第3話 理解者を増やす

 この身体になって二日目、現場では特に問題も無く、応援要員として勤めている。

 午前中は課長からも部長からも何も連絡は無く、マツバラ医師からも特に何か進展があったという報告は受けていない。そちらはまだ一日目だから当然だ。

 新人が二人もいるため、そちらに教えながらという事になる。初日は飛ばしていた日常点検に二人を連れている時、思わぬ問題が発覚した。

「相の変更はこのボタンですね。で、一つ一つ記録して」

 腕を上げては手元に戻す。そんな事をしていると、50代の二人の視線がどうにも胸元に集まっているのを自覚して具合が悪い。

「あの、ちゃんと見てます?」

「み、みてます!」

「あ、はい」

 どこを見ているのだ。視線が集まって仕方がない。早く覚えて貰わねば困るのである。

「……それじゃ、二人共交互にやってください」

 記入に使うタブレットを首から外し、ノッポのヤマノに渡す。タニグチは張り切って変電室の盤に表示されている数値を読み上げていった。

「うん、それはちょっとおかしいですね。それは最大デマンドです。大きすぎます。ああ、読み終わった後は元のレンジに戻して下さい。……レンジ?ええと、元の状態に戻しておいて下さい。次の人が読みやすいように。……あの、私の胸には書いていませんよ?」

 言われたことをただ進める朴訥なヤマノはそこまで問題ではないが、ふとっちょのタニグチはどうも意識散漫である。ヤマノと交代して言われた数字をタブレットに書き込んではいるものの、どうにもミスが目立つ。

 単なるミスであれば後で修正すれば良いのだが、現場で気付けば指摘せざるを得ない。故に遅々として進まない。

 結局普通にやっていれば30分で済む所を、1時間もかけてどうにか事務所へと戻ってきたのだった。

「ううん、何か気になる所でもありますか?」

 原因は散漫なタニグチの意識だ。間違いなくそれが原因で行ったり来たりを繰り返した。

「はい、カラスマさんのが気になって、どうしても」

 なんだそれは。人のせいか。自分の何が気になるというのだ。

「私の。何が気になるんです?」

「ええ……言って良いのかな」

 業務が滞るなら言わないとダメだろう。何が問題なのだ。

「言って下さい」

「はい。ぱつんぱつんの胸が気になります」

 ああ、そうか。きついもんなあ、作業服。でも、これはどうしようもないのだ。

「普通だったらセクハラって言われますよ」

「言えと言われたので」

 これを言ったのが若い女性だったらまだ良い。だが、言っているのは50代のデブなおっさんである。自分でなければセクハラだと騒ぎ立てている事だろう。

 しかし、あれだ。胸が気になって点検ができないとか、どんだけ注意力散漫なのだろうか。ヤマノはそんな事無く、淡々と進めているのだ。個人差があるにしても違いすぎる。

「それじゃ、明日から二人で回って下さい。私は待機していますので」

 妥当だろう。場所と取り方は覚えただろうし、これ以上ついていく意味はない。

「ええっ!?」

 ええっじゃない。当たり前だろう。というか、このおっさんは何を期待して点検しているのか。点検とはそういうものではない。見るのは女の胸ではなく、数値に異常がないかを調べる事なのだ。

 男まみれの業界では気付くことの無かった問題点が噴出している。というか、これは自分のせいなのだろうか。確かに自分が男のままであったなら問題にはならなかっただろうが……。

 その後も別の点検を回るたびに、どうにも視線が気になって仕方がない。早々に覚えてもらって、自分は別の仕事をしたほうが良いだろう。

 早起きして作ってきた弁当を昼に食べ終え、午後からの点検もどうにか終わってひと心地ついた頃、スマホに着信があった。上司であるイヅミ課長からだ。

 事務所を出て人気のない渡り廊下へと出る。画面をタップして、通話を開始する。

『カラスマ君、今、大丈夫かな。周りに人とかいない?』

 落ち着いた低い声が耳元のスピーカーから聞こえてくる。

『大丈夫です。何かありましたか?』

『ええと、君の勤務の件だけど……ごめん、人事課が身元のわからない人間を雇うのは無理だって』

 目の前が真っ暗になった。どういう事だ、身元がわからないって。従姉妹という事で押し通せないのだろうか。

『カラスマ君の従姉妹だって説明したんだけどね、身分証明書を持って来いと言われて……無理だよね』

 無理に決まっている。自分のいとことはもう十何年も連絡を取っていないし、そんな疎遠な親戚に『女体化したから困っているので名前を貸してくれ』などと言えるはずがない。

『無理ですね……それじゃ、私はどうなるんですか?クビですか?』

『いや、カラスマ君は一旦病気の為休職という扱いにする。面談は私と部長が行った事にして、最大で半年間は保険で賄えるはずだ。それで……君は、パートという扱いでそこで暫く働いてもらう』

 パートであればそこまで厳しい事は言われないのだろう。どうにか元の給料を支払えるようにしようと苦心してくれたのだろう事は想像がつく。しかし……それでは、半年後はどうなるのだ。

『それで、その。半年後、は』

『……それまでに戻れるよう祈っているよ』

 課長は通話を切った。無機質な音が耳元に鳴り響いている。

 理不尽だ。あまりにも理不尽すぎる。だが、課長の、人事課の言っている事は正しい。課長も部長も、それが分かっていてそれでもどうにかしようとした結果が半年間の猶予という事だ。本来なら、無断欠勤を理由に切られても仕方がないといえば仕方がないのである。

 期限は半年。それまでに、医者のマツバラから何らかのアクションがある事を期待するしかない……が、こんな前代未聞の症状、たった半年間でどうにか出来るものだろうか?正直なところ、期待するだけ無駄という気がしてならない。

 暗い顔を隠せぬままに事務所へと戻った。椅子に座り込み、今後どうすればよいかを只管考える。

 よくよく考えてみれば、今後、保険証も含めた自分の身元証明は一切が使えない事になる。運転免許証や個人識別カードの写真は別人だし、保険証が使えないのは昨日思い知ったばかりだ。持っている資格の免許証も、写真が入っていないものも全て生年月日が記されている。この容姿で32歳は流石に無理がある。

 今住んでいるワンルームもすぐに追い出される事は無いだろうが、当人以外が居住しているとバレれば追い出される可能性がある。金は払っていても、住んでいるのが別人の場合は契約違反になってしまうのだ。

 金、そう、金の問題もある。

 今はまだいい、半年間はパートの賃金と休職手当で、見かけ上は今までと変わらない収入がある。貯金もこの年齢にしては貯め込んでいる方だし、暫くは持つ。でも、それからは?

 身分証がなければ、そこいらのコンビニですら雇ってはくれないだろう。働けるとすれば、非合法な、人にはとても言えないような店でだけ。

 想像してぞっとした。確かにこの容姿であれば、身元を問わずに雇ってくれるはいくらでも見つかるだろう。だが、で男のモノを咥えこんでいる自分など。

 ぶんぶんと頭を振って悪い想像を追い出す。ダメだ。考えろ。まだ時間的猶予はある。最初から最悪の事を想定してどうなると言うのだ。

 まずは目の前に横たわる小さな問題からコツコツと解決していくしかない。もう、マツバラに頼るしか手がないのも事実なのである。

 頼る。頼る?そうだ、家族ならばどうだろうか。

 大学を卒業してからずっと一人暮らしをしているとは言え、父や弟妹とはワイアードで時々連絡を取り合っている。妹は遠く離れた所に嫁いでいるのでもう頼れないが、弟は比較的近くに所帯を持って生活している。

 絶賛子育て中の若い夫婦の所に転がり込むわけにはいかないが、相談すれば何かしら力になってくれる可能性はある。

 父は……どうだろうか。連絡は取っているものの反応は鈍いし、チャットソフトにも反応しない事が多い。母が亡くなってから自分と同じくずっと一人暮らしだが、まだ仕事を続けている。忙しいのだろうと思っていたが、どうだろうか。

 試しに家族のグループチャットを開いて打ち込んでみた。


『女になっちゃったんだけど』


 反応は無い。昼間なので弟も妹も父も仕事中だろうし、それは構わない。どういう反応が来るかわからないが、それ次第で考えよう。

 あとは……頼れそうなのは昔からの親友ぐらいしか思い浮かばない。だが、奴に頼るのは最後の最後だ。いくら親友とは言え、こんなとんでもない秘密をぶつけられても困るだけだろう。出来れば関係性を崩したくはない。

 男に戻ってから一緒に酒でも飲みながら、こんなことがあってさ、みたいに笑いながら話が出来るのが理想だ。

 定時が近づいたので、ロッカーに入って着替え……ようとして、新人二人が先に着替えているのに気がついた。流石に男の前で着替えるわけにはいかない。課長や部長のように、気がついて出ていってくれる程紳士的な人間ばかりではないのだ。仕方なく、事務所に戻ってきて座る。

 着替えも勤務時間に含まれている。故に、定時前に着替えるようにと自分が責任者の頃からそういう習慣づけをしていた。ハラダもそれに倣って同じようにしている。

 しかし、その時間は全員が同時に着替えられるという前提条件の時間である。案の定、庁舎に定時のチャイムが鳴り響き、着替え終わった新人二人はお疲れ様でしたと言って帰っていった。そこから仕方なく自分も着替え始める。

 何もかも、男性だけが居ることを想定したシステムだ。若い女性が入ってくる事など想定していなかったのである。

 胸がきつい作業服を脱いで、シャツと下着姿になる。下着。そう、男性用のトランクスのままだ。これは……人に見られたら少しまずい気がする。トイレも女子トイレを使うし、勘違いでもされては事だ。それに。

 シャツを押し上げている大きな膨らみを見た。当然、ノーブラである。

 ぱつんぱつんの厚手の作業服のせいであまり問題にはならなかったが、今着ているシャツからはうっすらと乳首が盛り上がっている。これは、なんだかまずい気がする。

 確かブラをつけないと垂れてくるだとか、揺れたり擦れたりして痛くなると聞いたことがある。つける必要があるだろうか。

 しかし、これは一体何カップぐらいあるのだろう。

 服の上から見ただけでも一般的なヒノモトの女性と比べて大きいというのは分かる。庁舎管理課のスメラギなどは、一児の母であるにも関わらず、比較的慎ましやかなのが服の上からでもわかってしまう。

 女医のマツバラはそこそこ大きかった。サイズで言えば彼女と同じぐらいだろうが、身長からの割合で見ると、こちらのほうが大きく見えてしまう。

 男の頃は胸は大きいほうが良いなどと単純に考えていたが、いざ自分がそうなってしまうと戸惑いを隠せない。困惑してしまう。

 着替え終わって、ハラダにお疲れ様ですと言って退出した。帰りに下着、買って帰ろう。


 近所のスーパーは比較的大きな店なので、食料品だけではなく日用雑貨品や下着なども取り扱っている。ブラジャーはあまりサイズが良くわからないので、置いてある中で大きめのものをカゴに入れた。ショーツのほうはそこまで大きさに気を使う必要がないだろう、と、これも適当なものを選ぶ。しかし、デザインがなんとなく野暮ったい。なんというか、オバサンっぽいのだ。

 だが、こんなものに金をかけている余裕などない。半年後はどうにかして食いつないでいく必要があるのだ。

 下着売り場を通り過ぎたところで、足を止めた。

 目の前の棚には生理用品が並んでいる。そうだ。生理は、どうなんだろうか。

 少なくとも性器が女性である以上は、来る、と考えておくべきだ。この肉体の年齢は10代後半から20代前半だと思われるので、一般的な女性であれば間違いなく来る。

 その時になってから慌てても仕方がない。これも買っておくべきだろう。しかし……。

 沢山並んだもののどれを選べば良いのか全くわからない。こういうのは何を基準に選ぶものなのだろうか。

 仕方なく、値段としては中ぐらいの、有名メーカーの品をカゴに入れた。あまり安くても具合が悪ければ困るだろうし、かといって高いのが良いのかどうかもわからない。ヒノモト人は中間を選びやすいのだ。

 服も休日に買い揃える必要がある。いつまでもサイズの合わない男性用のものを着ているわけにはいかない。いつ元に戻れるかすらわからないのだ。

 セルフレジで支払いを済ませて、大きな袋を抱えて店を出る。予想外の出費が続く。


 部屋に戻って荷物を置くと、スマホに通知が来ていた。チャットソフトのワイアードだ。

 アプリを起動して見ると、返信がついている。昼間に打ったグループチャットだ。


『お湯でもかぶってみたら?』


 妹からだった。完全に冗談だと思われている。まぁそうなるだろう。

 父と弟は見ているのだかみていないのだかわからない。見たとしても、妹がこう打ってきたからにはこれ以上反応はしないだろう。

 元よりチャットだけで信じてもらえるなどとは思っていない。いずれ実際に見て貰う必要があるだろう。果たして家族はこんな可愛い姿になった中年のおっさんを見て、どのような反応をするだろうか。

 買ってきた食材や飲み物を冷蔵庫に入れ、下着を取り出してタグを切る。見れば見るほど地味で野暮ったい。男性用よりはマシ、といったレベルだ。

 別に誰に見せるわけでもないのだが、なんだか無性に気になる。すぐにその理由に思い当たった。

 これだけ見た目が良いのに、オバサン下着を付けていることに違和感があるのだ。どう考えても似つかわしくない。

 しかし、これ以上の出費はどうするべきか。先を考えるとあまり無駄遣いしている余裕はない。

(服を買う時にまた考えるか)

 とりあえず後回しだ。悩んだ時は一旦時間を置く。急ぐ案件ではない。処理しなくても良い仕事もそうだ。無理に動くとあまり良い結果にならない事が多い。すぐに頭を切り替えて、筋トレをした後に風呂に入る事にした。


 風呂から上がって個人端末でいつものように動画サイト『サブウェイ』を開く。サブスクリプションで映画やアニメが見放題なので、コストの兼ね合いからこちらを利用する事が多い。個人で投稿されている動画の方はあまり見ない。時折料理の動画や可愛い動物の動画は見たりするが、それ以外のものはなんだか嘘くさかったり押し付けがましかったりで、すぐに動画を閉じてしまう事が多いのだ。最近は動物の動画ですらそう感じるようになってきた。

 画面の右側に広告バナーが出ている。『黄昏の王国 事前登録受付中』崩れた城のグラフィックの背後に、夕日だか朝日だかが見えている。開発会社はこの国でも比較的有名な、ユリア・エンターテイメントだ。据え置き機でもソーシャルゲームでも、結構なヒットを生み出している大きな企業である。

 ゲームに触れなくなってどれぐらい経つだろうか。学生の頃は良くスマホで遊んでいたが、仕事を始めてから時間が取れなくなり、デイリーミッションすら億劫になってしまったので、いつしか全く触らなくなった。据え置き機も同じである。

 買ってきた惣菜をレンジで温めて、度数の低い酒の350ミリリットル缶を開ける。小気味よい音をたてて、炭酸の音と甘い芳香が漂う。

 アルコールにはあまり強くないが、酒の味自体は好きなので、夜にはこうやって惣菜をつまみに一本呑んでから寝る、という事が習慣化している。

 そういえば、この動画サイトの月額もクレジットカードで支払っている。本人以外が使っているとバレたら止められてしまうだろうか。いや、本人なのだが、登録情報に誤りがあるとそれも契約違反だ。難儀な事である。

 銀行預金もそうだが、暗証番号を覚えているのですぐに使えなくなるという事は無い。それこそ余程の事でも無い限りは、口座やカードが止められてしまうという事も無いだろう。

 暫く好みの映画やアニメを探していたが、どうにも気が乗らなくなってきてブラウザを閉じた。原因は分かっている。付けている下着だ。

 サイズが合わないのか、少し苦しい。だぼだぼのシャツの首元から中を覗くと、はみ出た肉がこれでもかと谷間を主張している。

 着け方はあっているはずなのだが、どうやら小さすぎたようだ。見た目では判断できないという所が面倒くさい。これは、実際に採寸してもらわないと無理なのかもしれない。

 流石にこれでは寝るに寝られないので、背中に手を回してブラを外した。解き放たれた胸肉が、ほっとしたように服の中でぷるんと揺れる。

 ショーツの方は特に問題はない。だが、やはり人に見せるようなものではないように感じる。休日に服と一緒に買ってくるべきだろう。そういえば、洗濯ネットも買わなければいけない。普通に洗濯機で洗えないのは妹や母のものを洗っていたので良く分かっている。女というものは、男より何かと金のかかるものだとしみじみ思った。



 朝、いつもの出勤時間よりも少し早い時間に事務所にやってくると、新人のヤマノがデスクに座って受話器を持っていた。こちらを見ると、安堵の表情を浮かべて受話器を置く。

「おはようございます、カラスマさん。朝来たら、端末から警報が鳴っていて……どうしたら良いのかと」

 音は止まっているが、中央監視システムの画面を見る。なるほど、確かに警報が出ている。

 画面を操作して履歴を見ると、どうやら分庁舎の地下にある雑用水の処理装置でトラブルが発生しているようだ。工程不備か何かだろうか。

「大丈夫ですよ、急ぐものではないので。着替えたら私が見に行って来ますので、ヤマノさんはいつもの通り、定刻の仕事をしていて下さい」

 分庁舎にいる作業員は、警報の内容を見に行っているのだろう。責任者のハラダはまだ来ていないし、複雑なパネルのついている装置の復旧は、今日あちらに来ている彼では無理かもしれない。

 ロッカールームに入り、手早く着替える。早めに来たのは他の人と着替えが重なっては困るからだ。

 ブラジャーは、仕方がないのできついものをそのままつけてきた。何も無いよりはマシだろうという判断だが、やはり苦しい。早めに買い換えるべきだろう。さっさと作業服に着替え、ぱつんぱつんの前をボタンで止める。ブラで締め付けているせいか、昨日よりはぱつんぱつん過ぎるという事はなくなった。名札を首から下げて、そのまま事務所を出た。


 通りを横切って分庁舎に向かう。この時間は東側の通用口しか開いていないので足早にそちらへと向かう。

 途中にある地下駐輪場の入口前で、立哨している委託警備員のハヤシダと目があった。

「おはようございます」

「おはようございます!」

 うるさいぐらいの声で挨拶を返してくる。別段これは悪い事ではない。元気に挨拶するのは良い事だ。うるさいだけで。

 通り過ぎた後も、駐輪場に入ってくる職員全てに彼は挨拶をしている。心なしか自分に対してよりは声が小さい気がするが、どうでも良い。

 窓口に座っていた警備の二人に挨拶をしつつ、小走りに防災センターへ駆け込むと、やはりいるはずの作業員はいなかった。恐らく地下にいるのだ。

 作業途中の記録用タブレットが端末の前に置きっぱなしになっており、取ってきたらしい電力量の記録は、入力途中で放置されている。このままだと入力し忘れの恐れがあるので、こちらで入力して、上書き保存してファイルを閉じた。

 地下の機械室は常に施錠されている。作業員は鍵を持っていっているであろうが、念の為机の裏に置いてあるキーボックスを確認する。そういえば、そろそろエレベーターを起動する時間だ。これも遅れてはまずいので、ボックスからエレベーター起動用のキーを取り出し、背後の操作盤で動かしておく。これで良し。

 もう一度しゃがみこんでキーボックスを覗く。エレベーターの鍵は戻して、指を伸ばして地下の鍵を探す。こちらのボックスは久しぶりなのでどこにかけてあるのか忘れているのだ。

「いやぁ!でかいね!」

 特徴のある大声が入口の方から聞こえた。ハヤシダが立哨を交代して戻ってきたのだ。

「でかい?何が?」

「胸だよ胸!おっぱい!」

 入口からは机の裏にしゃがみこんだこちらが見えなかったようだ。女性がいる部屋の中でそんな事を大声で言えば、間違いなくセクシャルハラスメントにあたる。尤も、彼にその意識があるかどうかは疑問ではあるが。

「イトコちゃんな!イトコちゃん!朝から良いもん見れたわ!こう、走ってるとぶるんぶるんってな!」

 イトコちゃん……ああ、多分自分の事だ。従姉妹です、と言った記憶がある。

 受付にいる二人はここに自分が居ることを知っているはずだが、彼の暴言を止めようともしない。言葉を遮れば彼が機嫌を悪くするからだ。ハヤシダは昼の責任者的な立場にあるのである。

「スメラギさんはこう、なんというか、板だろ?いやあ、やっぱり女の子はでかいに限る!男もでかいに限る!あ、俺もまだまだ元気だけどな!」

 実にどうでも良い。それよりは警報の対処が先である。指先を滑らせて鍵を見ると、やはり地下の機械室の鍵は持って出ているようだ。『マエダ』と書かれたマグネットプレートが鍵のあった場所に貼られている。

 そうとなれば後から追いかけるだけだ。すっと立ち上がり、受付に座っている警備員の方を見ずに外に出た。反応する必要も無いし、されても困るだろう。

 エレベーターで地下二階まで降りて、飾り気のない廊下を足早に進む。ぶるんぶるん、か。確かに揺れている。ブラをしていてもこれなのだから、ノーブラだった昨日までは一体どれぐらい揺れていたのだろうか。

 コの字になった廊下の丁度中央辺りで、機械室の扉を開けて中に入る。階段の上から見ると、処理装置の操作パネルの前に立っているマエダの姿が見えた。

「マエダさん、おはようございます。どういう警報ですか?」

 近寄って話しかける。眼鏡をかけたひょろりとした線の細い男性で、頭は良いが少し身体の弱い人だ。

「ああ、カラスマさん、おはようございます。第一工程不備って出てますね。これ、リセットしていいんですか?」

 第一工程は再生化処理である。塩化ナトリウムを溶かした水で、イオンの再生化を行う工程であり、処理薬剤の効力を高めるために必要な処理だ。

「ああ、多分前回の塩投入の時、撹拌を忘れたか何かでしょう。ええと、リセットは待って下さい」

 再生水の給水バルブを手動にして、塩化ナトリウムの投入容器に水を入れる。奥のタンクでどばどばという水音が聞こえ始めた。

「マエダさん、こっち来て下さい」

 容器の側まで彼を連れてきて。勢いよく水の入ってきているタンクの中を見せる。

「これ、あそこのラインまで水が入ったら、さっきの手動を自動に切り替えて下さい。午後からでも塩化ナトリウムを投入して、今度は間違いなく撹拌スイッチを入れて下さいね。工程は一旦飛ばしておくので、その操作だけで大丈夫です」

 再生処理は一旦飛ばさないともう仕方がない。次から正常に動けばまぁ、問題ないレベルではある。

「わかりました。ありがとうございます。それにしても、来て三日目なのに良くご存知ですね」

「ああ、まぁ、聞いて知っていましたから」

 聞いてどうにかなるレベルではないが、マエダはそうですかと安心したように微笑んだ。

 鍵は彼が持っているので、あとはお願いしますと言って機械室を出た。東側から出るとまたハヤシダと顔を合わせることになるので、先ほど自分が動かしたエレベーターに乗って、中央南にある出入口から分庁舎を出て、西庁舎へと戻った。


「ハラダさん、あのハヤシダって人、なんとかなりませんか?」

 昼食を摂るために西庁舎へと戻ってきたベテランの一人、背の低い短髪の男、ハシノが、開口一番にそう言った。

「え?またなんか言われたんですか、ハシノさん」

 ハラダはまた、と言った。そう、あの委託警備のハヤシダはトラブルメーカーなのだ。表面上は愛想良くしているが、その思考パターンと言動の旧さから、職員や他の作業員からもすこぶる評判が悪い。

「いや、私が言われたわけじゃないんですけどね」

 彼はちらりとこちらを見た。

「気分悪いんすよ。いつものあっちの人に対するパワハラもそうですけど、ここ数日はカラスマさんの事ばっかりで」

 ははあ、朝言っていたアレをまだ続けているのだ。自分はどんだけ気に入られたんだ。

「カラスマさんのって……ああ」

 察したようにハラダもこっちを見た。

「あれですか、その、胸がどうとか」

 自分から言うと、ハラダもハシノもきまりが悪そうに頭を掻いた。

「ええ、まぁ。ていうか、いくら本人がいなくても、会社の同僚が同じ部屋にいるのに、おかしくないっすか?あの人。カラスマさんの耳に入るかもとか考えないんですかね?」

 考えないのだろう。男が女に告げ口するわけがないと思い込んでいるのだ。

「考えてないでしょうねえ。というか、今朝、私が部屋にいるのを気付かずにその話してましたよ、あの人」

 そう言うとその場の全員が凍りついた。

「……大丈夫ですか?カラスマさん、その」

「大丈夫ですよ、慣れてますので。ああいう頭の中がシュウワで止まっている人には何を言っても無駄です。私の事は気にせずに、スルーして下さい」

 無駄なのである。あの歳までああやって生きてきたのだ。もう変えられない。

「そうっすか……いや、でも気分は悪いっすよ」

 普通はそう思う。堂々とセクハラまがい、いや、セクハラそのものの話をされて平然としていられる人間なんて、今の時代はごく少数なのだ。ハシノのような反応が当然なのである。

「ハラダさん、スメラギさんにそれとなくその話を……いや、これは私からの方が良いですか。スメラギさんに、こういった事がありましたって報告しておきます。まぁ、穏便に済ませるようには言っておきますが」

 若い男の口から、こちらの胸がどうこうという話を女性にするのは問題がある。これは自分から言うべきだろう。

 一応はそれで納得したのか、彼らもほっとしたように息を吐いた。なんとも面倒くさい話である。

 昼休憩の時間になったので、持ってきた弁当を速やかに平らげ、机の上に胸を乗せて肘をつく。この身体になって学習したのだが、この体勢が実に楽なのだ。

 机の上に乗せておけばその重量を気にせずに済むし、腕が痺れる事も無い。若干寝るには良くない体勢だが、楽さには代えられない。

 欲を言えば横になりたいところだが、まさか床に寝っ転がって昼寝をするわけにもいかない。男性まみれの中でそんな事をすれば顰蹙を買ってしまう。

 午後からのことは一旦忘れて目を閉じた。


 事務所内の内線電話で庁舎管理課のスメラギを呼び出し、お伝えしたい事があるのでと一声かけてから本庁舎の執務室を訪れた。

 スメラギは衝立の奥にある打ち合わせスペースにこちらを案内し、パイプ椅子に腰掛けた。

「ええと、私自身はどうでも良いのですが、同僚が気分を悪くしていまして」

 前置きとしてそう言うと、今朝あったことと、ハシノが言っていた事を説明した。話を進めるうち、スメラギの目がどんどんつり上がっていく。

「なんですかそれ。いくらなんでも最低すぎませんか?」

 特にスメラギを板だと言ったのを伝えた時に、彼女は目に見えて怒りを露わにしていた。

「直接面と向かって言われたわけではないのです。なので、エンドウさんにそれとなく言って頂けると」

 エンドウとは、委託警備会社の現場総責任者である。腰の低い、いかにもサラリーマン風の男だが、それ故にあまり現場に強く口出しはしていないように見受けられる。

「カラスマさんの件だけじゃないんですけど、他の職員からの苦情もエンドウさんには言ったんです。でも、全然改善されてないみたいですね!」

 良くある話だ。現場の声の大きいものに強く出られないマネージャー。結果、現場はその声の大きいものの独壇場になる。

 あの会社は他を寄せ付けない低価格で委託警備業を落札して、もう何十年もここに居座っている。ハヤシダはその中で生まれた、常に居座る魔物のような存在なのだ。

「係長に相談します。一度会社に強く言わないと効かないみたいですね!ほんとに、もう!以前からこうでしたが、カラスマさんみたいな若い子にまで!」

 憤懣遣る方無しのスメラギは収まらない。それはそうだろう。若い娘と引き合いに出された上に、板とまで言われたのだ。怒って当然である。

「穏便にお願いしますね。あまり警備とうちの関係が悪くなっても困りますので……」

「安心して下さい!キナイさんからとは言いませんので!」

 いや、ああいった手合いは逆恨みをし易いのである。話が漏れたと分かった場合、必ずマエダやハシノが疑われる。あの男はそういった疑惑を態度に出すタイプなので、彼らが被害を被っては困るのだ。

 警備や清掃と、自分達のような設備管理は距離的にかなり近しい。

 業務で被る部分が多いのもそうだが、大抵のビルメンテナンス会社は清掃や警備も同時に抱えている事が多い。要は、清掃も警備も建物管理の一環なのである。

 故に、殆どの現場では別会社でも警備や清掃と仲良くやろうと努力している。そうでないと、お互いが融通を効かせる事もあるが故にスムーズに仕事が進まないのだ。

 便所が詰まれば清掃で処理するが、手に負えなくなれば設備に話が回ってくる。

 警備が建物の不具合を見つければ設備に話を持ってくるし、お互いの領分が被る所が多いのだ。

「そうですね、職員が耳にしたという事で苦情を入れます。職員だって、受付で女性の胸の話をべらべらとされたら気分が悪いですから」

「そうですか、ありがとうございます」

 職員からの苦情ということであれば、こちらに累が及ぶ事は無いだろう。あの男は誰が告げ口したかとあれこれ邪推するだろうが、大量にいるヤマシロ市役所職員を特定することは不可能だ。朝のあの時間はものすごい数の職員がやってくるのである。

 丁寧にこちらの意図を汲んで対応してくれたスメラギに感謝の意を伝えて、西庁舎にある事務所に戻った。

 戻ってくると、ハラダと共にイヅミ課長が自分を待っていた。申し訳無さそうに、契約書の入った封筒を手渡してくる。

「すまんな、カラスマ君」

「仕方がないです。無理な中のご配慮、感謝しています」

 契約書はパートタイムの雇用契約書だ。身分証が無い以上契約社員としても無理なので、こうなるのは仕方がない。本来はこれだって難しい話なのだが、恐らく無理矢理にでも通してくれたのだろう。

 契約書の内容を確認して、署名して判を押す。時間給ではあるが、計算すれば正社員だった今までと変わらない。パートタイムとしては破格の時給だ。ぶっちゃけ休業手当と合わせれば、今までよりも手取りは遥かに多い。

 男のままであればずっと勤める予定だったため、退職金の代わりという事だろう。そう見れば明らかに少ないが、文句の言える立場ではない。理不尽なのは理不尽だが、会社には何の落ち度も無いのだ。

 会社控えの方を千切って封筒に入れ直し、イヅミ課長に返す。嫌も応もない。こうするしか道がないのだ。

 これでタイムリミットは切られたも同然だ。半年。半年でどうにかなるか。ならない方の確率が高いだろう。今後の事を考えながら、点検記録用のタブレットを首からかけた。



『週末、時間あるか?』

『日曜の昼なら』

『ちょっとそっち行くわ』

『どっかで飲む?』

『いや、話だけだから』

『わかった、着いたらワイアー頂戴』


 父にも連絡したが、何も反応がなかった。電話をかけてもみたものの、折り返しもかかってこない。相変わらず反応が鈍い。故に、弟にワイアードで連絡を取ったのだった。

 兄弟仲は悪くない。たまに弟の家には遊びに行くし、甥っ子も姪っ子も良く自分に懐いている。だが、伯父さんが突然伯母さんになったらどう思うだろうか。しかも、自分の母親よりも若い姿で。

 まだ姪は6歳、甥は4歳だ。そこまで分別のつく歳ではないので、顔を見せるかどうかは悩む。いっそ別人として会ったほうがマシではないかと思う。

 家族には、親族には最低限今の状態を認知しておいてもらう必要がある。何かあった時に頼れるのはもう家族しかいない。

 迷惑をかける事は避けたい。だが、事実を知らせるのも家族としての責任だろう。

 飲み終わった酒の缶を洗ってつぶし、資源ごみの箱の中へ放り込む。缶ビンペットボトルは纏めて出すが、そもそも消費する量が少ないので、一月に一度出すかどうかだ。現に半月近く前に交換した袋も、20リットルのうちまだ三分の一も埋まっていない。

 気の所為だろうが、この身体になってからあまり酔いを感じなくなった。とは言え酒の量を増やそうとは思わない。飲みすぎて翌日に辛い思いをするのはもう沢山だ。

 明日は少し足を伸ばして買い物をする。明後日は弟家族に会う。一つのターニングポイントだろう。

 隅々まで歯を磨いてフロスもかけると、さっさと照明を落としてベッドに潜り込んだ。



 翌日、いつもの地下鉄を南北線との連絡駅まで乗り、そこから南へ向かう電車へと乗り換えた。市役所近辺も繁華街なのでそちらに行っても良いのだが、基本的にあちらはブランド物ばかりの高級店が多い。自分には安物の量販店で十分だ。

 行く先はヤマシロ県の玄関口、東西道本線も乗り入れるヤマシロ駅である。

 近頃開発の進んできた駅の南側には百貨店やショッピングモールがある。ショッピングモールには映画館も併設されている為、サブスクではなく直接新作映画を見たい時にも良く訪れていた。

 最近はあまり見たい映画が無いので足が遠のいていたが、ショッピングモールには衣料品の量販店も入っており、今日はそこを目的地としている。

 休日なので人が多い。南向きは然程でもないが、駅から降りると大量の外国人が向かいのホームに並んでいる。これから中心部に向けて観光に行くのだろう。

 この街で産まれ育った為今ひとつピンとこないのだが、このヤマシロ県は古い寺社仏閣が多いため、ヒノモト有数の観光地になっている。最近は通貨安も相俟って、洋の東西を問わず沢山の外国人が観光に来るのだ。

 昔は色々と問題も多かったが、各地で観光対策の整備が進み、マナーの悪い観光客も減ったので、自分の周辺ではそこまで鬱陶しく感じるような事はなくなった。

 金を落としてくれるのであれば別に問題はなかろうと、個人的には鷹揚に構えている。ただ、バスは利用しなくなった。

 大きな荷物を持った観光客が乗り込んでくるので、バスで移動しようと思うと凄まじいストレスがかかる。故に、移動は専らこの地下鉄と各種の電車だ。

 駅を南側に出る。よく晴れた春の日差しは温かく、今のシャツ姿でも何ら問題にはならない。時期が良くて助かった。

 信号を渡って、大きなホテルが立ち並ぶ通りを西へと歩く。すぐに巨大なショッピングモールが見えてきた。

 モールの前、北側は車道にも関わらず、歩行者天国さながらに歩行者が横断歩道の位置を無視して行き交っている。車の方も承知したもので、一台たりともその道の方に入って行こうとしない。どうせそちらに向かっても大きな通りに出るだけで、車通りが多いため中々出られないのだ。

 一応は横断歩道があるのだから、と、自分はその上を渡る。別に遵法意識が強いわけではない。ただの拘りのようなものだ。

 綺麗に映画の広告がラッピングされた大階段の脇、エスカレーターに乗って上を目指す。真っ先に向かうのは衣料量販店だ。

 モールの中でもかなりの区画を占めているその店は、海外にも展開しているヒノモト発、衣料品販売業の雄である。一時期人権侵害や労働環境の悪さから叩かれたことはあったが、持ち前の体力、つまり資本力でそれを跳ね飛ばして、未だに躍進を続けている。

 店舗に入っていつものように男性用に向かおうとして、足を止めた。

(癖って恐ろしいもんだなぁ)

 いつも来る時は、男性用のパンツ、上着、下着や靴下を巡ってからレジに行く。今はそちらには用がない。

 踵を返して女性用の区画へと向かう。春先に似つかわしい、淡い色をしたシンプルなデザインの衣料品がずらりと並ぶ。

 サイズは適当で、と思ったが、ブラジャーの件を思い出して慎重に選ぶ事にした、男と違ってちんちくりんだったりぶかぶかだったりすると非常に格好が悪い。

 身長を参考にして慎重に選ぶ。シャレではないが、特に伸縮性には気を使う。胸がでかいのだ。

 ぴちぴちだとなんかいやらしいが、だぼだぼのものを買うわけにもいかない。あまり薄手のものは問題があるが、これから暖かくなるのだから長く着るには厚手のものは避けたい。

 あれこれ悩んだ挙げ句に淡い色のシャツとブラウスを何枚かと、スリムなパンツを二枚購入する事にした。流石にスカートを履く勇気はまだ無い。

 靴下もいつも履いている男性用の黒いものはまずかろうと、女性用のものを数点カゴに入れる。そして、下着売り場の前で止まった。

 スーパーで売っていたものよりはマシだ。これを履いても多分問題はないだろう。だが……。

 散々悩んだ挙げ句、そのままセルフレジにカゴを持ち込んだ。総額2万7千エン。高い。量販店なのに一式買うとこんなにするのか。

 二本のパンツは裾直しをお願いして、引換証を貰って店を出た。休日なので時間がかかるらしく、二時間待ちである。

 ふらふらと歩いて近くのエスカレーターを降り、別館へ向かう途中にいつも通り過ぎるだけだった店の前で立ち止まる。

 店のウィンドウにはマネキンに着せられた女性用の下着。明るい色のそれは細部に凝ったデザインをしており、見るからに可愛らしく、色っぽい。

 葛藤した。果たして自分がこのような店に入って良いものだろうか。変態だと思われないだろうか。

 しかし、今の自分は見るも可憐な年頃の女の子だ。問題はあるまい。というか、量販店で下着を買っていないのだ。最初からここに来るつもりだったのである。

 吸い寄せられるように自動ドアをくぐった。いらっしゃいませー、と明るい女性店員の声が聞こえる。

 眩しい。まるで宝石の中にいるようで、目のやり場に困る。

 シンプルなデザインのものは殆ど無く、どれもこれも華やかだったり透けていたり、穴が空いていたりするものまである。いや、流石にこれはちょっと。

 若干引いていると、背の低い女性の店員がやってきた。服の間からこれでもかと見せブラが覗いている。

「お探しのものはありますか?」

 どれが良いのかわからない、と言いそうになって、それよりは適切な言葉があったのを思い出した。

「あの、すみません。採寸してもらって良いですか?合わなくなっちゃってきて」

 合わなくなってきた。実に素晴らしい言い訳だ。これにより自分のサイズを自然と獲得できて、しかもどれが良いかと相談も出来るだろう。我ながら賢い。自分を褒めてやりたい。

 店員はにっこりと営業スマイルを見せると、採寸をするための試着室のような所へ案内してくれた。薄手のシャツなので、そのまま両腕を持ち上げてサイズを計ってもらう。

「スタイル良いですねぇ。モデルさんか何かですか?」

「いえ……」

 男です、とは言えない。どう見ても男には見えない。

 言葉を濁していると勝手に勘違いした店員は、このサイズでしたらあれがおすすめですよとか、こちらが人気の商品でとか色々と勧めてくる。仕方がないので自分が良さそうだと思ったのを、上下セットで三つ、合計六点購入することにした。


「はぁ……」

 ありがとうございましたーという明るい声を背に店を出るなり、溜息が出た。

 高い。下着だけで、さっきの量販店の衣類全部合わせたものの倍ぐらい取られた。

 専門店なので仕方がないとはいえ、世の女性はこんなに高いものを身に着けているのか、勿体ないにも程があるだろう。

 いや、殆どの人は量販店で見たような安いものを着けているのだろう。この領域に踏み込んだ自分が愚かだっただけだ。分不相応にも程がある。

 とは言うものの、買った下着は中々良さそうだった。値段相応のものなのかもしれない。自分が先程の下着を着けた所を想像して、少しだけ頬が緩んだ。何を考えているんだ、変態か自分は。

 今日一日で随分と浪費してしまった。目的はこれで終わりだ。さっさと帰ろう。

 いや、ダメだ。裾直しがまだではないか。うっかりと出直す羽目になる所だった。動揺が激しい。

 時刻は11時。昼には少し早いが、どこかで食事でもすれば丁度良い時間になりそうだ。あまり浪費を続けるのも問題だろうが仕方がない。というか、腹が減って仕方がない。

 朝食は納豆ご飯とわかめのスープできちんと摂ってきたのだが、何故か猛烈に腹が減っている。そういえば、仕事をしている時にいつも作って持っていく弁当では足りない事が多かった。この身体になって食欲が増しているのか。

 折角スタイルの良い体型なのだから、あまり食べすぎて太るのも勿体ない。ただ、それを吹き飛ばす程の食欲が身体を勝手に突き動かしている。

 エスカレーターに乗って四階に上がる。レストラン街からは、食欲を更に刺激する香りがそこかしこから漂ってくる。だめだ、これはいけない。

 このレストラン街は、一部の店以外は観光客向けに高額な所が多い。そんな所でこの食欲を満たそうと思えば、一体いくら使ってしまうのか、怖くてとても入る気にはなれない。

 ここはフードコートで我慢すべきだ。家族向けの良心的な価格。チェーン店しか入っていないので値段の割に量も多い。味はまあ、二の次だ。

 どれにするか。ぐるりと見渡す。ラーメン、揚げたこ焼き、チキンにステーキ、ちゃんぽんにうどん、カレーもある。

 腹が鳴る。いかん、どれも美味そうに思えてくる。空腹は最大の調味料というが、この欲望に身を任せてはきっと大変な事になる。

 可能な限り腹にたまるものを、と思って、カレーライスにした、我が国の誇る外来改造料理、国民的大好物の最もメジャーな食べ物だ。

 抑制しようと思ったのだが、口が勝手に増量を希望した。重厚感のある揚げ物をトッピングにして、特盛りと言って差し支えない量を注文する。

 これはご褒美だ。買いにくい下着を頑張って買った自分へのご褒美。

 安っぽいスプーンを握りしめて飯とルーを同時に掬っては口に運ぶ。至福の時間。

 三分の二ほどを片付けた頃、テーブルの脇に二人の少年が立った。少年だ。高校生ぐらいに見える。

「君、一人?良かったら俺達と遊ばない?」

 立派な社会人に何を言うのだ。ガキは家に帰ってママの……いや。

「買い物が終わったら帰るので、ごめんなさい」

 子供相手にムキになるのは大人気ない。やんわりと断っておけば良いだろう。それよりも今はカレーである。食うそばから食欲を刺激して腹の減るこの料理は、何と罪深い食べ物であろうか。

「一人なんでしょ?どこのガッコ?」

 うるさいな。こっちが学生に見えるのか。学生時代はもう10年も前に終わっているのだ。

「私は社会人です。君たちこそ、どこの学校?この近くだとジョウナンかトバかな」

 学校に言うぞ、と脅したつもりだったのだが、何を勘違いしたのか高校生は嬉しそうに喋り始めた。

「そうそう!俺達、ジョウナン!」

「社会人?年上だったんだ。いいじゃん、歳はそんな変わんないでしょ?」

 ジョウナンはこの辺りでは有名な進学校だ。毎年結構な偏差値の大学に学生を送り出している。この学生たちもそれを知っているから、このように自信満々にナンパしているのだろう。

「進学校の生徒がこんな所で遊んでいて良いんですか。ナンパなら他を当たって下さい」

 明確に断りの言葉を口にする。10年早い。しかし、このジョウナン生達は食い下がる。

「息抜きだよ、息抜き。勉強ばっかりじゃ頭の回転が鈍くなるからさ」

「そこのゲーセンでちょっと遊ぼうよ。ちょっとぐらい、いいでしょ?」

 美味しいカレーが味気なくなった。最後の一匙を掬って口に入れ、紙コップの水をごくごくと飲み下す。

 付き纏ってくる高校生二人を無視して、トレーをカレー屋に返してごちそうさまでしたと声をかける。もうそろそろ良い時間だろう。裾直しの終わったパンツを受け取って、帰って部屋の掃除でもしなければ。

 下りのエスカレーターに乗ろうとした時、高校生の片割れが目の前に立ちふさがった。

「ね、お願い!一回だけで良いからさ!」

 一回って、何が一回なのだ。ゲーム一回ってことか。最近はアーケードゲームなど全く触っていない。立ち寄らなくなって久しい。クレーンゲームでも一回やればそれで満足なのか。

 これみよがしに息を吐く。若人ならではの無鉄砲さは厄介だ。

「わかりました。一回だけですよ」

 二人はやった!と歓声を上げた。ゲーム一回するだけで、何をそんなに喜ぶ事があるのだろうか。ナンパ童貞だとしても馬鹿馬鹿しすぎる。

 仕方無く踵を返してゲームコーナーの方へ向かう。並んできた片割れが近寄って腕に触ってきた。

「荷物、重いでしょ?持ってあげるよ」

「いえ、大丈夫です。そんなに重くないので」

 衣類である。そんなに重いわけがない。しかし高校生はいいからいいからと言ってこちらから手提げを奪い取ろうとする。手が外れ、支えを失った袋は物理法則に従って、地面に横倒しになって落ちた。

「あっ、ごめんごめん」

 袋からは先程買った下着の袋が顔を見せている。拾い上げた少年は、その袋に印刷してあるロゴを見て露骨ににやけた。

「これ、二階の下着屋さんの?エロいのが一杯あるけど、へぇ、ああいうの着けるんだ」

 仕事だったら間違いなくセクハラとされる言動である。社会の洗礼を受けていない学生とはいえ、ちょっとひどい。

 ただ、反応しても股間に素直な彼らを喜ばせるだけだろう。黙って手提げを拾い、こぼれ落ちた下着の袋を中に入れた。

「そっかぁ、社会人だもんなぁ。そりゃ、そういう下着も着けるよな。ねえ、休日に一人ってことは、彼氏とかいないんだよね」

 うるさいな。いるわけがないだろう。男なんだぞ。しかし反応はしない。一回だけ、クレーンゲームでもやればそれで終わりなのだ。

「無視しないでよ。てことは、いないんだ。そんな下着着けてるのに」

 下着のデザインで男が居るかどうかなんてのは全く関係のない事だ。因果関係も無いし、関連性があるというのであれば明確な統計資料でも持って来い。

 居並ぶゲームのエリアを進む。時間のかかるビデオゲームなんて以ての外だ。さっさと終わる、一瞬で終わるものを。

 見つけた。

「これにしましょうか」

 立ち止まったのは大昔から存在するレトロなゲーム。バッグを殴ってその力を競うだけという、単純かつ明瞭なゲーム。パンチングマシーンである。

 こちらの見た目に似つかわしくない選択に、若干学生たちは躊躇した。しかしすぐに、男女の力の差を思い出して騒ぎ出す。

「いいよ、やろうやろう。ね、何か賭ける?」

「俺達どっちかにでも勝ったら、なんでも言うこと聞くよ。そっちも同じで良い?良いよね」

 良いわけがないだろう。女が何でも言うことを聞く、なんて軽々しく口にするはずがない。言ったが最後、何をされるものだか分かったものではない。

「女性に腕力で勝ってなんでも言うことを聞かせるって、言ってて恥ずかしくないんですか」

 調子に乗りすぎだ。若気の至りだとしても限度というものがある。

「いいじゃん。それならさ、君が負けたらもう一回、何か別のゲームしようよ。ね、それで良いでしょ?決まり決まり」

 勝手に決めた片割れは、薄っぺらい財布を取り出して中からコインを取り出して機械に投入すると、付属のグローブを手にはめた。

「おらっ!メガトンパンチ!」

 彼は情けない名前を叫んで殴った。バタンとバッグが倒れ、デジタル表示が赤く輝く。98。

「あー、100いかなかったかぁ。ちょっと調子悪いな」

 男子学生としてはさほど大きな数字ではない。進学校だけあって、別に鍛えているというわけではないようだ。

「だっせぇな。見てろよ」

 もう片方がグローブを嵌め、先程よりは腰の入ったパンチを繰り出す。106。並である。

「どうよ!俺の勝ちだな!次、彼女と遊ぶの俺な!」

 彼らの間で勝手に何か決め事が出来ているが、どうでも良い。100エンで三回出来る最後の一回に、自分がグローブを嵌めて機械の前に立つ。

「無理しないでね、腕、痛くなっちゃうから」

「そうそう、まだ時間あるし、怪我したら勿体ないよ」

 完全に勝ったつもりのジョウナン生達を尻目に、拳を軽く握り、引く。脇を引き絞り、全身に捻りを加えて力を伝達させ、全力で拳を放った。

 インパクトの瞬間に握りしめた鉄拳が、グローブを通して激しい音と共にバッグを機械に叩きつける。反動で跳ね上がったバッグが振動し、周辺に破裂音の様な音が響いた。

 表示された数字は223。自分でも驚いたが、これはかなり鍛えている成人男性レベルの数字だ。男の頃でもこんな数字は出したことがない。

「私の勝ちみたいですね。それじゃ」

 呆気にとられて立ち尽くす学生たちを放置して、近くのエレベーターに向かう。

 正直言って驚いた。

 この身体になってから衰えたと思っていた筋力は、毎日の筋力トレーニングで飛躍的に伸びている。それはすぐに実感していた。

 しかし、僅か数日である。こんなに極端に変わるものだろうか。たった一日二日で目に見えて力がつく、なんてのはありえない。普通は徐々に徐々に筋肥大することで力が増していくものなのだ。

 シャツから出ている自分の腕を見た。細い。格闘家のような鋼の筋肉とは全然違う、どうみてもか弱い女の腕だ。一体どこからあの力が湧いてきたのだろうか。

 エレベーターで三階に降り、パンツを受け取って引き返す。荷物は軽い。衣料品一式程度なら当然だ。だが、それは男の基準である。

 この細い腕で持っていても、男の頃と同じように、いや、それよりも遥かに軽く感じられる。一体この身体はどうなっているのだろうか。



 疑問点はあったものの、暫くそれは棚上げしておく。力が強くて困る事は無いし、漫画やアニメのように力が強すぎて物を壊すなんてこともない。卵だって普通に割れるし、グラスを持っても割る事など無い。

 いつものようにさして広くない部屋に掃除機をかけ、夕食の下ごしらえをして端末のデスクについた。なんとなくブラウザを開いて、トップに表示されているニュースを流し見する。

 あまり明るいニュースは無い。隣国との関係は相変わらず悪いし、欧州の火薬庫では終わらない戦争が続いている。ヒノモトは平和だが、平和というのは基本的に薄氷の上に立っているものだ。この国だって一旦火が付けばどうなるかは分からない。

 それこそ宇宙人の襲来だとか、人類総出でかからなければ解決しない喫緊の問題でも出てこない限りは、国家同士というのは簡単には纏まらないものだろう。

 ブラウザを一旦閉じて、風呂に入ろうと服を脱ぐ。そういえば、買ってきた服を出していなかった。

 紙袋から買ってきた服を取り出してタグを切る。成形用の紙を取り外して、畳んでケースに仕舞った。

 家にいる間はこのだぼだぼのシャツとハーフパンツで良い。誰に見られるわけでもないのだ。ただ、下着は……。

 ちらりとあのロゴが入った袋を見た。風呂上がりならブラジャーはいらないだろう。酒を飲んで食事をしたら、あとは寝るだけだ。寝る時にブラジャーを着けるのかどうかは知らないが、何となく窮屈そうだ。必要ない。

 しかし、下着は変えたほうが良いだろう。トランクスはぶかぶかだし、ハーフパンツを脱ぐと一緒に脱げてしまう。いや、別段それで問題があるわけではないのだが、なんかこう、見苦しい。それに、なんだかごわごわしていて気持ちが悪い。

 あれこれ考えているのが面倒になったので、筋トレを一通り終わらせた後、袋からショーツだけ取り出した。タグは買った時に切って貰ったので、そのまま履いても問題無い。少し考えて、それも一緒に持って風呂場へ向かった。

 シャワーで身体を洗い流しているうち、そう言えば、と思って等身大にはめ込んである浴室の鏡を見た。

 腕を持ち上げる。腋の下はつるつるだ。下半身も同じ。すね毛も腕毛も生えていない。産毛のようなものは少し生えているものの、大人の証である部位にはまるで毛が生えていない。

 肉体年齢が幼い、という事は無いだろう。こんなに乳房が発達しているのだ、こんなにでかい子供がいるわけがない。つまり、異常だ。

 今度病院に行った時、マツバラ先生に聞いてみよう。産婦人科なのだから色々と性徴に関しては詳しいだろう。

 シャワーを止めて、バスタオルで身体の水気を拭き取る。瑞々しい肌は水を弾き、柔らかな皮膚はしっとりと湿度を保っている。すべすべとした触り心地はまるで絹か何かのようだ。

 異常だ。異常なほど美しい健康体である。若々しいというだけで済ませて良いものだろうか。

 脱衣所に出て置いてあった白いショーツを履き、いつものハーフパンツとだぼだぼのシャツを身に着ける。小鍋に煮込んであった肉じゃがを、弱火にかけて温める。

 思った以上に下着のつけ心地が良い。ぴったりとフィットするショーツは、まるで何もつけていないかのような感覚さえする。こんなに具合が良いなら、さっさと買ってくれば良かった。値段相応の価値があるという事だろう。

 いつもより倍ほど多い量を白い丼にあけて、リビング兼寝室に戻ってくる、勿論片手には度数の低い酒の缶。

 足で扉を閉めて、端末の前に座る。スマホに通知が来ていたので、ワイアードを端末の方で開いた。家に居る時は小さな画面のスマホよりも、こっちでチャットする事が多い。キーボードも使えるので、文字を打つのもこちらの方が早いのだ。

 グループチャットではなく個人チャットだ。弟のトシツグからだった。


『明日何時に来んの?』


 何時が良いだろうか。昼なら、と言っていたので、午後のほうが良いだろうか。


『13時に行く』

『分かった』


 大きなスタンプでわかったと表示されている。弟の息子の写真を加工したものだ。弾ける甥の笑顔がとっても可愛らしい。

 午前中は水回りの掃除をして、月曜日以降の弁当の準備をしておけば良いだろう。飯もおかずも冷凍しておいて、詰めるだけにしておけば朝の少ない時間でもすぐに準備出来る。

 いつもの量では足りなくなってきたので、少し大きめの弁当箱に変えたほうが良いだろうか。明日、出掛けた帰りに買ってこよう。

 ほくほくに煮込まれた芋とぎゅっと味の滲みた肉を頬張って、ごくごくと甘い酒を流し込んだ。



 南北線に乗り換えた。地下鉄には私鉄も乗り入れており、時間さえ分かっていれば、座っているだけで直通で地下鉄の駅から特定の路線にいける。

 普通に乗り換えたほうが時間的には早いが、あまり忙しなく移動するのが好みではないので、予め調べたうえでずっと座っているのが楽なのである。

 とは言え、混んでくるとそうもいかない。ヤマシロ駅を過ぎて、次の大きな駅に到着した後に、目の前に老婆がやってきた。優先席ではないが、この力溢れるほどの健康体であれば譲らざるを得ない。というか、立っていたほうがトレーニングになるので良いのである。

 電車の揺れに耐えながら各所の筋肉に適度に力を入れながら身体を揺らす事で、普段の筋トレでは得られない負荷がかけられるのだ。悪いばかりではない。

「どうぞ、私はもうすぐ降りますので」

 各駅停車とは言え弟の住む地の最寄り駅はそう遠くない。別段最初から最後まで立っていても疲れる事は無いのだ。

「ああ、ありがとうございます」

 老婆はこちらに礼を言って座った。あまり近くにいて話しかけられては面倒なので、扉の側に移動する。コミュ障にありがちなごく普通の光景だ。

 この身体になって初日のように、つり革に掴まらなければ身体が揺れるという脆弱な状態ではなくなっている。一体どういった肉体の構造なのか、最早山道の中を走る電車であろうが仁王立ちで平然としていられるという自信がある。明らかにおかしい。

 この路線は比較的揺れが少ないので物足りない。何となく扉の脇に立って外の景色を眺める。

 電車に乗って一駅二駅も離れれば、外にはあまり開発の進んでいない田舎の景色が広がっている。この国の人口は減る一方だ。今後、地方都市でも余程大きい所以外は衰退の一途を辿るであろう。

 首都に人口をスポイルされ、少子高齢化が進む以上は仕方のない事だ。ある程度大きな都市以外は、今後似たりよったりの田舎になっていくのだろう。

 大きな川にかかる橋を越えて電車が揺れる。

「おい!何やってんだてめえ!」

 声の聞こえた方を見ると、明らかに反社会的な、この地方で言えばやからと呼ばれるような人間が、新人社会人らしき若い男に絡んでいる。

「な、なんですか?何もしてませんが?」

 次の駅に着くまではそこそこ時間がある。次は工場が多く立ち並ぶ地域なので、この新人君はそこに向かう所だったのではないかと推測できる。

 一方反社会的な男の方は、見るからに自分の力を誇示するかのような半袖シャツに入れ墨をこれでもかと見せつけている。頭はハゲているのを隠すためか坊主頭にしているようだ。

「足踏んどいて何もってのはねえだろうが!コラ!」

 踏むわけがない。電車はある程度空いているし、若い男の方はしっかりと座席の横にある手すりに掴まっている。要はいちゃもんである。

 見た目が頼りないので、恐らく少し肩が触れたとかその程度で絡んでいるのだろう。ああいう輩はほんの少しの事を大袈裟に騒ぎ立てる。実に下らない。

「おいコラ、次の駅で降りろ。出るとこ出てやろうじゃねえか、あぁ?」

 元から若い男は次の駅で降りる予定なのである。それを見越して絡んでいるのだ。馬鹿馬鹿しい、たかりではないか。

 とりあえず放って置く。ハゲが直接手を出せば暴行の現行犯であるし、そうでなくとも既に脅迫である。犯罪者はどちらなのか一目瞭然だ。

 若い新社会人は完全に怯えて、何も言えなくなっている。襟首をハゲに掴まれて、もうまな板の上の鯉状態だ。

 次の駅についた。ニヤついているハゲが彼をつまみだそうとしているところに、足払いをかけた。

 踏み出した重心を十分に見極めて払ったので、ハゲはもんどり打って盛大に転び、受け身を取ることもせずに電車の扉付近の床に顔面を打ち付けた。よわっちいくせに自分より弱いものに暴力を振るう最低なハゲである。

「どうぞ、行って下さい」

 開放された若い男に行くよう促すと、慌てて彼は降りていった。扉が目の前で閉まる。

 周囲は無様なハゲ男に笑いを堪えきれないようで、そこかしこで小さな咳払いが聞こえている。入れ墨のハゲは起き上がると、青筋を立ててこちらに詰め寄ってきた。

「おい、姉ちゃん。何してんだコラ。マワすぞ?」

「一人で出来るならどうぞ」

 マワす、つまり輪姦すると言いたいのだろう。一人でどうやってやるというのか。頭が悪すぎる。

「覚悟出来てんだろうな」

 掴みかかってきた男の手首を取って捻る。増幅された筋力のお陰か、簡単に男はくるりと背中を向けて転がった。

「がぁっ!イダダダダ!ごらっ!このっ、アマっ!」

 弱すぎる。見た目だけの虚仮威しにも程がある。太い腕は殆ど贅肉で、体重を支える分の筋肉しか持っていないようだ。

「私を、どうするですって?もう一度言って見て下さい」

 聞いてみるが、痛みを耐えられない脆弱な男はまるでこちらの話を聞いていない。

 面倒くさくなったので手を離して転がした。無様に電車の床に転がった男は、怒りを込めてこちらを睨みつけている。全然怖くない。

「調子にのんなよ!俺が一声かけりゃ、お前なんてすぐに泡に」

 電車が着いたので外に出た。男が慌ててついて出てきたので、もう一度転がして頭を踏みつけた。

「お前みたいな下品な男がいるから男の価値が下がるんだろうが。次の電車の前に放り込んでやろうか?五体バラバラになってから仲間を呼べるんだったらそうすりゃいいだろ。ほら、次のが来たぞ」

 襟首を掴み上げてホームに向ける。暴れる男の鼻先を急行列車が通り過ぎた。ハゲ男は恐怖のあまり失禁して、白目を剥いて気絶した。

 そのままホームに転がして、コンコースへと上がった。下らない。世の中、馬鹿な奴ほど威張り散らしている。


 駅から出ると、僅かばかりの駅前風景が広がっている。

 飲み屋のチェーン店や大きめの銀行の支店が並び、宿泊施設がほんの僅か建っている。典型的な地方都市周辺部の駅周りだ。

 どちらかと言えば寂れている方の出口から出て、歩いて10分。川べりの高校にほど近い所に、弟の家は建っている。

 弟は5つ年下だが、結婚したのは7年前、つまり20そこそこですぐに今の奥さんを見つけた。奥手で何もできなかった自分とはえらい違いである。

 奥さんの方の実家が太かったため、色々と支援してもらって、地方とは言え立派な庭付きの一戸建てを持っている。羨ましいことこの上ない。

 子供も産まれて仕事も順調。自慢の弟家族なのだ。甥っ子も姪っ子も可愛すぎて仕方がないし、もう自分の資産が余ったらこの家族に全部くれてやろうと思っている程だ。そこまでの余裕は無いが。

 入口の脇にある呼び鈴を押した。はーいという声がして、弟の嫁さんが顔を出した。

「はい?どちら様でしょうか」

 気付かない。無理も無い。当たり前だ。

「こんにちは、ミオさん。トシツグには連絡していたと思うのですが」

 名前を呼ばれて訝しげな表情をする義妹。流石にこの姿の自分を、時々遊びに来ては子どもたちにえびす顔を見せている32歳の男だとは連想できないようだ。

「ミサキです。トシツグから聞いていませんか?」

 聞いていないだろう。冗談だと思っているのだ。だが、一応聞いてみないといけない。

「ミサキ、ちゃん?ええと……夫のお知り合いですか?」

「知り合いというか、兄のミサキなんですが」

 ミオは眉間に皺を寄せた。悪質な冗談だと思っているのだ。

「いや、お義兄さんはもっとこう、なんていうか……いえ、あなたのような可愛らしいお嬢さんではないですよ。お義兄さんのお知り合いですか?冗談は……」

「どしたの?兄貴が来たの?」

 奥から弟がやってきた。

「おう、トシツグ。ワイヤーでグルチャしてただろ。こんなんなっちまってさ」

 角刈りにした弟はこちらを見てぽかんとしている。現実に脳が追いついていないようだ。

「13時に来るって言っただろ。見た目はまぁ……こうなってるけど、正真正銘、お前の兄貴だよ」

 二人は動かない。が、先に動いたのは義妹のミオの方だった。

「いや、お義兄さんはお義兄さんだから男性で。いやいや、その前に、なんですか、これ。ひょっとして何かの撮影ですか?カメラ、どこですか?」

 意味がわからない。撮影する意味がどこにあるというのか。

「ミオさん、こないだお仕事復帰した後、教頭がセクハラっていうかマタハラっぽい事言ってきて困るって言ってましたよね。この身体になってマジでそれ、理解できましたよ」

「え……え?」

 彼女は高校教師であり、何度か育児休暇をとった後現場に復帰したのだ。その後、当時勤めていた高校で教頭から育児についての嫌がらせをうけたのだと言っていた。

 当時自分も憤慨したものの、今の身体になってその怒りが身にしみてわかるようになってしまった。僅か数日だというのに。

「産んだから偉いって勘違いしてるとか、女は休みが多くていいよなとか。それ、出産育児で大変だった人に言うセリフじゃないですよね。トシツグももっと怒るべきだろうが」

「え?う、うん。そうだけど」

 急に振られた弟は困惑して頷いた。本当にそう思っているのか。

「それで、俺はいつまでここで立っていれば良いのかな」

 玄関先である。追い返される事は無いにしても、ここまで言って気付かないわけがないだろう。

「え……お、お義兄さん?」

「兄貴、なのか?あれ、本当だったのか?」

「こんだけ言ってわかんないのか?なんならお前が子どもの頃、親父と風呂に入っていた時にアレした事――」

「あー!わかった!言うな!ほら、入って入って!二人共昼寝してるから、こっちで!」


 リビングに通された後、ミオの淹れてくれた緑茶で一息ついた。

「まぁ、理解が追いつかないのは分かる。俺も最初どうしようって思ったし」

 自分でも信じられないのだ。肉親とは言え他人の弟夫婦が信じられないのもよく分かる。

「兄貴……なんでそんな、そんな、その、めっちゃ可愛いけど」

「うるせえよ」

 そんな事はどうでも良いのだ。今日ここに来たのは、彼らに一応自分の現状を認識してもらう為なのだが。

「お義兄さん、っていうか、お義姉さん?見た目私より若いけど」

「いや、義兄のままで良いです。戻れるかどうかは……わかりませんが」

 戻らないといけないのだ。でなければ、半年後に切羽詰まってしまう。

「なんでそんな姿になってるんだよ。わけわかんないんだけど」

 弟のトシツグが至極当然の事を口にする。それはこっちが聞きたい。

「分かってりゃ説明してるよ。わかんないから知らせに来たんだろうが。医者に診せても症例は知らないっていうし、今検査してもらってるところだけど」

 正直言って望みは薄い。こんな話は創作物以外で聞いたことが無いのだ。

「戻れるんですか?」

「わかりません」

「仕事はどうしてるんだ?」

「上司に相談してなんとか続けてるが、このままなら半年後にクビだ」

 休職扱いが解ければもう会社に自分を雇っておく理由がなくなってしまう。パートとしてならまだやっていけるだろうが、今の時給は望めないだろう。そうなると収入は絶望的だ。

「今住んでいる所もすぐに追い出されるわけでは無いだろうし、一応貯金もある程度はある。だが、将来的にどうかと言われると……このままでは絶望的だな」

 新たに仕事をしたくても、身分証明書が軒並み無効なのである。身元証明なくして普通の仕事には絶対に就けない。

「なんだ、じゃあ、うちに来れば良いじゃないか」

 楽観的な事を言う弟。だが、それはダメだろう。

「ダメに決まってるだろう。百歩譲って元の俺の姿だったら、仕事を失ったダメ人間として受け入れられるだろうが、得体のしれない娘が新婚夫婦の所にやってきて、ご近所にどう説明するつもりだ?」

 こんな可愛い女の子を兄です、などと言おうものなら、気が狂ったのかと思われること間違いなしである。場合によっては愛人でも連れ込んだのかと噂が立ってしまう。

「ええと、それじゃ、いっその事女の子として第二の人生を歩んでみるのはどうでしょう?ほら、私も妹が欲しかったので」

 これまた呆れたことを言い出す義妹。

「その、歩む人生の戸籍はどうするんですか。人間ってのは無から産まれてくるわけではないんですよ?」

 無戸籍の人間に人権は無い。それがこの国の制度だ。現実にいてもいることにならない。そんな状態で、どうやって人生を謳歌しろというのか。

「えーそれは……どこかで戸籍を買ってくるとか」

「反社の世話になるのは絶対にダメです。この身体ですよ?それこそ良いように扱われるのが目に見えてるじゃないですか」

 非合法な事は論外である。弱みを握られてしゃぶりつくされるのは明白だ。

「それじゃ、どこかの裕福な男性に嫁いで」

「あの、真面目に相談してるんですが……」

 結婚にも戸籍がいるのだ。そこをごまかす事など出来はしない。結局一般人の思いつく事などこの程度なのだ。

「まぁ、まだ半年の猶予はあるんです。一応ここに報告に来たのは知ってもらう為だけだったので」

 切羽詰まってからいきなり言っても困惑するだろう、まだ余裕のある内に話をしておきたかったのだ。

「親父には?」

「まだだ。だが、信じないだろうな」

 父は頭が固い。自分の中にある常識以外のことは頑なに信じようとしない。

「一応言っておいたほうが良いんじゃないかな。一応」

「一応は言っておくよ、一応な」

 無駄だろう。門前払いを食らうのがオチだ。

「えーと……お義兄さん、どうします?ウミとショウに会っていきます?」

 ウミは6歳の姪、ショウは4歳の甥だ。今は昼寝をしているようだが。

「やめておきます。おじさんがいきなりおねえさんになったらあの子達も混乱するでしょうから。戻ってから……まぁ戻れたらの話ですが、それからまた会いに来ます」

 可愛い二人に会えないのは寂しいが、少しの間の我慢である。戻れないと完璧に分かったら、またその時どうにかして説明すれば良い。少しでも戻れる可能性があるなら、小さい子を混乱させるのは良くないだろう。

「それじゃ、帰ります。トシツグ、また何か進展があったらワイアーするから」

「うん。それじゃあね。気を付けてよ、今は兄貴は女の子なんだから」

「鍛えてるから平気だよ。じゃあな」

 少なくともその点は問題ないように思う。パンチングマシーンでの数字から推し量るに、今の自分の腕力は概ね成人男性の平均より高い。一体どういう理屈なのかはまるでわからないが。

 二人に礼を言って辞去した。今の状況を伝えただけだが、チャットやメールでは事実は伝わらない。ビデオ通話だって、AI画像だと言われれば証明のしようがない。これは絶対に必要なことだったのだ。

 電車に乗って戻る。帰りに夕食の材料と大きめの弁当箱を買って帰ろう。座れた座席の上で、少しだけ上半身を揺すった。

 そういえば、昨日買ったこのブラジャーは実に具合が良い。揺れも少ないし、ぴったりとしたフィット感は胸が軽く感じて中々気持ちが良い。

 服に擦れて乳首が痒く感じることも無いし、やはりこれは必要なものなのだなと心から理解した。

 それでも寝る時は圧迫感があるから外したほうが良いだろう。これから暖かくなる季節だろうし、蒸れては気持ちの良いものではない。というか、汗をかくと谷間や下が湿った感じがするのがどうにも辛い。ブラを付けている間は下はそうでもないのだが。

 明日からはまた仕事だ。この身体で出勤するのは少し気が重いがやむを得ない。まだまだ現場は自分の助けを必要としている。もう少し頑張らなければ。

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