第2話 困惑塗れの現実
少し大きい水色の作業服に着替え、課長の運転する社用車に乗っている。
会議室で作業服を受け取って、その場で着替えていたら慌てて二人が出ていった。まぁ、それはそうだ。今は女性の身体なのである。じろじろと見ていてはセクハラで訴えられても文句は言えない。
本社から応援現場であるヤマシロ市役所へは、歩いても行けるほどに近い。地下鉄の駅なら一駅分だ。
それでも時間が押している為、送っていったほうが良いだろうというカワサキ部長の意見により、こうして社用車で短い距離を送ってもらっているというわけだ。
代理として行くのであるから、上司が付いていったほうが良いというのも道理だ。鏡を見て思ったが、どう見ても今の自分は元のミサキ・カラスマと同一人物ですと主張できるような容姿ではない。
というよりも、何というか。
可愛いのである。どこかくたびれた中年であった自分とはとても思えない。
目鼻立ちがしっかりしていて、長いストレートの艷やかな黒髪が流れる姿は、どこをどう見ても美少女だ。
普通、性別が変わっただけであれば見た目も相応になるのではないかと思うのだが、何か特殊な力でも働いたのか、どこかの誰かと入れ替わったのか、明らかに元の自分とは似ても似つかない。いや、面影が全く無いというわけではないのだが、そう言われてみればそうかな、程度しか残っていないのである。
「給与、どうなるんですかね」
心配だ。まさか新人並に落とされたりしないだろうか。
「その辺は部長がどうにかすると思うけど……人事と総務が何て言うかだな」
「お願いしますよ。俺、定年まで働くつもりだったんですから」
「わかってるよ。資格も持ってる若い人間は貴重だからね」
将来的に彼らの後釜にとも言われていたのだ。このままの身体で放逐されては泣くに泣けない。いくら中小企業とは言え、就職してから10年近くも真面目に働いてきたのだ。
イヅミ課長の運転する社用車は、近くの地下駐車場へと入っていく。市役所に一般用の駐車場は無いので、近所に駐めるしか無いのである。
第三セクターの運営する施設の駐車場からエレベーターで地上に上がり、すぐ目の前にある南北に細長い建物に入る。
ヤマシロ市役所は絶賛建て替え中であり、今入った西側の建物と、歴史的建造物である正面の石造りの建物、通りを挟んで北側の庁舎は既に完成している。残っているのはそこに挟まれた部分が工事中で、今も共同企業体、所謂ジョイントベンチャーによる建築工事の真っ最中だ。
西側の建物に入って二階へ上がり、突き当り右の事務所へと揃って入る。丁度朝の検針が終わった後だったのか、こちら側に詰めている作業員全員が事務所の中に揃っていた。
「あっ、おはようございます、課長。カラスマさんは……?」
奥に座っていた若い現場責任者、ハラダ主任が立ち上がった。そのカラスマはここにいるのだが、やはり気が付かないようだ。当たり前である。
「カラスマ君はちょっと用事で来られなくなった。代わりにこの……カラスマ君の」
「従姉妹です、よろしくお願いします」
咄嗟に嘘をついた。妹の年齢は知られているかもしれないし、親戚として押し通すしかない。
「いとこ?ええと、お名前は」
「カラスマで良いです」
一時的なものだ。呼び名を変えて返事が遅れても怪しまれる。親族であれば同じ苗字でもおかしくはない。どうせ市役所から支給される名札には苗字しか書かれていないのだ。そのまま転用するつもりだったのである。
「あ、はい。それで、下の」
「カラスマで結構です、ハラダさん。宜しくお願いします」
押し通す。有無は言わせない。そもそも女性を気安く下の名前で呼ぶことは、今の時代セクハラと言われる事もあるのだ、問題ない。
目を白黒させているハラダと他の作業員に、イヅミ課長がフォローを入れる。
「彼女は、まぁ、カラスマ君……ええ、係長から十分に引き継ぎを受けているから、すぐに仕事は出来ると思う。資格も持っているから心配しなくても良い。カラスマ係長はちょっと暫く来れなくなったから、その代理だ」
本社の担当上長から直接そう言われれば頷くしかないだろう。納得はしていないだろうが、ハラダも他の作業員も首を傾げながらも了承した。
「それじゃ、私は一旦本社に戻るから。宜しく頼むよ」
イヅミ課長は半分逃げるようにしてその場を去っていった。残された者達はどうしたものかと戸惑っているようだが、こっちは勝手知ったる現場なのだ。ロッカーに赴いて、自分の使っていた場所からカラスマと書かれた名札を取り出して首にかけた。
すぐに戻ってきてディスプレイに表示されている中央監視システムの画面を眺める。
警報は出ていない。未確認のものも無し。まだ中間期の終わり際なので、熱源機器は動いていない。その他のタイムスケジュールの動きにも問題は無い。
ざっと給排水設備や空調設備を流して見てみるが、異常のある場所は見当たらない。昨夜の雨のせいか、湧水ポンプだけがいくつか作動していた。
「日常点検は終わったんですか?」
事務所にほぼ全員が戻っているのを見ると、終わっているのだろう。
「え?あ、はい。後の作業は午後からにしようかと」
画面の中の時計を見た。まだ10時半である。別に午後からでも構わないが、終わらせられるものならさっさと終わらせたほうが良いだろう。
「水曜日ですよね、水質検査、先にやってしまいましょう。30分もかからないでしょう?」
棚から検査キットを取り出して、記録用のタブレットを首にかける。毎週一度行う必要のある、飲料水と、井戸水を使った雑用水の水質検査だ。給水管の末端となる各所で水を取って、水素イオン濃度と遊離残留塩素濃度を測定し、濁りや色、飲料水の場合は匂い、味を見て、問題なければそれでヨシという実に簡単な検査である。すぐに終わる。
「あ、でも新人さんに教えなければいけないので」
痩せ型と肥満型の二人の新人がぽかんと立ち尽くしている。知っている。彼らの面接には自分も立ち会ったのだ。
「私が教えます。行きましょうか、タニグチさん、ヤマノさん」
太ったほうがタニグチ、のっぽの方がヤマノだ。壁にかかっているキーボックスを開け、中から機械室共通の鍵と、地下に降りる階段室の鍵を取り出す。
「え?あの、場所とかわかります?」
「わかります。というか、点検表に書いてあるでしょう?」
慌てて立ち上がったハラダにそう告げる。ご丁寧に何階のどこと書いてあるのだ。初めての人間だって時間をかければ出来るだろう。
50代の新人二人という、この業界特有の人員構成を引き連れて、すぐ隣の中二階に降りる扉を開けた。
「あの、カラスマ、さん?」
太った方、タニグチが後ろから声を掛けてきたので振り向いた。
「はい、何でしょう?」
「カラスマさんは、ここで働いた経験があるんですか?」
経験も何も。今のハラダ主任の前の責任者は自分なのだ。彼にここを任せて、自分は他の現場も同時に担当している。人が足りなくなったので古巣に作業員として応援に来ている、というだけだ。
しかし、今の姿でそれを言っても彼は混乱するだけだろう。どうみてもカラスマ係長と今のミサキ・カラスマは別人なのだ。そのつもりでやるしかない。
「ここでの経験は無いですが、メンテナンスでやることはどこでも大体同じです。それに、従兄弟から大体のことは聞いていますので」
階段を降りて右側の機械室を開ける。中には二基の大きな高置水槽が設置されており、手前にはそれぞれ加圧給水ポンプユニットが置かれている。
「こっちが市水で、こっちが雑用水ですね。取水用の蛇口を開けて、暫く流した後この容器に線まで水を入れます。持ってきた薬剤を入れて、キットに容器を入れて、色の濃さを見て下さい。雑用水のpHはこの機械で測定します」
良くあるジエチルパラフェニレンジアミン、通称DPD試薬による遊離残留塩素濃度の測定である。他にpHや水温なんかも同時に測れる高価な測定器などもあるのだが、DPD試薬が非常に安価な為、定期的に公正の必要な測定器を持っている現場は殆ど無い。
一方pH、水素イオン濃度の測定に関しては、小中学校の理科でも教えている試験紙によるものもあるが、こちらは色別があまりにも大雑把すぎるため、試験紙を使う現場と測定器を使う現場は割と分かれている。まぁ、精密な数値など分からずとも別に6.0から8.0の間であれば問題はないのだが。
塩素濃度は、雑用水の方はそれなりにピンク色が付いているものの、市水、つまり飲料水の方は芳しくない。ギリギリ合格範囲だが、一般家庭で蛇口を捻って出てくるものよりも遥かに薄い。
「やはり、庁舎が全て完成するまでは使用量が少なすぎますね。とは言え、水を捨てるわけにもいきませんし」
塩素は飛ぶ。受水槽に溜めておくだけで、段々揮発していくのだ。受水槽室の排気ファンを常に回しているのは、塩素が籠もるのを防ぐ為である。
「ええと、何かまずいんですか?」
のっぽの方のヤマノが不安そうに聞いてくる。まずい、という程ではないのだが。
「市水の方、色が薄いでしょう?地下の受水槽とここの高置水槽に貯めている間に、塩素が飛んでいってしまっているんです。本来はある程度使って、給水されれば元に戻るんですが……要は、水槽の容量に対して使う量が少なすぎるという事ですね」
貯まっている時間が長ければ消毒成分が消えていく。検出基準が定められている以上、あまり良い事ではない。
「まぁ、今の所ギリギリセーフです。何も色が付かない状態が長く続くと問題ですがね。高置水槽でこれでは、末端はもっと薄いでしょうし」
案の定、その後各所末端の測定箇所で採ってみると、こちらも合格ギリギリラインだ。使用上の問題とは言え、余裕が無いというのはあまり良い事ではない。
一応報告はしてあるし、ヤマシロ市も認識はしているはずだ。建築物環境衛生管理技術者として改善提案もしてあるので、これ以上委託業者であるこちらからやるべき事は無い。
全ての測定箇所を回り終えて事務所に戻ってきた。鍵をキーボックスに片付け、キットと測定器を丁寧に洗って棚に戻す。何の苦労も無い。ただの作業だ。
戻ってくるとハラダが業務用端末の前で唸っている。何事かと思ってひょいと見ると、先日取った業者の修理見積りを提出用に作成している所だった。
マージンを20%つけて値段を調整しているようだが、その割り振りに困っているようだ。
「大体良いんじゃないですか。ただ、法定福利費がちょっと大きいので削って材料費に載せ替えたほうが良いと思いますが」
一万はちょっと多い。そんなに高額な工事ではないのだから半分ぐらいで良い。
「え?そうですか?そうですね」
打ち直している彼を置いて、空いている席に座った。悩むなら誰かに聞けば良いのである。あるいは、これで良いですかと一旦上司に提出してダメ出しを貰えば覚えていく。別にその程度で評価を下げられたりはしない。
彼はまだ20代の半ばである。この業界としては若手も若手、期待のホープなのだ。
全社員の平均年齢が50代後半という、驚異的な高齢会社の中にあって、彼のように若くて賢い人間は貴重だ。絶対に手放してはならないのだが、給料が安いので新卒を取っても割と辞めていく。
自分のように独身かつ趣味に金をかけない人間であれば兎も角、結婚したいだとか旅行に頻繁に行きたいだとかいう人には向いていない仕事だ。というより、大半の従業員は、本業を引退して年金を貰い出すまでの足掛けとして入って来ている人ばかり、というような業界である。
かといって仕事が無くなるわけでもない。需要は安定している。故に人が足りなくなるという、なんともこの少子高齢化社会には辛い業界だ。
もっと給料をどかっと上げてやれば人も来るだろうに、それは出来ないようだ。別に儲かっていないわけではないのだが。
要するに、新規入社の待遇を上げると既存の人間から不満が出るのである。そして、全員分をそのラインに引き上げるには利益が足りていない、とそういう事だ。
やることがなくなったのでぼーっとしていると、隣に座っていた太っちょタニグチが話しかけてきた。
「カラスマさん、カラスマさんは、この仕事をやって、長いんですか?」
「はぁ……いえ、その」
長いと言ってしまえば不自然だろう。見た目はどう頑張ってもそこのハラダよりは下にしか見えない。というか見ようによっては10代なのだ。どうしてこの男はそんな答えにくい事を聞いてくるのだろう。
しかし、こちらが言葉を濁しているのにも構わずタニグチは話を続けている。
「給料、安いじゃないですか。若い人だと結婚も出来ないだろうし辛いんじゃないかなって。あっ、結婚する予定、あります?」
そんな事を聞くな。自分だから良いものの、今の時代そういうのはご法度だ。これだから時代に取り残されたおじさんは。
「いえ、無いですけど」
これは本当だ。元々結婚するつもりもないし、予定もない。定年後も気ままな一人暮らしをする予定満々だったのである。
「そうですよね。無理ですよねここの給料じゃあ。僕も離婚したばっかりで色々辛くて……前の仕事辞めてからすぐに妻が。ひどくないですか?」
いや、聞いていないし。そんな反応に困る話題を出さないでくれ。50代のおじさんの離婚話とか一体誰が聞きたがるんだ。勘弁してほしい。
ええとははあとか適当に相槌を打っていると、北側にある別の建物扱いになっている庁舎に詰めていた作業員が二人、返ってきた。そろそろ昼食の時間なのだ。
二人共まだ40代後半の、比較的若い方の人間だ。こちらは新人ではないので、現状の主力となっている。40代後半で若いのである。すごい会社だ。
立ち上がって挨拶をすると、二人共困惑したようだったが、係長の代打ですと言うと一応は納得したようだった。
見積書を作成し終わったハラダが端末から離れて、自分の事を紹介している。といっても、先程名乗った事以上の情報は無い。係長と同じ苗字の親戚で、経験者だという事ぐらいだ。
特別引き継ぎ事項も無かったようなので、お昼ご飯を買ってきますと言って事務所を出た。
向かいの弁当屋はいつものように庁舎の職員と工事業者が行列を作っている。とてもではないが並ぶ気になれない。近くのコンビニのレジにも行列が出来ているので、諦めて少し先にある別のコンビニに向かった。庁舎にいる人間は皆近い方にばかり行くので、こちらは穴場で空いているのである。
食欲だけは立派にあったので、大きめの弁当とカップの味噌汁、サラダを買って出た。袋までつけたので普通に四桁行ってしまった。今朝は流石に弁当なんか作っている暇が無かったので仕方がない。
予定外の出費に内心ため息をつきながら、事務所へと戻る。各々既に食事を始めている所だった。
弁当を電子レンジに放り込み、カップの味噌汁にポットから湯を注ぐ。どうしてこの電子レンジの1分というのは長いのだろうか。永遠の謎である。
でかいコンビニ弁当を机の上に広げて味噌汁を啜っていると、また隣のタニグチが声をかけてくる。
「女の子なのに、結構食べるんですね」
余計なお世話だ。だから、そういうのは最近はご法度なんだというのに。
「はあ。あの、タニグチさん、私は構いませんけど、あまり他の女性にそういう事言わないほうが良いですよ。トラブルの元ですから」
だから嫁に逃げられるのだ。離婚した理由が早くも分かってしまった。こんな理由、知りたくなかった。
タニグチは、あっ、ごめんなさいと言ってカップ麺を啜った。彼はコンビニの握り飯とカップ麺が昼食のようだ。コンビニ弁当の自分が言うのもあれだが、あまりバランスは良くない。
ふと向かいを見ると、のっぽのヤマノは既に食事を終えていた。どうも、自分が外に出る時に取り出していた握り飯二つしか食べていないようである。食は体を表す、という事だろうか。大丈夫か、持つのか。
ただ、他人の食事の心配をしても仕方がない。それは余計なお世話という奴だろう。大して美味くもない弁当とサラダを腹に収め、味噌汁を飲み干した。
妙に足りない気がするが、考え事をしながら食事をしていたせいだろう。昼休みが終わるまで寝よう。背もたれに身体を預け、腕組みをして目を瞑った。
午後のチャイムが鳴り響く。学校と同じように、市庁舎では定刻になると合成音のチャイムが鳴るようになっている。お陰で寝過ごすことは無いが、最初ここに来た時は学生に戻ったようでなんだか居心地の悪さを感じたのを覚えている。
覚醒して少し腕と肩が痺れているのに気がついた。胸が乗っかっていたらしく、恐らくそのせいだ。かといって机に突っ伏して寝るにはまた胸が邪魔そうだ、なんて面倒くさい身体だろうか。
午後からの点検予定を確認していると、現場責任者のハラダが挨拶に行きましょう、とこちらを促した。
一応新人という事で、委託元、建物のオーナーに当たる、市役所の然るべき部署に挨拶はしておかないといけないだろう。すっかり忘れていた。
建物管理の委託元となるのは当然、ヤマシロ市長であるが、当たり前のことながら一々市長に挨拶に行くなんてことはしない。契約書の名義上そうなっているだけで、実際には市役所の一部署、『行財政局総務部庁舎管理課』が、実際の委託元窓口となっている。
担当者は不正を防ぐために数年に一度交代するが、だからといって黙って知らない人を働かせておくわけにもいかない。本来は名札だって新しく借り受けて着けなければいけないのだ。
ハラダの後ろについて本庁舎の階段を降りる。寝て起きて気がついたのだが、作業服の前が苦しい。作業服が小さいのではなく、胸がでかすぎるのである。基本的に作業服は男性用のものしか置いていなかった為、自分に合うサイズのものだときつすぎるのだ。
しかし、文句は言っていられない。前のボタンがぱつんぱつんだろうと、元の姿に戻るまでは我慢するしかないのである。
一階にある庁舎管理課の扉をノックして入り挨拶をすると、中に揃っていた面々が一斉にこちらを向いた。
手前に座っていた女性の職員が、ハラダの姿を見て立ち上がった。
「お疲れ様です、ハラダさん。そちらの方は?」
「お疲れ様です。ええと、カラスマの代理で……カラスマ、です」
間抜けな紹介である。間違っていないだけに何とも言い難い。
「カラスマの代理です。宜しくお願いします」
頭を下げた。黒髪が前に降りてくるのが鬱陶しい。纏めてくれば良かった。
「えっ……女性の方もいらっしゃるんですね。宜しくお願いします、担当のスメラギです」
知っている。今年から担当が変更になった一般職の女性だ。小柄で可愛らしく見えるが、既に一児の母である。一昨年に産休を取っていたので知っている。
「カラスマさんと同じ苗字という事は、ご家族の方ですか?」
一つ奥に座っていた係長が聞いてくる。
「はい、従姉妹でして」
大嘘である。本人である。しかし、言っても絶対に信用されないので仕方がない。
「そうですか、こんなに可愛らしい……いえ、失礼。宜しくお願いします」
聞かなかった事にして係長にも宜しくお願いしますと笑顔で挨拶した。途中で気付いたのならノーカウントである。それぐらいは許容しないと、息苦しい世の中になってしまうだろう。
次は警備に挨拶に行くと言って表に出ると、スメラギが付いてきた。ハラダの後ろを歩いている自分に歩調を合わせて、そっと囁いてくる。
『カラスマさん、委託警備の人、結構アレですけど、気分悪くしないで下さいね』
庁舎には二種類の警備員がいる。昼間、主に本庁舎に詰めている職員扱いの警備員と、もう一つ。休日や夜間に加えて、他の出入口で受付等を行っている外部委託業者による警備員だ。
庁舎内での議員や市長、議長の警護が主な業務となる前者と、窓口で受付のような業務や庁舎内の巡回をしているのが後者であり、スメラギの言った委託警備とは後者である。
毎年入札によって業者が決まるのだが、価格競争となり易く、当然、質も値段相応という事になる。
毎年驚くほどの低価格で入札している委託警備会社の年齢層は我が社よりももっと高く、歩行するのに杖をつかなければならない人までいる。当然ながら腕っぷしの強さは関係ない。この庁舎内での委託警備とは、巡回と入館確認を行うだけの安い保険のようなものだ。
職員扱いの警備も年齢層は高いが、概ね元警察官出身の者が多く、訓練はそれなりに受けているようだ。長期間勤めている人ばかりだが、それ故質も概ね一定である。
庁舎管理課と同じ並びにある警備員の詰所で挨拶をし、そちらでは特に問題もなく庁舎の外へと出る。
将来的に繋がる予定の分庁舎との連絡通路はまだ完成しておらず、道路を横切って渡る事になる。消防法やビル管法の観点からも、建築物としては別の扱いになっている。
ヤマシロ市役所分庁舎の東隣には同市消防庁舎が鎮座しており、消防車や救急車の車庫を横目に見ながら東側の入口へと進む。自動ドアを通り、すぐ入口脇の警備室兼防災センター兼中央監視室となっている部屋へと入った。
分庁舎では自分たち設備管理の人間と、先程スメラギが言っていた委託の警備員、両方が同じ部屋に詰めている。
入ってきた自動ドアの所に警備の受付窓口があり、奥に各種の装置や盤が並ぶ監視室となっているのだ。
奥には既に先程一緒に食事をした、40代の二人が待機していた。こちらを見てお疲れ様ですと会釈する。
手前に目を移すと、受付窓口に警備員が二人、座っている。
一人は太った坊主頭の男、もう一人は白髪頭の眼鏡をかけた老人。昼間はもう一人いるはずだが、どうやら駐輪場前で立哨をしているようだ。
そのうちの太った方に、ハラダが話しかける。
「ハヤシダさん、カラスマの代理で暫くこちらで働く、カラスマです」
紹介されたので、頭を下げてカラスマです宜しくと挨拶をする。ハヤシダと呼ばれた男は立ち上がって、笑顔で鷹揚に頷いた。
「カラスマさんの代理でカラスマさん、いや、洒落てますな!妹さん?娘さん?嫁さん、は、ないか」
別に洒落てなどはいないが、この男はなにかとおしゃべりなのだ、待機中も常に警備の相方に、ひっきりなしに話しかけている。
ついでに何気に失礼な事を言われた気がするが、仕方無く従姉妹ですと笑顔を作って頭を下げる。悪かったな、独身で。
隣に座っていた眼鏡の老人、イシハラが立ち上がって挨拶しようとしたが、ハヤシダは構わず喋り続けている。
「いやあ、キナイさんにはこんなに若くて可愛らしい女性の作業員の方がいらっしゃるんですな!羨ましい。うちは見ての通り、男ばかりでしかも老人ばっかりでしてな!年の功と言えば聞こえはよろしいが、弁も立たねばあそこも立たぬ者ばっかりで。あ、ですのでご安心下さい。こう見えても我々は警備員、ですからな!安心してお仕事をなさって下さい」
「はあ、ありがとうございます」
何を安心すれば良いのかさっぱり分からない言い分は、言葉の端々に下品さが垣間見える。昔からこの男はこうなのである。ひたすらに喋りまくり、考え方がシュウワの終わりぐらいで止まっているのだ。
漸く長口上が終わったため、隣のイシハラが、イシハラです宜しくとだけ言って座った。この人間もずっとこの男と付き合っていて慣れているのだ。止める事もしない。
知っていたことなので別に何とも思わない。ただ、知らない人が聞いたら大分不快に思うだろう。ハラダが部屋で待機していた二人に宜しくとだけ言って、分庁舎を出た。
道路を渡り、西側の入口に向かって歩いている途中、再びスメラギが隣で囁いた。
『ね、ああいう人なんです。気にしないで下さいね』
『大丈夫です、聞いて知っていましたので』
この建物が新しくなる前からあのハヤシダという男はいた。何一つ変わっていない。三つ子の魂百までと言うが、まさか産まれた頃からああだったわけではあるまい。
兎に角口を動かしていないと気が済まない男で、静かだなと思ったら何かを食べている、とそういった具合である。当然、太る。
本人は痩せろと医者に言われているとしきりに口にしているが、だったらその間食をやめれば良いのにと思うのだが、誰も注意しない。注意されることも望んでいないのだ。要は口を動かしたいのである。
性格も考え方も昔のまま止まっており、未だに事務所の中でパワハラじみた事、いや、パワハラそのものを平気でやっている。あの男が苛めたせいでやめていった人間を、ここ数年だけで何人も見ている。
別の会社なので敢えて言う事も無いが、いやらしいパワハラ口上を聞いているのは中々こちらの精神にくるものがある。できればやめてほしいが、ほぼ十年間、全く改善されずに今に至る。
女性に関する考え方もその当時で止まっており、先程のように平然とシモネタを口にしたり、流石に本人のいる前では言わないものの、他人が聞いていようがなんだろうが、あの人は乳がでかいだとか顔が芸能人の誰々に似ていて可愛いだとか、そんな話も平気でしている。呆れるより他は無い。
だが、所詮別会社の他人である。節度を持って距離を置いていれば何という事もない。
やめさせられるあちらの警備員は可哀想だが、それはあちらの会社の責任である。こちらは関係ない。口を出すのは逆に差し出がましい事だろう。
わざわざ付いてきてくれたスメラギに感謝して礼を言う。この人は、自分が気分を害するんじゃないかと心配してついてきてくれたのだ。気遣いが身にしみて有り難い。
西庁舎の事務所に戻ってきたハラダは、疲労感を滲ませて端末の前に座り込んだ。
「疲れるでしょう?あの人。ずっとああなんです」
若い彼はあの考え方についていけないだろう。ジェネレーションギャップというレベルではない。もはや化石である。
「まぁ、他所の会社の人なんで。聞き流すしかないですね」
「係長にもそう言われましたよ」
彼はメールのチェックを始めた。残っている点検や作業は無いか聞いたが、午前中で終わらせたので大丈夫だと言われた。基本的にこの現場は待機時間が長いのである。
スマホを立ち上げてSNSやチャットソフトを確認する。SNSでやっているのはウィスパーライン、通称wisと言われているものと、チャットソフトはワイアードと呼ばれるものだけだ。特に誰かから呼ばれているわけでもなく、ほっとした。こんな状態になったなど、一体誰に相談すれば良いのだろう。
とりあえず、早急に元の身体に戻る必要がある。戻れるのだろうか。基本性転換は不可逆だと聞くが。
何となく、『性転換手術 値段』で検索して、出てきた数字に慌ててブラウザバックする。とんでもない。大学を卒業してから老後をエンジョイするために今までコツコツと貯めてきた金を、こんな事で浪費するわけにはいかない。
諦めて近くの病院を探す。探そうと思って、指が止まった。
(何科にいけばいいんだ?)
外面的なものなら外科か整形、形成外科だろうか。しかし、自分は悲しくも変化してしまった自分の股間を見てしまった。そんな単純なものではない。
近くの総合病院のサイトを開いて、何科が適しているのか考える。頭の中でうんうん唸った挙げ句、結局受診する事にしたのは産婦人科になってしまった。
今の肉体は女性であり、性の悩みなので多分これが最適、の、はずだ。
とりあってくれるかは兎も角として、専門家に話を聞いてみなければ何とも言えない。巷に医学の知識が溢れる時代にせよ、医療は専門家に最先端の事を聞いてみなければわからない。もしかしたら似たような症例のことを知っているかもしれないのだ。
自宅の近所にあった産婦人科をオンライン予約する。そしていきなり躓いた。表示されている年齢の項目。果たして自分は今、何歳なんだ……。
実年齢は32歳である。しかし、今のこの外見はどうみたって10代後半から20代前半にしか見えない。32歳と書いたら違いますと言って追い返されそうな威圧感を感じてしまう。
そっと、嘘をついた。年齢には20歳と入力する。性別の選択がなかったので安心した。いや、産婦人科なんだから全員女性に決まっているのだろうが。
次の項目でまた躓く。『今回はどんな症状でいらっしゃいましたか』選択肢の中に該当する項目は無い。当たり前すぎる。一体どこの世界に『朝起きたら女になっていたので戻りたい』などという症状を訴える人間がいるであろうか。ここにいるのだが。
その他の項目にチェックを入れて、入力欄に何か書こうかと思ってやめた。門前払いは食らいたくない。
幸いにもその後の選択肢に迷う事は無かった。ただ、直近の生理の日だけはどうにもならなかったので、『わからない』にチェックを入れた。
予約を受け付けました、の画面が出て、漸く深い息を吐いた。なんでオンライン予約でこんなに緊張しなければいけないんだ。
気付けば部屋にいる者は全員弛緩した空気になっていた。待機時間が長いとこうなりがちだ。とは言え、無駄な仕事を増やすのは愚策である。
この業態というのは、やろうと思えばいくらでも仕事が増やせてしまう。清掃、点検、それこそ日常の項目を細かく見ようとすればいくらでも増やせる。増やすのは簡単だ。そして、減らすのは難しい。
一度増えた点検項目を削ってしまえば、もしそれを何処かに提出していた場合、何故減らしたのか、減らした部分によって不具合が出たらどうするのかと延々と突かれる。故に、現場立ち上げの経験がある者は、『契約内で出来るだけ最低限の事しかしない』が最適解となる事を知っている。
どうせ増えるのである。やっているうちに、あれもやってくれこれもやってくれじゃあこれもやってくれになってくるのだ。最初から自分で増やすなど、自らの首を締めるようなものである。
ハラダに引き継ぎをする時、絶対に自分がこれはやったほうがいいなと思っても、やる意味とそれによって得られるリスク回避の頻度を天秤にかけろと口を酸っぱくして言った。
ハラダは賢い。すぐにその意味を理解して、無駄な勤勉さを発揮してはいないようだ。
原価が上がり続ける昨今、質をいくら高めようがコストが増えるだけで何も良い事は無い。暇なら暇で良いのだ。暇があればこそ、何かあった時に迅速に力を全力で注ぐ事が出来る。我々の仕事とはそういうものなのだ。
余裕の無い中で疲れた頭と身体で無理をして、余計に被害を増やしては目も当てられない。普段は最低限の力で、最低限の事をこなす。それが、ビルメンテナンスに求められる事なのである。
その代わり、非常時には全力を出す。それはもう、何かあった場合には被害を最小限にするべく、なりふり構わず全力を尽くすのだ。それがひいては信用に繋がり、信頼が生まれる。非常時にこそ、この人達がいて良かったとアピール出来る最適の場なのである。
そして今、仕事と関係のないところで自分の非常時は訪れている。
「ハラダさん、すみません。病院の予約があるので、10分早く帰っていいですか」
予約が今の時間だとギリギリだ。電車に乗り遅れたら遅刻してしまいそうだ。
「え?病院?どこか悪いんですか?」
悪いのか、と言われれば、頭以外は全部悪い。自分の肉体ではないのである。
「ええと……その、産婦人科を予約していまして」
「産婦人科……あっ!す、すみません!はい、どうぞ!10分前と言わず、今すぐにでも!」
過剰に反応するハラダ。科名を言ってしまったのはまずかったか、完全に誤解されている。
「いえ、別に予約に間に合えば良いだけなので……」
電車に乗れればそれで良いのだ。あんまり早く帰っては、後で時間調整が面倒になる。次長や部長であれば兎も角、自分は経営陣ではないのだ。
「そうですか?無理しないで下さいね」
「はあ、ありがとうございます」
勘違いしてしまったハラダにはもう何も言えなくなってしまった。恐らく彼は、こちらが妊娠しているのではと思ったのである。世間一般の男性が産婦人科に持つ印象というのはそういうものだ。
それはそれでどうなのかと思う。医療の知識がネットに溢れる昨今、その程度の認識では恥をかいてしまうだろう。
それにしても何と言うか、生きにくい。何もかもがちぐはぐで、言いたいことが伝わらないし、周辺の反応が独特で適応するのがきつい。
あのハヤシダみたいな馬鹿であれば鼻で笑ってスルーできるだろうが、ハラダのように善良な若者の勘違いというのはどうにも難しい。訂正もしにくいし反応もしにくい。
だが、優しくしてくれているというのは伝わってくる。彼は見た目も悪くないし、もう少し収入が多ければ良い人も見つかり、結婚もいずれ出来るだろう。早めに昇進を部長に掛け合っておかねばならない。
時間になったので恐縮しながらロッカーで着替えて庁舎を後にした。
胸を押し出すシャツを見るにつけ、これは流石にブラジャーを買うべきだろうと思ってしまった。
明らかに問題がある。電車を待っている間、張り出した上半身を半眼で眺めつつ、心からそう思う。
満員電車でこのボリュームのものを押し付けられた男性はどう思うだろうか。興奮してしまったとしても流石に不可抗力だろう。ましてやノーブラでとか、もう痴女である。
迂闊だった朝の自分に反省しつつ、早い帰宅時間で空いている車内にほっとして、殺風景な地下鉄の壁を眺めた。
「カラスマさーん、どうぞー」
さして大きくない診療所で、自分の保険証を出してネットと同じ問診票に書き込み、呼ばれたので診察室へとおそるおそる入る。産婦人科など、受診は愚か待合室に入った事すら皆無なのである。
暖色系に統一された診察室の中、病院とは思えない落ち着いた内装の診察室に、美しい30代程の女医が薄く微笑んでこちらを見ている。
「カラスマさん、どうぞ」
言われるがまま、彼女の目の前の椅子に腰掛ける。緊張する。
「今日は、どうされました?」
問診票の症状の欄は空白なのだ。質問は正当である。なのに、どう答えて良いのか言葉が見当たらない。
「え、ええと……その、ほ、保険証はご覧になりました?」
健康保険証は独身男性の自分のものだ。明らかにおかしい。受付で疑問も無く通されたのが不思議なほどだ。どう考えても、これ、あなたのじゃないですよねって突き返されるのを覚悟していたのだ。
「ええ。そういった方は良くいらっしゃるので」
どういった方だ。意味がわからない。この女医は自分をどういった人間と見ているのだろうか。
「ええと、その、言いにくいのですけれど……」
「大丈夫ですよ、貴女のような方は結構沢山いらっしゃるので。それで、お相手はわかっているのですか?」
お相手?分かっている?どういう意味だ?全くわからない。
「え?相手?いえ、その」
答えようがないのだ。言い淀んでいると、女医はすっと目を鋭くした。
「どこで、誰にされました?警察には?」
え、なんだそれ。警察?ええと、今までの情報を勘案して、相手がいるのか、それに曖昧な態度を取った自分。警察に。あ、あぁ。
「ち、違います!今日来たのは、そういう話ではなくて!」
女医は不信感を消さない。そういった事例を何度も見ているのだろう。
「皆さんそうおっしゃいますが。相手を庇うにしろ、貴女が恥と思うにしろ、それは明確にすべきことですよ?」
ああ、完全に誤解している。
「違います違います!私は別に妊娠したからここに来たわけではなくて!」
そこで、ふっと彼女は力を抜いた。
「……そうなんですか?でも、オンライン予約では前回の生理がわからなくて、年齢も二十歳だと……未成年で妊娠された方は、概ねそういった書き方をされるものですから」
なんだそれは。そんな罠が。いや、確かに冷静に考えればそうかもしれない。未成年で妊娠したなどとは書きにくいだろうし、前回の生理が来ていないという事はつまり、確かに。
「しかし、何故他人の保険証を?思い余って未成年の方が、親戚のものを持ち出して来られるというのが良くあるものですから」
ええ……そんな事があるのか。確かに健康保険証は使った履歴が本人に伝わるし、それを知っている場合は避けようと思うのかも知れないが。
「その、他人のではないのです。私本人のものでして」
女医は表情を変えずにじっとこちらを見ている。これはあれだ、相手の嘘を見破ろうとしている時の表情だ。
「先生、あの、私は頭がおかしくなったわけでも嘘をついているわけでもない事を最初に申し上げておきます。聞いて頂けますか」
前置きは大切だ。相手がそれを信用しようとしまいと、クッションで衝撃を和らげる事ができる。
「勿論です。患者さんのお話を聞くのが私の仕事ですから」
本当だな。絶対だな。まぁ、聞くのがと言っているのだから、対処できるというわけではないだろうが。
「えー、その、私は、健康保険証に書いてある人間本人です。今朝起きたら、こうなっていたのです」
美人の女医は一旦焦点を失って、それから徐々にこちらの全身に視線を這わせ始めた。
「性器は?」
「女性です」
彼女はデスクのカルテに何事か書き始めた。ドイツ語なので何を書いているのかさっぱりわからない。
「なるほど、わかりました。総合病院に紹介状を書くので――」
「ちょっと待ってください。それ、精神科か心療内科ですよね!?」
言わなくてもわかる。自分だって目の前の女の子がそんな事を言いだしたら精神科の受診を促すだろう。だが、わかるのだ。自分はそうじゃない。そうじゃない、はずだ。
「その、心因性の病気っていうのは、周辺の記憶まで改ざんできてしまうものなんですか!?私、会社の課長と部長に元の人間だって認識されるような共通認識を得られたんですけど!」
必死だ。このまま狂人として閉じ込められてはかなわない。いや、今の時代そんなものがあるかどうかは不明だが、自分には自分を取り巻く社会というものがあるのだ。それを無視して一方的にこいつは頭がおかしいと封じられるわけがないだろう。
「……会社の方に、認識された?貴女が、32歳の男性であると?」
「そう申し上げています。正直、自分でも馬鹿げた主張だと思います。前代未聞だと思うんです。でも、専門家なら、もしかしたら最新のそういった症例をご存知ではないかと、藁にも縋る思いで……」
美しい顔に皺を寄せて女医は黙り込んだ。答えあぐねている。本当に目の前の人間が嘘を言っていないのかどうかと。
「なんなら、今この場で社の二人、どちらかに電話をしても構いません。彼らは間違いなく、ミサキ・カラスマ32歳男性だと証言してくれるはずです」
医者の質問にウソを付くような不誠実な人間ではない。ましてや、彼らはカラスマ係長の帰還を待ち望んでいるのだ。喜んで協力してくれるはずである。
「……俄には信じられません。正直、クソマスゴミの仕業で私を謀っているのではないかとの疑念すら湧いています。しかし」
テレビや新聞に何か個人的な恨みでもあるのかそういう物言いをした彼女は、書き込んだカルテをぐしゃぐしゃに丸めて足元のくず入れに捨てた。
「そこまで言うのでれば、信用します。ただ、信じてはいません。そんな症例、私の知る限りどこにもありませんし、ましてや一晩でだなんて……染色体そのものをすべて書き換えた上、肉体の組成を作り変えるなんて、どう考えてもありえません」
そうだ、そんなことは常識なのだ。だからこそ、医者に、と思って訪れたのだが。
「……不可逆性なんでしょうか」
「それもわかりません。ですが……望み薄かと」
目の前が真っ暗になった。戻れない。そんな。
「で、でも、一晩で女になったのなら、一晩で男になることも」
「わかりません。ありえない事が起こった場合、医者に限らず科学者はみんなそう言うと思います」
そうだ、わからない。わからないものはわからない。それが無知の知であり、誠実な理性を持つものの答え。
「……そう、ですか。はは、一体、どうすれば……いや、別にいいんですけどね、独身だし、ずっと一人でいるつもりだったし」
そうだ、そうだ。今更性別が変わったところで、誰に迷惑をかけることもないだろう。親きょうだいが少し戸惑うぐらいだ。あとは、友人が驚くぐらいで。
「カラスマさん。私の知る範囲で情報を探してみます。ですので、どうか自暴自棄にならないように。そうだ、念の為、血液を採らせて頂いて良いですか」
血液。そうだ、少しでも情報は多い方が良い。染色体の変異は兎も角、自分の身体に何が起こっているのかを知るのは大切なことだ。
「はい、勿論です。それで、何かおかしな事が分かったら教えて下さい」
「承知しています。連絡先は、ご記入頂いた番号で間違いないですね?」
「はい。スマホしか持っていませんが」
固定電話を置いている家庭など、もうほぼ皆無である。悪戯電話なんかも番号表示がデフォルトになったのでほぼすべて消え失せた。
「結構です。ええ、医療費ですが……」
「やっぱり、保険、使えませんか?」
女医は眉間に皺を寄せて考え込んでいる。が、すぐに力を緩めて微笑んだ。
「問題有りません。点数の問題ですので、受けた診療内容で調整できます。保険と同程度の支払額になる点数にしておきますね。ですが……他の病院ではこんな融通は利きません。もし、何かあれば、どんな病気でもここにいらして下さい」
そんな手があるのか。医療の事は良くわからないが、非常に助かる。独身故に毎月高い保険料を国に払っているのだ。この対処はとてもありがたい。
「わかりました。何から何まで、ありがとうございます、マツバラ先生」
適当に近所のスーパーで惣菜と度数の低い酒を買い、自宅へ戻った。
問題点は山積みだ。だが、取り敢えず自分のしておくことはわかる。
まずは、この身体になって足りない物を補う必要がある。そう、筋肉だ。
電車の中で痴漢を捕まえた時、明らかに筋力の低下を感じた。この身体になって一番の不具合はそこだろう。
必要最低限の筋力は元に戻しておく必要がある。故に、毎日最低限の筋トレはしておくことにする。
スクワットやプランクを始め、家具を使って全身の筋肉をくまなく使用する。元々毎日筋トレはしていたので、この辺りに戸惑う事はない。鍛えすぎると胸が大きくならないと聞いたことはあるが、既に邪魔なぐらいでかい。寧ろ縮めとすら思う。
大胸筋を鍛えれば少し縮むかなとも思ったが、多分上乗せされるだけだ。無駄である。
いずれにせよ、以前出来た事は元通りに出来るようにしておきたい。風呂に入る前に、可能な限り筋肉を酷使した。
(しかし、見慣れないな)
風呂に入って感じるのは間違いのない違和感。縮んだ身長に減った筋肉、膨らんだ大きな胸に性器の変貌。
完全に別の人間である。これが自分の肉体であると言われても違和感しか生じない。
身体を洗うにしても余計な部分が増えているし、髪を洗うのはもっと大変だ。コンディショナーをこんなに毎日沢山使っていては、不経済に過ぎる。
(切るか?)
しかし美しい黒髪を見るにつけ、それはそれで勿体ない気がしてならない。
美しいのだ。はっきり言って、自分の顔身体という認識がないだけに、この完成された造形は美しいとしか認識しようがない。
艷やかで長い黒髪、ぱっちりとして大きな瞳に長い睫毛。通った鼻筋に小さい唇。それが小さな顔の輪郭に左右対称、バランス良く収まっている。
下に目をやれば、女の子らしいなで肩に、上に向いた大きな胸と可愛らしい乳首。スリムな身体に、きゅっと締まった腰と、丸みを帯びた尻。
程よく引き締まった太ももと、身長に対するバランスとしてみればスラリと長い足。もしも自分が男であれば、今すぐにでもむしゃぶりつきたいような完璧な裸体と言える。
神の造形物とでも言えるだろうか。明らかに人工的な、作られた美しさ。
(馬鹿なことを)
自分の身体を見慣れていないからそう思うだけで、多分いずれそう思わなくなる。必要なのは、今の生活を維持し、可能な限り大人しく、マツバラ先生の報告を待つだけだ。
寝る前に少し女体化に関する事をネットで調べたが、結局何も得られないままだった。
得られたのは二次元世界に関する事だけで、自分と似た境遇ではあるものの、まるで参考にならないおとぎ話の類だ。バカバカしくなってリモコンで照明を消し、早々に眠りについた。
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