第3話 想い人を探して
さて、幼馴染みについて何の情報もないまま謁見の間を飛び出してきたわけだが。だが、まあ何とかなるだろう。情報通には心当たりがあるのだ。
城の東部、インクの匂いが充満した部屋の真ん中で、紙の山に囲まれるようにしてエミナは働いている。
きょうも大きな作業用の机に向かっていたエミナは、滑らかにペンを動かし、上質な紙を美しい文字で埋めていた。
「エミナ。今いい? お菓子もってきたよ、休憩しない?」
「あら、ハルーティ! 良かった、ちょうどお茶にしようと思ってたの」
インクに染まった指先を擦りながら、エミナが笑顔を見せた。明るい赤い髪と丸いほっぺをした、おっとりとしゃべる愛くるしい女の子だ。まだ十九歳であるが、彼女は
エミナはうーん、と背伸びをした。
「うう、肩こっちゃったなあ」
「ずっと座って書き写しているんだもん、大変だよね」
私は天井を見上げた。ロープが張り巡らされ、美麗な文字で埋まった紙がピンで留められている。きょう書き終えた分のインクをこうやって乾かしているのだ。まだ正午前なのに何十枚もありそうだ。
彼女は文字だけでなく絵も描き写せる人だから、色インクで書かれた鮮やかな鳥や魚の絵なども天井からつり下がっていた。まるで部屋の中にオーロラが発生したかのようだ。
「お茶をいれてくるから、ハルーティは待ってて」
「わかった」
私はエミナを見送り、祐筆用の机には近づかないよう用心して(インク壺を倒しちゃったら大変!)、部屋のすみにある食事用の小さな木製テーブルに持参した菓子を並べた。この小さな三角形のクッキーは、大陸の東のほうでよく食べられているものらしい。
クッキーを並べ終わると、窓の外に目をやった。春のここちよい風を室内に取り込みたいと思ったが、エミナの仕事場では窓は決して開けてはいけないのだ。特にインクが乾いていない紙があるときには。だから、窓を開けたりしないで、そこに浮かぶ雲を眺めて、部屋の主が戻るのを待った。
しばらくしてエミナが茶器を持って戻ってきた。私が並べた菓子を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
「わあ、これって東部のお菓子でしょう。とっても珍しい。どこで手に入れたの?」
「きのう陛下にもらったんだよ」
ふふ、とエミナは意味深な笑みを浮かべる。
「な、何?」
「なんでもない」
なんでもないことはない顔をしている。けれども、さっきの求婚のこともあって、深く追求するのはやめておいた。話が変な方向に展開しても困るし。
「あ、そうだ、陛下から求婚されたんだってね」
「ふあっ」
思わず変な声が出た。
「何で知ってるの? え、さっき謁見の間から出てきて、お菓子を取りに自室に戻って、あとは寄り道せずにこの部屋にまっすぐ来た……、え、いつのまに?」
エミナはカップにお茶を注いで、私に渡してくれた。
「きのうフーランディアさんが教えてくれたの。今朝、陛下がプロポーズする予定だって」
「あ、ああ、そういうこと……」
「あとルタさんも同じことを言っていたわ。事前にそんなことを打ち明けるだなんて、陛下はあのお二人をとても信頼していらっしゃるのね。一緒に悪神ザジルを倒した仲だからかしら?」
あの二人、何かと理由をつけてエミナに話しにくるようなのだが、陛下のきわめて個人的な情報が話題として提供されがちである。陛下、気の毒に……。
「それで、ハルーティはどうお返事したの?」
「もちろんお断りしたよ、だってセラムの神官だし、陛下はサーニアス教だし」
お茶をすする。うん、美味しい。エミナはお茶をいれるのがとてもうまい。
「そっかあ」
と、エミナは言った。それだけだった。否定も肯定もしない。そういう子なのだ。
エミナと出会ったのは、私が城にやってきて間もない冬の初めごろのことだ。
私が城の厨房を借りてサソリパンをつくっていたら、城内がちょっとした騒ぎになってしまった。サソリを干して乾燥させたものを生地にねりこんで、サソリの形にしたパン、それがサソリパンなのだが、そのパンで皇帝陛下を毒殺しようとしているのではないかと疑われてしまったのだ。
「このサソリは毒を除去してありますから安全です。あとサソリパンは陛下に食べさせるつもりはありません。干しサソリは貴重なので、全部自分で食べます」
厨房で城の人々に取り囲まれて、私はそう主張したのだが、
「そんなの信用できるか! だってセラム教徒なんだろう。死の女神を信仰しているなんて普通じゃない。普通は生の太陽神を信仰するもんだろうが」
と、言われてしまった。
宗教を理由に暗殺を疑われる……それが悲しくて、言葉がうまく出てこなくて言い返せずにいたら、茶器を持ったエミナが厨房に顔を出した。
彼女は私の持っていた干しサソリを見て、
「確かに毒のある部分は取り除かれているね。前に図鑑を書き写したときに、この種類のサソリの体内図も描いたから覚えているわ」
ゆっくりとした口調で、けれど、きっぱりと断言してくれた。
「そうだよね!」
城の人々は、しかし、それでも納得できないようだった。
「まあ、毒はないのかもしれないけどさ。でも、気持ち悪いよ、サソリが入ったパンなんか」
「ひどい! 私の故郷の料理なのに!」
「でも、気持ち悪いと感じることは、それは個人の感情だから、私には否定できないな。肯定もしないけれど」
と、彼女は何でもないことのように言った。
「お、おおぅ」
彼女は持っていた茶器を洗い、新しい茶葉を入れてお湯を注ぐと、厨房を出ていった。
なんというか、ぶれない人だなと思った。それでいて柔らかい雰囲気で、おっとりしている。
それ以来城で顔を合わせるたびに雑談するようになり、ともにお菓子好きであることが判明してからは、たびたびお茶を一緒にする付き合いが続いている。
エミナがお菓子をかじった。
「わ、中から何か出てきた。すごく甘い」
「激甘シロップが入ってるらしいよ」
私もかたいクッキーをかじってみた。中からとろりとした甘い蜜が溢れてきた。強烈な甘さだ。あまりの甘さに意識が飛びそう。
「あ、そうだ、ちょっと調べてることがあるんだけどね。皇帝陛下の幼馴染みって誰のことだかわかる?」
エミナは首をかしげた。
「さあ? わからないわ。そういう人のことはフーランディアさんもルタさんも言ってなかったと思う」
「そっかあ」
城の情報が集まる祐筆が知らないとなると、ちょっと困ってしまった。簡単にわかるだろうとたかをくくっていたのだが。
「それって陛下には直接聞けないの?」
「聞いてもいいけど、聞かずに出てきちゃったから、聞きに戻るのもちょっと間抜けな感じがして恥ずかしいというか」
ふうん、と言ったあと、エミナはにこりと微笑んだ。
「うまくいくといいね。ハルーティにとって一番いい結果になるように応援してる」
「う、うん……?」
☆ ☆ ☆
「お困りのようだな」
エミナの部屋を出ると、男に声を掛けられた。その男は褐色の肌に黒髪をしており、上質なシャツとズボンという格好で、どういうわけか黒い仮面で顔の上半分を被っていた。穴からのぞく瞳の色は、もちろんブルーである。
「えっと……」
反応に困ってかたまっていたら、皇帝はふっと笑った。
「お困りだな?」
「え。いや、まあ、困っているといえば困っているのかな……」
じわじわと後ずさりながらそう答えると、陛下は目をしばたたいた。
「どうしたハルーティ。なぜ逃げる。……ああ、そうか。とおりすがりの見知らぬ男に声をかけられて怖くなってしまったのだな」
やっぱり変装のつもりだったのか。正体はバレバレなんだけどな。バレバレではあるのだけれども、陛下はもともと戦士なわけで、それなりに筋肉のついた、全体的にひきしまった均整の取れた体型だ。仮面で顔半分を隠すことで、逆にスタイルの良さがきわだっている。スタイルの良い不審者って感じだ。
「淑女が知らぬ男を怖いと思うのも無理はない。そんなに怯えてしまって可哀想に。だが、心配は要らぬ。我はそなたを傷つけぬ」
「はい……そうでしょうとも……」
陛下は嬉しそうに頷いた。
「困り事なら我がお手伝いしようではないか。誰を探しているのだ」
誰をって。こんな雑な芝居ってある? 逆に隠す気がないやつなの?
「皇帝の幼馴染みならば、近くの村に住んでいるぞ。ディルア村といったかな」
聞いてもないのに教えてくれた。
「そうですか。情報ありがとうございます。では」
私はくるりと背を向けて歩き出した。しばらく行ったところで足を止め、振り返ってみた。案の定、皇帝がついてきている。3歩進めば、3歩ついてくる。下がったらどうなるんだろう。試しに3歩下がってみたら、ぶつかった。後頭部が陛下のかたい胸板に当たり、そのまま抱きすくめられてしまった。
「どうした、急に我の胸に飛び込んできて」
「飛び込んでません! 離してください」
手をばたばたさせて暴れたら、両手首を掴まれた。がっちりと掴まれてしまって、ふりほどけないので、そのまま私は駆け出すことにした。
「ま、待てハルーティ、ころぶぞ、危ない」
二人とも両手を上げて、上半身はくっついた状態で城内を駆け抜ける。すれ違う人々が、笑いながら道を譲ってくれた。
「なんだこれ」
私は吹き出した。
「小さいサソリと大きいサソリがくっついたまま干されたやつみたいになってますね」
「すまぬ、そのたとえは我にはわからぬ」
「じゃあ、人に襲いかかろうとしている熊の背後から、さらに襲いかかろうとしているちょっと大きい熊がいるみたいな感じでしょうか」
「ああ、それならわかる」
陛下も愉快そうに声を上げて笑った。
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