ダイナソー・ディザスター
麦酒豚
転換
第1話 最初にして最大の異変
喉が痛い。
いや、喉だけじゃない。体中、特に関節という関節全てが痛い。
関節というのは人体におよそ260箇所程もあり、それら全てが痛いとなるとそれはもう、想像を絶する痛みのはずだ。
無論の事、それはその痛みの度合いにもよるのだが、例え僅かな痛みでも、体中を260箇所も小さな針で突かれたらどう思うだろうか。それこそ小便を漏らして泣き叫ぶだろう。
実際、あまりの痛みに声も出ない。というか、出せない。
身じろぎでもしようものならこの痛みがもっと強くなるのではないか、声を出せばこの痛い喉が破裂してしまうのではないか。そんな恐怖が付き纏っている。そう、恐怖だ。
人は得体の知れない恐ろしい現象に遭遇した時、どう対処するだろうか。
半狂乱になって泣き喚くか、全力でその場から逃げようとするか。
ただ、殆どの人はそうはならないだろう。大抵はただ、判断力を失って硬直してしまうのではないだろうか。
痛みは特に足と腕に集中している。それはそうだ。関節が最も集中しているのは手足で、自分で関節が痛いのだと判断した理由もそこから来ている。
自分。そう、自我がある。眠っているのだか眠っていないのだか、半覚醒状態の今の状態でも、自分の事ぐらいは認識している。
ミサキ・カラスマ。32歳男性。ヒノモト国ヤマシロ県在住のしがない技術系サラリーマン。同県内の大学を卒業後、地元の中小企業に入社、現在の職責は係長という名ばかり中間管理職。今日も担当現場に赴いて足りない人員の穴埋めをする予定、のはずなのだが。
思い切って瞼を開けた。薄暗いワンルームの見慣れた天井。カーテンの外はまだ暗く、未だ日は明け切っていない。春先のこの時期、いつもの起床時間である6時になればもう外は明るい。故に、まだ出勤までは時間があるはずだ。
節々が痛いという事は、風邪でもひいたのだろうか。何にせよ、不景気な世の中のくせに人の足りない我が社は、抜けていった人員の穴埋めのため、管理職である自分が休むわけにはいかないのだ。
先般少し流行った流行感冒も落ち着いたので、多少の熱程度であれば我慢して出る必要がある。世知辛い。
責任感なのか何なのか、仕事に行かねばという思いから、痛みを伴う腕を持ち上げてみる。最初はひどく軋んだが、動かした後は痛みも消え、スムーズに動く。ただ、固まっていただけのようだ。
背の低い安物のパイプベッドの上に身を起こす。マットがそろそろヘタってきている為、じきに買い換えなければいけない。次か、次の次の賞与辺りで買い換えるか。
大学を卒業してから今のワンルームに引っ越し、その後特に金のかかる娯楽も持たずに仕事一辺倒であった為、貯金は相応にある。単に使い道が無いだけだ。
投資でもしようかと思ったことはあるが、そんなに金を貯めても使い道がないと思い直して結局はやめた。唯一の娯楽と言えるのは、休日にしている料理と、さして強くない酒を飲みながらだらだらと見ている動画サイトぐらいのものだ。
身体を起こしてベッドから足を下ろした時点で、違和感があった。視点がいつもより低い。
ベッドの足を調整した記憶は無い。いくら酒に強くないとは言え、酔っ払ってもそんな意味不明な事をするはずがない。
おかしいな、と思って安物の絨毯の上に立ち上がる。これも毛羽立ってきているのでいずれ買い替えないと。
ハーフパンツから覗く足が妙に白い。毛も生えていない。まるで女性の足だ。先程の痛みのせいか、少し身体がふらついた。どうにか踏ん張って洗面所へと向かう。リビングの扉を開けようと、ドアノブに手を出した。
おかしい。こちらもなんだか細っこいし毛が無い。嫌な予感がする。
洗面所に駆け込んで蛇口を捻り、うがいをする。がらがらと上を向きながら喉を漱ぐ時に出す声もまた、高い。普段耳にしている自分の声ではない。
恐る恐る、正面の鏡を見る。ああ、どういうことだこれは。まだ夢の中か。
鏡に映るのは、年齢にして10代後半から20代前半ぐらいの若い女。小さな顔の中に、左右対称に収まった大きな瞳。まっすぐに伸びた小さな鼻筋と、薄い唇。伸びた黒い前髪が、うがいをした時に濡れたのか頬に張り付いている。
念の為頬を抓って引っ張ってみた。鏡の中の女も同じように頬を引っ張っている。そして痛い。
夢の中でも痛みのある場合があると聞いたことがある。この場合の確認手段はどうすれば良いのだったか。あれこれ考えた末、思い出せなかったので諦めた。
(とりあえず、どうすりゃいいんだ、これ)
仕事に穴を空けるわけにはいかない。ただでさえ人が少ないのだ。ここで理由もなく休むわけにもいかない。いや、理由ならある。
俺はどこへいったんだ。
鏡の中の自分は別人だ。少し面影が残っているかなとは思うが、警察に免許証を見せて同一人物ですと言っても絶対に信用されない。免許不携帯で減点だ。そもそも性別が……性別。
起きたばかりなので尿意はある。生理現象は同じだ。それはそうだ、人間なのだから。
少し、いや、かなり怖いが隣の便所へと入る。便座の蓋を上げ、後ろ向きになってハーフパンツと共にトランクスを下ろす。
あぁ。
無い。
男性の象徴たる立派な一物と、本来の目的の為に使うことは無かったであろう袋に入った二つのものが、綺麗サッパリ消え失せている。
とりあえずいつものように便座に座り、尿意のままに放出する。下を見るとなるほど、結構な勢いで小水が出ている。あと、何故かへその位置が少し上に移動している気がする。
よく振って……いや、振るものがなかった。そう言えば、紙で拭くのだった。トイレットペーパーをがらがらと引き出して千切って畳んで、小水の出てきた所を擦った。毎回拭くのか……面倒くさい。
尿意がなくなって少し落ち着いた。落ち着いている場合ではないだろうが。
取り敢えず、仕事だ。まずはそっちをどうにかせねばならない。スマートホスト、通称スマホと呼んでいる個人端末を立ち上げる。
「ホスト、ワイアード」
反応がない。音声認識が作動しない。当然だ。聞こえてきたのはいつもの声ではなく、高い女の声。
仕方なくスリープ状態を解除して、ナンバーロックを解除してアプリ画面を出す。指紋認証まで出来なくなっている。これは、ひょっとしてかなりまずいのではないだろうか。
チャットソフトである『ワイアード』を起動。上司であるイヅミ課長とのチャットウィンドウを開く。
『すみません、課長。今日、現場に出るより先にご相談したい事があるのですが』
暫く待ったが既読にはならない。諦めて着替えようとクローゼットを開けた時、スマホが振動する。
『相談?すぐに終わる?』
『いえ、少し込み入った話になりそうなので、会議室と……あと、部長も一緒に』
『なんだ?まさか辞めるってんじゃないだろうな』
『いえ、そうではないのですが。少々のっぴきならない事が』
『そうか、分かった』
スマホの電源ボタンを押し、再びスリープ状態に戻す。一体どう説明すれば良いのか分からないが、ありのままを伝えるしかない。信じられなかろうがなんだろうが、自分がこうなってしまったのは事実なのだ。
昨夜アイロンをかけてクローゼットにかけていたワイシャツを取り出そうとして、動きを止めた。ひょっとして、これ、ぶかぶかなんじゃないだろうか。
案の定、縮んだ身体ではシャツがぶかぶかで、このままではスーツも着られそうにない。困ったぞ、どうすれば良いんだ。
仕事に行くのに別に背広でなければならないというわけではない。どうせ現場で作業服に着替えるのだ。だが、果たして背広という社会人的ステータスが無いままに課長と部長に説明して、信じてもらえるだろうか。人はかなりの部分を見た目で判断するのである。
しかし、どう考えてもこのぶかぶかのシャツにだぼだぼのスーツで出勤するわけにはいかない。いくらなんでもこれは、何かのプレイですかと職質されかねない格好になってしまう。
パジャマ代わりにしているTシャツを脱ぐと、意外に大きなモノが揺れるのを感じた。
(えぇ……)
今まで目を背けていたが、上半身が裸になると否が応にもそれが確認できてしまう。
果たしてこれは自分が見ても良いものなのだろうか。ひょっとして他人の身体だったりすれば、セクハラになってしまうのではないだろうか。
しかし、よく考えてみれば便所でそれ以上のものを見てしまったのだ。今更考えても仕方がない。これは、こういうものだ。嫌でも何でも、とりあえずこの身体で出勤しなければならないのである。
何となく下から持ち上げてみた。柔らかい。あと、意外に重い。そういえば、ブラジャーはつけなくていいのだろうか。そんなものは当然、この部屋には無いのだが。
無いものは仕方がない。ないない尽くしでどうしようもない。ぶかぶかのTシャツに裾を折り曲げた紺色のチノパン、仕事用の黒い鞄を持って緩い靴を履き、部屋を出た。
住んでいるワンルームのすぐ近くに、東西に走る地下鉄の駅がある。
本社に行くにも担当現場にもこの駅から乗って一本なので、就職が決まった後にここに住むことに決めたのだ。
駅まで歩くうち、起きた時にふらついた理由が分かった。身体の重量のバランスが変わっているのだ。
髪が一晩で背中の半分ぐらいまで伸びていて重いし、胸が重い。要は、上半身の重量が相対的に増しているのである。
尻も相応に大きいようだが、それに比べて足が細くて頼りない。いつまでこのままなのかは分からないが、少し鍛えないとまともに走ることさえできなさそうだ。
慣れない身体で階段を下り、いつもの鞄から出した定期入れで改札を通る。タッチして通り過ぎた後、駅員が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
階段を降りるのが億劫になってきたので、改札を出てすぐの所にある昇降機のボタンを押した。身障者優先だ。そう、もうこれは自分は身障者と言っても差し支えないだろう。
頭と胸が重くて歩くのが大変だ。女性は普段からこんなものをぶら下げて歩いていたのか。いや、慣れなんだろうけど。
昇降機の扉が開いて乗り込むと、近所の小学生が数人、改札を通り抜けてこっちに走ってくる。意地悪するわけにもいかないので、『開』ボタンを押して待ってやる。駆け込んできた男子小学生三人は、こちらを見てにやーっと笑った。礼のつもりだろうから、こちらも曖昧に笑い返しておいた。
コンコースからホームに到着すると、小学生は再び駆け出して行った。ホームで走ってはいけないと親に教わらなかったのだろうか。
近くの乗車待ち列に並ぶと、走っていった小学生が途中で振り返って叫んだ。
「おっぱいのでかいねーちゃん!ありがとー!」
大声で言う事なのか、それは。大体自分はねーちゃんではない、おじ……お兄さんだ。
周辺の通勤者が一斉にこちらを振り向いた。何なのだ、一体。ただ通勤電車に乗りたいだけなのに。
地下鉄はいつも通りに混んでいた。首都圏のすし詰めほどひどくは無いが、座れる可能性はほぼ無く、いつも立ったままつり革に掴まっていた。
背が低くなってしまった為、つり革に掴まると肘が伸びてしまう。微妙に疲れる。
つり革を掴んだ手の手首に掴まるようにして反対側の手を上げる。片腕だけだと電車が揺れた時に、バランスを崩してしまいそうだ。顔の前に鞄が来るが仕方がない。他の乗客の迷惑にはなっていない。
電車が止まり、南北線との接続駅に着いた。ここは下りる乗客が多いので、流れにつられて車外に降りて、再び乗り直す。今度は扉の脇付近になった。
ここは楽だ。扉の脇には掴まれる手すりが付いており、背が低くてもしっかりと身体を固定できる。時折頑なにこの場所から動かない人がいるが、その理由が少し分かった気がした。
二駅程過ぎた所で、何かが尻に当たっているのを感じた。いや、当たっているわけではない。普通に撫でられている。ああ、痴漢か。よりによって男の尻を触るとか、何考えてんだこいつは。
振り向くと背の高い、渋柿のような顔をした男だった。
「おい、何、人の尻触ってんだ」
腕を掴んでひねり上げる。手首の関節は取っているものの、どうにも力が入らなくて頼りない。一応は拘束できたものの、我ながらなんとも情けない。
渋柿は顔の皺をより干し柿にして言い訳を口にした。
「さ、触ってない!触れただけだ!」
いや、めっちゃ撫で回してたがな。
「撫で回しておいて触れただけとかすげー言い訳だな。お前みたいな奴がいるから、まともな男性が満員電車で肩身の狭い思いするんだろうが」
周辺の乗客が全員こちらを見ている。あまり目立つのは良くないが、こういう馬鹿がいるから自分達平凡な人間は満員電車で女性に気を使わざるを得ないのだ。許してはおけない。
「離せ!誰がお前みたいなゴリラ女を触るか!」
「触っておいてからそれは無いんじゃねえのか」
扉が開いて次の駅に到着した。面倒くさくなったので干し柿を押し出して、その尻を蹴り飛ばした。
「通報されないだけ有り難いと思え、変態」
無様に駅のホームに手をついている柿男は、扉が閉まる直前にこちらに向かって叫んだ。
「うるせえ!ブス!」
扉が閉まった。ああいった手合いは最後に何か言わないと気が済まないらしい。精神が幼いのだろう。哀れなことだ。
ため息を吐いて再び扉の脇にある手すりに寄り掛かる。よりによっていきなり痴漢に触られるとかどんな確率だ、呪われているんじゃないのか。男に尻を触られるとか人生で初めての経験だ。思った以上に気色が悪い。
「あの、大丈夫ですか?」
近くにいた短い髪のスーツ姿の女性が声をかけてきた。結構美人だ。
「ああ、大丈夫ですよ。最低ですね」
吐き捨てる。ああいうのが世の中の男性の価値を下げているのだ。吐き気がする。
「本当です!若くて大人しそうな子だからって……許せません!」
若くて大人しそうな子、ああ、そうか。今はそう見えるのか。格好は随分とラフなはずだが。
「まぁ、ああいう人は稀なはずですよ。ここに乗っている皆さんは紳士的な方ばかりのはずですので」
というか、あんなのが男の基準だと思われては困る。普通は触りたいと思っても当たり前のように我慢するのだ。みんなそうやって生きている。
混み合った周辺の空気が少しだけ緩んだ。異物を排除した共感というものだろうか。それは健全であるが、方向性を間違えれば異端の排除にも繋がる忌まわしき業ではあるのだが。
降りる駅に到着した。自分のために怒ってくれた女性に笑顔で礼を言って降りる。社会人たるもの、礼儀は心得ておかねばならない。いつ道端で出会った相手が取引先になるかわからないのだ。可能な限り他人には優しく、明白な犯罪者には厳しく。
エスカレーターでコンコースに上がり、改札を出る。本社に向かう時にいつも上がる出口に向かおうとした所で、駅員に声をかけられた。
「すみません、先程通った定期を見せて頂けますか」
「はい?あ、はい」
鞄にもどした定期入れを出して駅員に見せる。何かおかしい所でもあっただろうか。普通に通れた以上、期限が切れているわけではないはずだが。
「ええと、これ、お嬢さんの定期ですか?登録されている方と違いますよね?」
いや、本人ですが、と言いそうになって、自分の容姿を思い出した。
「ああ、ええと、これ、兄のなんです。鞄ごと忘れていったみたいで……近くのビルにいるはずなので、届けようと」
我ながらよくもまあこんなでまかせが咄嗟に言えるものだ。詐欺師の才能でもあるんじゃないか。だが、駅員は少し困った顔をしている。
「そうなんですか。ええと、定期はご本人しか使用できない事になっておりまして……」
そういえばそうだ。家族が借りて使ってはいけない。この言い訳はまずかったか。
「あっ、そうなんですね、すみません。ええと、サイオウジ駅からなんで、その分の運賃をお支払いします。えっと、いくらでしたっけ」
うっかりしていた。普通に切符を買って乗るべきだった。自動改札は通る時に、定期の場合はその年齢と性別、それ以外の場合は通ったチケットの種類を判別できるようになっているのだ。道理で乗る時に駅員が不思議そうな顔をしていたわけだ。
「ああ!いえ、結構です!お兄さんが先に通ったというのであれば、その分切符を購入されているはずですので。次からは気を付けて下さいね」
優しい駅員さんありがとう。なんて融通の聞く駅員だろうか。普通は杓子定規に最大料金を取られても文句が言えないのに。
「すみません、ありがとうございます。次から気を付けます」
ペコペコと謝ってどうにかその場を離れた。いかんいかん、もう少し慎重になるべきだ。今の自分は32歳男性ではない、10代後半の女性に見えるのだ。
地下から地上にあがって肩を落とす。いつもなら本社に来るだけでこんなに苦労する事はなかった。一体どういう事だ。性別が変わっただけでこんなにトラブルが起こるものなのか?
もう流石にこれ以上は無いだろうと歩き出す。というか、本社に着いてからもこの有り様をどうにか部長と課長に説明せねばならないのだ。何故自分がこんなへんてこな苦労をしなければならないのか。何か神様に悪い事でもしただろうか。
本社は駅を出て10分程歩いた所にある。その距離ではもう何も起こらないだろう。
「ああ、ちょっと良いですか」
なんだ、なんで一々トラブルが起こるのだ。やめてほしい。
「はい、何でしょうか」
とは言え、話しかけてきた相手を邪険にするわけにもいかない。客引きのある地域でもないし、宗教勧誘はもっと大きな駅でやっている。見れば、警察だ。ポリスメンである。司法の公僕。従うより他は無い。
「君、学生さん?身分証とか持ってるかな」
背の高い二人組の警察官はにこやかに笑いながら近寄ってくる。身分証。困ったな、持ってはいるが、これは32歳男性会社員のものだ。写真入りの免許証を見せたところで本人だとは絶対に認識してくれない。
「ええと、ごめんなさい。慌てて兄に届け物をしに来たもので、持っていません。兄のものでしたら……社員証ですけど」
我ながらナイス言い訳。詐欺師か。
「ミサキ・カラスマさん?ああ、『キナイ総合メンテナンス』の係長さんね。妹さん?随分歳が離れてるように見えるけど」
余計なお世話だ。というか、妹はいるが確かに彼女は20代後半なので、今の自分の容姿からすれば離れているように見えるかもしれない。
「ありがとうございます。お世辞として受け取っておきますね」
女性に対して年齢の話は概ねタブーである。今の時代、管理職に限らず誰もがそういう認識を持っているはずなのだが、警察官は違うようだ。まぁ、人を疑うのが仕事なので仕方がないと言えば仕方がないが。
「あ、あぁ……気を付けて下さいね、あまり女性の独り歩きは」
まだ朝だろう。夜中ならその言葉は正しいが、言い訳はもう少し上手くするものだ。
「ありがとうございます。お仕事ご苦労さまです」
おくびにも出さずに通り過ぎる。果たしてこういう機転の利かせ方は正しいものなのだろうか。正直言って、第三者的視点からすれば悪女の範疇に入るのではないかと思う。
しかし、これは緊急避難だ。今はどうにかして現状を収めなければならない。兎にも角にも現状を上司に説明し、今後の判断を仰ぐべきなのだ。
流石にそれ以降は邪魔も入らず、見慣れた四階建ての小さな本社ビルに到達する。
敷地面積はそれほど広くなく、地元では有名と言えども所詮は中小企業だ。義理で銀行からの借り入れはあれども、完全黒字経営なだけ優良と言える。
東側の従業員専用入口から入って、まっすぐに四階に上がる。一階、二階は事務所と役員室であり、三階が自分の所属する部署、四階は会議室となっている、小さなビルだ。
昇降機なども無く、黒革の鞄をかかえてえっちらおっちらと上がって、突き当りの扉をノックして開けた。
中にいたのは見慣れた顔、背の低い梅干し顔の部長と、背の高い白髪交じりのナイスミドルな課長。どちらも年齢は50代後半で、この業界の年齢としては比較的中堅の部類に入る。
「ええと、どちら様かな?ここは関係者以外立ち入り禁止で」
歳の割に若々しいナイスミドルの方、イヅミ課長がこちらを見て第一声を発した。
「おはようございます、カワサキ部長、イヅミ課長。カラスマです」
喉から出たのはどう聞いても若い女性の声。信用されるかどうかはさておき、まずは自分の境遇を説明しておくべきだろう。
「か、カラスマ?カラスマ君の、ええと、妹さんかな?」
背の低い梅干し部長が頬を引き攣らせている。
「妹はムサシ県に嫁いでいますよ、だいぶ前の飲み会の時に申し上げたでしょう。私はミサキ・カラスマ本人です」
二人は立ったまま、どうして良いのか分からずこちらを見ている。困惑しているのが表情からありありと見えている。仕方がないだろう。自分だってそうなのだ。
「ええ、朝起きたらこうなっていました。ワイアードで連絡した時にはもう」
二人は顔を見合わせている。どうか信じて欲しい。目の前にいるのは新卒でこの会社に入って10年近く勤めている係長なのだと。
「悪いが……冗談に付き合っている暇は……」
「冗談で一々朝から会議室を取らせますか?私だって混乱しているんですよ!なんでこんな、こんな身体に」
だが、二人はまだ信じられないようだ。いや、そりゃあ自分だって同じ立場なら信じられるわけがない。でも、これが現実なのである。
「えーと、君がカラスマ君だという、何か証拠のようなものは」
課長が極めて現実的な事を口にする。証拠、証拠か。身体はこうだし、指紋も変わっている。残っているのはこの記憶だけだ。
「課長、ミオちゃんは元気ですか?拾ってどうしたら良いかわからないってワイアーしてきましたよね?一緒に病院に行って、元気になって良かったってユキちゃん泣いていましたよね」
ミオちゃんとは、課長の自宅付近に捨てられていた子猫だ。下の娘のユキが拾ってきてどうすればいいかと夜の9時頃にチャットソフトで泣きついてきたのだ。わざわざ彼の自宅まで行き、近くの動物病院を検索して連れて行き、結局課長が奥さんを説得して飼うことにしたのだ。
「……元気にしてるよ。娘もとても可愛がっている」
イヅミ課長はそれで理解したようだ。
「カワサキ部長、一昨日出した申請書、目を通して頂けましたか?流石にもう作業服が限界なので。ブルゾン二着、シャツ二枚、ズボンが一本です。数、間違いないですよね」
「……注文はしてある。来週には現場に届くだろう」
本人でしかまず知り得ない情報だ。これ以上無い証明だろう。
「本当に……カラスマ君なのか?なんというかその、随分と」
言われなくても分かっている。背は縮んだし頼りなくなったと言いたいのだろう。だが、そんな事を言われても困る。不可抗力なのだ。
「原因は分かりません、けど、とりあえず現場に出ないと人が足りません。どうすれば良いでしょうか」
自分ではどうしようもない。ならば上司に相談するのが基本的な筋であろう。
「どうすればと言われても……部長」
「うーん、取り敢えず、カラスマ君の代理として出てもらうか」
大丈夫なのか、それで。自分も少し考えたが、いきなり当日で。とは言え人が足りていないのは事実なのだ。人数合わせに連れてきたとでも言えば問題は無いだろう。少なくとも委託元には。
「しかし、勤怠はどうしましょうか」
「いつもと同じで良いだろう。ただ、先方に提出する分だけは考えないといけないが」
その辺りは割とどうにでもなる。事務所に委託元となる立場の人は滅多に来ない。これは契約上の背任行為にあたるが、バレなければ良いのである。いや、良くはない。これはやむを得ない緊急措置であり、是正するための努力なのである。
「それで、カラスマ君。それ、元に戻るのかい?」
カワサキ部長が聞いてきたが、それは自分も知りたい事だ。聞かれてもわからない。
「一応、仕事の後に病院へ行ってみようかと思います。聞いたことの無い症状ですが……」
一晩で起こる女体化などという非現実的な病気は聞いたことが無い。というか、そんな現象があったとしたら社会問題になっているだろう。
ただ、専門家に相談するしか手がないのが現状なのだ。少なくともこういう症例がある、ということを世の中に発信するのも善良なる市民の役目であろう。
「そうか、詳細が分かったらすぐに連絡してくれ。取り敢えず今日は市役所の方へ」
「はい。……ええと、その」
「何かね?」
「多分、作業服が合わないと思うので……小さいサイズの予備とか置いてないですか」
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