第4話 増加してゆく苦悩
月曜日、大きめの弁当を食べ終えて、いつものように机に胸を乗っけて昼寝をしていると、スマホが振動した。通知を見るとマツバラ医師からメールが来ていた。
メーラーを開いて確認すると、検査結果が出たので何時でも良いから来てくれという内容だった。今日、帰りに寄ることにしよう。
相変わらずこちらの胸元を凝視してくる新人カッコ五十代に点検の要旨を説明しつつ、その日の業務もつつがなく終えた。いい加減に慣れて欲しいものだ。美人も三日で飽きるというだろう。
委託警備のハヤシダは、少しだけ静かになったらしい。それでも時折合間を見ては総責任者のエンドウの文句をたらたらと喋っているとマエダが言っていた。口から生まれてきた人間は、口を閉じている事ができないのだ。
病院に行くのでとハラダに断って、いつもより少しだけ早く着替えさせて貰う事にした。
男連中が着替えているのを待っていては定時は過ぎてしまうし、電車に乗り遅れてしまう。人より早く来て人より働いているのだから、五分程度は問題ないだろう。
ロッカー室でぱつんぱつんの作業服を脱ぎ、鞄に仕舞う。毎日持って帰って洗濯しているのだが、生地が安物のせいかすぐに退色して薄くなってきてしまう。今着ているのは会社にあった中古なので、これもあと数ヶ月したら新しいのに替えてもらわないといけないだろう。
下のズボンも脱いで畳んで鞄に仕舞う。ロッカーの中にかけてあった量産店で買ったパンツに片足を通した時、ロッカー室の扉が開いた。
「あっ」
扉を開けて立ち尽くしているのは、ふとっちょのタニグチだ。今、自分が着替えているとハラダから聞かなかったのだろうか。
気にせずパンツに足を通して、ブラウスに袖を通す。タニグチはそのまま立ち尽くしている。
「あの、タニグチさん。どうしてずっと見てるんですか?普通、扉閉めますよね」
普通はごめんなさいと言ってすぐに扉を閉める。なんでじっとこちらの着替えを見続けているのだ。
「え?でも、もう時間だし、着替え……」
時間としてはまだ早い。定時10分前だ。というか、自分が着替えたいというだけの都合でそのまま異性の着替えを見続けるというのはその、どうなんだ。
もう突っ込むのも面倒くさくなったので、そのままブラウスのボタンを止めて、鞄を持って外に出た。本当に仕方のない人だ。これで今まで良く社会人として生活して来れたものだ。ブラを買っておいて本当に良かった。
「ハラダさん、タニグチさんに私が着替えてるって言いました?」
端末で仕事をしていたハラダはえっと驚いてこちらを振り向いた。少し離れた机についていたヤマノも驚いた表情でこちらを見ている。
「え?でもまだ着替えの時間には早いですけど。もしかしてタニグチさん、勝手に扉閉まってるロッカー室開けたんですか!?」
普段、荷物の出し入れが出来るようにロッカー室の扉は開けっ放しにしてある。閉まっているという事は、中に人がいるという事なのだが。
「はぁ……じゃあ、何も言わずに着替えようとしたんですか」
時間が近いし良いだろうと判断したのだろう。別にそれでも問題があるわけではないが、中に女がいるかもしれないという事に思い至らなかったのだろうか。
というか、普通は責任者に一言声をかけてから着替える。着替える時間になっているのであればまだしも、時間前に何も言わずにというのは少々問題があるだろう。
「まぁ、良いですけど。ちょっと注意しておいたほうが良いかもしれませんね。それじゃ、すみませんがお先に失礼します」
ハラダはお疲れ様でしたと言って頭を下げると、再び端末に向き直った。
地下鉄のつり革に掴まりながら考える。別段、裸を見られた所でどうという事はない。精神が男なので、しょうがないなと思うだけだ。
だが、倫理的にはどうなのかと思ってしまう。自分が逆の立場だったら、仮に相手が男だと分かっていても咄嗟に目をそらすはずだ。実際、初日に本社会議室で自分が着替えようとしたら、課長も部長も部屋を出ていった。タニグチは何故そうしなかったのだろうか。
羞恥心は無い。当然だ。だが、釈然としないものが胸の内に残っている。
痴漢に尻を触られた時も思ったが、そこにあるのは単なる不快感だけだ。単純に、生理的に気持ちが悪い、という感情。
相手に落ち度が無いのであれば兎も角、意図的にだったり、省みることが無いというのは不快感に繋がる。これは男性であろうと女性であろうと同じだろう。
かといって感情的になってしまってはあまり良い結果にはならない。感情と理性は別だ。基本的に理性を頼りにしなければ、社会は回らなくなってしまう。
今だって目の前に座っている背広姿のサラリーマンは、可能な限りこちらの胸を見ないようにしている。あまり無理をする必要は無いが、普通はまじまじと凝視したりはしないのである。理性のある限りは。
あの時の痴漢にしろ、セクハラ発言をしているハヤシダにしろ、こちらの胸を凝視したり着替えをじっと見ていたタニグチにしろ、少々理性が足りていないのではないだろうか。
それで問題にならないうちは良い。だが、痴漢は当然犯罪だし、セクハラも今は犯罪だ。表沙汰になった時に困るのは理性を無視して感情に走った側なのである。
大半の人間はそうならないように生きている。だが、人の中にはそれができない人が一定数いるようだ。それを排除すべきなのか、仕方がないからと寛容になるべきなのかはわからない。程度にもよるが、答えを出す事は自分にできそうもない。
地下鉄を降りてマツバラ医院へと向かう。こうした考え方は今の身体になったから生まれたものだろうか。いや、恐らく男の時点でも同じように考えたはずだ。
ただ、視点が違っているせいで、どうにもそれを意識する事が多くなった気がする。自分は、人に見られている。
受付で診察券を出し、待合室の椅子に座る。周囲にいるのは大半が妊婦か、夫婦だ。この時間、自分のように若い娘は一人もいない。
彼ら彼女らはこちらを見ないようにしているが、どう見られているかは想像がつく。『あんなに若いのに』『相手は誰だろうか』『最近の若い子は』こう考えてしまうのは自意識過剰だろうか。
「カラスマさーん、どうぞー」
小一時間程待っただろうか。周囲の診察が全て終わった後、自分の後ろに誰も待っていない状態で、受付にいた事務員に呼ばれて診察室に入った。
相変わらず美人の女医は、こちらが椅子に座るのを何も発言せずにじっと待っていた。
「検査の結果が出たと」
こちらから聞くと、白衣のマツバラ医師は頷いて口を開いた。
「カラスマさん、マラソンか水泳か、あるいは登山か、そういうスポーツを何か、やってました?」
唐突な質問だ。検査結果にそれを示唆するようなものがあったという事だろうか。
「いえ。やってるのは体型維持の為の筋トレだけでしたが。今も続けています」
そう答えると、マツバラはこちらに沢山の項目と数値が印刷された検査結果を見せた。
「何が異常とかそういうレベルではなく、何もかも過剰です」
と、言われても自分は医師ではないのでわからない。
「WBC、RBC、PLTその他諸々。どれか一つなら何かの病態を疑うべきものだけれど、総じて血液の成分が異常に濃い。普通ならすぐさま血管が詰まってしまうような状態なのに、採取した時はそんな事は無かった。それこそ直前に血液ドーピングをしたとしても、こんな数値はありえない」
良くわからない、が、要は異常だという事だろう。
「それって、多血症って事ですか?」
赤血球が多すぎて皮膚が赤化したりむくんだりするというのは聞いたことがある。
「良く知ってますね。でも、違います。言ったでしょう。一つの成分だけじゃない。ありとあらゆる、生体活動に必要な血液成分が異常に濃いんです。しかも、これは調べた数値だけです。調べられないものが入っている可能性が高い」
つまりは過剰だという事だ。過剰は異常。それはわかる。だからといってどう反応しろと言うのだろうか。
「正直、検査ミスじゃないかと思った。こんな数値で、まともに生きていられるはずがない。率直に言います。貴女、正常な人間から逸脱しています」
逸脱。人外。そんなことを言われても。
「それで、その。元には」
それだけが知りたいのだ。
「わかりません。それは以前と変わりません。私の母校にも、学会の人達にもネット通話で聞いてみたけど、聞いたことがないって。分かったのはただ一つ、貴女は異常だというその一点だけ」
目の前が真っ暗になった。戻れるかどうかは結局わからない。分かったのは、自分が異常な存在という事だけ。
異常。それはそうだろう。一夜にして性転換なんて、正常であるはずがない。だが、それだけにとどまらずに、検査結果まで人間の範囲を逸脱しているだなんて。
「そんな、その、異常だというのは、どこが問題なんですか?普通に生活して、普通に食事して、普通に寝て、仕事してるんですけど」
そうだ。外見だってちょっと可愛いぐらいで普通の人間にしか見えない。なのに。
「それが、わからないの。何もかもわからない事だらけ。貴女の言うように一晩にして性転換した事も含めてだけど」
結局、調べてもらってもわからないことが分かった、というだけか。それは、前進なのだろうか。甚だ疑問だ。
「他になにか、性転換以外に普段の生活で変わった事は無い?何でもいいの」
ある。沢山ある。
「食欲が増しました。男性の頃より、5割増しから倍ぐらいまで。あと、筋肥大もしていないのに筋力の増加が異常です。あ、あと毛が生えてません」
マツバラは手元のタブレットに何事か書き込んでいる。すぐに顔を上げて言った。
「カラスマさん。検査結果は異常だった。でも、貴女はこうやって普通に生きている。つまり、何らかの機能で普通の状態を保っていられている、と思った方が良いです。こういった症例は例がありません。つまり、今や貴女は生ける検体なんです。わかりますか?」
検体。サンプル。標本。
「それは、そうなのかもしれませんが……どうして私が、いえ、それはもういいです。現実としてこうなっているわけですから。戻れるかどうかも結局わからないというのはわかりました。……では私は一体これからどうすれば良いんですか?」
男としての人生を失い、人としても異常。だったら何だ。解剖されて医学の役に立てとでも言うのか?
「どうもしません。とりあえずは普通に生活していて下さい。ただ、何か異常があればすぐにこちらに来て下さい。あと、健康診断と体力測定だけは一度こちらで受けてもらいます。宜しいですね」
普通に、といっても、その普通が難しいのだ。半年後には普通でなくなってしまう。
「わかりました。ええと、でも、このままだと私、半年後には仕事をクビになってしまうんですが……身分証明が出来ないので」
「身分証明……ああ。戸籍を書き換えないとダメですか?性別の変更なら多分、できるんじゃないでしょうか」
出来るのか。マジで。
「それって、役所に書類出すだけで出来るんですか?」
「いえ、それは裁判所で……医師の、診断が……あと、生殖不能であること……ああ、難しいですか」
何か不穏な単語が聞こえた気がするが。
「せいしょく?生理食塩水、なわけないですよね。つまり、生物学的な女として妊娠できる場合は、男から変更できないってことですか?え?」
「……そうですね。普通は逆です。男性から女性になった場合、男性機能が失われているという事が前提です。ですが、どちらの要項にも当てはめるためにそこに男女の区別はありません。つまり、男女どちらかの生殖能力を有している場合、変更は不可能です。当然ですね、今の科学では男性器を完全に妊娠可能な女性器にすることはできないので」
そんな馬鹿な話があるか。男性から完全に女性になった場合、変更不可だなんて。制度の不備ではないか。
「それじゃ、私は一体どうすればいいんですか?戸籍も無い、仕事も無い、人間としては異常って。どうやって生きて行けば」
多分、非合法な世界に身を浸せば生きていく事自体はできるだろう。だが、そんなのは絶対に嫌だ。今まで真面目に、日陰ながらも光のある場所で生きてきたのだ。急にそんな地下に潜れと言われても、絶対に嫌だ。
「……頼れる人はいないんですか?ご家族ですとか、ご友人ですとか」
「父は多分、私がこうなったことを絶対に信じません。弟家族には話してきましたが、彼らにはもう家族がいます。転がり込むなんてことはできません」
妹も結婚して遠くにいる。だが、同じく論外だ。
マツバラは苦しそうな顔をしている。彼女も分かっているのだろう。人を頼れと言われても、無条件に頼れる存在がいる人ばかりではないという事を。産婦人科という現場にいるのだから、同じような人を何人も見てきたはずだ。非嫡出子の問題だって重々承知しているはずなのだ。
「貴女は特殊な存在です。望まれるのであれば、私の母校をご紹介しても」
「検体ですか。医学の発展のためというのであれば喜んでこの身体を差し出しましょう。ですが、面白半分の被検体にされるのは真っ平御免です」
モルモットになれというのだ。あの薬の反応はどうだ。ここをこうしたらどうなる。どこまで耐えられるか。人間の精子で妊娠するのか。少し考えただけでこの程度はいくらでも想像出来る。それは、人生ではない。ただの実験動物だ。
「人権は一応……いえ、すみません。確かに、軽率でした」
産まれてくる命を幾度も取り上げた医師だ。理解しているが故にすぐに謝罪の言葉を口にする。だったら、言わなければ良いのに。
「いえ。しかし、八方塞がりなのは事実です。とりあえず健康診断と体力測定は受けます」
そのぐらいなら人間の尊厳の範疇だ。寧ろ、健康であるとお墨付きがあればそれはそれで良い事だろう。保険が効かないのが問題だが。
「ありがとうございます。他に、どこにも行く所が無いのであれば……もう一度私に相談して下さい。検体にはしません。そこはお約束します」
そう言われて、肩の力を抜いた。彼女は善良な医師だ。最初に突き放さずにきちんと調べてくれた時点でそれは間違いない。
目下の所、問題なのは半年後にどうするかという話だ。だが、それにはまだ時間がある。ならば喫緊の問題を医師に聞いておく必要がある。
「先生、先程生殖能力の有無とおっしゃいましたが、それはつまり、その……生理も来るってことですかね」
念の為生理用品は買ってある。しかし、血液検査で何もかも異常と言われたのだ。
「来ると思っておいた方が良いでしょうね。数値が異常なだけで、他は普通の女性と何も変わった所は見られません。ああ、念の為聞きますが」
マツバラはこちらの目をまっすぐに覗き込んだ。
「男性と性交の経験は?」
「……あるわけないでしょう。この身体になってまだ一週間も経っていないんですよ」
そもそもしたいと思うわけがない。精神はまだ男性なのだ。
「そうですか。安心しました。興味本位でやってみるという軽率な方でなくて良かったです」
「いや、そもそも私は精神が男ですよ。ありえません」
「そうでしょうか?」
どういう意味だ。いくらなんでも、興味本位でそんな事をするなんてありえない。どんだけ変態なんだ。
「ええと、それで、その、使い方なんですが」
「ああ、そうですね。初めてですもんね。ご説明します」
普通、こういうのは母親とかから教わるものなのだろう。だが、自分にもう母はいないし、そもそもそういうのは女性が10代半ば頃に経験するものだ。既に30を越えた独身男性が知っているはずがない。
種々の品の使い方をそれぞれレクチャーされて、健康診断と体力測定を行ってくれる施設を紹介され、その場で予約を入れてもらった。おかしな数字が出ても便宜を図ってもらえるらしく、その点は安心して良いと言われた。
「え?健康診断ですか?会社のではなくて?」
翌朝、次の日に健康診断を受けるので休ませて欲しいとハラダに言うと、驚いた彼は素っ頓狂な声を上げた。
健康診断は、概ね入社時か毎年一度、夜勤がある場合は更にもう一度行う事になる。会社が従業員に対して義務として行うものなので費用は無料だが、こちらは今、パート扱いなのでそれはない。
「会社のではその。問題がありまして。病院で紹介された所に行かなければならないので」
「そうですか、わかりました。カラスマさんはパート扱いなので大丈夫ですよ。人数はまぁ、こちらでどうにかしますので」
「すみません、助かります」
まる一日休むのは過剰かなと思ったが、体力測定もあるので、疲れた後に仕事をするのもどうかと思い、結局休むことにした。有給休暇は無い。発生は半年後なので、丁度辞める頃に付与されることになる。切ない。
会社で受けている健康診断は、概ね来月以降に順番に受けることになっていた。係長としての自分も予定を入れていたのだが、それももうご破産だ。今は休職扱いだが、男の身体で無い以上、会社の健康診断を受けに行くことはできない。
日常点検に出ていった他の作業員を待つ間、係長として残っていた仕事を処理する事にした。大分間が開いてしまったが仕方がない、新人教育の必要があるということで、課長には目こぼししてもらうことにする。
事務所にある端末を開いて、会社のグループウェアにログインする。メールが大量に来ていた。とりあえずこれらを処理していかねばならない。
係長のミサキ・カラスマはいないので、自分が代理として返信していく。大半は急ぎのものではないので焦ることは無いが、あまり放置するわけにもいかない。
殆どのメールは一方的な通知であったりするが、担当現場の見積書の確認だったり、申請書などがいくつかある。一つ一つ内容を確認して、問題点があれば指摘して送り返し、問題なければ次の処理に進める。単なる機械的作業だ。AIでもできる。
あらかた処理し終わって、各部署からの通達だけが残った時点で肩を回し、席を立った。
肩が凝るということではないが、なんとなく動作の癖として残ってしまっているのだ。戸棚から自分専用のマグカップを取り出し、インスタントコーヒーを入れる。端末の前に戻って座ったところで、点検に出ていた二人が帰ってきた。
今日こちらにいるのは小柄なハシノとふとっちょのタニグチだ。ハラダは朝の話の後、本社にて会議があるという事で出ていってしまった。本来は自分が出るべきものだが、いないことになっているので仕方がない。
「お疲れ様です。日常点検はもう問題ありませんか?」
ハシノはもうある程度の期間ここで働いているので大丈夫だが、新人のタニグチは今ひとつ要領が悪い。個人差があるのは仕方がないので、慣れるまで待つしか無い。
「お疲れ様です。多分、大丈夫です」
タニグチの代わりにハシノが答えた。そうか、なら一人で回らせても大丈夫だろう。間違いはこちらでチェックして、その都度修正すれば良い。
「カラスマさん、体、大丈夫なんですか?」
タニグチが聞いてきた。大丈夫じゃない。問題まみれだ。異常な存在と言われた。
「はい、いえ、病気というわけではないので」
病気ではないのである、異常だが、病名は無いし怪我をしているわけでもない。ただちょっとだけ、性別が変わって血液の数値が異常なだけだ。
コーヒーを啜りながら通達を見る。取引会社の社名変更、役員交代、住所移転。どれもこれも今の自分にはあまり関係のないものばかりだ。
いずれ出世して役員になれば無視できる情報ではなかったのだろうが、もうその道は断たれた。全スルーである。全て既読をつけて、流し読みしてからグループウェアを閉じた。
「それ、カラスマさんのカップですね」
またタニグチがこちらの手元を見て言った。
「そうですよ、私のカップです」
カラスマと書いてある。自分のだ。
「え、いや、カラスマ係長のですよね?」
「……彼のものは私のものです。問題はありません」
うっかりしていた。だが、カラスマと書いてるのだ。自分のだと言っても問題ないはずだ。押し通す。
「カラスマさんって、係長の従姉妹なんですよね?」
「……そうですが」
タニグチは妙に詮索してくる。面倒くさいのでやめてほしいのだが。
「いとこ同士って、結婚できるんですよね」
だからどうした。自分と結婚できるわけがないだろう。単為生殖出来る雌雄同性体か自分は。
面倒なので答えない。これ以上話をややこしくするのは馬鹿のする事だ。ハラダが作っていた来月の予定表を開いて、抜けがないかチェックしていく。
「お二人って――」
「やめてくださいよ。そういうの。プライベートの話でしょう?タニグチさんに関係ないじゃないっすか」
堪りかねたハシノが遮った。比較的この業界では若い彼は、こういうのが大嫌いなのだ。旧い言動の警備員であるハヤシダに一番憤慨しているのも彼である。
「前から思ってたんすけど、ちょっとデリカシー無いっすよ、タニグチさん。セクハラって言われる前にやめといたほうが良いんじゃないっすか?」
彼の言う通りだ。タニグチは少しデリカシーに欠ける。男から見てもそうなのだから、女性から見れば非常に危うい。昨日だってそうだったのだ。自分が見た目通りの少女であれば、着替えを覗かれた時点で悲鳴を上げて蹲るか殴り飛ばしていただろう。
しかしタニグチは、そうかなあ、と言って不満そうに黙った。そうなのだ。言われたのなら気付くべきだ。というか、そういうのはハシノよりもまずハラダか自分が言うべき事だろう。黙っていた事で彼に言わせてしまった事を少し恥じた。
昼前になったので、分庁舎にいたマエダとヤマノが事務所に戻ってきた。ハラダが会議で外出しているので、伝達事項は特に無い。午後からの点検をどうするか、軽く打ち合わせをした上で、昼休憩の時間になった。
家で作ってきた大きな弁当を腹に全ておさめて、いつものように目を閉じる。ふと、視線を感じて薄目を開けると、タニグチが頬杖をついてこちらを眺めていた。
見る分には別に減るものではない。好きに見れば良い。但し触るのや余計なことを聞くのは無しだ。机の上に胸を乗せた状態で、意識を無意識に遊ばせた。
職場から帰宅後、風呂に入る前に思い立って、スマホで通話機能を立ち上げる。リストから父の番号を呼び出してかける。
呼び出し音がなっている。父はワイアードの反応は鈍いし、電話もなかなか出ない。面倒くさがっているのか気づいていないのか、今ひとつ判別がつかない。
実際に会えば普通に話はするし、別段親子仲が悪いわけでもない。少々頑固な所はあるが、それは別に性格の差なだけであって、一般的に見れば普通の事だろう。
暫く呼び出し音がなり続け、もう切ろうか、と思ったところで繋がった。
『はい。なんだ、ミサキか?』
『ああ、親父。ワイアード見たか?』
そう聞くと、端末の向こう側の父は黙った。
『誰だ?』
『ミサキだけど。言っただろ、女になっちまったって』
『誰だ?ミサキの携帯借りて話してんのか?ミサキはどうした?』
『いや、だから』
こうなるだろうと思っていた。面倒くさい。だが、説明を蔑ろにして良いわけでもない。
『なんだかわかんないけど女になっちゃったんだって。それで一旦会って話を』
ぶつりと通話が切られた。仕方なくかけ直す。すぐに出た。
『あのさ、親父』
『年寄りだと思って騙そうとしてんのか?これ以上かけてきたら通報するからな』
また一方的に切られた。取り付く島もない。
きっと父の頭の中はこうだ。どこかの女が息子のスマホを拾って、中に記録してあった番号の父親にかけてきた。突拍子も無い事をいって、治療費だのなんだのを巻き上げようとしている詐欺だ。そうに違いない。と、こういうわけだ。
思い込んだらもう、そうとしか考えない。いつもの父だ。どうしようもない。お手上げである。
この調子では実家に直接乗り込んだところで追い返されるのが関の山だ。分かってはいたが、父は頼れない。頼りにならない。
弟にかけてもらっても同じだろう。頑固な父は、弟が騙されていると思い込んでやはり相手にしないだろう。それどころか本当に警察に話を持ち込む可能性が高い。この身体になって本人証明が出来ない以上、警察沙汰は流石に御免だ。
諦めて筋トレを行い、風呂に入る。普段行っている自重トレーニングでは物足りなくなってきた。これ以上やるならジムにでも通うべきだろうが、そんな金銭的な浪費をしている余裕は無い。時間も金も有限なのだ。それに、これ以上強くなってどうする。並の男なら簡単にねじ伏せられるのだ。もうこれ以上は鍛える意味がない。
シャワーで身体を洗い流しながら、腕や足を眺めてみる。やはり細い。どこにあんな力が秘められているのか、皆目見当がつかない。
明日は体力測定もある。一体自分がどのあたりにいるのか確認する良い機会でもあるだろう。
健康診断を受けられる場所は歩いて行ける程の距離だった。バスでも行けるが、バスで行けるから楽だというわけではない。大人しく徒歩で移動する。
指定された場所は所謂健康診断と透析に特化したような医療施設であり、企業の健康診断も受け付けている大きな所だった。隣には体育館が併設されており、学校指定の体力測定等もそこで行っているようだ。
時間的に午前中は空いているのか、開始時刻の5分前に入った途端、診断表を渡されてロビーに案内されるなり、診断項目はすぐに進んでいく。
身長体重に腹回り。視力、聴力、尿検査に血圧測定。採血は既にマツバラの所で終わっているので飛ばされた。
肺のX線検査と心電図測定。医師の問診と聴診で終わり。一番安いコースである。
視力は極端に上がっていた。遠視なのじゃないかと疑われる数値で、測定限界まで全てはっきりと見えていた。
聴力は聞こえるか聞こえないかなので、優れているかどうかはわからない。少し戸惑ったのが尿検査である。
紙コップを渡されたのだが、個室に入った後ではてと困った。
どうやってとるんだ、これ。
便座に腰掛けた状態だと、手の入る範囲が狭くて手にかかりそうで怖い。男の頃と違って、出る場所を簡単に制御できないのである。
あれこれ悩んだ結果、パンツも全部脱いで便座を上げて便器をまたぎ、コップを股間にあてがって出す事にした。ものすごく間抜けである。どんな美少女でも100年の恋すら冷めてしまうだろう。
うっかり出しすぎたので便器に少し捨て、残りは普通に座って出した。これもまたなんだか間抜けである。
血圧は正常、肺検査や心電図はその場ではわからないので結果待ちだ。最後に医師の診察を受けて終わりである。
シャツの前と後ろを上げて女医に聴診器をあててもらい、問診を受ける。
「生理不順などは無いですか?」
「え?あ、はい」
不順というか、まだきていない。不順かどうかすらわからないが、一応はいと答えておく。だってそれ以外に答えようがないではないか。こんな身体をしておいてまだきていませんと言えるわけもない。
それにしても、診断表を見て呆れた。マツバラは自分の事を20歳女性として受けられるように手配していた。健康保険証を確認している病院からなので、施設側も何も疑問を持たずに受け付けたのだろう。
予想以上に早く終わったので、体力測定まで時間が空いてしまった。腹も空いた。
健康診断なので朝食を食べていないのである。よくよく考えれば血液検査は無いのだから、食べてきても平気だった。精々体重が数百グラム上がる程度である。
空腹に耐えかねて、近くにあったとんかつ屋に入った。ご飯のお代わり無料と書いてある。最高だ。
昼には早い時間から1500エンもする重たい量のカツを大量の飯で胃の中に詰め込んで、満足して店を出た。結局3回もご飯をおかわりしてしまった。
ふと、少し後悔した。体力測定とは、確か瞬発力を測定するようなものもあったはずだ。これだけ食べてしまうと少し鈍くなるかもしれない。
まぁ、いいだろう。普通よりは身体能力が上がっているだろうが、別に正確な数値を計るのが目的ではない。大体で良いのだ、大体で。
併設されている体育館にゆっくりと入った。測定は午後からなので急ぐ必要は無い。
午前中は近所の学校が体力測定をしているようだった。もう殆ど終わっているのか、大半の学生たちは終わって体操服のまま、帰る準備をしている。自分が学生の頃は確か、学校のグラウンドや体育館でやったものだったが、恐らくこの学校にはそういう事が出来る広い場所がないのだろう。都市部では割と良くある事だ。
入口でなんとなく眺めていると、後ろから野太い声がかけられた。
「おい、こんな所でぼさっとするな。もう終わったのか?さっさと帰れ」
振り返ると、がっしりとした体格の角刈りの男が腕を組んで仁王立ちしていた。多分この学校の体育教師だろう。
「すみません、私はそちらの生徒ではありませんので。服装も体操服ではないでしょう?」
見れば気づきそうなものだ。いくらこちらの体格が高校生ぐらいの女子っぽいとはいえ、随分早とちりな先生である。
「ん?あ、あぁ。これは失礼しました。今日はうちしか入っていないと聞いていたもので……ええと、検査員の方ですか?」
「いえ、個人で測定に来たものです。午後からの予定ですが、少し早めに着いたもので」
そう言うと体育教師は怪訝そうな顔をした。
「はあ、個人で?そんな事あるのかな……いえ、失礼しました」
角刈りの男はそう言うと、中に向かって終わったものはさっさと戻れと大声を上げた。だらだらと残っていた生徒たちは学校に戻るのが嫌なのか、渋々といった感じで出入口であるこちらに出てきた。
生徒たちは皆こちらをちらちらと見ては出ていく。中にはひそひそと内緒話をしている者までいる。基本的に学生というのは集団になると不躾になるものだ。仕方がない。自分もそうだったような気がする。
全員が出ていった後、体育教師もこちらに一礼してから帰っていった。なんだか微笑ましい。自分にもあんな学生時代があったものだ。
中にいた検査員は、学生の移動で荒れた測定用の道具などを元の位置に整え直している。まさかこの人達全員で自分の測定を見守るという事は無いだろう。
「すみません、カラスマさんですか?」
近寄ってきた女性の検査員が声をかけてきた。
「はい。少し早く着いたものですから、待たせてもらっています」
「あぁ、そうですか。えー、マツバラ医師からの依頼ですね。お一人、ええと……何ですかこれ。特記事項の個人情報は厳守って。当たり前じゃないですか、ねえ?」
まぁ、そうだ。当たり前の話だ。ただ、異常値が出る可能性があるので、多分その事をマツバラは懸念したのだろう。
「そうですね。検査員は何名で?」
知る人間は少ないほうが望ましい。
「あ、それは私一人です。午後からは貴女お一人ですので」
そうか、それは良かった。あまり男性の前で胸をぶるんぶるんさせるのは良くないと思うので、その点は助かった。
中にいる検査員達は各々仕事を終えて引き上げ始めている。あと少し待てば大丈夫だろうか。
「どうします?もう始めますか?」
女性の検査員はにこやかに聞いてくる。彼女も早く帰りたいのだろう。しかし。
「他の方が出てからではダメですか?」
見られるのは少ないほうが良い。手加減するつもりはないのだ。
「え?あ、あぁ。そうですね、失礼しました」
彼女は別の方向で納得したようだ。検査員には男性も多い。こちらの胸をちらりとみて言ったので、その解釈で間違いは無いだろう。
他の検査員はおつかれーと言いながら出ていった。多分この後昼食になるのだろう。この女性検査員は昼休みが後にずれてしまうので、少し申し訳ない気分になった。
「それじゃ、始めましょうか。まずは握力からで」
台に乗っていた測定機を渡してくる。ごく普通のスメドレー式握力計である。受け取って身体の横に下げ、ぐっとレバーを握る。
「はい、えーと……すいません、もう一度やってもらっていいですか」
言われた通り、デジタル数値のリセットされた握力計をもう一度握る。手加減はしない。
「……は、八十五キロ。反対側もお願いします」
左手もそう変わらない。同じようにレバーを握りつぶす。
「えー、これ、故障じゃないですよね。リンゴ握りつぶせるんじゃないですか?おかしくないですか?」
「はぁ、多分潰せるでしょうね」
ハンドグリップがものすごく軽いのである。これぐらいはあるだろうと思っていた。
「え、ええと、じゃあ次は上体起こしです。こちらのマットへどうぞ」
言われるがまま、敷かれたマットの上に仰向けになって膝を立てる。腕を胸の前で組んだが、やはり胸が非常に邪魔である。
「あっ、腰とか痛くないですよね?」
「大丈夫です」
彼女がストップウォッチをセットして合図するなり、リズミカルに腹筋運動を始めた。
「はい、45回ですね。っていうか結構余裕そうですね。もっと出来たんじゃないですか?おかしくないですか?アスリートですか?」
「いえ、普通の社会人ですが」
急がずにリズミカルにやっていただけだ。確かに早くしようと思えば出来ただろうが。
その後も長座体前屈、反復横跳び、シャトルランに立ち幅跳びとやったが、いずれも常人とは程遠い数値だった。最後の急歩によるタイムの測定では、彼女は目を瞑って蹲ってしまった。
「あのう、大丈夫ですか?」
声をかけると、虚ろな眼差しでこちらに向かって口を開く。
「貴女のような社会人がいますか?トップアスリートじゃないですか、どれもこれも。そんな細っこい身体のどこにそんなパワーがあるんですか?おかしいじゃないですか。現代医学の敗北ですか?」
「いや、そんな事を言われても……あ、個人情報は」
「わかってます!っていうか言っても誰も信じません!」
ヒステリックに叫ぶ検査員に若干引いた。そんなに悩まなくても、ただの仕事だと淡々とこなせば良いのではないだろうか。考えるだけ無駄なのに。
「しかも、その胸!アスリートなのにそんな脂肪の塊があるわけがないでしょう!」
それは偏見ではないだろうか。自分はアスリートではない。なので胸があっても問題はないはずだ。
「はあ、あの、一応測定は終わりですよね?帰っていいですか?」
「そうですね!終わりです!帰りましょう!はい!終わり!」
元気に切り替えた彼女は腕を振って出ていった。大丈夫だろうか。兎にも角にも、これで今日やることは終わりだ。昼はとんかつだったので夜は魚が食べたい。スーパーでホッケでも買って帰ろう。
「おはようございます!おめでとうございます!」
分庁舎にやってくると、すれ違いざまに例のハヤシダにそう声をかけられた。
「おはようございます。何ですか?」
この男の言う事に一々反応したくはないが、一体なにをもっておめでとうございますとこちらに言ったのか、激しく気になった。目出度い事など何もない。寧ろ、半年後にほぼ失職が確定して絶望している所なのだ。妙に癇に障る。
「ご懐妊、おめでとうございます!」
坊主頭の太った男に妙にニヤつきながら言われて気分が悪くなると共に、意味不明な内容に混乱した。
「どういう事ですか?誰からそんな風に聞いたんですか?」
しかしハヤシダはニヤついた顔そのままに答える。
「警備は信用が第一ですからな!誰から聞いたかは申し上げられません!」
馬鹿か。信用というのならこの男の信用度は既に最低まで下がっている。意味不明な言葉をこちらにぶつけておいて、今更何を言っているんだこいつは。
「いやあ、しかし、やることはやってたんですな!」
うるさい。勘違いしたハゲデブを相手にするだけ無駄だ。何も言わずに防災センターへと入る。
中にいたのはむっつりとした表情の小柄なハシノと、下を向いているふとっちょのタニグチ。思う所はあるが、敢えて何も言う必要は無いだろう。
「屋上、行きますよ。冷却塔の清掃をしないと」
冷暖房を集中制御で行う際、大体の施設では熱源を中央制御にして、全館の冷暖房を一度に切り替える。最近では全て個別のパッケージエアコンに変えてしまう施設も多いのだが、広い部屋を冷房したりする場合は、ランニングコストとしてこちらのほうが安くなる事が多い。
夏場は熱源機器で冷水を作って各所に回すのだが、冷媒の潜熱を利用するサイクルを扱う上で、必ず冷却水が必要になる。
気体を液体に戻すために下げる熱を水から貰う(正確には熱を与える)のだが、その水を一定温度まで下げる必要がある。そのための設備が冷却塔、クーリングタワーと呼ばれる設備である。
循環する水を上から落としてその最中にファンで蒸発させて気化熱で冷却して戻す、という至極単純な構造のものだが、空気中に開放する開放型の場合は当然ながら、薬剤を入れていても藻や汚れ、スケールが発生する。清掃せずに使い続ければ効率が落ち、最悪熱源機器が止まってしまうのである。故に毎年2回、春と秋に清掃が必要となるのだ。
冬場は水を抜いているので中は乾燥している。外部を高圧洗浄機で洗った後、同じようにして内部の洗浄にかかる。
「カラスマさん、ハヤシダの言ってた事ですが」
不機嫌な表情で冷却塔の中で、ハシノが声をかけてきた。タニグチは外にいる。
「ああ、多分タニグチさんでしょう。早とちりですね」
全く意味がわからない。どうしてそんな結論に至ったのか徹底的に問い詰めたいが、聞けば多分馬鹿らしくて呆れてしまうような事だ。聞く必要はない。
「そうです。あの人、ちょっとおかしいんすよ」
おかしいか。確かにおかしいと言えばおかしい。だが、そのような人は世の中に沢山いる。気にするだけ無駄だ。
「まぁ、そうですね。私と係長が結婚してるだとか、妊娠してるだとか。話が飛躍しすぎていて正直相手をしていられません」
そもそも同一人物なのだ。どう足掻いても一人では結婚もできないし妊娠も出来ない。
「いいんすか?放っておいて。あの人達、勘違いしたままですよ?」
「別にいいんじゃないですか。彼らの脳内でそうなってるだけなんで、私には何の影響もありませんので。他所に言いふらされでもすればちょっと困りますけど」
水を抜いていた状態でも、槽内にゴミは溜まっている。高圧洗浄の水を奥にかけると、付着していたスケールが次々と流れ出てくる。
「言いふらしますよ、あの人達。デリカシー皆無なんすから」
ハシノは箒で槽内を擦っている。まだ新しい設備なので、あまり力を入れなくても簡単に汚れが落ちてくる。
「そうなったらあの人達が恥をかくだけですから。不確かな情報を広めて信用を失う事まで、一々フォローしてあげる必要はありません」
「まぁ、そうっすけど。カラスマさんがいいなら別にいいっすけどね」
「気にしてくれてありがとうございます。その感性は正しいので、大事にして下さいね」
彼にとっては気分の悪い事だろう。だが、それは正しいことなのだと言っておく。そうしないと、不満を持った正常な人間が辞めていってしまう。それは困る。
彼の表情は少し和らいだ。今の時代は彼のような感覚が普通なのである。ずれた人間はその考え方を修正しない限り周囲に疎まれ、そのうち老害と呼ばれるようになっていく。自分はそうはなりたくないものだ。
昼までかけて冷却塔の清掃を終わらせたが、タニグチは決して中を手伝おうとはしなかった。外の作業の方が楽だからそうしていたのか、自分と顔を合わせるのが気まずかったのかはわからない。
いつもの如く昼食を終えて、机の上に胸を乗せて目を閉じる。相変わらずタニグチは頬杖をついてこちらを見ていた。
午後の作業も粗方終わらせた後、ハラダと共に庁舎管理課へと足を運ぶ。冷房開始の時期をどうするかという、簡単な打ち合わせをする予定があったのだ。
別にハラダだけでも良かったのだが、一応自分は係長の代理という事になっている。まだ責任者として経験の浅いハラダのサポートもするつもりで、一緒についてきた。
「うーん、予報を見る限り、5月の下旬ぐらいからでしょうか」
担当の係長が手元の資料に目を落としながら言っている。妥当な所だろう。
「切り替えの準備は終わっていますが、基本的に冷房への切り替えは一斉になりますので、気温を見ながらになりますね」
ハラダが言う通り、あんまり早く入れても逆に寒いと言われてしまう。最近は温暖化が進んでいるとは言え、4月の半ばなのに寒い日はまだまだある。
「そうですね、また決まり次第、スメラギさんから連絡してもらいます。ああ、えぇと」
話は終わりのはずだが、担当係長が言いにくそうにこちらを見て言った。
「長期休暇を取られる際は、申し訳ないのですが予め代わりの人員を紹介してもらえますか?ここのところ、キナイさんの責任者クラスが頻繁に入れ替わっているようなので」
長期休暇。自分に向かって。何故そう思うのか。想像すれば簡単に理解出来る。
「あの、私、別に妊娠してないですよ。誰から聞いたのかは想像つきますが」
担当係長の隣に座っていたスメラギが目を怒らせた。
「またですか。最ッ低ですね!係長、聞きました?」
「……ああ、流石に酷いな。いくらなんでも」
風説の流布に等しいだろう、別に名誉毀損などとは言わないが。
ハシノに言っていた、彼ら自身の信用を落とすとはこういう事だ。そもそも、別会社の人間のプライバシーを、元請けの人間に話すなどというのは通常ありえない。気を利かせたつもりなのだろうが、本来裏も取れていない情報を、べらべらと本当のことのように撒き散らすのは、軽率というレベルを超えている。
怒り狂ったスメラギと眉間に皺を寄せている係長に頭を下げて、庁舎管理課を後にする。事務所に戻る途中で、ハラダがぼそりと呟いた。
「タニグチさんからですか」
「多分、そうじゃないですか」
何をもって彼がそう判断するに至ったのかはわからないが、彼の態度を見る限りそうに違いないだろう。デリカシーとかそういう問題ではない。そもそも他社の人間に話すような事でもない。
二人共事務所に戻ってお互いの仕事を黙々と進め、定時の時間が近づいた。分庁舎にいたタニグチが着替えるために事務所に戻ってくる。
「タニグチさん、ちょっといいですか」
ハラダが彼をロッカーに連れ込んだ。終わるまで着替えることが出来ない。
だが、話は割とすぐに終わったようだ。ハラダだけが一人、戻ってきた。
「注意しておきました。すいません、カラスマさん」
「いえ、別に私は良いんですが。彼はなんでそんな勘違いをしたんですか?」
あまりにも飛躍した話だ。妊娠を匂わせる話など、こちらは一度もした事がないのにである。
「先週、カラスマさんが産婦人科に行くと言って早めに着替えられた事があったでしょう?それを聞いていたのと、今週の健康診断で、完全に勘違いしていたようです」
なんだそれは。何故それで結論がそうなるのだ。意味がわからない。
産婦人科に行く、という事から連想するのであれば、確かにハラダも一度勘違いはした。だが、それで一旦は終わりだったのだ。タニグチはそこから更に自分の脳内で情報を組み替えていたようだ。にしても、それを人に話すか?普通は話さない。
「はあ、そうですか。というか、別に婦人科は妊娠出産だけじゃないんですけどね」
「ですよね。まぁ、最初聞いた時は僕もびっくりしましたが」
一般的な認識はそうだろう。だが、ちょっと落ち着いて考えれば分かることなのだ。それに、本当に妊娠したのであれば普通は正式に連絡するだろう。何月から産休に入りますとか、普通は先に告知するのだ。勝手に先回りする必要などどこにもない。
呆れて黙っていると、タニグチは着替えを終えて出てきた。お疲れ様ですとぶっきらぼうに言って、定時前に事務所を出ていった。別にいいけど。
自分もロッカーに入って扉を閉め、着替えているうちに定時になったので退出した。人が少ないので、ハラダは毎日のように残業している。これはあまり良くない。
いくらか自分に振り分ける必要がある。明日以降、少し彼と相談してみよう。ハラダが金を取るか時間を取るか、どちらのタイプなのかわからないので、一定量までは許容する事も考慮に入れる必要がある。
それにしても、と、地下鉄に揺られながら考える。
自分が男であったなら全く発生しなかったであろう問題が、次々と発生している。
無論、タニグチやハヤシダの感性がまずいというのはその通りなのだが、これはカラスマ係長のままであったなら発生しなかった事案である。
見た目年齢通りの若い娘であったら、場合によっては自分が悪いのではないかと自分を責めてしまう事だってあるのではないだろうか。
この業界は基本的に男社会だ。故に、他の現場でもどこでもこのような問題はまず発生したことが無かった。起こりようがないのである。
たまに元請けやテナントの女性と問題を起こす者はいるが、その場合には明確に厳しい処分が下る。しかし、同じ社内の些細な件についてはどうなるだろうか。
社内規則にはセクハラには厳しく対応すると書いてある。場合によっては懲戒解雇もある、厳しい処分だ。だが……パートである自分に対して行われた今回の行為はどうだろうか。セクハラとまでは言えない。そもそも自分はそこまで不快に思っていないし、大きな問題にしようとは思わない。
委託元にまで話が回ってしまったのは大問題だが、それを直接的に引き起こしたのは委託警備のハヤシダであり、別の会社の人間だ。
情報を流したのがタニグチであれ、直接的にこちらに何か言われたわけでもない。セクハラには該当しない。なので、彼に処分は無い。
点検中に胸を見ていましたと言われるのだとか、休憩中にじっとこちらの胸を凝視されていたりするのだって、自分が不快だと思わなければ一々申告しない。なにせ自分は男なのだ。何とも思わない。
だが、だがもし、自分の精神が女性だったらどうか。当人が不快に感じた場合、タニグチの行為は明らかなセクハラ行為である。しかも注意されてもやめようとしない。懲戒解雇とされても文句の言えない行為だ。
性転換した女という自分の立場が、どうにも話をややこしくさせているような気がしてならない。自意識過剰なのだろうか。
答えの出ない問いを胸に抱えたまま、ワンルームにある自分の居場所へと帰った。
翌日もいつも通りに日常は過ぎていく。セクハラ目線のタニグチの視線を無視し、男の頃よりも多い昼飯を食い、胸を机に乗せて仮眠を取る。だが、朝からひしひしと感じていた異常はその時にやってきた。
「あー」
おかしい、と思って換えのアレを持って便所に入って、理解した。なるほど、こういう感覚なのかと。
幸い粗相はしなかった。心構えが出来ていただけに、事前の対処ができていたのが功を奏したようだ。思ったほど精神的には辛くない。だが、大変だ。
精神がある程度成熟していなければ、それはもう見苦しく狼狽えた事だろう。だが、自分は既に大人だ。この程度で狼狽えてはいられない。
使い方はマツバラに聞いていたし、彼女から来るだろうと宣告もされていた。故に大きな問題にはならない。ならないのだが。
「すいません、ハラダさん。早退させてもらっても良いですか」
だるい。痛い。痛くてだるい。
だるいのは朝からだったが、今は痛くてだるい。この身体になって初めてなのだ。拒否反応がすごい。もう、帰って寝たい。
「え?あ、はい。大丈夫ですよ。……大丈夫ですか?顔色、かなり悪いですけど」
「大丈夫です。多分、休めばなんとかなります」
数日は辛いと聞いている。だが、無理をしなければ大丈夫だ。ただ、今日はなんかもう、無理だ。立っているのもしんどい。着替えてお疲れ様ですと力なく言って、ふらふらと地下鉄の駅へと向かう。
新しい庁舎は地下鉄駅に直結しているため、昼間であれば移動ルートを短縮できる。実に有り難い。
定期が使えなくなったので、元々持っていたクレジット機能付きの交通系カードをタッチして改札を通る。こちらは年齢等も表示されないはずなので問題ない。
壁にもたれながら列車を待ち、やってきた7両編成に乗り込んで、どうにか座れる場所を探して腰を下ろした。辛い。
ぐったりとして背もたれに体重を預ける。どれだけ身体を鍛えていてもこればっかりは耐えられないようだ。それはそうだ。外をいくら鍛えようが、内側から来る痛みや気だるさには無防備なのである。というか、世の中の女性は毎月毎月こんな痛みに耐えているのか。理不尽すぎやしないか?
幸い自宅までは一本でたどり着ける。昼間の空いている時間で良かった。
観光客は普通に多いので立っている人は多いが、暫く休ませてもらおう。
南北線の連絡駅について、沢山の人が降りて、また沢山の人が乗ってきた。自分が降りる駅はもう少し先なので動かない。
痛みに耐えながら目を瞑っていると、唐突に頭の上から声が投げかけられた。
「おい。若いくせになんで優先席に座ってるんだ」
「へ?」
目を開けて顔を上げると、いかつい顔の老人が杖をついてこちらを睨んでいた。
「ここは優先席だぞ。立て」
立て、と、言われても。優先席は身体の具合の悪い人が座る場所ではなかったのか?目の前の老人は杖を持ってはいるものの、随分と
「すみません、ちょっと具合が悪くて」
いや、本気でしんどいのだ、あと数駅ぐらい座らせてくれたって良いだろう。
「席を譲るのが嫌だから仮病か?若い女だからって、何でも許されると思うなよ」
いや、なんで仮病と決めつけるのだ。別に病気というわけではないが、辛いのは間違いないのだ。何故そんなにしてまでこの元気そうな老人はここに座りたいのだ。他にも席を譲れそうな若者はいくらでもいるだろうに。
「はぁ……」
席を立ち上がろうとした時、隣に座っていた妊婦が腕を広げて、立ち上がろうとしたのを止めた。
「立たなくていいですよ、お嬢さん。そんなに顔色が悪いのに、そんな元気そうな人に代わる必要なんてありません」
あきらかにお腹の大きな女性は、じろりと老人を睨んだ。
「なんだ!お前は!年寄りに敬意を払う気が無いのか!」
老人は激昂して杖を振り上げた。そこを、隣に立っていた金髪の若い男が杖を掴んで止めた。
「杖無くても元気に立って怒ってるような奴が座る必要あんのかよ、どうみてもこのお嬢ちゃん、病気だろ。代わって欲しいなら他当たれや」
周辺の視線が老人に突き刺さるが、彼はまるで臆した様子がない。憤慨して掴まれた杖を奪い取るようにして手元に戻すと、尚も言い放つ。
「これだから最近の若いもんは。礼儀というもんを知らんのか!」
「礼儀を失しているのはお爺さんの方でしょう?どうしてこんな具合の悪そうな子に代われって言ったんですか?」
妊婦が睨みつけるが、老人は怯まない。
「黙れ!若いもんが席を譲るのは当然だろうが!俺を誰だと思っているんだ!」
知るか。誰だお前は。身分が高いと思っているのなら名乗れば良いだろうに。
周囲の冷たい視線が刺さるのもまるで意に介さず、老人は次の駅でぷりぷりと怒りながら降りていった。おい。一駅の移動で座ろうとしたのか。どういう事だ。
「大丈夫?気にしちゃダメですよ、ああいうの、時々いるんです」
隣の妊婦が優しく声をかけてくれる。聖母だろうか。
「すみません、たすかりました」
杖を止めてくれた若い金髪の兄ちゃんも、周辺の人々も、嵐が去ってやや弛緩した感じで息を吐いている。何というか、申し訳ない。
色々な人がいるものだ。あそこまで変わっている人はかなり稀だろうが、今まで座っていた時に代われと怒鳴られたことなど一度もない。
優先席には余程空いてでもいない限り座らないのもそうなのかもしれないが、この見た目は若くて可愛いので得するだけかと思ったら、痴漢にあったり絡まれたりとあまり良い事ばかりではないようだ。
降りる駅について、乗っていた人達にありがとうございましたとお辞儀をしてから降りた。周囲が良識ある人達で助かった。普通はああやって他人が助けてくれる可能性なんて、確率的に見てもかなり低いものだろう。
部屋に戻って楽な服に着替え、ワイアードを起動する。
『生理の痛み、軽減する方法教えてくれ』
個人チャットで妹に打ち込んで暫く待つ。すぐに既読がついて返ってきた。
『温めて寝る』
普通の対処法だ。だが、妥当だ。
ベッドの上で丸まりながら考える。そうだ、風呂って入って良いのだろうか。
『風呂入っていいのか?』
『浸かるのは推奨。シャワーだけならやめといたほうがいい』
ありがたい。流石は妹だ。身近な女はこの妹しかいないのだ、的確な返事が涙が出るほどにありがたい。感謝の言葉を打って、風呂の準備をする。シャワーしか使わない日でも普段から浴槽を洗っておいて助かった。まさかこんな事で日頃のマメさに救われるとは思わなかった。
温かい湯にじっくりと浸かって横になると、成程、先程よりは大分マシになった気がする。比較的暖かい時期だが、腹を冷やさないように掛け布団を被る。
しばらくして、お腹が減ってきた。
痛かろうが怠かろうが腹は減るらしい。それはそうだ、別に病気というわけではないのだから。まぁ、人によっては食事も喉を通らない、という人もいるかもしれないが。
(何かあったかな)
動いてから悩むとしんどいので、記憶の底から冷蔵庫の中身を引っ張り出す。
(ご飯と卵はあるし、作り置きの冷凍惣菜と……いや、なんかもっと消化の良いもの)
作らなければ飯は無い。材料はある。しかし、作るのが億劫だ。
近くのちゃぶ台に充電のために置いてあるスマホに呼びかける。
「ホスト、出前」
反応がない。そうだった。声が変わっていて反応しないのだ。声紋と指紋の登録を変更するのを忘れていた。こういう時に不便だ。便利な端末なのに不便とはこれいかに。
仕方無く身体を起こしてスリープを解除し、パスワードを入力して小さな画面を開く。登録の変更は……元気になってからにしよう。
登録してある出前アプリから温かいうどんを二杯注文して、枕元にスマホを戻す。バッテリーは満タンに近いので、切れる事は無い。
何度か寝返りを打って待っていると、インターホンが鳴った。リビング出入口近くのモニターには、配達員の姿が映っている。
扉の解錠ボタンを押して配達員を建物の中へ入れ、扉をあけて宅配物を受け取る。支払いはスマホ決済なので必要ない。領収書もメールで送られてくる。
便利は便利なのだが、宅配である以上相応に高い。中ぐらいのきつねうどんとなめこうどんの二杯だけで1200エンもする。大半が宅配にかかる人件費なので仕方がない。
自分で作れば一杯100エンもしないのになあと思いながら、冷凍庫から小分けにした包みを取り出す。小皿に乗せて電子レンジで温め、うどんの上に乗せる。冷蔵庫から卵を取り出して割った。
冷凍しておいたのはいんげんの胡麻和えだ。一度作って冷凍しておけば弁当のおかずにもなるし、このうどんのように何かに乗せても良い。同じ様な惣菜は休みの日に纏めて作って冷凍してあるため、忙しい時もすぐに色んなものが食べられる。
味気ないうどんに黄色と緑の彩りが添えられたことに満足して、リビングに戻ってから箸をつけた。
痛みもだるさも多少はマシになったものの、まだ活発に動くには辛い。明日も続くようなら、いっそのこと休ませてもらうべきだろうか。
食べ終わったうどんの使い捨て容器を流しに置いて、歯を磨いてからベッドへと戻る。毎月これが来るとか、地獄のような日常ではないだろうか。恐ろしい。
それよりも半年後、どうしようかという不安の方が大きい。本当に、どうしよう。
考えてはいるものの、答えは出ない。そうこうしているうちに、そのままゆっくりと意識が闇の中へと落ちていった。
翌日、やはり辛かったので課長を通してハラダに連絡して休みを貰うと、マツバラの医院を訪れた。
生理がきて辛いのでというと、丁寧に対処の方法を教えてくれた上で、痛み止めの薬まで出してくれた。やはり専門家は頼りになる。
流石に医薬品は点数で誤魔化せないので相応の金は出ていったが、辛いままでいるよりは大分楽になった。最初は特に重い人も多いので、次からは楽になるだろうという気休めの言葉を信じて帰宅する。戻ってスマホの画面を見ると、通知が出ていた。
ワイアードの通知だ。個人チャットでメッセージを送ってきたのは20年来の親友。
どうすべきか、反応すべきか悩んだ。
小学校の高学年から中学高校と一緒で、大学が別になっても、就職が決まっても付き合いを続けていた。彼であれば、この状態を打ち明けても多分、信じてくれるだろう。
しかし、信じてくれたからどうなるというのか。親友とはいえ他人である事は間違いないし、また、知らされた本人だって戸惑うだけだろう。ただ。
既読が付かないようにして、送られてきたメッセージの内容を見る。週末に一緒に飯でもどうかというお誘いだ。いつもなら一も二もなく応じるのだが。
『悪い、今週はちょっと仕事が入ってて。来月の連休なら』
未練がましく先送りにする。いつかは言わなければならない。急に顔を合わせなくなったら、あいつだってどうしたのかと心配するだろう。それは心苦しい。幸い来月には大型連休がある。それまでになんとか……何とか、心の準備を済ませておくしかない。今はまだちょっと、辛い。腹も痛いし。
友人は特に訝しんだ様子もなく、そうか、じゃあまたワイアーするわと送ってきた。ほんの少しだけ罪悪感が生まれたが、これは必要な措置だと自分に言い聞かせた。
薬を飲めば動くのに支障は無くなったので、次の日から出勤した。またタニグチに勘違いされては事なので、生理痛がひどかったのでと明確に言った。ハラダは当然の事ながら戸惑っていた。自分だって若い娘からそんな事を言われたら戸惑うだろう。しかし、必要な事だ。
北庁舎の工事は滞り無く進んでいる。少し遅延しているとは聞いているが、詳細を知らされていない身分ではどこが遅れているのかは判断がつかない。
工事区画を何気なく覗き込むと、足場に使われるらしき長い金属がいくつも纏めておいてあった。
分庁舎には東側からではなく、正面から入った。東側に行くとまたハヤシダがいる。顔を合わせるのも面倒なので、正面の内部を通って防災センターへと向かう。受付にはいつも愛想の良いお姉さんが座っていて、こちらの作業服と名札を見てにこやかにおはようございますと挨拶をしてきた。
やはり、太った警備員より綺麗な受付のお姉さんに言われる方が気分が良い。見た目で差別するわけではないのだが、あの男は印象が最悪すぎるのである。こちらもお姉さんに笑顔でおはようございますと返して歩みを進める。
分庁舎の防災センターにいたのは、ヤマノとマエダだった。二人共ひょろりと背の高い痩せ型の男で、自分と並ぶと随分と身長差があるように感じてしまう。
ヤマノももう日常の点検に支障がなさそうなので、それぞれ回るように指示して、自分は端末の前に座った。こちらの庁舎の点検記録を確認していると、開けっ放しの扉から例のハヤシダが入ってきた。
おはようございますと挨拶すると、以前の事があったにも関わらず、笑顔でこちらに挨拶を返してくる。別に気まずそうにしろとは言わないが、この男の面の皮が厚いのは昔からだ。
点検表にいくつか記入ミスがあった。テンキー入力で打ち間違えたのか、普通は三桁の数字が四桁として入力されている。元の数値の憶測はつくが、一応元の数値を確認する必要がある。
点検用のタブレットを一つ取り出して、当時の記録を遡る。やはり、入力ミスだったようだ。
同じ様なミスがところどころに見受けられる。妙に同じ日に集中しているなと思ったら、同じ人が点検している日だった。タニグチである。
最初なので間違う事が多いのは仕方がない。そういう人はこの業界には割と沢山いて、続けていくうちに段々改善されていくものだ。仕事のできる人はあまりこういったミスを続けないが、世の中には仕事のできる人よりもそうでない人の方が大勢いる。最終的に平均レベルにまで引き上がればそれで良いのだ。
こうした修正はこまめにやっておかないと、仕事の集中する月末月初にやろうとしても慌てる事になる。日頃からの積み重ねが大事なのだ。
同じ様な単純作業を続けていると、受付に座っているハヤシダが相も変わらぬ大声で雑談をしているのが聞こえる。
ネットで注文した工事の出来が悪かったので電話して散々文句をつけてやっただとか、新しく入ってきた人間は全然使えない、仕事のなんたるかが分かっていないだとか、あまり聞いていても気持ちの良くない話ばかりである。
ハヤシダの隣に座っている相方のイシハラは慣れたもので、適当に気のない相槌を打っている。彼も長い間市役所にいるので、このハヤシダの扱いは十分に承知しているのだ。喋りたいだけ喋らせておけば良いのだ、と。
「しかしな、本当に最近は軟弱な奴が増えたな!」
良くある、年寄りの昔は良かった論である。
「息子の会社でな、新入社員が毎月有給を取るんだと。なんだと聞いたら、生理が辛いと。俺の若い頃はな、女の子だって休まず懸命に働いてたもんだよ。だから景気が良かったんだ」
嘘である。景気が良かったのは単なる時代の流れであり、先人の築いた基礎のおかげによるものだ。好景気に湧いていたのは盛大なる勘違いが原因だった。結局、それから何年不景気が続いたと思っているのだ。原因は勘違いした彼らの世代にある。
働けば給料が上がると分かっていれば、そりゃ頑張ることだって出来るだろう。だが、今はそんな事は無い。そういった背景を無視して今の若いものは頑張らない、頑張らないから景気が悪い、とは流石に論理が飛躍しすぎだ。
「大体、生理ごときで有給を使うなんて、周りに悪いと思わないのかね!働く気が無いのならやめちまえってんだ」
女性のいる前でそんな事を言えば大顰蹙を買ってしまうだろう。というか、今、同じ部屋に、つい昨日その生理痛で仕事を休んだ人間がいるのだが。
別にこのテカった額を持つ警備員に仕事をやめろと言われても辞めるつもりはない。最低限、半年間はしがみついてその後の生活をするための資金を貯めなければいけないのだ。そうでなくとも女の身体は金がかかる。まだ行っていないが、散髪だっていつもの1100エンでできる理容室ではダメだろう。美容院なんて入ったことがないのに。
それにしてもこの男の思考回路は不可解だ。先程元気に挨拶したのだから、この部屋に自分がいることを知っているはずなのである。なのに、女性を馬鹿にするような事を先程から平然とイシハラに向かって喋りまくっている。
イシハラも感覚が麻痺しているのか、こちらの存在には注意を払っていない。慣れとは実に怖いものだ。
そうこうしているうちにヤマノとマエダが帰ってきた。取ってきた数値を入力をするというので端末の前を代わる。午前中は特にほかに用事も無いので、一旦ハラダのいる西庁舎へと帰る事にした。
「カラスマさんって、係長と同じで毎日弁当なんすね。早起きして自分で作ってるんっすか?」
背の低いハシノが、大きな弁当箱を電子レンジから出してきたこちらに聞いてきた。
「そうですね。経済的ですし、栄養バランスも良いですから」
ハシノは表の弁当屋で買ってきたワンコイン弁当だ。それでも別に野菜も入っているし、栄養バランスが悪いというわけでもない。ただ、税込み550エンという事を考えるとやはりまだ割高感はある。
「偉いっすねぇ。うちの嫁さんは朝が弱くて弁当は無理だっていうし」
40代のハシノは結婚していて、高校生の娘もいる。元いた職場があまりにもブラックだったため、辞めて資格を取り、この会社に入ったのだ。
「奥さんは奥さんで大変でしょうからね。私のは、休日におかずを纏めて作って冷凍しているのでそこまで手間がかかっているわけじゃないんですよ」
料理は半分趣味のようなもので、別に休日に時間をかけて作ることは苦にもならない。なので手抜きでありながら結構なボリュームと品数の弁当が作れるのである。
「そうっすか。俺も挑戦してみようかなぁ」
「いいんじゃないですか?最初は凝ったものじゃなくても大丈夫ですよ、どうせ自分で食べるんですし」
最初は適当で良いのである。多少不味かろうが、自分で処理するのだから恥ずかしい事も何も無い。やっているうちに慣れてくるのだ。
ハシノとマエダは所謂氷河期世代と言われる人達だ。好景気の時代であればいくらでも良いところに就職出来たであろうが、二人共選ぶ余裕もなく入った企業が人を使い潰す所だったらしい。それで、年収の遥かに劣るこの地元の中小企業にやってきた、というわけだ。
彼らは別に誰かと比べて劣っている事もない。大卒な上に普通に仕事は出来るし、きちんと物事を考えて処理する能力を持っている。好景気の時代であれば、結構な企業にも就職できていた事だろう。だが、今はこのしがないビルメンテナンス業に就いて、少ない給料で細々と生きている。時代のせいとはいえ、あまりにも残酷だ。
笑顔でやってみるっすと笑う小柄なハシノに微笑み返して、こちらも弁当を片付けた。
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