんな場を混乱させるようなことをするだろうか。
それに、あの女は『いくら圧力をかけようが』と言っていた。多分、上からこれは災害として処理するようにと言われたのだろう。それで、反骨心旺盛な彼女は闘志を燃やし、こちらの棲家を探り当てて乗り込んできた、というわけだ。
圧力。どこから?警察の上部か、そこに介入できる国家権力、財界。その辺りだろうか。
自分はそんな上の方にいる人に伝手など無いし、だとすれば、化け物の死体を持ち去った者と同一と見るべきだろう。つまり、防衛省か財務省、その辺りか。
(馬鹿馬鹿しい)
陰謀論にも近い。あの女のせいでこちらにも妄想癖が感染ってしまったのか。
どっちにしても考えても無駄だ。自分にどうこうできる範囲の話ではない。自分が出来ることは、どうにかこの難局を乗り越えて生きていくこと。出来れば男に戻る事。
(戻れなかったら)
ずっとこのままだったら。
どうやって生きて行けば良いのだろう。何もわからない。
翌朝も前の道には記者らしき人間がうろついていた。カメラこそ持ってきていないものの、ずっと建物の前に張っている。バレバレである。
いざとなれば表からではなく、裏から飛び降りれば出ることは出来る。裏は公園になっているので、そこを通り抜ければすぐにもう一つ奥の通りに出られるのだ。
とはいえ、外を出歩くのが危険である事に変わりはない。可能な限り自宅でじっとしているのが今は最善の手だ。
そうと腹を決めてしまえば開き直れるものだ。据え置きのゲーム機を引っ張り出して、ずっと積んでいたゲームを黙々とプレイする。食事の準備と時間以外はずっと画面に向きっぱなしの日々が始まる。
と、思われたが。
(飽きた)
どうにもプレイ中にもあれこれと雑念が入って集中出来ない。そうなれば、遊びとしての価値は相応に下がってしまう。これは内面的な問題である。
というよりも、反射神経が妙に上がっているせいでゲームの展開がゆっくり過ぎるように感じて、どうにも矢鱈とぬるく感じてしまうのだ。アクションゲームをやれば敵の攻撃を全てカウンターが取れるし、格闘ゲームなら見てから反撃技が間に合ってしまう。
ならばとロールプレイングゲームをしてみれば、合間合間で日常の雑念が
オンラインゲームにすれば良いのではないかとも思ったのだが、自分の物とは思えないこの能力を使って対人をするのは流石に何か卑怯な気がする。
事前登録の開始をしていた『黄昏の王国』とやらはどうもRPGらしく、これも無理そうだと思って最初から放棄してしまっていた。
困ったな、と思って凝った夕食の準備をしていると、リビングの方でスマホが鳴った。
「はい、カラスマです」
『カラスマ君、今、時間は大丈夫か?』
「時間なら腐る程ありますよ。どうしました?」
嫌な雰囲気がする。まさかこれ以上立場が悪くなるという事はあるまいが。
『悪いが、君を庇い続ける事が無理になった。今週一杯で解雇という事になる』
言われた言葉が信じられずに、思わず問い返す。
「え?は、半年間は大丈夫なはずでは?」
『警察が来た。身元の不正確な人間を責任者として雇っているというのはどうなのかと突っ込まれたんだ。居ない者を休職扱いにしているのも』
確かに、ここにミサキ・カラスマが居ない以上、行方がわからないという事になる。だが、だが、その事実を知っている警察と言えば。
「あの、ミズキとかいう警部補が来たんですか?あの人の言う事は荒唐無稽な事ばっかりですよ?」
妄想まみれの陰謀論者のようなものだ。まともに取り合う必要は無い。
『分かってる。あの人は君の事をかなり勘違いしているようだった。それは分かる。だが、彼女は紛れもなく警察官であり、ヤマシロ市警察本部の建物管理はうちでやっている。毎年、市警のキャンペーンにも参加してる。わかるだろ?』
わかる。お得意様であり、模範的な優良企業として県警から表彰もされるような地元企業なのだ。例えあの女が言っていることが馬鹿げたことだとしても、本社の事情を知らない面々は争い事を避けたがるだろう。つまり、自分は切り捨てられた。
「そう、ですか。係長としての自分も?」
『……すまん』
仕方がない。理不尽だが仕方がない。だが、ここまでやるか?
自分はただ、小市民として真っ当な人生を歩みたかっただけだ。何故かいきなり女体化して、何故か唐突に現れた猛獣から人を守ろうとして、そして、与えられた結末がこれか。
「いえ。課長と部長が尽力して下さったことは理解しています。……今まで、ありがとうございました」
通話を切った。
これ以上悪くはならない。そう思っていた自分が甘かった。
どこまで、どこまであの年増女は場をかき乱すのだ。化け物から人を救ったその挙げ句の扱いが、これか。情けなくて、悔しくて身体の震えが止まらない。
「どうすればいいんだ。もう、どこにも未来が無いじゃないか」
身元不詳、無職の若い女が行き着く先と言えば決まっている。だが、嫌だ。そんな事までして生きていたくない。自分に出来ること、自分に出来ること。
圧倒的な、人よりも遥かに強い力がある。これを使えば、腕力に物を言わせて人々を虐げることも。
(できるわけがないだろうが!)
そんな事、出来るわけがない。虐げられたからといって、虐げる立場になったところで不幸を量産するだけだ。強者にやられたからと言って、弱者を踏みつける事が正しい事だとはとても思えない。そんなことは、理性を持たぬ獣の所業だ。
(誰か、頼れる人)
父は駄目だ。こちらのことを完全に疑っている。
妹は遠い街で幸せに暮らしている。彼女の生活を脅かしたくはない。
弟も同じだ。可愛い姪と甥に負担をかけるようなことは絶対にできない。自分のいるところにはあのクソウザい年増女がついてまわる。警察がくっついてくる者に、いい顔をする家族などいない。
一人、いる。
今週末に会う予定をしている。だが、いくら親友でも迷惑をかけるのは。
だが……。
スマホが鳴った。弟からだ。
「もしもし」
『兄貴?何やったんだよ。警察がうちにきたぞ?管轄外のくせに出張って来やがって』
「お前のところにも来たのか。ミズキとかいう年増女だろう」
『ああ、そいつだよ。なんか滅茶苦茶な事言ってたから追い返してやったけどさ。何があったんだ?』
「……庁舎に化け物が出て、そいつらから生き残った人を守ったら疑われた。仕事も辞めなきゃならなくなった」
『……あぁ、やっぱりニュースで流れてたあの動画、兄貴だったんだ。ていうか、あんな証拠があって疑うって』
「頭の固い奴には何言っても無駄だよ。親父で分かってんだろ?」
『そうか。あのタイプか。どうする?うち来る?』
それはダメだ。この優しくて兄想いの弟に迷惑をかけることは、絶対にダメだ。
「いや、こっちで何とかする。必要になったら頼むこともあるだろうが」
『そうか?無理しないでくれよ。兄貴がいなくなったらウミもショウも悲しむからさ』
「わかってるよ。じゃあな」
あの、クソ女。弟の所にまで押しかけやがって。この調子だと間違いなく父親の所にも行っているだろう。そして、あの父は、どこかの女が息子を名乗って電話してきた、等と言うに違いない。益々あの女は自分の妄想に確信を深めることだろう。
悪い方向にしか進んでいない。一体どこまで人の人生を破壊すれば気が済むんだ。
怒りが全身を支配する。今、目の前にあいつが現れたら、衝動的に首を捻り切ってしまうかもしれない。
ゴキゴキと全身の関節が鳴る。背中から湧き上がった熱が、比喩でなく長い黒髪を揺らす。
ふっと力を抜いた。馬鹿馬鹿しい。
バカに付き合って人生をより悪い方向に転がす必要は無い。警察官を殺せば、それこそ極悪人の烙印を押されてしまう。それだけはダメだ。父は兎も角、弟や妹に犯罪者の家族という消えない十字架を背負わせるわけにはいかない。
感情と理性は別だ。だが、感情に突き動かされて良い方向に転ぶ事は殆ど無い。
人は理性によって生きる生き物だ。決してその場の感情に流されてはいけない。
冷静になってこれ以上悪くなる可能性を考えてみる。自分に残された最後の希望は、親友であるソウ・サメガイだ。
20年来の親友であり、離れて住んでいてもずっと付き合いのある、大切な友人。
そこにあのクソ女が現れた時の事を想定しておくべきだろう。先手を打っておくに越したことは無い。
端末でチャットソフトであるワイアードを開き、親友との個人チャットを開く。
『仕事終わってからでいいから、話聞いてくれ』
これで良い。もう、あいつに頼るしかなくなってしまった。
人とは改めて社会性動物なのだなと実感する。複雑に絡み合った社会で生き延びていくには、その集団生活に適応するしかない。そこから弾かれれば野垂れ死ぬのみだ。今、自分はその危機にある。
生存本能が人間というものにまだ備わっているとしたら、今この時がその能力を発揮するべき時だろう。
獣は殺せても、人の中に住まうけだものは殺せない。飼いならすしかないのだ。
風呂に入った後、デスクの端末に通知が来ていた。ソウからだ。
『なんだ?また新しい料理でも試食してくれってか?』
ふっと笑った。それならどれだけ良かったことか。
『ソウは、俺が俺だって事がわかるよな』
『何ワケわかんねえこといってんだ?お前はミサキだろ?』
『そうだ。俺はミサキ・カラスマだ。ワイアードでもわかるよな』
『分かるに決まってんだろ』
『あのな、俺、一月ぐらい前から女になっちまってるんだけど』
反応が止まった。既読は付いているので見ているのだ。
『うん、それで?』
『それでな、市役所の動画、バズってたやつ見たか?あれ、俺なんだわ』
また反応が止まった。同じだ。考えているのだろう。
『ああ、まぁ、お前市役所勤務だったもんな。出世してから後も担当現場になって、人が足りなくて』
『応援に行ってたんだよ。女体化して、上司に理由話してさ』
『それで、あの化け物かよ』
『そうだ。だが、化け物の死体がどっかに持ち去られた』
荒唐無稽な話だ。信じるほうがどうかしている。だが、ソウは……親友は疑うこと無く話を聞いてくれている。
『そのせいで、証拠がなくなって、俺が殺人犯じゃないかって疑われてる。もしかしたらお前の所にも、ヤマシロ市警の奴が行くかもしれない』
『そうか、分かった。大変だったな、おい』
『大変どころじゃねえよ』
どうしてこんなに簡単に信じるのか。もっと疑われると思ったのに。
『週末って言ってたけどさ、俺、ちょっと連休長めに取ろうと思ってるんだわ』
『おう』
『明日にしようぜ。同じ時間で』
『わかった、すまん』
『謝る事じゃねえだろw』
そこで返信を止めた。何故だか知らないが、目頭が急に熱くなった。
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