第5話 災害発生
日常において特別何も語ることが無いのがこの仕事の良い所だ。恙無く終わる。それは実に素晴らしい事である。
例によって帰る人間が着替え終わった後に、遅れてロッカーで着替える。このタイムラグさえなければもう少し快適なのだが。
並んだロッカーのある部屋は狭い。三人も入ればいっぱいになってしまうような部屋だ。
ふと見ると、隅にあるタニグチのロッカーが少しだけ開いている。扉を閉め忘れたのだろう。
彼は時々鍵の掛け忘れもするため、巡回している委託警備に注意されることがしばしばあった。彼らは鍵の開け閉めやエアコン等の消し忘れに非常に敏感だ。それこそが唯一の仕事であると思いこんでいる節すらある。
端末やポットの消し忘れですらご丁寧に庁舎管理課に報告しているのである。真面目というか何というか、少し告げ口体質なのではと不安になってくる。
とは言え、鍵のかけ忘れは良くない。彼自身のロッカーはどうでも良いが、機械室の扉が開いていたりすればそれは間違いなく我々の責任である。委託元からの評価が下がるのは遠慮したい。
ちらりと半開きのロッカーを見て、無視する事にした。どうせ貴重品なんて置いていないだろうし、委託警備もここまでは一々見に来ない。どうでも良いのだ。
こちらの遅番になっているハシノにお疲れ様ですと挨拶をして外に出た。何もない。そう、何も無いのが一番だ。何かあった時が仕事の時だが、それは無いに越したことはない。
日頃から気を配っているのは、そうした出来事が起こらないようにするためなのだ。
そう、きちんと気を配っていれば何も起こらない。そのはずだった。
「はい、中央監視カラスマです」
ハラダが本社に出かけている為、西庁舎の事務所には自分一人が残されていた。他の者は分庁舎側でするべき点検が多かった為、そちらに出向いている。
『カラスマさん?庁舎管理のスメラギです。あの、分庁舎に電話しても誰もでなかったのでこちらにかけたのですけど』
誰も出ない?おかしな話だ。こちらの人員はほぼあっちに行っているし、電話番だって残している。トイレや検針で一時的に席を離れる事はあるかもしれないが……。
「それで、何かあったのですか?」
『あっ、そうです。分庁舎の各所から散発的にこちらに連絡があって……『鳥』が入ってきたので駆除して欲しいと』
鳥?駆除?建物の中にハトやカラス、雀や燕が入り込む事は稀にある。自分も他の施設で入り込んだ生き物を捕まえて外に逃がしてやった経験もあるが。
「それだけですか?」
『はい。ですが、妙なんです。あちこちからそうやってかかってくるんですけど、警察や消防にも連絡しただとかそういう事を聞いたうちの職員もいて』
鳥ごときで警察とはまた、大袈裟過ぎる。警察官だってそこまで暇ではないだろう。
「わかりました。様子を見てきますね。もしかしたらうちの者もその『鳥』の対応のせいで電話に出られないのかもしれませんし」
『あっ、そういえばそうですね。すみません、お願いします』
なんとも妙な話だ。鳥ごときで大騒ぎする分庁舎の職員達もそうだし、電話にすら出られないうちの作業員達もだ。
鳥か。
分庁舎の入口は全て自動ドアだ。開いた瞬間にわざわざ飛び込んでこない限り、普通の鳥は侵入すら出来ない。
屋上からにしても屋上庭園の出入口は半自動扉だし、出入りするには人がいる。人のいる所にわざわざ臆病な鳥は近寄ってこない。喫煙所になっている室外機置き場にしてもそうだ。
釈然としない思いを抱えながら西庁舎を出る。北側に目を向けた瞬間、すぐにその違和感に気づいた。
人が居ない。
この通りは観光地に近い事でもあるし、日常的に人が多く行き来している。なのに、人気が全くと言って良い程に無い。
訝しく思いながら分庁舎と工事中の北庁舎を分けている通りへと出る。再び強烈な違和感が、いや、違和感というレベルではない。異常だ。
通りには数人、人が倒れている。二人は警察官だ。特徴的な制服を着ている。一人は民間人のようだ。三人とも仰向けになって転がっている。
この身体になって視力が強化されている。その事を猛烈に恨めしく思った。
転がっている三人は、どう見ても死んでいる。三人が三人とも、頭部から脳漿をたれながして、アスファルトの地面に黒っぽいシミを作っている。
警察官はそれが致命傷のようだが、民間人である一人は大きく腹が抉れている。凝視したくない光景だが、何かに腹を食い破られて内臓を抉り取られたような、そんな傷痕が、いや、傷痕とか抉れているとかいう話ではない。腹部が……千切れている。
ひと目見て絶命しているだろう事が理解できてしまう、無惨な残骸。遺骸。死体。
野生の獣に襲われたとて、余程の猛獣でなければこのようにはならない。クマ?あるいはオオカミやトラのような、殺傷力の高い肉食性の猛獣か。
できるだけ死体の方を見ないように通りを横切る。更にもう一つの違和感が目に飛び込んでくる。
分庁舎は全体的にガラス張りの美しい建物だ。最初見た時、台風などで物が飛んできたら割れて危ないのではないかと思ったのだが、ガラス自体は高強度のもので、そこいらの壁に引けを取らないほど頑丈なものだ。二重に重ね合わされて破砕防止の膜を挟み込んだ分厚いガラス素材は、猛スピードのトラックでもぶつけなければそう簡単に割れるようなものではない。それが……一部、完全に破壊されて庁舎の内部に破片をばら撒いている。一体何がぶつかったというのか。
違和感と言えば工事中の北庁舎もそうだ。本来、この昼間の時間帯であればひっきりなしに工事車両が出入りし、中では忙しく建築作業員達が働いているはずだ。
なのに、今はリベットを打つ音はおろか、人の歩く気配さえしていない。表に立っているはずの車両誘導警備員すらその姿が見えない。
明確に異常しか感じられない。その工事エリアに、何かが動くのが見えた。人ではない。もっと大きい何か。車両のように機械的なものではなく、もっと動物的な……。
何だ。一体何がいるんだ。表の通りに転がっている彼らを殺したのは、この中にいる生き物なのか。
ざわざわと自分の中にある何かが騒ぎ出す。血が滾る。冷静に考えればここは一旦戻り、庁舎管理課のスメラギに報告して、警察……いや、場合によっては防衛隊の出動まで要請すべき事態だ。人が、人が死んでいる。恐らく、この工事現場の中も、分庁舎の中でも。
目が逸らせない。工事現場の中で動いた影は間違いなく、人ならざるもの。近寄るべきではない。なのに、なんだ、この燃えるような熱さは、怒りは、歓喜は。
工事途中の区画内に一歩踏み入る。人ならざる影は視界の中にはいない。踏み入った瞬間、生き物の死体が放つ不快な死臭が鼻を突く。
血と臓物の臭い。排泄物のそれとほぼ同じものに交じる鉄臭い臭気。死体がある。そこかしこに。
倒れているのは皆、工事に携わっていた作業員達と、表に立っていたはずの誘導警備員だ。誰も彼も、被っていたらしきヘルメットの紐が引きちぎれた上で、頭を潰されている。
一部の死体は表にあった死体と同じく、腹が抉れて千切れている。まるで、そう、内臓のみを食い散らかしたかのような。
建築中の建造物の影が陰ったような気がして、その場を飛び退いた。音もなく上から何かが落ちてきて、かしゃりと小さな音を立てる。
飛び退いたその先に、積み上げられていた足場用の資材があった。無造作にそれを掴み上げ、振り向き様に薙ぎ払う。
重たい手応えの後、何かを引き裂くような鳴き声が聞こえた。先程の軽い音ではなく、どしゃりという重たいものが転がる音。
「……鳥?」
転がっているのは良くわからない生き物だった。鳥、と言われればそうだ。羽毛が生えている。だが、その姿はとても空を飛び回れるようには見えない。
でかい。体高は2メートル程はあるだろうか。猛獣と言われればそのサイズに違いない。
何より、血まみれとなった鋭い歯の並ぶ口周り、長い鉤爪のついた四本指の後ろ足にも、人のものと思われる赤黒いものと黄色いものがこびりついている。
「お前か」
ここの人達を殺したのは。人の内臓を喰らったのは。
燃え滾る怒りと敵を屠れる歓喜が同居する。右手に持った金属を振り翳し、転がっている鳥モドキに叩きつける。
この鳥モドキは意外にも俊敏にこちらの攻撃をギリギリで躱し、起き上がった。先程の一撃では動きを完全に止めるには至らなかったらしい。
鳥モドキはこちらを食料ではなく敵と見做したのか、歯をむき出しにして大口を開け、首元の羽毛を逆立たせている。威嚇しているのだ。
「全然怖くないぞ、鳥モドキ」
全身の筋力を縮めて瞬発力へと変換する。無造作に右下から鋼鉄の管を振り回す。
鳥モドキは避けようとした。身体をのけぞらせて、避けた勢いでこちらに噛みつこうとするつもりだろう。そんなもの。
振り抜くと見せかけて、正面で鋼鉄の管をぴたりと止める。そのまま、相手の仰け反った首元めがけて管の先を突き刺した。
通常の人間の力ならば無理であろう。遠心力のついた重たい鋼鉄製の管だ。だが、異常に筋力の増強された今の身体であればそんな事は造作もない。
鋭く突き放たれた鋼鉄の管は、土に何かを突き立てた時のような鈍い音を立てて鳥モドキの首に突き刺さった。肉と筋と管を破る気持ちの悪い触感。突き刺さった管の手元から、勢いよくその鳥モドキのものと思われる体液が吹き出した。
「赤い」
ヘモシアニンでもヘムエリスリンでもない、ヘモグロビンの赤い血液。当たり前だ。これは鳥っぽいし、爬虫類っぽい。トカゲは切れば赤い血を流す。鉄を主体とした酸素運搬方式。
多量の血液を放出させられたその殺戮者は流石に動かなくなった。死んだ。
「なんだこいつ」
次々と湧いてくる疑問は収まらない。なんだこの生き物は。なんで人間を襲った。なんでこんな所にいきなり湧いて出た。なんで――
なんで、ここには一匹しかいない?
分庁舎のガラスは割れていた。中に何かが侵入したという事だ。庁舎管理課に連絡のあった、『鳥が入ってきた』というのは、この生き物の事だろう。だが……だが、何故こいつは分庁舎と違う場所にいる?
(まだ、中に同じ奴がいる)
結論としてはそれしかない。殺戮者はこいつ一匹ではない。最低でも二匹、静まり返った分庁舎の様子を見るに……。
突き刺さったパイプとは別のものを拾い上げ、即座に走る。まだ、いる。
通りを駆け抜け、破れたガラスの中から真新しい庁舎の中へと飛び込む。一階のロビーは視界が広く、周囲に何かいる気配はない。ここの執務室は左手、西側が中心だ。そして目の前に伸びる真っ直ぐな廊下には、途中に金融機関と会計、その奥には普段自分達が待機している防災センターがある。
異常があれば警備が……期待はできないが委託警備が消防や警察に連絡するはずだ。だが、通報を受けたのかたまたま通りがかったのか、警察の制服を着た人間は二人共、庁舎前の道路で息絶えていた。
応援の期待は出来ない。
そもそもただの人間が相手をして良いものなのか。たまたま自分は武器になるものを手にして、鍛えていたからどうにかなった。しかし、普通の人間では。
拳銃を持っているはずの警察官でもあれだったのだ。抜く暇も無くやられたと見て良い。
(武器を借りてくるべきだったか)
警官は武装している。この平和なヒノモトではあまり使う機会のないしょっぱい拳銃だとは言え、銃器には違いない。素人で照準をつけるのは難しいかもしれないが、至近距離であればこんな鉄パイプよりは火力を発揮するはずだ。
だが、取りに戻っている暇はない。例え拳銃が有効であろうが、この手に持った鉄パイプでもあの殺戮者を屠ることが出来たのだ。弾もどれだけあるのかわからないし、そもそも扱い方を知らない。ならばこのまま探して殲滅する方が効率は良いだろう。
今自分がすべきことは何か。まずは、通報だ。普通の警察では埒が明かない。こんな大量殺戮者、しかも一体どれだけいるのかわからないのだ。警察でも機動隊か、防衛隊の出動を要請すべきだ。内線電話はどの執務室にもある。だが、防災センターであれば消防直通の通話装置が置いてある。まずはそこへ。
通路をまっすぐに走り、防災センターへと続く右の廊下に飛び込む。しかし……そこには、二人の死体が転がっていた。見慣れた作業服。見慣れた横顔。
「ハシノさん……マエダさん!」
見間違えようがない。ひょろりと背の高いマエダに背の低いハシノ。廊下の途中で、表にいた人達のように、頭が……抉られて……腹が……。
何故だ。何故彼らが殺されなければならない。彼らが一体何をしたというのだ。
胃腸が弱くてとはにかみながらも毎日誠実に仕事をこなしていたマエダが。
嫁さんに負担をかけないように弁当作りに挑戦してみようかと言っていたハシノが。
死んでいる。どうみても、蘇生が可能な状態ではない。溢れだした脳髄は石の床を濡らし、食い散らかされた腹部はもう、原型を留めていない。
助からない。死んでいる。戻らない。死んだものは生き返らない。
唇を噛み締めて防災センターへと進む。中には誰もいなかった。
委託警備は常に二人、ここに待機しているはずだ。それがいない。出ていったのか、殺されたのか。異常があれば見に行くのが警備の仕事だが、彼らは何故かその事については仕事熱心ではない。戸締まりと挨拶が仕事だと勘違いしている節がある。
それはそれで構わない、生きているのであればそれで良い。奥にある消防直通の受話器を取って、通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴っている。だが、誰も出ない。そんなバカな。これは非常通話だ。すぐ東隣にある消防庁舎には常に人がいて……すぐ、隣?
ぞっとした。まさか、消防庁舎にも?
馬鹿な。消防局員は皆、基本的に鍛え上げられた男性ばかりだ。そう簡単にやられるわけがない。自分ですらどうにか一匹は屠れたのだ。武器だって常備しているのに。
出ない通報装置を戻して、内線電話を持ち上げる。内線で庁舎管理課を呼び出す。遅い。出ない。まさか、まさか本庁舎にまで。
『はい、庁舎管理課スメラギです』
出た、いた、助かった。
「スメラギさん?カラスマです。非常事態です。すぐに警察、いえ、市長に直接連絡して、機動隊と防衛隊の出動を要請して下さい」
『え?カラスマさん?何が?』
「正体不明の猛獣が分庁舎に入り込んでいます。恐らくは、消防庁舎の方にも。極めて凶暴で、既にかなりの人が死んでいます。うちの人間も……」
死んでいた。どうして、彼らがこんな事に。
『わ、わかりました!カラスマさんは?戻ってこられます?』
「私は生き残った人を救出します。まだ全滅したわけじゃないと思いますので」
『え?猛獣ですよね?』
「一体は仕留めました。他も潰せるなら潰します……クソが」
受話器を置いた。思わず本音が出た。
許せない。何の権利があってここに入り込み、うちの人間を殺した。
怒りのあまりぶるぶると鉄パイプを握りしめた拳に力が入る。みしりと音がした。
殺す。
人間様に歯向かったらどうなるか、この自分が思い知らせてやる。
近くの棚を探り、工具箱からマイナスドライバーとモンキーレンチを取り出す。あの大きさの生き物に対しては甚だ心許ないが、無いよりはマシだ。
いつも付けている腰道具用の吊具は忘れてしまったので、作業服の尻ポケットに押し込む。まずは一階からだ。
ハシノ達の死んでいる通路をそのまま東に進む。この先は納税課であり、沢山の職員が仕事をしていて、納税の相談に訪れる一般の人もいたはずだ。
開放されたままのガラス扉を抜けて、パーティションで区切られた廊下を歩く。見通しは悪い。庁舎内は静まり返っている。
予期せぬ闖入者に怯えて隠れているのか、それとも既に皆殺しにされてしまったのかはわからない。出来れば前者であってほしい。
パーティションに取り付けられた鍵のかかっていない扉をあける。広々とした区画の区別があまりついていない開放的な庁舎内には、見渡す限り、立っているものはいない。
地獄絵図だった。
壁には血しぶきが飛び散り、普段は執務を行っているはずの机にはいくつもの死体が横たわっている。皆、一様に頭部を一撃されたのか脳漿を撒き散らして、確認するまでもなく絶命している。
通路に転がっている死体の殆どは腹が抉られている。あのけだものは内臓のみを好んで喰らうようだ。他の部分には一切手をつけられていない。
急所である頭か頸を一撃して殺し、腹を抉って必要な部位のみを喰らう。
学習したのか知能があるのかはわからない。だが、殺戮者であることに疑いようはない。
見えている範囲にあの鳥モドキは見えない。図体がでかいので隠れられるスペースは無い。既に他の場所に移動したのか。
「誰か!生きている人はいませんか!」
叫んだが返事はない。全滅か。
ひどい。どうしてこんな事に。一体あの鳥モドキはどこから現れたのか。こんな平和な国に。
「あ、あの」
すぐ近くから声が聞こえた。机の裏だ。
「あ、あれは、何ですか?わ、わたし、なにも、できなくて……」
すぐ近くの机の裏から出てきたのは、まだ若い女性だった。
「良かった、生存者がおられたんですね。何を見ました?鳥のような化け物ですか?」
そう聞くと、女性は激しく首を縦に振った。
「そうです!そうです!窓の割れる音が聞こえて、三匹ぐらい一度に庁舎の中へ……私はすぐにここに隠れたんですが、音が……人の叫び声が……」
彼女は顔を真っ青にして再び蹲った。無理もない。目の前で殺戮が繰り広げられて、正常でいられる人間などいないのだ。
「庁舎管理に連絡して、機動隊と防衛隊を呼んでもらうようにお願いしました。すぐに到着するはずです。あなたは、表に出て西庁舎から本庁舎の中へ逃げ込んで下さい、あちらはまだ安全なはずです」
表にはあの鳥モドキはいなかった。恐らく、この庁舎内か消防庁舎にまだ潜んでいる。
「一階にはいませんでした。廊下を南側に声をたてないように走って、逃げて下さい」
「あの、あなたは?ええと……カラスマさん?庁舎管理課の方ですか?」
名札には行財政局総務部庁舎管理課カラスマと書いてある。これは、庁舎管理課の管轄にある委託業者だからだ。
「設備管理の委託業者です。庁舎管理課には私の名前を言って、逃げるように言われたと言って下さい。さあ、早く」
腕を引いて立ち上げる。このままここにいたのでは、いつあの化け物が下に降りてくるかわからない。これ以上死者を増やすわけにはいかない。
「は、はい。でも、貴女は?逃げないのですか?」
逃げるわけにはいかない、大切な同僚を殺した奴を、生きている人が残っているかもしれないこの建物に、放置して逃げるわけにはいかないのだ。
「私は他の階で生きている人を探します。さあ、急いで」
彼女を連れて廊下に出る。逃げるルートを指示して見送った。恐らく彼女は大丈夫だ。
血糊の跡を追って、北東にある階段室に足を踏み入れる。血痕が転々と続いている。間違いなくあの鳥モドキだろう。
残っている血痕の形は、紛れもなく四本指のあのけだものの足跡。あれだけ人を屠っておいて返り血を浴びていないわけがない。
足跡は地下には向かっておらず、上へと続いている。この庁舎は4階建てだ。あと3階分、見て回る必要がある。
あの図体で、この人が一人ずつすれ違うのが限界の階段室を通り抜けたというのは驚嘆に値する。壁には身体を擦ったらしく、黒い跡がついている、狭い中を無理矢理通り抜けたというところだろう。
鉄パイプを握りしめて、階段を登る。逃がした女性は三匹ぐらいと言っていた。中にいるのは三匹以上と見るべきだろう。あんな化け物が一体どこから湧いてきたのだ。
二階に上がった。普段は開け放たれているガラス製のエレベーターホールの扉は、あの殺戮者が無理矢理に通ったせいか、蝶番が壊れたのか無惨にも半分外れて、下半分がかろうじてぶら下がっている状態だった。
ガラスの壁をぶち抜いた事といい、とんでもない力と強度だ。既存の猛獣で言えば、ハイイログマとかその辺りだろうか。
二階の執務室へと入る。この分庁舎は開放型の執務室となっており、全体的にロの字を描いた全てがひと繋がりの形をしている。
外周には個室もあるものの、基本的に机やロッカー等以外に隠れる場所は無い。故に、あの殺戮者どももあの巨体を姿を隠して奇襲というのは難しい。しかし、それは人の隠れる場所も少ないという事になる。
入ってすぐに感じたのは血臭だった。一階と同じく、並んだ机の合間の床。そこかしこから息絶えた人達の腕や足が見えている。一体何人が犠牲となったのか、考えたくもない。
見えている範囲に動いている影は無い。中央は吹き抜けの中庭となっているが、光が反射しているのでガラスを通して向こうを見通す事は難しい。奴らがいるとすれば、今いる北東の対角線上となる南西部分。南側は広い階段室となっているため、足音を殺して西へと走る。
生存者は見る限り、いない。動いている人間はいない。ひょっとしたら一階にいた女性のように隠れているのかもしれない。それならば、そのまま隠れていてくれたほうが望ましい。
嫌な気配を感じて瞬間的に後ろに飛び退いた。理由など無い。勘だ。
強いて言うなら、視界の隅で何かが動いた気がした。この死屍累々の中、動く奴といえば決まっている。
飛び退いた場所に音もなく飛び降りたのはやはりあの鳥モドキ。南西側ではなく、東側から死角となっている北西部の窪みに潜んでいたのだ。
避けられた事が不思議だったのか、鳥モドキは鳥っぽく首を少し傾げていた。見ようによっては可愛らしくも映るだろうが、羽毛の生えた茶色い身体は殺戮の証である返り血で赤黒く染まっている。
(単体。他の個体はどこだ。上か)
鉄パイプを脇に構えて狙いを定める。工事現場で戦って分かったが、こいつは図体の割に相当に素早い。まともに振りかぶって攻撃したところで簡単に避けられてしまうだろう。
短く、鋭く、かつ一撃で屠らなければ、生半可な攻撃では反撃を受ける。そうなれば、自分もそこいらに転がっている人達の仲間入りだ。
四本指の殺戮者はこちらに顔を向け、こいつもまた首の後ろの毛を逆立たせて甲高い声で吠える。自分より遥かに小さいものに対して何とも臆病な事だ。
鉄パイプを構えたまま動かない。まだ間合いの外だ。鳥モドキはこちらを見据えたまま、ぴょんと横のカウンターの上に飛び乗った。意外に身体は軽いのか、カウンターはびくともしていない。
視点が高くなった事に気が強くなったのか、鳥モドキは恐ろしい速度でこちらに飛びかかってきた。
鉄パイプを横薙ぎに全力で振る。べきりと変な音がして、鳥の足が薙ぎ払われた。
鳥の足、というには随分と太い。完全に爬虫類のそれだが、重たい手応えと共に指が数本、纏めて千切れ飛ぶ。鉄パイプは衝撃に耐えかねて少しだけ折れ曲がった。
間髪入れずにこちらから横倒しになった鳥モドキに襲いかかる。デスクに挟まれて倒れていたそいつの頭部を、大上段に振りかぶって打ち据えた。
びしゃり、という汚らしい音を立てて鳥モドキの頭蓋骨は弾けた。鉄パイプは二度目の衝撃に、違う方向に折れ曲がる。ぐねぐねと変な形状になってしまった。しかし、今もっている攻撃範囲の広い武器はこれしかない。
庁舎の中には武器になりそうな長物など無いし、このまま使い続けるしかない。曲がっていても鋼鉄は鋼鉄だ。こいつにしたように、打ち据えて頭を砕ければそれで良い。
二階には他に鳥モドキの姿は無い。だとすれば、三階か。
上がってきた北東の階段には上に行った痕跡は無かった。となれば、広い中央階段か。
まっすぐ南に走る。案の定、広い階段室へ続く扉は破壊されて、辺りに血痕が点々と付着している。大きな赤黒い足跡が、恐らく二頭分。上の階へと続いている。
小さく悲鳴が聞こえた。上からだ。まだ、生きている人がいる。
足音に構っている暇は無い。階段を駆け上がり、三階へと躍り出る。悲鳴が聞こえたのは西側から。階段室の扉も西側だけ壊れている。
広い執務室に踊り出ると、いた。二体いる。
周辺には最早原型を留めていない人の身体だったものが散らばっており、飛び散った体液や内臓で凄まじい様相を呈している。まるで竜巻か崩落でも起きたかのような災害現場だ。
二体は西側にある個室に向かって大口を開け、威嚇している。見れば、ガラス張りの個室の中に沢山の机が積まれてバリケードとなっている。会議室として使われている個室に籠城しているのだ。
二匹の鳥モドキは交互に蹴りを繰り出し、ガラスごとバリケードを破壊しようとしている。中に人がいるのが分かっているのだ。
こちらに注意を向けていない今が好機だ。カウンターに足を乗せ、全力で手前側の鳥モドキに飛びかかった。
足場にしたカウンターから爆発音が聞こえた。自分が蹴った音だ。
天井スレスレにまで跳び上がり、大上段に振りかぶった鉄パイプを頭部めがけて振り下ろす。
かろうじて反応した鳥モドキの片割れは、首を捻って頭部への直撃は避けた。構わず振り下ろした一撃は強かに太い首を打ち付け、衝撃をこちらの手と相手の肉体へと浸透させる。
もう片方がこちらに気づいて飛びかかってきた。得物を振っている暇は無い。倒れてもがいている片割れの首を片手で掴んで持ち上げ、振り回す。
鋭い爪の一撃は、そいつの仲間の顔面に突き刺さった。鼻の穴と目玉から赤い血液を滴らせて、転がっていた方は絶命する。
爪の一撃で小さな生き物を倒せなかったと見たそいつは、そのままこちらに噛みついてくる。食われてやるわけにはいかない。
尻からモンキーレンチを掴みだし、噛みついてくる歯の隙間を狙って突き出した。
ガキリと音がして、大型サイズのモンキーレンチが折れる。この太い金属の塊を折るとか、なんて顎の力をしているのか。即座に手を引っ込めなければ手首から先がこいつの腹の中だった。
右手に持った鉄パイプを振り回したが、鳥モドキは頭を振って逃げた。大きく後方に跳躍して、狭い通路の間に降り立つ。
バリケードが一部崩れて、中にいる人の姿が見えた。何名かがこちらにスマホを向けている。そんな事をしている場合か。
しかし、こいつを片付けない限りは逃げろとも言えない。再び折れ曲がった鉄パイプを脇に構えて一歩下がる。
こいつの跳躍力は尋常ではない。身体は強靭なくせに軽く、力は凄まじいの一言だ。
言うなれば鳥の身体に爬虫類の筋力。大型のワニがものすごい勢いで飛んでくると考えればわかりやすいか。
いくつか打って分かったが、こいつらは身体の背中側よりも腹側のほうが遥かに脆い。特に顎の下、首が弱点だろう。
鳥モドキは警戒するように頭を下げ、こちらを睨みつけながらクルクルと喉の奥で奇妙な鳴き声を発している。
ふと、妙なことに気がついた。
この鳥モドキの腹の下から、何か長いものが立ち上がっている。位置的に見ればペニスだろうか。発情しているのか、こんな時に。
いずれにせよそんな事はどうでもいい。こいつは殺す。生物学的に希少なものなのだろうが、生きていれば必ず他の人間を殺す。ならば、先に殺す。それが同族を守るための唯一の手段だ。
尻からドライバーを引き出して左の逆手に構える。鉄パイプの重量が右腕のみにかかるが、恐らく問題ない。
右の鉄パイプを担ぐように構え、逆手に持ったマイナスドライバーを相手に向ける。
相手を待ってやる必要は無い。こちらから飛びかかった。
右腕一本で鉄パイプを振り下ろす。身体を大きく仰け反らせて避けた鳥モドキに、返す刀でもう一発。これもギリギリで避けた相手は、反撃とばかりに噛みついてきた。
姿勢を低くして、伸ばされた顔の下を潜る。むき出しになったその首元に、思い切り左手のドライバーを突き刺した。
ぶつりと皮膚と血管を破る触感と共に、刺さった場所から大量の血液が吹き出す。
返り血を浴びることも厭わず、もう一発、更にもう一発と次々と鳥モドキの弱点にドライバーを刺しまくる。
声にならぬ声を上げたそいつは、しゃにむに暴れまわる。しかし、間合いよりも内側に入ったこちらには強い一撃は飛んでこない。
降ってきた前足の一撃を鉄パイプで受け止め、逆にひねって折り飛ばす。
爪ごと指を変な方向に曲げた鳥モドキは、二歩、三歩と後退り、大量の出血に耐えかねたのか、その場にうつ伏せに倒れ伏した。
安心は出来ない。動かなくなったそいつの頭に、トドメとばかりに鉄パイプを振り下ろす。再びあの感触と音と共に殺戮者の頭蓋骨は砕け散り、脳漿を撒き散らして完全に動かなくなった。
「大丈夫ですか!他にこの変な生き物は入ってきませんでしたか!?」
バリケードの向こうに呼びかける。一部始終を見ていたらしき人達が、その隙間から一人ずつ這い出てきた。
「こ、これ、何?何なんですか?」
この人の顔は見たことがある。確か今は河川整備課の課長だ。
「わかりません。少なくとも友好的な存在ではない事は確かですね」
出てきた中には、あの警備員のハヤシダとイシハラの姿もあった。一階から逃げてきていたのか。
「庁舎管理課から、警察と防衛隊を出して貰うようにお願いしてあります。まだ他にもいる可能性がありますので、皆さんは今の所安全な本庁舎に避難して下さい」
そう言って階段を示す。生き残った人達は、何故かこちらを怯えた目で見ながら、ぞろぞろと階段を降りていった。
怖いか。怖いだろう。何しろ化け物の返り血を全身に浴びている。死神に見えたとしてもおかしくはない。
だが、助かった。自分がこの二体を倒さなければ、この人々は時間の問題で間違いなく物言わぬ死体に変貌していた事だろう。
とりあえず、一旦はこれで落ち着いたか。階段の血痕は上には続いていなかったし、恐らく分庁舎に入り込んだのはこの三匹で打ち止めだろう。工事現場にいたのと合わせて四匹。だが、まて。何か見逃していないか?
がしゃんと遠くで音が聞こえた、外だ。東側から。
東側、消防局。そうだ、連絡のつかなかったあの建物。
背筋に走る戦慄と共に南側の窓へと走る。消防隊用に開くようになっている逆三角形の印がついた窓を押し開け、外壁に取り付けられているグレーチング材――側溝に被せられているあの金属の網のようなもの――の上に飛び乗る。いた。東の消防庁舎から、一体が飛び出してきた。
先ほど逃がした人々は、南側正面の入口から並んで西側に逃げている。それを追いかけるようにして、消防局を襲っていたらしき一体が走り出す。
間に合わない。階段を降りていったのでは。
滾る全身の血液に身を任せ、落下地点を計算して鳥モドキの真上になるよう飛び降りる。
三階だ。高さは少なくとも10メートル以上はある。
全身のバネを使って思い切り踊り出ると、上空から鳥モドキの背中を蹴りつける。
衝撃はそれで緩和された。身体を丸めてごろごろとアスファルトの地面を転がる。全身が傷だらけになるが、構っていられない。すぐさま起き上がって、殺戮者と避難者の間に立ちふさがる。
「早く逃げて!西庁舎に入ったら、扉を閉めて!」
鋭く呼びかけると、反応した者は一斉に走り出す。振り向くと、背中を蹴られた鳥モドキが相も変わらずこちらを威嚇している。
広い場所であれば、単体など恐るるに足らず。最早原型を留めていないほどに折れ曲がった鉄パイプを振り、けだものの前に殺意を燃やす。
殺す。絶対に殺す。
これ以上殺させるわけにはいかない。仲間が、罪もない人々がゴミクズのように殺された。しかもこいつらは、ただ食うだけに殺したわけではない。死体には、頭部や頸部の損傷だけ受けてそのまま放置されていた者が沢山いた。
間違いない。こいつらは。
遊びで人間を殺している。
燃えるような怒りが全身を支配する。許しておけるものか。鉄パイプを脇から上段に構える。頭の上、みしみしと音がする程に握りしめた鉄塊を、全力の突進と共に振り下ろした。
「カラスマさん!何があったんですか!?戻ってきたら救急車や警察車両で通れないし、関係者だって言って無理矢理戻ってきたんですよ!?」
ハラダが戻ってくるのは案外早かった。五匹目を始末したあと、閉まっていた西庁舎の入口に声をかけて入れてもらい、全身から血を滴らせながら一階の便所で手や顔を洗っていたのだ。
どうにか手元だけ綺麗にして戻って来ると、遅れて分庁舎の点検に回っていたタニグチとヤマノが戻ってきた。地下にいたために上であった騒動を知らなかったらしい。
上がってきたら死体まみれで驚いて戻ってきたというが、皮肉なことだ。
点検を早く終わらせてきたベテランの二人が死に、勝手が分からず時間をかけていた新人の彼らが生き残った。
「鳥みたいな猛獣が突然現れて、消防庁舎と分庁舎を襲ったんです。一応、見える範囲では始末してきましたが……今、あんまり外は出歩かないほうがいいです。警察官も二人、殺されていましたから」
どこからやってきたのかわからない。だが、突然ここに降って湧いたという事はまさかないだろう。鳥のように見えたが、あれは飛べるような体型をしていなかった。事実、飛び跳ねはするが羽ばたいて飛ぶというのは無理だろう。いくら身体が軽くても、あの大きさだ。
「始末したって……カラスマさん、すごい格好ですよ。それ、血ですか?」
「……ああ、そうですね。あの化け物の血です」
顔と手を洗いはしたが、作業服も髪も身体も、全身が血まみれだ。鏡を見ればさぞかし恐ろしい格好をしている事だろう。
「シャワー室、使って下さい。作業服も新しいものに着替えて。多分、警察がここに来ると思いますので」
「そうですね、そうさせてもらいます」
滅多に使わないがこの部屋にはシャワールームがある。もともと当直業務をする可能性があるという事で設置されたのだろうが、今の所年間契約の仕様書にはそういった事は書かれていない。夜間はこの部屋は無人だ。
ロッカーに一旦戻って着替えを出す。もう今日は作業服は良いだろう。私服を持ち出す。
ロッカールームを出ようとすると、タニグチが入れ替わりに入ってきた。身体が太いので、待たなければすれ違えない。入ってきた彼をやり過ごして、向かいにある脱衣室に入って扉を閉めた。しっかりと鍵をかける。
下着を付けているロッカーでの着替えであれば兎も角、裸になる脱衣室では流石に間違って入ってこられては困る。
いや、絶対に間違って入ってくる事は無いだろうが、タニグチならわからない。むしろ、着替えの時もわざと入ってきたのじゃないかと思った程だ。
別段裸を見られたところでどうという事は無いが、倫理に外れた行動を何の対策もないまま見過ごすというのも問題だ。その場合、ハラダの責任になってしまう。
乾いた返り血で固まった作業服を苦労して脱ぎ、下着を外す。ブラジャーもショーツも、体液が染み込んできてシミになっている。これはもう、帰ったら捨てるしかない。
地べたに置くのも気持ちが悪いので、洗面台に脱いだものを置いてシャワー室に入った。
蛇口を捻ると温かい湯が上から降ってくる。正直ほっとした。気持ちが良い。
全身をくまなく使ったので、体中が少しだけ痛い。最後は三階から飛び蹴りを放ったので当然だろう。人間のやるべき行動ではない。
カチカチになった髪を湯で溶かして、こびりついた血の跡を丁寧に擦って落とす。石鹸やシャンプーは置いていないが、湯で洗い流すだけでも全身が大分綺麗になった。
少し気持ちの悪い下着を身に着けて、綺麗な普段着に着替えると少し落ち着いた。
事務所に戻ってくると、ハラダがイヅミ課長に電話をしている所だった。
「ええ、はい……災害です。いえ、今の所こちらにはまだ……カラスマさんですか?その、はい、いますが」
ハラダがこちらに受話器を渡してくる。受け取って耳に当てた。
「カラスマです」
『何があった?大騒ぎになってるぞ?」
ちらりと周囲を見た。果たして聞かせて良いものだろうか。
「掛け直します。今、本社ですか?」
『いや、そっちに向かっている所だ。交通規制なのか大渋滞だがな』
「歩いて来たほうが良さそうです。本庁舎の東側から、庁舎管理の名前を出して入って下さい。言っておきます」
『わかった。一旦戻ってクルマは置いてくる』
続いて庁舎管理課の内線番号を押す。何度も話し中だった合間をくぐり抜け、10分程して漸く繋がった。
「お疲れ様です。カラスマです」
『カラスマさん!?無事だったんですか!』
電話に出たのはスメラギだった。庁舎管理課は外部の対応と内部の対処でてんてこ舞いらしい。忙しい中お願いする事を詫びて、キナイ総合メンテナンスの課長が来たら入れてくれるようにと言っておいた。
椅子に腰掛けて大きく息を吐いた。一体どうしてこんな事になってしまったのか。
誰もが沈黙する中、コンコンと事務所の扉がノックされる。ハラダが電話中なのに新人二人は全く応対しようとしないので、私服姿の自分が立ち上がって扉を開けた。
「失礼します。ヤマシロ県警のものですが、こちらにカラスマさんという方がおられると聞いて」
扉の外に立っていたのは背の高い白髪交じりの中年の男性と、若い青年の二人だった。
中年の男性は尻から金色の章が入った特徴的な手帳を取り出して見せた。写真入りの身分証明書、本物だ。
「カラスマは私です。他のものが同席しても?」
「いえ、出来れば個室があれば」
個室。ロッカールームは占拠してはまずいし、忙しいハラダをこの部屋から追い出すわけにもいかない。隣にある受電室の鍵を取って、警察官二人を隣の部屋に連れ出した。
「すみません、生憎と我々は委託業者でして」
「お気になさらず。二、三、お聞きしたい事があるだけですので」
手帳を見せたのは県警の警部だった。結構なお偉いさんである。椅子が無いので、小さな脚立を持ってきてそれぞれがそこに腰掛けた。
「まず、カラスマさん。何があったかご存知ですか?」
ご存知も何も、現場にいたのだ。存じませんと答えるわけがない。彼らもそれを承知していて、説明してもらいたいのだろう。
「私の知っている範囲ですが」
庁舎管理課から連絡を受けてからの、工事現場と分庁舎の惨劇の様子をかい摘んで話した。
「ふむ、概ね他の方から聞いた話と一致します。しかし、ですね」
彼は眉間に皺を寄せて耳の後ろをボールペンの尻で掻いた。
「お嬢さん、ああ失礼。貴女のような若い女性が、そんな化け物を倒したと。聞く限りでは、庁舎の成人男性ですらあっという間に惨殺されたようなのですが」
「鍛えていますから」
力は異常だが、鍛えているのは本当だ。嘘はついていない。
「鍛えてって。その、失礼。とてもその、聞いたように化け物の喉を突き刺したり頭を叩き潰したりといった事が出来そうなお体には見えませんが」
そういわれても困る。こっちだって困っているのだ。
財布から十エン玉を取り出して目の前に見せた。人差し指と親指で両側から力を加え、ぐにゃりと折り曲げる。
彼らは手品を見たかのように目を見開いた。
「な……こ、これ、手品ですよね?良くある」
「なんなら腕相撲でもしてみますか?腕の骨が折れないように加減はしますよ」
そう言うと彼らはぶんぶんと首を振った。どうやら納得は出来なくても理解はしてもらえたようだ。
「しかし、一体何なんでしょうな、その……鳥モドキ、ですか?」
「こっちが教えて欲しいぐらいですね。本当、何なんですか、あれは」
死骸はそのまま残っている。警察が回収して研究者にでも調べさせれば何か分かるだろうが。
「まぁ、おいおい分かるでしょうが、今はまだ何とも。ご協力、ありがとうございました。今後また別の者がお伺いする事もあるかもしれませんが、どうか気分を悪くせずに対応してやって下さい。我々も仕事なので」
「はい。お仕事お疲れ様です。殉職された方は大変残念でした。お悔やみを申し上げます」
二人はありがとうございますと言って出ていった。彼らもこんな得体の知れない事件、いや、災害を調べることになって大変だろう。自分だったらどこから手を付けて良いのかさっぱりわからなくなる所だ。
脚立を片付けて受電室から隣へ戻ると、今度はイヅミ課長が部屋で待ち構えていた。
「カラスマ君、一体何があったんだ。市役所で災害が発生したと聞いて飛んできたが、どこもかしこも変な情報ばかりで……鳥だとか、恐竜だとか」
恐竜。そうか、恐竜と言われればそうかもしれない。
今地球上にいる生物の形状とは全く違っていたが、鳥と爬虫類の間みたいな見た目。
何も雷竜のように巨大なものばかりが恐竜ではない。小さいものは数十センチの大きさから、今日見たようなサイズの獣脚類も沢山いる。羽毛が生えていた痕跡のある化石も見つかっている。
「概ね聞いていらっしゃるので間違いないと思いますよ。鳥みたいな、恐竜、といえば恐竜かもしれませんね。そいつらによる災害です」
ヒグマによる災害なら今も時折発生している。その規模の大きなものと考えれば良い。だが、山から降りてくるヒグマと違って、あれは一体どこからやってきたのかがわからないが。
イヅミ課長は呆気にとられたような顔をした。
「はぁ?つまり、恐竜が出たと?」
「恐竜かどうかはわかりません。取り敢えず猛獣による災害としておきましょう。どこからやってきたのかは分かりませんが、分庁舎や消防庁舎の人達がそいつらに殺されたのは間違いありません。マエダさんとハシノさんも……」
死んでいた。殺されていた。
「うちの人間にも、被害者が……」
課長は険しい顔になった。対象的にハラダは真っ青な顔をしている。
「か、カラスマさん。それ、本当ですか?ふ、二人が、し、死んだって」
「一階北側の廊下で亡くなっていました。見つけたときにはもう……」
即死だっただろう。今までの人生を振り返る暇すらなかったのではないだろうか。
何故こんな理不尽な事が許されるのか。彼らには、いや、亡くなった人全員に、まだ先の人生があったはずなのに。
「カラスマ君、兎も角、詳しい話を聞かせてくれ。最初から、順を追って」
あの化け物を殺したことも言うべきだろうか。言わなければならないだろう。でないと、どうして自分が今ここに立っているのか説明が出来ない。
重たい口を開いて、警察官に話したことをそのまま繰り返した。
「……俄には信じられないな。いや、その生き物の事もそうだが、君がそれを五体も打ち殺したというのも……」
誰もがそう言う。だが、多くの人にも見られてしまっている。嘘をつく意味も、隠す意味も無い。
「カラスマさんで退治できるなら、他の人でも退治できたんじゃ?」
脇からタニグチが言う。できなかったから、あれだけ死んでいるのだ。それが分かっているハラダもイヅミも、タニグチの問いには答えない。
「一旦部長に連絡を入れる。二人は労災死亡事故として報告しなければいけないし、今は警察と消防に協力するのが第一だろう。四人とも、時間になったら上がってくれ。私は残って対応をする」
言って課長はスマホを取り出して、電話をかけはじめる。
上がれ、と言われても、自分は残らなければならないのではないだろうか。当事者であり、一応は担当責任者代理なのである。
じりじりと時間が過ぎていき、時間になる前にタニグチは着替えて帰っていった。遅れてヤマノとハラダも着替えてロッカーから出てくる。
「おつかれさん。明日は休みだろ?ゆっくり休んでくれ。カラスマ君も、もう帰っていいぞ」
課長はそう言ったが、そういうわけにもいかないのではないか。
「しかし課長、私は当事者ですので……消防や庁舎管理課から説明を求められるかもしれません」
「いいよ、それは。こっちで聞いた話をそのまま説明するから。何かあったら君の携帯にかけるから、心配するな。それより、化け物退治で疲れただろ?翌週に疲れを残さないように、ゆっくり休んでくれ」
そこまで言われては帰らないわけにはいかない。ありがとうございますと頭を下げて家路につくことにした。
家に帰るまでに何を考え、何をしたかはあまり覚えていない。気が付いたら、ベッドの上で翌朝を迎えていた。
不思議なことに疲れは一切残っていない。筋肉痛も無いし、頭もすっきりとしている。どちらかと言えばよく眠れた次の朝のように、好調だ。
(恐竜……)
馬鹿げた話だ。遥か昔、自分たち人間の直接の祖先が生まれる遥か以前に絶滅した生き物。そんなものはどう足掻いたところで現代に復活しようがない。
それこそ映画のように、どこかのテーマパークの研究室から逃げ出してきたとでも言うのだろうか。非現実的だ。
いくら遺伝子工学や再生医学が発達しようが、映画のように蚊に残った血液などから生き物を蘇らせるのはほぼ不可能だ。将来的にどうなるかは別にしても、少なくとも今の科学では不可能とされている。
遠慮なくぶち殺してしまったが、生きていれば有用な研究材料にはなったかもしれない。だが、そんな事は知るか。人の命よりも優先していい研究などありはしない。
気を取り直して端末を立ち上げ、そのまま放置して洗面所に入る。顔を洗って鏡を見ると、相も変わらぬ美少女がこちらを見返している。一体誰なんだ、お前は。
冷凍してあったご飯をレンジに入れて、納豆と卵を冷蔵庫から取り出す。フライパンに油を敷いて、暫く熱した後に卵を二つ割り入れる。周辺を軽くヘラでこそげて中央に寄せた後、少量の水を入れて蓋をした。
納豆をかき混ぜる。粘ったところでタレを入れてかき混ぜ、辛子を入れて再度混ぜる。冷蔵庫から刻んだネギを取り出して振りかけ、温まった飯を丼によそってしゃもじでほぐすと、納豆をその上にあけた。
納豆ご飯と目玉焼き、味噌汁を盆に乗せて、リビング兼寝室に戻る。起動した端末にはいくつか通知が来ているが、殆どが意味のないダイレクトメールだ。
何気なくいつものニュースサイトを開くと、トップに動画つきのニュースが出ていた。昨日のアレだ。
迷いなくクリックしてページを開く。内臓スピーカーからくぐもった音声が流れ出した。
『こちらが現場となったヤマシロ市役所です。今も消防と警察が現場検証に当たっており、周辺は騒然とした状況です。』
映し出されているのは、恐らく昨夜の市役所、自分が帰った後の状況だろう。
割れたガラスも残った血痕もそのままだ。流石に死体は片付けられているようだ。
『消防からの報告によりますと、本日午後、ヤマシロ市役所分庁舎内と隣の消防庁舎内に何者かが侵入し、ごく短い時間に職員、局員その他、合わせて80名程を殺傷していった模様です』
何者か、か。人ではないのに何者か、というのは少し違和感がある。このレポーターは何も聞かされていないのだろうか。
画面が変わり、去年からいる庁舎管理課の課長が映されている。執務室に入る度に顔を合わせるので良く見知った顔だ。
『現在、情報が錯綜しておりまして、詳しい状況はご説明できない状態になっています。警察と消防の詳しい調査を待ってから、改めてご報告を――』
妙だ。こちらはありのままを全て、警察と庁舎管理課に話した。なのに、よく分かっていない、と言っているのは、恐らく正体不明の化け物が突然現れた、などと言えば社会が混乱するとの配慮の事だろうか。
しかし、正しい情報を流さなくては今後同じことがあった場合に対処が遅れるのではないだろうか。あまり良い手だとは思えないが。
スマホが振動した。課長からだ。
「はい、カラスマです」
『カラスマ君か。市役所から直接社に要請があってね、今、大丈夫かな』
市役所から直接本社に。このニュースの事だろうか。
『昨日の出来事だが、可能な限り他言は控えてくれとの事だった。世情を鑑みて、という事だが、恐らく化け物が出たなどと言っても信用されないからだろう』
「そうでしょうね。私も今、ニュースを見ていた所です。承知しました、基本、警察以外には言わないことにします」
『そうしてくれ。また何かあったら連絡する』
課長がそう言い残すと、通話は切れた。休みの日にまで大変な事だ。課長には残業代が出ない。代休はとれるのだろうか。
自分が元の身体のままだったら、いずれ彼と同じ立場で走り回る事になっていただろう。不謹慎ではあるが、自分の時にこんな事が起こらなくて良かった。
朝食を終えて洗い物を済ませる。掃除機をかけて、ベッドのシーツを洗濯する。
平日では干している余裕の無いものは、週末に洗濯するしかない。今日は晴れてくれて良かった。
珈琲を淹れて端末の前に戻ってくると、ワイアードの通知が来ていた。友人からだ。
『おい、生きてるか?』
『生きてるよ。同僚は二人も死んだけどな』
『マジかよ……まぁでも、ミサキが無事で良かった』
安否確認だ。恐らくあいつもニュースを見たのだろう。
『何があったんだ?』
『すまん、言うなって言われてるから』
『そっか、まぁ、しょうがないな。それより来週末、どうする?』
そうだ、来週から大型連休に入る。会う約束をしていたのだった。
『多分行けると思うけど、29日でどうだ?1700いつもの場所で』
『了解。泊まってくだろ?』
少し悩んだ。この身体で、男の家に泊まる。
『そのつもり』
『おk、準備しとく』
まぁ、問題はないだろう。あいつとは20年来の付き合いだし、多分すぐに慣れる。
あいつの家に遊びに行くといつも珍しい酒が用意されていて、あいつが録画して積んでいたアニメや映画を酔いつぶれて眠くなるまで一緒に視るのだ。
こちらはあまり飲めないので適当に付き合う程度だが、それでも楽しい時間なのに違いは無い。来週もそうなるのは疑いようがない。
珈琲を飲み、動画を見て、洗濯物を干す。いつも通りの変わらぬ週末だ。どんな事があろうと、日常はそうそう変わらない。
日曜の夜、風呂から上がっていつものように甘い酒でちびちびとやっていると、着信があった。課長からだ。
「はい、カラスマです」
『カラスマ君!今、サブウェイ見れるか?ヤマシロ市役所で検索してみてくれ』
藪から棒に、何だ。冷静な課長にしては珍しい。言われなくても目の前の端末には、起動したブラウザにサブウェイのウェブページが表示されている。検索窓に言われた通り打ち込むと、トップに変なサムネイルの動画が出てきた。
タイトルは、『美少女vs化け物』。嫌な予感がする。
動画を開いて再生ボタンをクリックする。冒頭は、見覚えのある会議室の中で、叫び声と振動音が響いている所だった。
「これは……あの時の」
『見つけたか?その動画、wisでもあちこちに拡散してて大変な事になってる。うちの情報処理担当から連絡があって、まずいことになっていると』
動画には大量のコメントが、今も尚現在進行系で流れている。バリケードの隙間から、自分があの化け物と鬼気迫る表情で戦っている姿が見える。
折れ曲がった鉄パイプを鳥モドキの首に叩きつけ、即座に片手でその巨体を持ち上げて盾にしている。傍から見ると人間とは思えない。恐ろしい速さと怪力だ。
『可愛いけどこええwww』
『なにこれ?映画のプロモーション?』
『血まみれじゃんか。キモ』
『化け物「美少女見てチ○コ勃った」』
『おい、誰か助けろよ。なんで悠長に動画なんか撮ってんだよ』
『人間の動きじゃねえだろこれ』
『騒いでる奴ら、無能すぐるwww』
『女の子一人に戦わせて最低だな』
反応は様々だ。しかし、どこの誰がこんなものを……うちにも連絡が来たのだ、職員にだって黙っているようお達しが出たはずだが。
「なんですか、これ。なんでこんなもんが流出してるんですか?」
『わからん。だが、休日なのに詰めてた庁舎管理課や災害対策本部では、この動画に関する問い合わせが止まらないらしい。うちにも一部、記者と思われる人間から問い合わせがあった』
誰だ、こんなはた迷惑な事をした奴は。確かにあの時、スマホのカメラをこちらに向けている人間は複数いた。だが、庁舎の職員は言われたら基本的に言いつけを守る真面目な人間が殆どだ。例外もいるにはいるが……まさか。
「どうしましょう、これ、モザイクもかかってないし、私の顔丸見えですけど」
『サブウェイにはうちの情報処理担当から動画の削除を要請してある。だが、彼が言うには一度拡散してしまえば完全にネットから消すのは不可能だと……』
当然だ。一度広まったインパクトのある動画というのは、誰かがキャプチャーして保存していたりする。サブウェイのような動画サイトではなく、どこかのデータアップロードサイトにでも上げられればおしまいだ。その時点で大量にばら撒かれる。
最近のスマホカメラは非常に性能が良い。それ故、画像処理もせずに上げてしまえばあっという間に個人が特定されてしまう。あまりにも酷い。配慮が無いにも程があるだろう。
『カラスマ君、悪いが来週は休んでくれ。顔が知られてしまった以上、間違いなく君の周りにはマスコミや野次馬が群がることになる。会社への問い合わせはこっちでなんとかするから、すまん』
「いえ……ご迷惑をお掛けします」
通話を切って、動画に目をやる。戦闘は終わって、自分が早く避難するように促している所だ。
『めっちゃいい人じゃん。動画なんか撮ってないでさっさと逃げろよ』
『顔出ししてるけど大丈夫?本人に許可とった?』
『うわ!また来た!』
『降ってきたwwwwwリョウワのライダーかよwwww』
『すげえ、あの美少女、落ちてきてすぐ戦ってる』
『逃げろ!逃げろ!』
通りで戦っている所まで撮られていた。こちらはただ必死で逃がそうとしていただけだったので、誰がカメラを構えていたのかは覚えていない。
動画は撮影者が必死に走って逃げて、西庁舎の扉を通った所で途切れた。これだけでは特定のしようがない。だが、特定した所でもう意味がない。
明日から仕事に出られなくなってしまった。それどころか、表に出るのさえ危険ではないだろうか。
食料品はまとめて週末に買ってあるので、節約すれば一週間飢える事はない。だが、いつまでそうやっていられると言うのだろうか。
一度拡散したネット情報というのは、修正がほぼ不可能だ。自分の失敗ならば諦めも付くだろうが、勝手に撮られて勝手に晒されてというのは流石に酷い。肖像権の侵害ではないだろうか。
一瞬、弁護士に相談してやろうかとすら思ったが、そんな費用をかけても回収出来るかどうかは不明だ。晒した人間に支払い能力がなければ、普通に踏み倒されて終わる。
それ以前に、表立って裁判にでも出ようものなら世の中の注目の的になってしまう。身元が確かでない今、そんな事が出来るはずもない。
どうすれば良いというのだ。身分の証明が出来ない、働けない、つまり収入が途絶える。そして、表に出られない。八方塞がりではないか。なんで自分がこんな目に。
いっそのこと、例の怪力美少女ですとサブウェイで動画を上げて、広告収入でも得てやろうかという非現実的で下らない事すら考えてしまう。
どうしようもない。自分に出来ることは何もない。自分に関する事なのに。
フラフラと吸い込まれるようにベッドに倒れ込み、そして歯を磨いていない事を思い出して起き上がった。どれだけショックを受けようが、やるべき事はやらないと。
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