雲の間の凛とした青

鈴ノ木 鈴ノ子

くものまのりんとしたあお

 明け方のベランダに立つ。

 夏の香りを纏う風が心地よい。

 午前5時の早朝、日はまだ上らずにいて厚ぼったい雲が空一面を覆い隠している。視線を巡らせるとそこかしこに夜の残滓の薄闇が漂っていた。

 やがて時計の分針がカチリと音を立てる度に赤みを帯びてゆく空をぼんやりと眺めていた。普段の喧騒が嘘のように静まり返った住宅街はまるで心象を表しているような気がする。

 バイクのエンジン音が響いては止まり、また響きを繰り返し新聞配達員が一軒一軒のポストへと忙しなく動く様と共に朝は分針から秒針へ刻みを切り替えた。厚ぼったい雲が急かされるような風に流されて変化の兆しを見せ始める。

 隣家の窓はカーテンが固く閉ざされていて、まるで、断られることを暗示しているかのように感じてしまう。

 幼馴染でずっと一緒に高校生までを過ごしてきた冬夜の部屋だ。

 私が告白した男の部屋でもある。

 その気持ちに気づいたのは保育園の頃だ。

 絵本を読んでいた冬夜に他の遊びに飽きた私が隣に座って一緒に読んだ。

 絵本の題名だって覚えている。

『グリーンパークの秘密』

 森林公園に住む生きものを記した絵本で、季節の移ろいやそこに住む虫や動物のことが書かれていて、活動的な生活の私からすれば小難しい本だった。

 

「あ、たぬき」

「うん、たぬき」

 

 たぬきの絵が出てきたところで思わずそう口にすると、彼も同じように言って私に優しく微笑んでくれた。そこから一緒に本を読み終えると外遊びの時間に図鑑の虫を探したりして一緒に遊んでいるうちに、友達、から、好きな男の子へといつの間にか変化していた。


 「冬夜君と莉緒は仲いいね」

 「そうかな?」

 

 今でも親友で一緒に遊ぶ麻衣子がそう言ってくれた時、私は初めてその気持ちに気がついて、恥ずかしくもあったけれど嬉しくもあった。

 なにかこう繋がったような気がしたのだと思う。

 小学校の時に隣に冬夜が引っ越してくると、私はとても嬉しくてたまらなかった。

 毎朝、彼の家を訪れて朝の弱い冬夜を揺すって起こす。彼はそうでもしないと昼過ぎまで寝てしまうのだ。あとは布団に包まって眠っている冬夜の顔を見るのが好きで、実は起こす前に暫くその寝顔を見つめて私は幸せに浸っていた。

 自分だけが見ることのできる愛しい人の寝顔は尊い。

 その後の起こすまでの苦労は筆舌に尽くしがたいけれど、毎朝の10分間の攻防をして一緒に朝食を食べて学校へ向かう。学校でも一緒に過ごすことも多かったし、冬夜のお父さんとお母さんは帰りが遅かったから、我が家で宿題を一緒にして夕食を食べて帰っていく、そんな充実した日々を過ごしていた。

 中学校から同じ高校へ、そして部活動を互いに始めると帰り時間はまちまちとなったけれど、互いに約束もしていないのに校門の前で落ち合った。彼は柔道部、私は剣道部、同じ道場内で切磋琢磨する日々、ときより視界の端々に彼の姿が見えるだけでも頑張ろうという勇気を貰えた。

 互いの大会の時には応援に行く、勝つ度に喜び合い、負ければ慰め合った。部活のお蔭で友達の幅は増えて広がりを見せたけれど、互いの中で「2人の時間」を忘れることはなく、夕食を共にして一日の出来事を語り合った。

 

「ねぇ、莉緒、冬夜と付き合ってるの?」

「付き合ってはいないかな……」

 

 麻衣子が不安げな顔で私に問う、私達のことは学校で常に噂になっていた。同じような質問を冬夜もされていたらしい、今日もまた莉緒と付き合っているのかって誰彼に聞かれたよ、と部活で疲れた顔をして平然と言っては、母と作る夕食をおいしそうに口にしていた。

 互いに付き合っていないと言ったから、結果として他の人から告白もされるし、逆恨みのような言葉も投げつけられた。

 冬夜がやんわりと何人目かの告白を断って、私もまた数人目の告白をお断りした昨日、帰りがけに唐突に麻衣子が立ち止まった。


「あんたたちの関係ってなんだろうね」

「突然なに?」

「冬夜のこと好きじゃないの?」

「いきなり……」

 

 昇降口から校門まで無言だった麻衣子が真剣な眼差しに思わず言葉が詰まる。

 麻衣子の目が怖かった、瞳の奥で焔のようなものが揺らめいていた。

 

「莉緒、私は冬夜に恋焦がれてる」

「え……」

「ずっと莉緒と一緒に冬夜を見てた。だから意味が分かるよね」

「うん……」

「莉緒がずっとその調子で、私、正直安心してた。だって、莉緒は変わろうとしないから」

「それは……」

「このままだったらいずれ私にもチャンスが巡ってくるのかもしれないって、意地汚いって思われるかもしれないけど、そう思ってた」

 

 そう言って言葉を切った麻衣子は歯を噛み締めるように唇を歪ませる。握り拳になった手が痛いほどにその指を内側へと食い込ませていた。

 

「でもね、気がついたんだ。ほかの友達から冬夜くんとの橋渡しを頼まれて、繋ぐたびに断られた子達の言葉が変わってきてること」

「え?」

「最初は、好きな人がいるからって断り方だった。ただ、それがだれかなのか、莉緒なのって聞いても首を振るだけだった。でも、最近は違ってきてる。今は誰とも付き合う気がないって」

「誰とも……」

「ねぇ、本当に今のままでいいの?」

 

 麻衣子の絞り出すような言葉が耳を突く。

 

「それは……」

「莉緒、言って失うのと、ただ失うことの違いくらい分かるでしょ?」

「ただ失う……」

「そう、ただ失う。立ち消えるようにして冬夜が消えてしまった時、莉緒は受け入れられる?」

「でも、誰とも付き合う気はないって……」

「誰ともってことは、誰にでもチャンスが巡ってくるかもしれないって考えられないの?」

 

 胸の奥に何かが刺さるような痛みが走る。

 麻衣子の言葉が恐怖を伴って私を包み込んだ。

 誰とも付き合う気はないってことを良いように思い込んでいた私は、その投げかけられた言葉に背筋が寒くなる。

 

「ずっと冬夜と一緒に居られる、今のままが続いていく、なんて考えてるなら間違いに気がつくべきだと思う」

 

 背中から夕焼けの光が麻衣子を包む。

 綺麗な色に染まっているのに影となった表情が真っ黒に染まっているようだ。

 

「いつまでも今のままじゃいられないよ。もし、明日、誰かが冬夜に告白して、もし、冬夜がその人を良いと思って付き合ったとして、うまくいったらどうするの?上手くいかないなんて保証はどこにもないんだよ?なんだったら、私の気持ちを伝えても良い?、私も知らない仲じゃないんだし、冬夜は話をきちんと聞いてくれると思う」

「そんな……」

「そうなったら、莉緒は、冬夜と私を一緒に失うんだよ。分かる?友達としても、男女としても、失うの。でも、私はそんなことしたくない。冬夜を好きなように、莉緒も大好きだから。同情じゃないよ、これは本心。だからこそ、私はフェアじゃないやり方は嫌なんだ」

 

 痛いくらいに麻衣子の気持ちが突き刺さる。影のある真っ黒な顔に浮かぶ2つの目が私を真剣に睨んでいた。公明正大で曲がったことが大嫌いな性格を熟知している。

 こんな話をしないでもいいのに、麻衣子はきちんと伝えてくれている。その優しさが痛いほど怖い。

 何も言い返せない私に麻衣子がため息を吐いた。

 

「もう私は待つことが無理かもしれない。莉緒、私、先に帰るから、よく考えて……」

 

 そう言い残すように涙の雫を夕日に煌めかせて麻衣子は踵を返すように走って行った。私は後を追いかけようとして一歩踏み出したところで立ち止まった。

 

「ごめん、麻衣子」

 

 校門の塀にもたれ掛かって私は漏らすように詫びながら、そのまま冬夜を待つことにした。夕焼け色が校門前の景色を照らしていたが、徐々に徐々に色を落としてゆき、端々に闇が沁み出してくる。

 

「お待たせ、莉緒、帰ろう」

「冬夜、うん」

「どうした?なにかあったのか?」

 

 私の表情を読んだのだろう、心配して冬夜が私を見つめた。

 

「まい…ううん、なんでもない」

 

 誤魔化しながら私は冬夜と並んで校門を後にして歩いてゆく。会話もなく街灯の光が差すいつもの道を歩きながら、チラッと冬夜の表情を伺って私は思わず唾を飲み込んだ。

 微笑みはあった、けれど、そこに見慣れた楽しそうな雰囲気はない、ただ微笑んでいるような、愛想笑いがあるだけだった。

 

「冬夜、私と居て楽しい?」


 姑息な言葉を私は紡いだ。酷い逃げだと猛烈な後悔が襲ってくる。

 

「ん?楽しいぞ?」

 

 切り替わってゆくいつもの表情に背筋が寒くなった。私が見過ごしていただけずっとこんな感じだったのだろうか。「失うかもしれない」と麻衣子の言葉が頭の中で響く、その声は恐ろしいほどの低音で冷気を伴って心を震わせる。隣にいるその姿が更に不安を増幅して心の中が攪拌されて息が詰まるほどに苦しくなった。

 言われてもいないのに「もう、間に合わないかもよ」と嘲笑うような口調で麻衣子の言葉が降り注ぐ。

 

「冬夜、好き」

 

 立ち止まってそう冬夜に告げる。

 

「え?」

 

 驚いた顔をした冬夜もその場で立ち止まって私を見る。先ほどまでの愛想笑いは消え去って、今は見たこともないほどの真剣に私を見てくれていた。

 

「私、冬夜が大好き」

 

 目と鼻の先に歩みを進めて、間近に顔を近づけて私は告げた。突然のことに見開かれた眼、吸い込まれそうなほどの視線に私は逃げることなく合わせた。

 

「本当に大好き。私と付き合ってください」


 冬夜の顔が歪んだ。

 それは嬉しさでも拒絶でもない。でも、困惑でもない。どう言い表せばいいのか言葉が見当たらない。

 

「莉緒、すまん。考えさせてくれ。きちんと返事はする」

「あ……」

 

 そう言い残して冬夜がその場から走って去っていった。最後まで表情は変わることなかった。後ろ姿をただ見つめながら私は呆然とその場から動けずにいる。

 

「もう遅かったの?」

 

 涙が頬を伝い落ちる。

 私は2人を失ったような寂しさを抱えて、涙を時より溢しながら帰路についたのだった。

 夕食は孤独だった。いつもなら目の前にいるはずの姿はなく、家族だけの食卓なのに寂しさが募る。当たり前を失うことがこんなにも恐ろしいことだと今更ながらに気がついて、心の中で涙しては味のしない食事を噛み締めて食べ終えた。部活がかなりハードだったみたいだから来れないと言い訳した以上、残して何かを悟られることが怖かった。風呂場でシャワーを長く浴びながら、水の跳ねる音を隠れ蓑にして声を堪えて寂しさを漏らさないように泣き、自室に戻ってからは布団に包まって泣く。走馬灯のように今までの楽しかった思い出が駆け巡っては心を乱しに乱して絶望の坩堝へと落とし込んでゆく。もう終わりだ、きっと終わりだと心の中の何者か叫んでその度にそれを否定して、そして追い込まれてゆく。それを朝まで繰り返して沈み過ぎた気持ちを整えようと早朝のベランダへと出たのだ。

 朝焼けが綺麗に雲の空を染め上げてゆく。

 ぼんやりとそれを眺めながらふと、その雲の中に青空を見つけた。透き通るようなほどの澄んだ青、その清々しいほどの色が不安に塗れた心に染み入ってくる。変色して何色なのかもわからないボロボロの心に滲みて、大丈夫だよ言ってくれている気がして、ふっと吐息が漏れて肩の力が抜けてゆくと握り続けていた拳が解れた。


「莉緒」

「え?」


 突然の冬夜の声に驚く。

 いつの間にか隣に冬夜が立っていた。閉ざされた窓が開け放たれていてカーテンが風に揺れているのが目に入った。冬夜の顔を見るのが怖くて視線を下へと落とそうとして頬に冬夜の両手が当てられる。人肌の温かさが頬に伝わり、固くなっていた皮膚が少し弛んでゆく。両手に包まれるまま顔がゆっくりと空へと上がる。

 そこに冬夜の真剣な眼差しがあった。


「莉緒、今までもこの先もずっとずっと大好きだ」


 言葉が切れるのと涙腺が壊れるのは同時だった。

 止めどなく流れ出る涙に冬夜の手が濡れてゆく、心の中の青が他の色をすべて涙で洗い流して満たして、私は嗚咽しながら冬夜と見つめ合ったまま、しばらくの刻を過ごしてゆく、嗚咽が少し落ち着いた頃、冬夜の唇が私の唇に優しく触れる。そのまま重なり合うようにしっかりと押し付け合うと互いの両手は互いを包み込むためにそれぞれの背へと回って、私は先ほどまで頬にあった感触を背中に、そして固く引き締まった背中の感触を感じながら包み合った。

 どれくらいそうしていたのだろう、空には朝日が輝いて目を覚ました蝉達の声が響いている。唇を離して互いに抱きしめあったままで見つめ合う。

 あの頃の優しい微笑みに再び涙腺が緩む。


「怖かったよな」

「うん」

「俺も怖かった」

「ほんと?」

「ほんとだよ」


 今度はしっかりとしたキスを交わす。互いにしっかりとその存在に感謝しながら合わせる唇から甘露な幸せが滲みいでてくる。互いに名残惜しそうに離すと愛しい微笑みが変わらずそこにあった。

 部屋の中からスマホがアラームが聞こえてくる。朝練のためのアラーム、冬夜を起こすための準備でもあるアラームだった。


「そろそろ、準備しなきゃ」

「そうか」

「大丈夫、いつも通りに起こしに行くよ」

「分かった。待ってる」


 待っている、その言葉が全身に沁み込んでゆく。固まっていた芯が緩やかに溶けていく。待ってくれている人がいるのはこんなにも素敵なことだとは思っても見なかった。


「すぐ行くね」

「うん、今日は起きて待ってるよ」


 互いに名残惜しそうにしながら部屋へと戻る、アラームを切ると麻衣子からメッセージが届いていた。


『おはよ、昨日は嗾けてごめん』

『おはよ、なに嗾けたって?』

『昨日のこと。もう1つごめん、私嘘ついた。冬夜君のこと何とも思ってない』

『え?』

『ごめんなさい。冬夜君が莉緒から離れていくのが私も怖かったんだ。2人が互いに依存し過ぎていて、だから何かの拍子に壊れてしまうのが怖かったの、今ならまだ間に合うかもしれないって焦っちゃった』

『なにそれ……。でも、本当に冬夜のこと何とも思ってないの?』

『あのさ、小さい頃からのろけ話を聞かされて、目にして、互いに別の人からの告白の間と取り持たされて、狙うほど落ちぶれてないし、内緒にしてたけど、彼氏いるから』

『嘘!?』

『2組の高田くん、ほら、陸上部の人』

『うん、知ってるけど…』

『疑ってるでしょ?これ証拠ね』

 

 写真が送られてくる、どこかにデートにでも行った時のだろうか、幸せな笑みを浮かべて2人が並んでいた。

 

『これくらいできるように、頑張って欲しい』

 

 もう一枚送られてきた。麻衣子の部屋で布団に包まってキスをしている。

 どうみても事後の一コマだ。

 

『キスならさっきした。ついでに昨日告白して、今さっき返事貰った』

『良かったね、おめでとう!でも…今朝までは辛かったよね……』

『辛かった。でも、麻衣子の言った大切なこと考える時間にはなったよ』

『そっか……』

『ありがと麻衣子、じゃぁ、そろそろ準備して冬夜を起こしに行ってくる』

『うん。また、学校できちんと話そうね』

『当たり前、落とし前つけさせてやる』

『こわ、じゃ、学校でね』

 

 素敵な親友を持てたことに感謝しながらスマホを置いてから、慌てて身支度を済ませる、玄関先の姿見で何度か制服の位置を普段よりも時間をかけて直して鞄と道着入れを抱えて玄関を開ける。

 雲の間から青空が見えていて、その凛とした青をしばらく眺めていたのだった。

 

 

 雲の間の凛とした青 終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雲の間の凛とした青 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ